菜根譚より学ぶ!人生の指針となるべき教養の書!

『菜根譚』は、別名『処世修養篇』ともいい、明時代末期の洪自誠(こうじせい)による前集222条後集135条からなる箴言集です。
前集:主として世間に立ち人と交わる道を述べて、処世訓のような道徳的な訓戒のことばが多い。
後集:自然の趣と山林に隠居する楽しみを述べて、人生の哲理や宇宙の理法の悟了、通俗的な処世訓を説いている。
この人生の哲理・宇宙の理法は、儒仏道三教に通じる真理であり、それを語録の形式により、対句を多用した文学的表現(清言)で構成されています。
なお『菜根譚』という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に「人常に菜根を咬み得ば、則ち百事をなすべし(菜根は堅くて筋が多い。これを咬みしめてこそ本当の味わいが分かる)」からとったものです。
また、中国よりむしろ江戸末期の日本で教養書として「論語」と並んで愛読され、今日でも社会人の間では根強い人気があります。

『菜根譚』が書かれた明時代末は、儒教が廃れて国が荒廃し混迷を極めた時代でした。
そのため、この形骸化した儒教に、道教・仏教の良い部分を加えて、
・富や名声によらない幸福
・欲望を制御する大切さ
・普遍的な価値に身をゆだねること
・逆境をのりきる知恵
・真の幸福とは何か
・人との付き合い方
・自分の器を磨く方法
などが書かれているのですが、形骸化した宗教を再構成し、新しい幸福を定義することで、人間的な成長を手助けし、幸福を見失った人たちを救おうとしたのではないか、と思われるのです。

一見すると、独自の心学哲学を述べて形而上学的論拠をあからさまに述べているように思われがちですが、本書はそうしたことを一切差し控えた、処世哲学とでもいうべき箴言集です。
そういった意味では、『論語』や『老子』に近いものがあり、だからこそ日本では儒・仏・道三教に通底する人生観・処世観をみるのに格好の教材として長らく愛読されてきたのかもしれません。
時代は移り変わっても、人が身を世に処して人間らしく生きていこうとするときに、身に降りかかる艱難辛苦や喜怒哀楽には大差はありません。
そうした時この『菜根譚』は、人生の指針となるべき教養の書として、生きることの難しさと歓びを味わせてくれるすばらしい書物です。
今、自分の立ち位置やゴールを見失いそうになっている方、成長したい気持ちがあっても何をどうしたらよいかが解らない方などは、現状の問題の解決のヒント・きっかけとなる言葉が見つかるかもしれません。

古典に学ぶことは数多ありますので、こうした佳書にも是非親しんでみてください。

こちらのサイトに原文と現代語訳がありますので、参考にしてください。
菜根譚 洪自誠、人生の指南書
菜根譚(さいこんたん)ガイド
活人(前集)・達人(後集)のための 菜根譚 (さいこんたん) 超訳

[amazonjs asin=”4061587420″ locale=”JP” title=”菜根譚 (講談社学術文庫)”]

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【菜根譚】
道を守って生きれば、一時(いっとき)孤立する。
権力にへつらえば居心地は良いが、その後に永遠の孤独が襲ってくる。
めざめた人は、現世の栄達、物欲に惑わされず、理想に生きる。
一時の孤立を恐れて永遠の孤独を招くな。

万事に如才(じょさい)ないよりは、いくらか間が抜けているほうが、
また、ばかていねいよりは、一本気でぶしつけ、ぶっきらぼうの方が人間として信用できる。

君子の信条、志しは、やましいところがなく、事に当たって人々に広く知らしめることができる。
君子の才能は、奥深く秘めて、人々に容易に知らせることはない。

富貴の人に近づこうとしないのは潔癖ではある。
だが、近づいてもその影響に染まらないのが本当の潔癖というものだ。
世の中の手練手管など知らないほうがよろしい。
しかし、それを知りながらも用いようとしないのが本当の人格者だ。

耳に入るのは耳の痛い言葉ばかり、
することなすこと思うようにいかないという状態の中でこそ、人間は磨かれる。
耳に入るのは甘いお世辞ばかり、何事も思いのままという環境ならば、
知らぬまに猛毒に侵されて一生を台無しにするだろう。

