和辻哲郎氏著の『日本精神史研究』という本をご存知でしょうか。
これは和辻氏が大正時代に大学の講義の草案としてまとめていた論文を集めたもので、全般にわたって日本精神史をテーマにし、日本文化の精髄を読み解いている書物です。
和辻氏は本著において、日本人の精神生活の根底に如何に仏教思想が根深く浸透しているかという点を見出し、「仏教思想の大体の理解なくしては考察を進め得ざるに至った」と述べています。
すなわち、日本の政治、芸術、文学、宗教などの諸文化に仏教思想があたえた影響を、和辻氏独自の文化史的観点から掘り下げているのが本書の特徴であり、大きな魅力となっているところでしょう、
更に和辻氏は本著において、「文芸」の中に「道徳」を読むこと、「文芸」を「倫理思想」として読むことを試みているのです。
平安時代であれば『竹取物語』『枕草紙』『源氏物語』といった諸文芸作品に通底する一つの理念を掘り起こし、それを時代精神として定式化しようと試みる。
そして、それぞれの作品に理念としての「もののあはれ」を読み取る、といった具合です。
要は、和辻氏にとって文芸作品はすべからく「永遠の根源への思慕」に裏打ちされているべきであり、そうでないものは文芸ですらないという(=ある絶対的な理念があって、それを表現するのが芸術である)前提に立ち、「文芸」と「道徳」とを根源としての倫理の次元から理解しつつ、根源・根拠の硬直からくる一般化の陥弊を回避するために「根拠から」ではなく、逆に、具体的な文芸作品に立脚しつつ、そこから「根拠へ」と読もうと試みていく訳です。
では、和辻氏の読み解きに沿って、『日本精神史研究』を少しばかり整理してみたいと思います。
【飛鳥寧楽時代の政治的理想】
【推古時代における仏教受容の仕方について】
和辻氏は、飛鳥や奈良時代と呼ばれる日本古代の国家が、純粋な政治的理念に燃えて建国されていたと云います。
そこで、古代日本を考察するに政は祭事であった、つまり祀りと政治が区分されていなかったことを指摘します。
君主は祭司でもあり、国家の統一は祭事の総攬(人心などを掌握すること)によって遂げられていました。
力強い祭司の出現は集団の生活を安全にし、さらに集団生活を内より活発ならしめた。
つまり、君主と民衆の関係は支配・隷属によって成り立っていたのではなく、民衆がその内的必然性として要求したものだったというのです。
これが統率となり、古代の日本の政治の原点つまり宗教と政治の一体化によって、文字通りの君民一致の理想が実現していたとするのです。
やがて仏教が日本に伝来し、推古時代に政治の理想が聖徳太子の十七条憲法として制定されます。
和辻氏はここにおいて、道徳的理想の実現、徳の支配の樹立を第一義とし、儒教と仏教の理想が政治目的となったと言います。
その裏付けは、「敬田院」(救世観音を本尊。精神的な救いの手が民衆に広げられている)、「施薬院」(薬草の栽培、製薬、施薬等を事業とする)、「療病院」(無縁の病者を寄宿、療病する)、「悲田院」(身寄りのないものを寄宿、飢餓を救う)などを創設したという点からです。
その顕現はさらにその後の大化の改新を経て現れることとなります。
例えば、「公地公民制」「班田収受の法」の実施を見ると、貴族・富豪たちの土地私有民をいったん国家に返し、それを庶民に開放するのですが、土地を年齢等に応じて貸与し、生産活動に従事させることでその生活を保障する、という改革を行っています。
これは一種の国有化でして、「租・庸・調」の租税も徴収しながら副業も奨励し、法令によって保証せられた一般民衆の生活は、普通に勤勉でありさえすれば、かなり豊かなものであり、恐らくは現在の中流階級に匹敵するものだったと言うのです。
しかし、天候などの自然災害は避けられないので、それによる著しい被害が出た場合の対処としては、租税の免除、物資の廉売、平時の貯蓄、宗教的救済など、あらゆる措置を、当時の政治家はその救済措置として行いました。
洋画、当時の政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想であり、「和」を説き、「仏教」を説き聖賢の政治を説く十七条憲法の精神に動かされ、断固として民衆の間の不和や困苦を根絶せんと欲した理想的情熱と確信こそが、政治の理想であると解くのです。
この和辻氏の読み解きは、現代から見ればひとつの理想的な政治のあり方なのかもしれません。
【仏像の相好についての一考察】
仏教が日本に迎えられた最初の時代には、聖徳太子の著わした「三経義疏」※)を元に、かなり深い意味で大乗仏教を理解していた人がいたことになります。
つまり、当時の大衆が仏教をその固有の意味で理解し得なかったとしても、「大衆は現生を悪として厭離するのではなく、しかしもっと高い完全な世界への憧憬でもって接した」に違いないと考えたのです。
聖徳太子の時代、日本人は哲理でも修行でもないままに、既に釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝とよばれる信仰の基礎ができていたのです。
この時代、仏教はまさに新しい先進宗教として日本に入ってきたわけですが、当時の人々は仏像を通して仏教の信仰のすばらしさを感じ取り、新しい心的興奮が経験され、新しい力や新しい生活内容が与えられていました。
そして、これを契機として「理念」としての「法」の世界への第一歩を踏み出すことができてきた訳です。
深遠な哲理でもなく、修行でもなく、こうした仏像を通して仏教に触れたことは、日本人がこの後仏教を受容していく上での順当な精神の段階を踏んでいたのであり、それは誠に幸福なことであったと和辻氏は見ています。
※)「三経義疏」については、以下も参考にしてみてください。
・三経義疏 勝鬘経義疏より学ぶ!聖徳太子が説いた「滅」と「空」の概念!
