忠臣蔵!赤穂浪士の討ち入り考!

旧暦での今宵(12月14日)は、赤穂浪士の討ち入りで有名な忠臣蔵の事件の起きた夜です。

江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及ぶ。
このため、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まったが、一方、上野介には何の咎めもなかった。
これを不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名が、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、明け方あたりに仇討ちを果たした。
その後、浪士達が切腹した一連の事件を総称して「元禄赤穂事件」と呼ばれているものです。

しかしながら、現在に語り継がれている話しは、当時の事件以降に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として作られたもので、かなりの曲解、創作が入り混じっていることは十分に予想されることです。
というのも、忠臣蔵、赤穂浪士、赤穂事件についての公文書の類はまったく残っておらず、唯一現存するのは堀部安兵衛と大石内蔵助との手紙のやり取りを纏めた堀部武庸筆記しかないからです。
つまり、年末になると風物詩のようにテレビや映画で流される忠臣蔵のストーリーは、さまざまな人がいろいろな解釈を加えて出来上がっているといえるものです。

それでも、なぜこれだけ現代も愛される話しなのかというと、そこに流れている日本人の美しい義、忠、武士道、といったものが表現されているからだと思います。
現代社会に生きている限りは、ほとんど不可能といっていいくらい実現・体現することが難しい、ある種孤高の理想的ヒーローの姿を見出しているのかもしれません。

では、さまざまに挙げられている解釈を元に、気になる点をざっと整理してみたいと思います。

江戸時代の人形浄瑠璃の演目「仮名手本忠臣蔵」では、幕府の接待役をおおせつかった長矩が、吉良家への謝礼を軽んじたため、接待指南役の上野介がそれに腹を立ててウソや悪しき風評を流し、恥をかかされた長矩が逆上して殿中で刃傷に及んだ話しとなっています。
ポイントは、
・吉良家は高家筆頭で大名格の家柄であっため、謝礼云々程度で腹を立てるのか?
・上野介は、公文書を見る限り高家旗本で、地元でも治水事業や新田開拓の実績や人柄から名君と慕われていた。
・そもそも上野介は指南役なので、長矩が失敗すればその責任は上野介にも及ぶし対面にも関わる。
・そんな中、上野介が長矩の足を引っ張るようなことをあえて行うのか?
という点です。

他にも、
・長矩自身が本当に無能者で何もできなかった。
・上野介が犯した失敗を長矩に押し付けた。
・長矩が自分の落ち度を上野介に押し付けようとしていた。もしくはその逆。
・女性を巡るいざこざ。
・実は、別の第3者がおり、双方を争わせるためにしくんだ。
等々、諸説入り混じっているのですが、どれも今となっては定かではありませんので、原因については(タイムマシーンでもない限り)結局は想像の域を出ません。

しかし明らかなことは、殿中という聖域で刃傷沙汰が起き、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶となり、配下の一族郎党は皆、路頭に迷う結果となったということです。
それだけのものを犠牲にし、失うものの方がはるかに多いことがわかっていながら、長矩はどうして刃傷に及んだのか、どうして最低限の理性だけでも働かせて、自分を抑えることができなかったのか。
人間とは理性のある生き物。
忠臣蔵は美談として語り継がれていますが、犠牲とするものが自分だけならまだしも、背負う立場の人間がその理性を失って背負っているものすべてを破滅に貶める行為は非常識の極みです。
その点にもっとスポットをあてて解釈をして欲しいと感じるのは、興醒めというものでしょうか。。。。

次に、刃傷沙汰のあとの処罰についてです。
幕府の赤穂浅野家と吉良家に対する処罰ですが、
・長矩は即日切腹で、赤穂浅野家は取り潰し
・上野介に対しても吉良家に対しても何のお咎めもなし
であったため、この不条理に対して赤穂旧藩士の不満が募り、後々吉良邸への討ち入りの原因となっっています。
武士の世界では喧嘩両成敗ということで、処罰の差異があった事実は確かにありますが、実際には(吉良家への咎めはなかったものの)上野之は幕府での職を辞しており、社会的な制裁・処分を受けていると言えなくもありません。
歴史を紐解くと、実際に殿中で抜刀したにもかかわらず不問に付された侍もいたそうなので、幕府の視点としてみると長矩の処分は刃傷沙汰自体というよりは、職務放棄と幕府の対面を潰したことによる制裁ではなかったかと思われます。
であれば、処罰の差異があっても納得できるのではないでしょうか。

次に大石内蔵助の思惑です。
内蔵助は長矩が切腹した後、赤穂浅野家によって城の明け渡しを行うに際して、非常に速やかに対処を行ったことが伺えます。
というのも、この時点で上野介憎しで決起・蜂起するのではなく、手続き処分や失業した家臣団の処遇の調整に奔走していたためです。
おそらく家臣の中には、この時点で仇討ちするような動きもあったはずですが、それを押さえ込むことに終始し、それを2年近く続けたものの、依然遺恨の消えない46人がいた。
実際、当初150名近い家臣団が血判状に血判していたものの、討ち入り時には100人以上が脱落している訳で、それでもこの46人の暴走を治めることが困難と判断し、止む無く47士として討ち入りとなったと思うのは、過小評価でしょうか。

最後に、赤穂浪士が切腹して果てたということについです。
本来、私怨による討ち入りは、幕府側から見ればその忠誠を省みない行為であり、幕府に背いた背徳行為でしかありません。
普通に考えれば、名誉を与える切腹を許す訳はなく、打ち首獄門か終生遠島となってもおかしくないでしょう。
でありながら、なぜ武士としての名誉を守る切腹という采配になったのでしょうか。
当時の江戸城下では、討ち入りの噂は市中で持ち切りとなっていたそうで、町民の間でも支援・支持する声が高かったのではないか、と思われます。
そうなると、町民の非難を避けるためにも、赤穂浪士の面目を保ちながらも同様のことが起きないよう、名誉を守りながらも処罰を下す、という結果になったのではないでしょうか。

いろいろなことに思いが巡る忠臣蔵ですが、今回はこのぐらいにしておきます。

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