『三国志演義』第六十回 張永年反って楊修を難じ、ホウ士元議って西蜀を取らんとす
さて、献策したのは張松であった。 「それがしが許都に行って曹操に漢中を滅ぼすように説得して参ります。」 劉璋は大いに喜んで張松を使者に立てた...
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さて、献策したのは張松であった。 「それがしが許都に行って曹操に漢中を滅ぼすように説得して参ります。」 劉璋は大いに喜んで張松を使者に立てた...
この夜の戦いは明け方までもみ合いになった。 その後、曹操は土城を築こうとするが、城壁を作ろうとすると馬超が攻めかけ、その上、土がやわらかくで...
さて、策を献じた男は治書侍御史陳羣。陳羣が言うに、 「劉備が西川を狙っているうちに呉を滅ぼしましょう。」 曹操もこれに同意して30万の兵を起...
周瑜は、大将達に手当されながら船を出して逃げ去った。 知らせを聞いた孫権が荊州に攻め込もうとしたが、張松は諌めて、 「曹操と劉備を噛み合わせ...
侍女達が薙刀を持っているのを見て驚いていると、 「お殿さま、奥方様は幼いころより武術をお好みで常に侍女達に撃剣をさせてはお楽しみ遊ばれていた...
さて諸葛亮は、魯粛に 「我が君は劉表の兄上。兄の跡を弟が継ぐのは当然ではござらぬか。ましてや劉氏でもない孫子が荊州を預かるのはおかしいとは思...
さて諸葛亮は張飛に、 「趙雲殿と同じく誓紙をしたためてもらいたい。」 と言った。張飛はその場で誓紙をしたため三千で武陵に攻め入った。 従事の...
周瑜は諸葛亮に南郡を目の前で奪われ、荊州、襄陽も取られたとあっては腹を立てずにいられなかった。かっとなった拍子に矢傷が裂け気を失い、半時余り...
諸葛亮が関羽を斬らせようとしたとき、劉備が、 「昔、我ら3人生死をともにせんと誓い合ったゆえ、後日に功をもって償わせて下さらぬか。」 と言っ...
張遼は黄蓋を矢で射落とし、曹操を助けて岸に上がった。黄蓋は韓当の船に助けられた。 甘寧は蔡中に命じて曹操の陣中深く案内させると、彼を斬り殺し...
周瑜はすぐさま本陣にかつぎこまれ諸侯がこぞって見舞いに現れていた。 諸葛亮は魯粛から周瑜の容態を聞いて、 「それならば私がその病、治してみせ...
龐統が仰天して振り向くと、そこには徐庶がいた。龐統は知り合いでもあったのでほっとして、 「まさかわしの計略をあばくつもりか。江南八十一州民草...
闞沢は黄蓋の書面を受け取ると、その夜に曹操の陣屋に向けて船を漕いだ。 曹操は黄蓋の書面を受け取り苦肉の計を見抜いたが、闞沢の能弁により偽りの...
さて魯粛は周瑜に言われて諸葛亮の様子を探りに舟を訪ねた。すると諸葛亮は、 「蒋幹を手玉に取った計略と毛玠と于禁が新たな水軍都督となったことで...
さて周瑜は諸葛瑾の言葉を聞いて諸葛亮を憎み、生かしてはおけぬと決意した。 魏軍の糧道を諸葛亮に襲わせることで敵に殺させようとしたが、逆に諸葛...
呉夫人は孫権の決断に迷いがあるのを見て、 「決めがたい国内の事は張松に国外のことは周瑜に聞く事が良い。 と兄上が臨終の際に残したではありませ...
諸葛亮は魯粛から 「魏に降伏をするよう勧める者がいるので魏の強い事は口にしないように。」 と言われた。 そして、諸葛亮は、降伏派の張松、虞翻...
趙雲は大斧を振るう鍾進を槍で突き倒し、画戟をかわして弟の鐘紳を青釭の剣で真っ二つに斬った。 長坂坡まで戻ると張飛が橋の上に馬を止めており、大...
さて張飛は関羽が水攻めをしたとみると軍勢を率いて下流に討って出て曹仁の退路に立ちふさがった。そこで許褚に出会い打ってかかった。しかし、許褚は...
諸葛亮の計とは劉表が病のために代わりに荊州を治めることであった。しかし、劉備は義に背くを言って受け入れなかった。 曹操は夏侯惇の敗戦で自ら...
孫権の軍勢に攻めたてられて将兵を失った黄祖は江夏を捨てて荊州へ逃れようとした。それを先読みした甘寧は黄祖を討ち取り孫権のもとに帰った。孫権は...
関羽は 「兄者が二度も出向かれたという事だけでも度が過ぎます。本当は名ばかりで何の学もないのでわざと逃げかくれしているのでございましょう。」...
徐庶は曹操のもとに行き母に会った。すると、 「不孝者。偽りの手紙に目がくらみ明君を捨て暗君につき自ら悪名を招くような事をするとはなんたること...