自然には温かい太陽が欠かせない。人々の心にも喜びの心が欠かせない。

暇なときにも気を張った心持ちをし、忙しいさなかにもゆとりを持つ

夜深く人も静まったとき、座禅を組んで自分自身の心を観れば、
妄想が消え真実の物事が現れてくる。この中から、前進への意欲と自信が得られるのだ。

うまいことづくめのとき、えてして思わぬアクシデントに見舞われる。
だから調子の良いときこそ、いいかげんなところで手を引いた方が良い。
手も足も出ない逆境の果てに、案外、一条の道が開けることがある。
だから思いどおりにならぬからと、やけを起こして投げ出すものではない。

この世に生きているうちは、できるだけ寛容の心で人に接し、不満の心を抱かせないようにしたい。
世を去ったのちにも、できるだけ多くの恩恵を残して、人々に満足の心を持ってもらいたいものだ。

せまい道では足をとどめて「お先にどうぞ」、おいしい食べ物は「おひとつどうぞ」

くだらぬ欲望を捨て去る事ができれば、人格の向上ができる。
つまらぬ雑事にとらわれなければ、すぐれた人物となることができる。

友として交際するにからには、ひと肌脱ぐ心意気を持たねばならない、
その為には、純真な心を持つ事が必要である。

名誉、利益が得られるときは、できるだけ後ろの方に引っ込んで遠慮せよ。
人の為になる仕事なら尻ごみせずに率先して力を尽くせ。

一歩下がることが、さらに前進するための土台となる。
人のためを考えることが自分に利益をもたらす基礎となる。

天下に鳴り響くほどの功績を立てても、それを鼻にかければ何の値打ちもなくなってしまう。
天の神の怒りを買うほどの罪を犯しても、心からそれを反省すれば、罪は残らず消え去ってしまう。

功績や名声は独り占めにするものではない。失敗や汚名をすべて他人にかぶせてはならぬ。

完璧主義は、内変もしくは外憂を招く。

一家中が誠実に、平和に、表情も言葉も穏やかに、心をひとつにとけ合わせて暮らしていくならば、
その功徳は、むずかしい座禅の修行よりもはるかにまさっている。

むやみと動き回ってばかりいては、雲間の稲妻か風に吹かれる灯火のように、
落ち着きというものがまるでなくなる。といって、静寂ばかりを愛していては、
冷えきった灰か枯れ木のように、生気が失われてしまう。
動かぬ雲の間を鳶が舞い、静かな水の中に魚が躍るように、
静と動がひとつに融け合った境地こそ望ましいものだ。

人の過ちを批判するときには、厳しすぎてはならない。
相手がそれを受け入れられるかを考えるべきである。
人を指導するときにも、目標が高すぎてはならない。
従うことのできる目標を与えるべきである。

汚らしいゴミの中から湧いた虫がセミとなって高らかに歌い、
腐った草からはホタルが生まれて夏の夜空に光をともす
(のを見れば、外見にとらわれてものごとの本質を見失うのが、どれほど愚かなことかわかるだろう。)
(科学知識が未発達だった時代には「化生」といって、無生物が生物となると広く信じられていた。)

誤った自信、思い上がりを捨て、謙虚に自分を見つめてこそ、本当の自信が出てくる。
とらわれた常識を捨て虚心になってこそ、本当の心をつかめるのだ。
(「矜高居傲」とは、のぼせあがって他人を見下し、なんでもできると思いこんでいる状態、
 「情欲意識」とは、とらわれた先入観、思いこみの意。)

満腹になった後には、味わいの微妙な違いなどわからない。
情事が終わった後には、情欲も消え去ってしまう。

社会生活においては、無理に功績を上げようと努めることはない。
失敗を犯さなければ、それが立派な功績である。
対人関係においては、強いて恩を施して感謝されようと思うな。
人から怨みを受けずにすめば、それが人に感謝されることなのだ。

使命感に燃えて頑張るのは美徳であろう。
しかし、度が過ぎれば、まわりは息が詰まってくる。
ものごとにとらわれず、悠々自適にすごすのも良い。
しかし、これまた度が過ぎれば、相談するのにとりつく島もないではないか。

