儒教を理解してみる

近隣にあって、なぜ日本と最も近くの国同士は、わかりあうことが難しいのか?
今回は、日本人の我々にとっては近いようであまりなじみのない儒教を整理してみることで、隣国との関係性を想定してみることにします。

儒教は孔子が開いたもので、いわゆる宗教とは異なる政治学・道徳学の類のものだ、といわれています。
中国や韓国は儒教の国ですが、この国特有の先祖崇拝を基本とした物事の考え方を見ると、これは単なる政治学・道徳学の範疇だけで括れるものではなく、やはり一種の宗教思想なのだと思わざるを得ません。

最初に”儒教はあまりなじみのないもの”と書きましたが、果たしてそうでしょうか?

Confucius_Tang
今年になって身内の葬儀をあげた立場から言うと、仏教だと思っていたものが実は儒教から起因しているものがあることに気づかされます。
例えば、仏教のお葬式で故人の戒名・法名を書いて立てている位牌などがそれにあたります。
死者の祭祀のため、死者の戒名などを記した木の板を指すものですね。
(亡くなると白木の位牌を用いますが、四十九日の法要までには漆塗りなどの本位牌に作り替えられるものです。浄土真宗や日蓮正宗に限っては本位牌ではなく過去帳へと作りかえますが、用途は同じです)
実はこの位牌という考え方、元々は儒教から来ているのです。
なぜなら、前回の”往生と涅槃、解脱って何?”の輪廻転生でも説明したように、仏教では人の魂は何度も生まれ変わり別の生き物(人間以外のこともありうる)になってしまうので、それを位牌として同じ形でずっと残すという考え方が、本来の仏教らしくないのです。
一方、儒教的な考え方だと人の魂は亡くなったあとも不滅ですし、その人の記憶も含めて残っていく(これを霊魂不滅説というそうです)ので、儒礼に基づいた葬儀で木主(位牌と同じ扱いです)を立てるという習慣が当たり前です。
つまり、このような儒教の習慣が日本で仏教と融合して、今に至っている訳です。

そこで、改めて儒教というのがどういったものかというと、
・「仁・義・礼・智・忠・信・悌・孝」の8つの徳目が基本思想にある
・先祖の魂は不滅であるという先祖崇拝を体系化したもの
・「徳」を重んじ、まずは個人が徳を持って身を修めることを優先するため、人にとって一番大切なのは能力でなく徳となる。
・良い行いをすればよいことが、悪い行いをすれば悪いことが返ってくるという天人相関説の考え方に基づいている
・「仁」は他人に対する親愛の情、優しさのこと。
・「義」は正しい行いを守ることであり、臣下の主君に対する忠節を表す。
・「礼」はさまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。これを重んじ、礼儀を尽くすための方法や習慣が詳細に決められている
→日本人の感覚だと内面で礼を尽くすことでよしと思っていることでも、儒教ではそれを形や態度・行動にすることの方が優先されます
・男系の血族を重要視し、どんな場合でも子孫繁栄を優先せねばならない(男系以外での養子などももっての外)
・「智」は人や物事の善悪を正しく判断することを表す。
・「忠」は正直で裏表のないことを表す。
・「信」は友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことを表す。
→儒教においてはフィクションは嘘の話しなので、侮蔑の意味を込めて小人の言説(=小説)と言う
・「悌」は弟の兄に対する忠節を表す。
・「孝」は徳目の中で第一に守るべきものであり、よく父母に仕えること、子供の親に対する忠節は絶体である。
となります。

特に第一に守るべきとされている「孝」を理解するのに端的な言葉で表すと、”究極には親のためであれば自分の子を殺すことすら正しい”という考え方があるということに尽きます。
例えば、海で自分の子供と両親、祖父母が同時に溺れていたとします。
日本人の感覚だと、まずは子供を助けるのは当然と考えますが、儒教では絶対にありえません。
儒教では、この場合ならまずは祖父母→両親→そして最後に子供となります。
ちなみに男女差異でいうと、絶対的に男性をまずは優先して助けるのが当然、という考え方なのです。

また、儒教の考え方の中には「和」もありません。
「孝」を道徳観念の核にし、そこから上下関係を元にした思想を展開しているために、平等という意識にはならないのです。
人間関係の濃さ(血族を基本にしています)がどうあるのか、ということを社会秩序にまで組み込んだ考え方なので、
・古いものを良しとし、世の中というものはだんだん悪くなっていくものである
・だからこそ、少しでも昔に戻さなければならないという発想となる
・結果、強い保守主義となり、一旦決めた物事というものをなかなか簡単には変えられない
・自分達が絶対に正しいと信じ、批判を受け付けないばかりか、自分達の考えを押し付ける
という傾向が強い訳です。

問題が起きた場合、日本人は相手との関係が悪くなるぐらいであれば、それを飲み込み摩擦を避けることで皆との協調を優先しますし、議論になっても話し合って相互理解を求め和を保つことを大切にします。
しかしこれが儒教的な考え方だと(「和」は8つの徳目の外にありますから)問題があれば相手を徹底的に叩くことを厭いませんし、皆が納得していても自身が納得しなければひとりでもおかしいことだと主張するのが当然、となるのです。

また、位牌の話しに戻りますが、儒教では人の魂は亡くなったあとも不滅ですし、その人の記憶も含めて残っていくという考えです。
これがどういったことかというと、悪いことをしたり罪を犯して亡くなった人は、未来永劫悪人・罪人である、ということを意味します。
ですので、葬るということが死者を尊敬することになることから、儒教では悪人・罪人を葬ることを絶対に許さない倫理観となっているのです。

日本は神仏習合の国ですので、人はだれでも無くなれば神仏です。
ですから、日本人の普通の感覚でいえば、無くなった人を神社に祭ったり、お寺に埋葬したりするのは普通のことです。
そのため、第2次世界大戦でA級戦犯となった人達も、靖国神社に祭っている訳です。

再三再四靖国問題が韓国・中国との国交に支障を来たしますが、儒教の観点から言えばA級戦犯(=罪人)を葬っているという行為自体が思想的に受け入れがたい感覚なのです。
過去に謝罪なりを行ったし、そもそも当事者が亡くなっているのでそれで終わり、というのはあくまで日本人の感覚であり、亡くなった人が犯した罪は未来永劫、墓を暴いてでも死体に鞭打ち続けるのは当然、というのが儒教の普通の感覚、ということなのです。

問題は、
・霊に対する考え方が根本的に異なる
・宗教思想が異なるから、という言い分も一切通用しない
・自分達が絶対に正しいと信じ、自分達の考えを押し付けるばかりで、批判を受け付けない
ので、同じ土俵で論議しても解決しようがないわけです。
こうしたことを双方で理解せずに今日まで至っていることが、双方の国の関係がなかなか良い方向に進展しない原因ではないかと考えるのです。

宗教問題だと考えると、近隣諸国とのもやもやとしたまどろこしさ、しっくりしなさ感も少しは納得できませんか?
世界の歴史の大半は、ほとんどが思想・宗教の対立によって積み上げられてきています。
21世紀になっても、この問題は世界各地で頻発し、収まる見通しも見えない状況です。
そんな中、そろそろ日本人も”日本だけは宗教とは関係ない”という感覚を見直す時期に来ているのだと思います。
いかがでしょうか?

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