・三経義疏 維摩経義疏より学ぶ!聖徳太子が示した、人の生きる本質!
・三経義疏 法華義疏より学ぶ!聖徳太子が記した日本最古の書物!
【推古天平美術の様式】
日本文化はシナ文化と言う大きな文化潮流の中での1つであり、日本の特殊性は同じ文化潮流の中での地域的、民族的な特殊性であることを理解しておく必要があります。
ここでは、推古から天平への様式展開には本質的な違いがあると説明しています。
例えば推古の彫刻は、人体を形作る線や面が人体の形を作る唯一の目標とせず、それ自身に独立の生命を持たせていました。
しかし天平美術では、推古の持つ「抽象的な肉付け」や「抽象だが鋼鉄の如く鋭い線」の表現から離れ、直感的な喜びの表現があります。
そのため天平彫刻でも、人体を形作る線や面は、人体の輪郭、ふくらみ、筋肉や皮膚の性質、更には衣の材料的性質やそれに基づく皺の寄り方、衣と身体のとの関係などを忠実に再現することを目指していました。
即ち、天平様式の根底には仏の理念が支配しており、美術の様式と思想的・宗教的理解には相関の関係があり、この傾向は絵画においても同様なことが言えるということなのです。
推古時代より天平時代に至る仏教美術の様式変化は、日本人の心的生活の変遷と並行しており、仏像の多くは国民の信仰や趣味の表現となりますが、それはシナ芸術の標本ではなく、我々祖先の芸術です。
そのため、彫刻にしろ他の歌や絵画にしろ、これに関係していたはずであり、薬師崇拝、観音崇拝のような単純な帰依は、教養なき民衆の心にも、極めて入りやすいものであったことが伺えるということです。
要は、造形美術の美が、その美的な法悦により、帰依の心を刺激したことは間違いのないことと思われるということなのです。
【白鳳天平の彫刻と『万葉』の短歌】
「仏像の相好について」、「推古天平美術の様式」、「白鳳天平の彫刻と万葉の短歌」という三題の短編を収めている。多くの仏像・絵画の写真が挿入されているが、和辻氏が書いているようには写真からはその印象が得られないのが面白い。人の感じは千差万別だなという感が強い。特に「仏像の相好について」において和辻氏はいきなり「仏像は幼児の寝顔に似ている」という印象を先行させる。仏像は人体の美しさを表現したものであるという説は頷けるとしても、どうして西洋彫刻のようにはならなかったのかという疑問は残る。まして幼児の寝顔という話は和辻の個人的な印象であって、仏像を総覧しての言い方ではない。多くの写真を挙げられても私は納得は出来ない。「白鳳天平の彫刻と万葉の短歌」の小論文にいたっては、およそ証明不可能の論であって、万葉集の「明るき直きこころ」と白鳳天平の仏像の様式の関連付けはこじつけにしか見えない。比較するにしては次元の異なる話で、酒の上の話なら「ふんふん」と聞き流せばいいことなのだ。私は別に否定はしないが、納得できる論ではない。「推古天平美術の様式」の小論文は文化史として面白い論点を含んでいるので注目される。「推古様式は中国六朝時代に属し、天平美術様式は初唐および盛唐様式の輸入である。これを模倣というのは間違いで、当時の東アジアには唯一つの文化潮流があって、日本はその内部での一変形、特殊化であった。推古様式から天平様式への変遷は六朝様式から唐様式への展開の特殊化に他ならない」という和辻氏の論点には敬服した。まだ日本独自の展開などは存在しなかったのだ。中国文化の中での周辺の特殊形態が日本だったという。そういわれると居直ったというか、すっきりした納得が得られる。天平時代はまた白鳳時代をもって始まるが基本的様式は同じである。推古美術様式は「抽象的で鋼鉄の如き鋭い線」といい、天平時代は「豊かさ、柔らかさ、優しさ」を特徴とする様式であるのです。
【「万葉集」の歌と「古今集」の歌との相異について】
和辻氏は、「万葉」の時代が純粋に叙情詩の時代であり、「古今」※)の時代が物語り文藝への過渡期にあったと言います。
春を謳うにしても、「万葉」は純粋に春の到来を喜び直感に満ちた叙情であるのに対して、「古今」では暦上は春なので今の光景はこうだというロジックをもて遊ぶ傾向があります。