行き詰まった時には、出発点に引き返す勇気が必要であり、
ひとまず目的を達成したら、切り上げどきを考える勇気が必要である。

恵まれた環境にある人は、心が豊かで温かくあるべきなのに、かえって、疑い深くて不人情である。
物質的には豊かでも、心は貧しく卑しいためだ。

身分の低いところにいてこそ、将来高い身分になったときの危うさがわかる。
暗いところにいてこそ、明るいところで全ての物が見通せることがわかる。

静かなる時を持つとひっきりなしに動き回るのが無駄なことであることがわかる。
沈黙の時を持てば、多弁がうるさすぎることがわかる。

名声、富、地位、それらに執着する心を洗い流すことができれば、
俗物の境地を脱出できたといえる。
道徳や仁義にこだわらず、天地とともにありのままに生きる境地に達したとき、聖人の域に達したといえる。

くだらぬ人物に対して厳しく接するのはたやすいが、愛情を失わずに接するのは難しい。
すぐれた人物に対しては、うやうやしく接するのはやさしいが、卑屈にならずに礼節を守るのは難しい。

まず、みずからの心に打ち勝とう。そうすれば、どんな誘惑でも退散するだろう。
まず、みずからの心をコントロールしよう。そうすれば、どんな妨害もつけ入ることはできない。

自分を大切にし、人にも至れ尽くせりで万事に行き届き親切すぎる人は、
とかく相手の立場を考えずに、ありがた迷惑な善意の押しつけをしがちだ。
自分のことは一向にかまわず、人のことにも無関心な人は、あまりに淡々としすぎている。

富によって屈服を迫る者に対しては、仁によって対抗しよう。
権勢によって支配しようとする者に対しては、義によって対抗しよう。
君子たるもの、支配者の思うままにはならない。

自己の向上を図るならば、周囲より一段高い理想をめざすことだ。
さもなければ、塵の中で着物を払い、泥水で足を洗うようなもの、人格の成長は望めない。
社会生活にあっては、足どりは慎重にし、人より一歩遅れるほどがちょうどよい。
さもなければ光を求める蛾が火の中に飛び込んだり、盲進した牡羊が垣根に角を引っかけて
進退きわまるような結末となろう。

人格の修養を目指しながら、一方で功績や名声にあこがれるようでは、向上はおぼつかない。
学問を学んでも得た教養を風流ごとの楽しみばかり用いていては、神髄を体得できない。

幸福と言えば、わずらわしい出来事が少ない事にまさる幸福はない。
不幸と言えば、欲望が多い事にまさる不幸はない。
いろいろな事で苦労をしたあげくに、面倒が少ないことの幸福を悟り、
心を平穏にすることができて、初めて欲望が多い事の不幸を悟る。

正しい秩序が確立した時代には、姿勢を正して生きよ。秩序が乱れた時代には柔軟に生きよ。
混沌とした末世には、正しい姿勢を保ちつつも柔軟な対応を忘れるな。

自分が与えた恩は忘れよ、犯した過ちは忘れるな。
受けた恩は忘れるな、受けた怨みは忘れ去れ。

人に恩を与えるにあたって、自分の行いの美しさを意識せず、
人々の感謝や賞賛を期待しないようであれば、わずかあわ粟一斗の施しでも何万石もの価値がある。
それに反して、人に施すことによって自分の利益を図ったり、見返りを期待するとしたら、
何万両の金を与えても、ビタ一文の価値もない。

人が置かれている環境条件は、いろいろであり、
自分が人並みであるという線など、どこにも引けるものではない。
また、自分自身の気持ちにしても、機嫌の良いときも有れば悪いときもある。
他人も同じであり、機嫌良く接してくれるのをいつも期待する方が間違っている。

古人の善行や名言を、自分の欲望を遂げるヒントにしたり、
よからぬ行為を合理化する口実にする。

能力のある者は忙しく追い回されるが、陰で日の当たらない大勢の人たちからの怨みを買っている。
特別とりえのない者は気楽なもので、置かれた条件に甘んじて、
誰からも怨まれたり羨まれたりすることなく、一生を終えることができる。

すべての人の心の底には、必ず真の文章、すなわち生まれながらの理性が備わっている。
だが、多くの場合、それらはがらくたのような知識のかけらに覆われて、その真価を発揮していない。
すべての人の心の奥には、必ず真の音楽、すなわち天から授かった感性が備わっている。
だが、たいていそれは、怪しげな芸術によってかき曇らされている。

すぐれた人格によって得た地位名誉は山野に咲く花。放っておいても伸び伸び栄える。
功績によって得た地位名誉は鉢植えの花。ご主人の一存で植えかえられたり捨てられたり。
権力にとり入って得た地位名誉は花瓶にさした花。見ているうちにたちまちしおれる。

