武教全書講録より学ぶ!時代に対する危機意識と忠誠観!

吉田松陰の主著の一つとされるのが山鹿素行の著書・山鹿流兵学の「武教全書」を講じた『武教全書講録』です。
この著述は、安政三年に子弟を相手に「武教全書」の序論にあたる「武教小学」を講じた講義ノートで、そういった意味では『武教全書講録』ともいえる講義録ですが、ただ内容を説明するだけでなく、松陰の思いや見解が付け加えられているところが特徴です。

この講義のテキストたる「武教小学」は「誠実であって自らを偽らず、つねに士としての正義を思って自ら励ます、これが人との交わりを最後まで続けていくための道」を論じているのですが、松陰はまず開講の辞として、こう述べています。
「国恩の事に至りては、先師、萬世の俗儒、外国を尊び我が国を賤しめる中に生まれ、独り卓然として異説を排し、上古神聖の道を究め、中朝事実を撰れたる深意を考えて知るべし」。

松陰は先師・山鹿素行の教えをさらに拡大解釈し、真剣勝負の日常こそが重要であり、浩然の気を養う大切さを説き始めます。
「所謂浩然の気を養うの『公孫丑上篇』工夫なり。
凡そ人は浩然の気なければ、才も智も用に立つ者にあらず。
この気は血気客気に非ず、人の本心より靄然として湧出し、如何なる大敵猛勢にも懼れず、小敵弱勢も侮らず、如何なる至難大難をも恐怖せず、宴安逸楽にも懈怠せず、確乎として守る所あり、奮然として励むところのある気、これなり」
また、時間を無駄に過ごす安逸な姿勢を厳しく断じてはこう説きます。
「武義を論ずるは固より書をひらいて購読することなり、然れども読書の弊最も多し。
或いは異俗を慕い、或いは時勢に阿り、或いは浮華に走り、或いは文柔に流るるの類枚挙に堪えず」。

なぜ、松陰は『武教全書講録』を講じたのでしょう。
松陰は、この講義の中での経世論いわゆる尊王攘夷論について忠誠観と対外認識に着目し論じています。
松陰の経世論とは、いかに西洋列強から日本の国體を守るかという論ですが、松陰の忠誠観や対外認識及び政策は、幾度も変化していきます。
松陰の忠誠観は、潜在的に朝廷や幕府に忠誠を内包しながら藩に忠誠を尽くすという構造からはじまり、朝廷を頂点とし次に幕府、そして藩という構造を経て、朝廷と藩という忠誠観を形成ながらも、最終的には、朝廷と天皇、藩と藩主毛利敬親を分離し、天皇を頂点に藩主毛利敬親を次に置き個人を中心とする忠誠観を形成するに至っています。
いわゆる、忠・孝・武、そして義ですね。
こうした考えは『士規七則』※)の「三.武士の道は義より大切なものはない。義は勇気によって行われ、勇気は義によって成長する」にも表されています。
※)『士規七則』については”吉田松陰の命日に想う”http://shutou.jp/blog/post-386/も参考にしてください。

松陰は、時代に対する危機意識から生涯を通じて幕末激動の時代と対決し、それを死を賭して対峙し続けました。
やがてその死の意味と思いは、明治維新という近代日本への一大変革へと開花し成し遂げられたといっても過言ではないでしょう。
翻って、混沌とし人も国家も自らの姿とあり方を見失いがちな現代にあって、こうした危機意識をそれぞれが持ち合わせ、自ら考え精神練磨する中から、初めて目前の問題を探り当てる方途を探り当てることができるのではないでしょうか。
このような危機感を日常の中で多少なりとも感じているからこそ、松陰が、そして『武教全書講録』が今間われる所以なのかもしれません。

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以下参考までに、『武敎全書講録』原文から一部抜粋です。

先づ士道(しどう)と云ふは、
無禮(ぶれい)無法(むほう)
粗暴(そぼう)狂悖(きょうはい)の
偏武(へんぶ)にても濟(す)まず、
記誦(きしょう)詞章(ししょう)
浮華(ふか)文柔(ぶんじゅう)の
偏文(へんぶん)にても濟(す)まず。

眞武(しんぶ)眞文(しんぶん)を學び、
身を修め心を正しくして、
國を治め天下を平かにすること、
是(これ)士道(しどう)也(なり)。

國體(こくたい)と云ふは
神州は神州の體(たい)あり、
異國は異國の體(たい)あり、
異國の書を讀(よ)めば、
兎角(とかく)異國の
事のみを善(よ)しと思ひ、
我國をば却つて賤(いやし)みて、
異國を羨(うらや)む様(よう)に
成り行くこと
學者の通患(つうかん)にて、
是れ神州の體は、
異國の體と異なる
譯(わけ)を知らぬ故也。

士たる者は
三民(さんみん)の業(ぎょう)なくして
三民(さんみん)の上に立ち、
人君(じんくん)の下(しも)に居り、
君意(くんい)を奉(ほう)じて
民の爲に災害
禍亂(からん)を防ぎ、
財政輔相(ほしょう)を
爲すを以て職とせり。

而(しか)るに今の士たる者、
民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り
君の俸禄(ほうろく)を攘(ぬす)み、
此の理を思はざるは、
實(じつ)に天の賊民を謂ふべし。

此(ここ)の處(ところ)
人々自ら考へ、
三民の長たるに負かぬ如く
覺悟し給へ。

漢籍(かんせき)を讀(よ)んで
漢土(かんど)を羨(うらや)みて
我國(わがくに)を遺(わす)れ、
漢土(かんど)の先王(せんわう)を尊みて、
我國の神聖を
疎(おろそ)かに心得る類(たぐひ)、
是れ皆不究理(ふきゅうり)の弊(へい)なり。

何事に依らず
形跡に拘泥(こうでい)せずして、
神理(しんり)を會得(えとく)すること
緊要(きんよう)にて、
禮義作法(れいぎさほう)に於て
最も其の理を思ふべし。

禮義作法は
總(すべ)て君臣の義、
父子(ふし)の親(しん)、
夫婦の別(べつ)、
長幼の序)、
朋友の信に
落着(らくちゃく)することなるに、
其の所には
反つて心附かずして、
威儀(いぎ)容止(ようし)の節(せつ)、
宮室(きゅうしつ)衣服の制等の
瑣事(さじ)に拘はること、
是れ大いに誤りなり。

行住坐臥
暫くも放心せば則ち必ず変に臨みて常を失ひ
一生の恪勤
一事に於て闕滅す。
変の至るや知るべからず」と云ふは
細行を矝まざれば
遂に大徳を累はすと云ふと同一種の語にして
最も謹厳なる語なり。

夫婦は人倫の大綱にて
父子兄弟の由って生ずるところなれば
一家盛衰治乱の界、全く茲にあり。
故に先づ女子を教戒せずんばあるべからず。

男子何程剛腸にして武士道を守るとも
婦人道を失う時は
一家始まらず
子孫の教戒亦廃絶するに至る。
豈に愼まざるべけんや。

而して逸近女子の教戒を以て
重事とする者あることを聞かず。

又貝原氏の書或は心学者流の書等を以て教えるところあり
是れ尤も正しく尤も善し。

然れども柔順、幽閑、清苦、倹素の教えはあれども
節烈果断の訓に乏し。

滔滔たる父兄
要は皆其の忠心なし
故に児女其の教戒を聞かず。

故に人の妻と成りて
貞烈の節顕はれず、
人の母となりて
其の子を教戒することを知らず。

是れ父兄女孫も
矇昧にして無教戒の世界に死す