「古今集」の歌は叙情詩の本質から遠ざかっており、自然に触発されて人生を詠嘆するのが「古今集」の複雑性でもあるのですが、そのため純粋から複雑へという精神活動の自己展開が見られるのです。
「万葉」は恋を具象的、直截的に謳うのですが、「古今」は恋の情を直接には詠嘆せず、観察し解剖し、本人は恋をどう表しているのかが抽象的ではっきりしません。
要は、「古今」では感情の切実な表現よりも、その感情にいかなる衣をきせるかの技巧に偏る傾向があり、連想によって広くさまざまな意味と情緒を持つ言葉に変化する、つまり歌が言葉遊びに変遷していると示すのです。
※)「古今」の和歌については、以下も参考にしてみてください。
・和歌!季節の情緒を織り込む優れた日本の伝統文化!
【お伽噺としての『竹取物語』】
「竹取物語」は小説の祖として有名な作品ですが、内容には道教風な空想の影響が著しく、神仙譚的な要素を核として成り立っています。
そのため、かぐや姫を巡る王侯貴族のやり取りを滑稽化し、平安時代の貴族の恋愛生活を戯画化することで、写実的に描くことを避け、結果御伽話としてのみ評価されてきています。
永遠の生命、天女、不死の薬という神仙に憧れる気持ちは伝説的なものであっても、決して稚拙ではなく、小説の文章の強さ、的確さ、構図の細描さにおいて平安期ならではの繊細さをもつ小説として、現代にまで語り継がれていると示しています。
【『枕草紙』について】
「春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、ほそくたなびきたる」
※)枕草紙については、以下を参考にしてみてください。
・日本三大随筆・枕草子!”をかし”に表れる知性的な美世界と好奇心への誘い!
【『源氏物語』について】
和辻氏は、源氏物語の初卷「桐壺」と二卷「帚木」の不連続性に注目して、初卷「桐壺」は序であるといいます。
初卷「桐壺」では、光源氏出生のことから初めて母桐壺の苦悩、桐壺の死、帝の嘆き、光源氏の幼年時代、桐壺に酷似した藤壺の入内、藤壺と源氏の内通、源氏12歳の元服、源氏と葵との心せぬ結婚などを語っています。
しかし二卷「帚木」の冒頭、源氏は急にまじめな紳士となって、浮名は予期せぬことと言い訳をしているのです。
これを和辻氏は、好色人源氏が知れ渡ってからの非難に答えるように第二卷が書かれたといいます。
源氏物語については、以下も参考にしてみてください。
・今日(11/1)古典の日に、源氏物語を読む!http://shutou.jp/blog/post-448/
【「もののあはれ」について】
「ものあわれ」とは心のまこと、心の奥という思想ですが、これを文藝の本意として表現したのは本居宣長の功績です。
江戸時代という儒教全盛の時代に文藝を独立した手段として宣長が主張したことは、日本思想史上の画期的出来事でした。
宣長は人生の根本を「物はかなしくめめしき実の情」としましたが、理性、意志ではなくただ感情が人生の根本でした。
ここで和辻氏は、「もののあはれ」概念自体が「根拠」を欠いているならば、それを文芸に適用することによっては、文芸を存在論的根底から捉えることはできないと考えます。
要は、ある文芸にいかなる理念を見出すとしても、その理念自体が「根拠」づけられたものとして提示されるのでなくては、「文芸」を「倫理思想」として読むには不十分であると考えたのです。
そういった忌みでは、和辻氏が文芸作品を「文学」としてのみ取り扱うという分割され局限された態度を退け、根源としての倫理の次元から、即ち文芸が文芸であることを成り立たせているその根底から、文芸作品を捉えるという態度を構築しようとしていることは、注目に値することなのかもしれません。
また和辻氏は、宣長に読み取れる限りの「根拠」を辿ってその限界を明らかにした上で、「もの」の語に「根源」をみることによって、独自の「もののあはれ」解釈を示すのです。
「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。