激怒して向かって来る曹仁に単福は、 「もし敵が全軍をあげて来れば樊城の備えが手薄になります。それを奪い取るの がよろしいと存じます。」 と計...
蔡瑁が城に引き返そうとすると趙雲の軍勢に出会った。趙雲は蔡瑁に 「わが君わどこか。」 と訪ねると、蔡瑁は 「使君は席を立たれたがどこに行かれ...
曹操は金色の光の立ったところから、一つの銅の雀を掘り出したので、荀攸に尋ねた。荀攸が吉祥の兆と言ったので曹操は喜んでこれを祝うために銅雀台の...
曹丕は二人の女が泣いているのを見て斬ろうとしたが、突然目の前が真っ赤に輝いたので、剣を握ったまま尋ねた。二人は袁将軍の妻劉氏と次男袁煕の嫁甄...
三男の袁紹は、他の軍勢が着くのを待たずに討って出て、張遼に大敗した。これを知った袁紹は驚き、血を吐いて倒れ、世継ぎを三男の 袁紹に定めて息絶...
大敗した袁紹だが、健在であることを皆が知ると再び人が集まり出した。 しかし、獄に入れられていた田豊は忠告を聞かずに大敗したと笑ったので獄中で...
袁紹が兵をおこすと、夏侯惇は直ちに書面を持って急を告げた。 曹操は荀昱に許都の留守を委ね、兵七万で迎え撃ちに行った。 袁紹の出陣の際、...
孫策は、その後廬江を攻め取って勢力を拡大した。 曹操は、曹仁の娘と孫策の末弟ソンキョウの結婚でつながりを深めた。 しかし、大司馬の位を許し...
関羽は夏侯惇に「わしを追ったりして丞相のお志を無駄にする気か」と言うと、夏侯惇は、「丞相からのお触れもなく人を斬って行くとは無礼にもほどが...
富永仲基は、江戸時代大坂の町人学者・思想史家で、懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判し、そんな中2巻から...
曹操は蔡陽が関羽を追おうとしたのを叱り、見送りに行った。 後には許拠、徐康、于禁、李典等が従った。 関羽は曹操達に見送られて北の方に立ち去...
袁紹が劉備を斬らせようとしたとき、劉備は、「天下に似た者は数あり、関羽と限りませぬ」と言い、袁紹はもっともと言って顔良の仇を討つ事を考えた...
「降伏した劉備軍の兵を逃げてきたと言って城内に入れさせ、一方で関羽を遠方に誘い出し、退路を断って説得すればよいのでございます」と、賈詡カは...
河上肇は、日本を代表するマルクス経済学者として著名な人物で、特に資本主義による産業化の中で水面下で問題となり、第一次世界大戦をきっかけに日本...
曹操は、献帝の廃止を程昱に「にわかに廃立するのは兵火をまねくもとです」と諌められて思いとどまった。 ただ、董承ら五人は一族まで打ち首に...
今回は、「京都学派」という呼称を最初に与えた人物として知られ、唯物論哲学者として西田幾多郎や田辺元などからも高い評価を得ていた戸坂潤です。 ...
孔融が、 「あの両名はもともと劉備の敵ではありません。 もし彼らを斬られば、将兵の心を失うことになりましょう」と諌めたので、劉岱と王忠は命...
西田幾多郎は、日本人として初めて包括的な西洋哲学を示し、本格的で高度な哲学真理を発見した偉人です。 そんな西田哲学の特徴は、禅の精神から編み...
陳登の計とは袁紹を加勢させることであった。 劉備は弟の袁術を滅ぼしていたが、ジョウゲンの取りなしもあって承諾された。 そして、郭図は曹操討...
董承等が誰かと尋ねると、馬騰が言うに劉備だった。 董承は劉備を訪れて事の次第を話した。 そして、劉備は連判状に名を記した。 後日劉備が...
今回は「この人無しには、国学は起こらなかった」といわれる人物、契沖についてです。 江戸時代中期、近世前期の幕末・朝廷の文事奨励や社会・経済の...
張遼を救ったのは関羽であった。 曹操は張遼が忠義の士であることを知っていたので、戯れただけと言って剣を投げ捨てた。 この後、呂布の手勢...
劉備の軍はさんざんに討ち崩されて、単騎で落ちていった。 呂布が劉備の家に駆けつけると、糜竺が出迎えて「劉備殿は曹操に迫られてやむなく加...
日本思想の本格的発見者であり、日本を思想の水準に引き上げたといわれる哲学者・三枝博音についてです。 三枝は、宗教的合理性の追究を志し、認識論...
賈詡の計は城内に伏兵を置くことであり、曹操が城内に入ると一斉に攻撃をした。 曹操は慌てて兵を退いた。 劉表は、曹操が兵を退いたのを見ると、...
経世論は、主として江戸中期以降に形成された「経世済民」「治国平天下」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想で、「経世思想」「経...
袁術は、孫策から玉璽を得て、自らを天子の位を名乗って年号を仲氏と定めた。 呂布は袁術の軍に慌てて協議をした。 陳矯は、陳珪、陳登父子が...