人にとっての春とは、幸いにも選ばれて高い社会的地位に昇り、豊かな生活を保証されたときだ。
だが、そのような恵まれた立場にありながら、すぐれた発言、立派な行動によって
自らの責任を果たそうとしなければ、たとえこの世に百年生きていようとも、
一日も生きたことにならない。

本当に潔癖な人というものは、そのような評判を立てられることはない。
しきりと潔癖を売り物にするのは、実は名誉欲の強い人なのだ。
最高のわざを身につけた人は、小手先細工はしない。
器用さをひけらかすのは未熟者の証拠である。

欹器はいっぱいになるとひっくり返るし、
撲満(貯金玉)は空であるから存在することができる。

何万石もの地位に見向きもせず清貧に甘んじているように見えても、
心の底にまだ名誉心が残っているうちは、ただの俗物根性だ。
天下に恵みを垂れ、後世にまで功績を遺しても、
それが功名心から出たものならば、野心を遂げるための手段にすぎない。

人は知名度と高い地位を得ることの楽しさを知っているが、
名も知られず地位もない者こそが本当に楽しめることを知らない。
人は食べ物にも住む家にもことかく生活の不安を知っているが、
それらが満たされた中での不安や悩みがもっと深刻であることを知らない。

悪事を働いても、それが暴露するのを恐れているようであれば、
まだ一片の良心を抱いているといえる。
善行を積んでも、それが早く人に知られればよいと願っているようでは、
善行の中に悪の芽が潜んでいる。

あるときは喜び、あるときは苦しむ修行をし尽くした上で得た幸福であれば、いつまでも永続する。
あるときは疑い、あるときは信ずる検討、追究の果てに得た認識であれば、それは初めて真実と言える。

人の心に雑念がなければ、正義感と理性がそこに育つ。
人の心が理想に満ちていれば、欲望が入る隙がない。

暴れ馬も調教次第で立派に乗りこなせるようになる。
鋳型からとび出す金もやがては型に納まる。
手に負えぬような人物も、のちにはけっこうものの役に立つものだ。
これに反して、手数はかけぬかわりに、何の意欲もみせず、
のんべんだらりと日を送るような人物は、一生かかっても何の進歩も期待できない。

人というものは、激しい欲望で頭がいっぱいになっている状態では、
強固な意志は骨抜きとなり、澄んだ理性は曇り、愛情は残酷に変わり、
潔癖が恥知らずとなり、人格の全てが台無しになってしまう。

心をそそる外界のさまざまな刺激は、外からわが心中をうかがう賊であり、
胸中にたえず湧き起こる欲望や偏見は、中からわが心を惑わす賊である。
だが、何物にも動かされぬ本心が、どっかと中心に坐っている限り、
さまざまな刺激は、かえって私の成長を助けてくれるに違いない。

竹の葉はそよ風に鳴り、風過ぎて竹に声なし。
飛ぶ雁は淵をわたれど、去りし後、影をのこさず。

あばら家の庭もさっぱりと掃き清められ、貧しい娘もきちんと髪をとかしていれば、
華やかさこそないものの、どこか風雅な趣が感じられるものである。

ひまだからといって無駄に過ごすことがなければ、その効用が忙しいときに現れてくる。
何事もないときにぼんやりしていなければ、その効用が活動するときに現れてくる。
人目の届かぬところで良心を偽らなければ、その効用が公の場で現れてくる。

自分を犠牲とする決意をしたからには、利害打算の迷いをいっさい捨てよう。
人のために身を捨てようと思いながら、なおも迷っていたのでは、最初の決意に対しても恥ずかしいことだ。
人に恩を施すからには、それに対する見返りを期待してはならない。
もし報酬を求めるようであれば、最初の動機までが不純であったことになる。

人格を磨き、社会への奉仕に努めれば、たとえ身分は低かろうと王侯貴族にもまさる人だ。
権威をかさに着たり、恩を売って人を買収しようとしたりすれば、高位高官にあっても乞食同然の人だ。

道徳を売りものにする君子が偽善を働くのは、
良心のない小人が勝手ほうだいに悪事を働くのと変わらない。
理想をかかげる君子が変節するよりは、教養のない小人が反省して再出発するほうがよほどましである。