「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されよとする傾向を持った、無限性の感情である。
すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。
この自己発展する「根源」とは、「究竟の、彼(=宣長)の内に内在して彼の理解を導くところの、さらに進んでは紫式部を初め多くの文人に内在してその創作を導いたところの、一つの「理念」」です。
内蔵され、かつ無限と不十全ながら接しており、そのため当為を導くという、それ自身に運動性を備えた「理念」である永遠の根源への思慕あるいは無限性の感情は、内側から創作者をして創作せしめ、内側から創作された文芸へと理解者を導くのです。
そして、この人間存在の内なる「思慕」が、永遠の根源、無限性という真実在へと人間存在を導いてゆくことになる、と示すのです。
和辻氏は、「永遠」という絶対的な次元から「もののあはれ」を根拠づけることによって、文芸一般・感情・無限性の根拠づけを得たのでしょう。
本居宣長については、以下も参考にしてみてください。
・古事記伝より学ぶ!本居宣長が問い続けた”日本とは何か”!
・秘本玉くしげより学ぶ!本居宣長から現代に通じる経済の具体策!
【沙門道元】
和辻氏は宗教の相対化を、「宗教的真理が唯一つの特殊な形によってのみ現れるというなら、一切の宗教はこの絶対的な宗教を直感したある特殊な人格の周りに人々を吸い付け、そこにその時代特殊の色を付けつつ結晶化したものである」と言います。
宗教は本来永遠にして不変なる一切の根源であると云う立場を分解することであり、真理も歴史的展開であるということです。
道元は42歳から44歳の3年間、著書「正法眼蔵」において「仏の真理」について述べています。
さまざまな仏法上の話題70編以上において「真理」を考察しているのですが、和辻氏はその中から3つの話題「礼拝得髄」、「仏性」、「道得」を拾って紹介していくのです。
「礼拝得髄」:尊ぶべきは仏ではなく仏となれるよう修行する人である。従って「精進」が最大の人生の意義になる。人の精神は上昇することを信じる人間の姿である。
「仏性」:「一切衆生、悉有仏性」という涅槃経の言葉をひいて、仏性の中にこそ人間があると云う哲学である。
「道得」:「不立文字経外別伝」を標榜し、座禅と公案を重んじるのが禅の特徴という考えを排し、真理を概念的に把握し言語による理解を重んじた。論理的に物を見るだけでなく、以心伝心という師を見ることによる知的直感も重んじたことはいうまでもない。禅宗の神秘主義的非論理的傾向にたいする道元の反抗の思想が現れている。
命ははかないもので、この命が我々の唯一の価値であるなら我々の存在は価値無きに等しいものです。
生きていても死んでも迷妄に囚われているならばこの生活は此岸であり、真理に入れる生活こそが彼岸の生活です。
従って理想の生活をあの世に求めるのではなく理想の生は直ちにここに実現されるべきです。
精進の意志があるとすれば、修行の方法が問題ですが、その方法の第一は「行」です。
身命に執する一切の価値を放棄し、永遠の価値への要求を持って行に専心し、抗して虚心なる仏法の模倣者となる、これが仏の真理への修行ですが、仏祖の模倣は正しい導師なくして得ることは出来ません。
真理への修行は真理それ自身のためでなくてはならないし、修行は何らかの手段ではありません。
道元は、無限放下とも云える地位や財産を捨て去りあらゆる世俗性から超越する意思を見せつつも、真理は静観的な観照的な態度に於いては得られないこと、「行」という一種の行為的直観、具体的な方法の一つとしては師や同僚たちと交じあう相互批評ととしての社会性の中にあること、社会性を保つためには言語が不可欠であることを理解していたのです。
ざっと駆け足での整理であり、まだまだうまく表現できていない部分やきれいに整理できていない部分も多々有りますが、本著はこうした思索を図るきっかけとなる名著であることは確かです。
改めて、日本精神の深淵に触れてみてはいかがでしょうか。