穏やかな春風が氷を解かすように、自然と改めさせるのが、家庭における教育のあり方である。

富貴の家でわがままに育った者は、欲望の激しさは火のよう、権勢への執着は炎のようだ。
いくらか頭を冷やして、さっぱりした気風を身につけないことには、
欲望の火が、人を焼くことがなくとも、自分自身を焼き付くさないとは限らない。

最高に完成された文章は、一向に奇抜なところがない。
だが、言おうとすることをぴたりと言いあてているだけだ。
最高の境地にまで達した人格者は、少しも変わったところがない。
ただ、ありのままに生きているだけだ。

他人に対しては小さな過失を責めない。個人的な秘密はそっとしておく。古傷は忘れてやる。
この三つの心がけは、自分の人格の向上に役立つだけでなく、人の怨みを免れ、
一身の安全を保つ道ともなるのだ。

誰の目からみても正当な意見に対しては、私情によって反対してはならない。
ひとたびそのようなことをすれば末代までの恥となる。
権力を乱用し、私腹を肥やす者に近づいてはならない。
うっかりそのような者と交われば生涯の汚点となる。

自分の信念を曲げて人に気に入られるよりは、
たとえ人から煙たがられようとも信念を貫きとおしたほうがましだ。
何の善行もないのに人に誉めそやされるより、
むしろ身に覚えのないことで人から非難された方が気分がよい。

些細なことにも手抜きをしない。人目がなくともうしろ暗いことをしない。
不遇になっても投げやりにならない。これだけのことができれば、それでもう立派な人物だ。

無能をよそおって才能を隠し、愚鈍とみせかけて英知をみがき、
俗界に身を置きながら節操を守り、身を低くして飛躍に備える。

ものごとが下り坂となる兆候は、隆々たる発展の絶頂において早くも現れてくる。
新しい成長への芽生えは、逆境のどん底の中から生じてくる。

目新しく風変わりなことばかりするのは、スケールが小さい証拠だ。
自分一人だけ浮き上がって苦労しているようでは、決して長続きはしない。

一部の意見を鵜呑みにして、よからぬ者にだまされるな。
自信に任せて大役を引き受け、それに追われて自分を見失うな。
自分の長所をかさにきて人の短所を責めるな。
自分が無能だからといって人の能力をねたむな。

人の嘘に気がついても、気づかぬふりをしてすましている。
人が馬鹿にして見下しても、一向に平気な顔をしていられる。
こうした態度には、尽きることのない価値があり、また限りない効用があるものだ。

「人に害を加えようとの心を抱いてはならないが、
人から害を受けないようにする心がけだけは必要だ。」という言葉がある。
これは不用意のために災厄を受けることを戒めたものだ。
「人からペテンにかけられたほうが、これはペテンではないかと人を疑うよりましだ。」という言葉がある。
これはあまりにも人を信じようとしない態度を戒めたものである。
この二つの教訓を統一して身につけ、実践することができれば、
明確な判断力と、温かい人間性とを兼ね備えた人物となることができるだろう。

人々に受け入れられないからといって自分の意見を曲げてはならない。
自分の偏狭な感情から人の意見を否定してはならない。
自分の小さな打算から全体の利益を無視してはならない。
個人の感情をはらすために世論の力を借りてはならない。

愛と憎しみの感情は、富貴の者のほうが貧しい者よりさらに激しい。
妬み嫌う心は、肉親同士のほうが、あかの他人よりよほど極端だ。

部下に対しては、その功績と過失とをあいまいにしてはならない。
もし、それがあいまいにされれば、部下の心はだらけてしまうだろう。
しかし、個人的な利害を受けたことによって部下を差別してはならない。
もし、そうすれば、組織内の人間関係は四分五裂してしまう。

人徳は主人、才能はその召使い、才能ばかりがあって人徳が備わっていなければ、
主人のいない家で、召使いが勝手気ままにふるまっているのと同じ事だ。
その人の心中は化け物の棲み家、果てもなく乱れ狂っていくのも無理はない。

悪党や野心家を一掃するためには、一筋の逃げ道だけは空けておいたほうがよい。
もし、どこにも逃げ場がないとすると、彼らは袋のネズミのような状態となって、
苦し紛れに大切なものをかじりつくしてしまうからだ。

失敗の責任は自分もとろう。しかし功績をあげた栄誉の仲間には入るな、
功績を共有するのは仲互いのもとだ。
苦労は人とともにしよう。しかし楽しみごとは人に譲ってしまったほうがよい。
楽しみごとを共有すれば、ついには憎み合うようになる。

人の品性は、包容力が大きくなるにつれて向上し、包容力は、認識が深まるにつれて大きくなる。
したがって、品性を向上させようとするならば、包容力を大きくすること、
包容力を大きくしようとするならば、認識を深めていくことだ。

事業や学問というものは死ねばなくなるが、その精神は永遠に古くなることはない。
地位や財産というものは時を経れば移り変わるが、その心意気は長く残っていく。
人間まことにここの分別が大事である。

人格の向上をめざすなら、真剣で誠実な心が必要だ。
それがなければ、乞食同然で、何をしても魂が入らない。
世間を渡るなら、円満な人間関係づくりを心がけよ。
それがなければデクノボウ同然で、そこらじゅうにぶつかるばかりだ。

地位を去って隠退するのは、わが身が全盛のときがよい。
そして身を置くところは、人と競争せずにすむ場所にかぎる。

人格の向上を図るなら、まず最も些細なことからきちんとすることだ。
報いられることを期待しない善行を施そうとするならば、
どう考えても見返りなどありそうもない対象、
つまり最も苦しい立場におかれている人を相手とすればよろしい。

人を信ずることができれば、たとえ相手の心が誠実でなく、
だまされることがあろうとも、こちらは誠実を貫いたことになる。
人を疑ってかかるならば、たとえ相手が正直であっても、こちらは偽りの心で接したことになる。

寛大で温かな心は、春風が万物を育てるように、すべてのものを成長させる。
冷酷で疑い深い心は、真冬の雪が万物を凍りつかせるように、すべてのものを死滅させる。

善行を積んでも成果が目に見えぬことがある。
だが、草むらに隠れた瓜のように、それは知らぬ間に育っていく。
悪事を働いて得たものが失われずにすむことがある。
だが、庭先の雪のように、それはたちまち消えてしまう。

昔なじみの人とは、ますます新鮮な気持ちで交わりを深めよう。
人目につかぬことについては、少しもうしろ暗さのないよう心がけよう。
落ち目になった人に対しては、とりわけ温かく接しよう。

俗臭をなくしさえすれば、それだけでもはや非凡だ。
無理に非凡を気取ろうとすれば、嫌味たっぷりな変人となってしまう。
世間の汚れに染まらなければ、それでこそ清潔といえる。
世間から離れて清潔を守ろうとすれば、ひとりぼっちのひねくれ者に終わる。

恩恵を与えるには、最初はわずかにして、次第に手厚くするのがよい。
初めは手厚くして、後にわずかにすれば、人は手厚くしてもらったことを忘れて不満に思う。
規律を正すには、最初はきびしくして、次第にゆるめていくのがよい。
初めにルーズにしておいて後から厳しくするならば、人は不当にむごく扱われたと感じて恨みを抱く。

私を人々がたてまつ奉るのは、私の身分、地位、肩書きを奉っているにすぎない。
私が貧しいのを人々が侮るのは、私の見かけを侮っているのだ。
すなわち、私の人格を敬っているのではないのだから、なぜそんなことを喜ぼうか。
わたしの人格をあざけっているのではないのだから、なぜそんなことを怒ろうか。

ものごとを討論するときは客観的な立場に立って、
当事者たちの利害得失を十分に考慮することが望ましい。
ものごとの処理にあたるときは、実践の先頭に立って、
その結果、自分にふりかかってくる利害得失はいっさい念頭におかないことだ。

主義を振り回せば、つまずいたときはその主義の名で非難される。
道徳を看板にしていれば、過ちを犯したときは、その道徳の名で責められる。

功績を誇り、教養をひけらかして得意になっている連中は、
すべてうわべの飾りもので人目をひいているにすぎない。
たとえ何の功績もなく、いささかの教養もなくとも、人間本来の輝きを保っている人こそが、
真に立派な人物だということを、彼らはとうてい理解することはできまい。

自分の心をごまかすな、人の好意にすがりきるな、限度をこした浪費や酷使をするな。
この三つの心得を守ることによって、天地の神の心にかない、人民の安全を守り、
子孫に幸福をもたらすことができる。

役人にとって大切な言葉を二つあげよう。
「公平を守れば正しい判断ができる」「潔白を守れば権威が生まれる」
家庭生活の中で大切な言葉を二つあげよう。
「寛大な心を保てば皆の心が穏やかとなる」「つましく暮らせば不自由はない」

財産、地位に恵まれているときにこそ、貧しく地位の低い人たちの苦しみを理解せよ。
若く元気なときにこそ、老い衰えたときのつらさを考えよ。

世間を渡るのに、あまりに潔癖すぎる態度はよろしくない。
いろいろな汚ないものをも腹の中に納めてしまう度量が必要だ。
人とつきあうには、白か黒かレッテルを貼ってしまってはならない。
善悪賢愚、さまざまな人たちを平等に受け入れる寛容さが望ましい。

つまらぬ人間とムキになって争うな。彼らにはちゃんと、それ相応の対手がいるものだ。
すぐれた人格者にこびへつらっても始まらぬ。こうした人はえこひいきなどしてくれないのだから。

欲望の激しい人物は、まだなんとかなる。
だが、理屈で凝り固まった人物はどうすることもできない。
外的な障害に対しては手を打つことができる。
だが、心の中がひん曲がっていてはどうにもならない。

つまらぬ人間からは嫌われたほうがよい。彼らから喜ばれるようになっては困りものだ。
すぐれた人間からはきびしく責められたほうがよい。見放されて寛大にされるようではおしまいだ。

悪口を言いふらされるのは、ちぎれ雲が日を隠すようなものだ。
そのかげりは間もなく消えてしまう。
おべっかでよい気分にされるのは、すき間風に吹かれるようなものだ。
気づかぬうちにすっかり心を毒されてしまう。

日はすでに暮れてなお夕映えは光りかがやく。
歳は終わろうとして柑橘はかぐわしく匂う。
たとえ晩年となろうとも、君子はいっそう精神をふるい立たせ、最後を美しく全うしようではないか。

鷹がたたずんでいる姿は眠っているようであるし、虎の歩くさまは病気のように見える。
だが、それこそ彼らが、人をとらえ、噛み伏せるための手口なのだ。
賢明さを表わさず、才能を振り回さないのが君子のあり方。
それでこそ天下の大事業を果たすことができる。

倹約は美徳だが、これも度が過ぎると、
ケチとなりシワン坊となって道に反するようになる。
謙譲善行だが、これも度が過ぎればへつらいとなり、バカていねいとなるし、
しかもたいていは不純な動機が隠されている。

思いどおりならぬからといって、くよくよするな。
万事うまく運ぶからといって、有頂天になるな。長く続く平安に心を許すな。
最初にぶつかった困難にくじけるな。

すべてに満ち足りた境遇は、今にもあふれようとする水のようだ。
それ以上、一滴でも加えることは決してしてはならない。
危地に追いつめられた状況は、今にも折れそうになっている木のようだ。
それ以上の追いうちは決してしてはならない。

冷静な眼で人を観察し、冷静な耳で人の言葉を聴き、
冷静な感情で物事を受け取り、冷静な頭脳で道理を考えよう。

せっかちで粗暴な人間は、何をやってもものにならない。
心が穏やかで落ち着いた人のもとには、さまざまな幸福が自然と集まってくる。

吹きつける風、激しい雨、そんなときには大地にしっかりと足をつけよう。
花は紅、柳は緑、そんなときには目を奪われることなく、大きな目標に向かって進もう。
通れそうにない危険な山道にさしかかったら、迷わずさっさと引き返そう。

理想主義者は、協調の心をもつことで無用の争いから救われる。
成功者は、謙譲の心を養うことで嫉妬の害を免れることができる。

官職にあるときは、手紙一通を書くにも気を許してはならない。
本心を見すかされて悪人につけこまれるのを防ぐために。
退職して田舎住まいの身となったら、くつろいだ気持ちで人とつきあえ。
昔の友人も気安く訪ねてこられるように。

物事が思うようにならぬときは、自分より下の人を見よ。
そうすれば逆境を怨む気持ちが消えるだろう。
心がなんとなく投げやりになったときは、自分より上の人を見よ。
そうすれば気持ちが奮い立つだろう。

機嫌のよいときに安請け合いをするな。
酒に酔って怒りを爆発させるな。
いい気になって仕事の手を広げるな。
嫌気がさしてしめくくりをいいかげんにするな。

書物を読むなら、その真髄にふれて、踊り出したくなるまで読め、
そうしてこそ枝葉末節にとらわれずにすむ。
物事を観察するなら、その本質を見とおして、わが精神がそれと一体となるまで観よ。
そうしてこそ表面の現象に惑わされない。