《日本の名刀》 (1) 天下五剣【童子切安綱】【鬼丸国綱】【三日月宗近】【大典太光世】【数珠丸恒次】

数ある日本刀の中で、室町時代頃より特に名刀といわれた5振を『天下五剣』といいます。
今回はその『天下五剣』を、その物語と共にまとめていきたいと思います。

《日本の名刀》奥深き日本刀の世界!最近巷でブームの日本刀に見る機能美と芸術性!

【童子切安綱】国宝 東京国立博物館所蔵。
童子切は、平安時代の伯耆国の刀工・安綱作の日本刀(太刀)で童子切安綱と呼ばれる。

『太平記』によると、この太刀はかつて伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂にこれを奉じたものだという。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合した太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したという。源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された。

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大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。
そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになった事が『太平記』に描写される。

「童子切」の名が広く知れ渡ったのは安土桃山時代以降であると考えられる。清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの「鬼切」の太刀で切り落としたという伝承から「鬼切」が「童子切」の名に変化した。
頼光が頼光四天王とともに大江山に棲むという鬼を退治するため向かい、途中で三人の翁(熊野、住吉、八幡)に出会う。翁たちは、頼光たちに「神便鬼毒酒(神変奇特酒とも)」、「打銚子」(ながえのてうし)、「星兜」(帽子兜とも)を授ける。
「神便鬼毒酒」は、人が飲めば千人力の薬となるが鬼が飲めば飛行自在の神通力を失うという。また「打銚子」は神便鬼毒酒を入れる銚子で、昔神世の時にこの銚子で酒を飲ませることにより鬼を平らげたとするもの。最後の「星兜」は、昔神軍が悪魔を鎮める時に「正八幡大菩薩が召したるもの」であるという。
頼光一行は山道を進み、鬼が城に辿り着き、山伏に化けて酒盛りを開かせ、「神便鬼毒酒」を飲ませ、体を動かなくしたうえで神殿で寝ていた童子の寝首を安綱の太刀で掻いたという。首は頼光の兜に食らいつくが、十二枚張りの星兜により一枚だけ残しなんとか無事であったという。外にでると茨木童子が襲い掛かってくるが渡辺綱がこれを倒す。さらに石熊童子や星熊童子、虎熊童子なども退治したという。
これよりのち、この安綱の太刀は「童子切」と呼ばれることとなった。

逸翁美術館所蔵の『大江山絵詞』(香取本)に太刀の名は見られないが、寛文以降に成立とされる慶應義塾図書館所蔵『しゆてんとうし絵巻』(慶大本)には、「ちすい」という名で田村麻呂が伊勢神宮に奉納した太刀を頼光が授かったという記述がある。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されている。

酒呑童子の征伐に用いられた他にも、松平光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている。

足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、松平忠直に継承され、越前松平家の高田藩から津山藩に継承された。津山松平家では、この童子切と稲葉郷、石田正宗の3振の名刀を家宝として伝えた。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されている。文化財保護法に基づく国宝に指定されたのは1951年(昭和26年)である。

太平洋戦争終戦後、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となった。1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されている。

【鬼丸国綱】御物 宮内庁所蔵。
鬼丸は、鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱作の日本刀(太刀)で、鬼丸国綱と呼ばれる。

「鬼丸」という号の由来は太平記に記載がある。それによると、北条時頼が毎夜毎夜、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていた。ある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は太刀国綱である。ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、早く妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言った。早速国綱を手入れし部屋に立てかけておいたところ、国綱が倒れかかって、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。時頼の部屋にあった火鉢の足は銀で作られた鬼の形であった。それ以来時頼の夢に小鬼は現れなくなった。この事件によりこの太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。

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以来北条家の重宝であったが、北条高時自刃の後に新田義貞の手に渡り、新田義貞が討ち取られた際に鬼丸も鹵獲され、足利尊氏の下へ義貞の首級と併せて送られた。以後足利家の重宝として伝来し、その後は足利義昭より織田信長を経て豊臣秀吉へ伝わったという説と、直接秀吉へ贈られたという二説があるが、ともあれ秀吉の所有となり、後に本阿弥光徳に預けられた。さらに大坂の役の後に徳川家のものとなったが、徳川家康・徳川秀忠共にそのまま本阿弥家に預けたという。その後、後水尾天皇に皇太子が御誕生した節に御所に献上されたが、皇太子が崩御したので「不吉な太刀である」とのことで再び本阿弥家に戻されたという。松平定信編『集古十種』所収で、同書には「本阿弥三郎兵衛代々所守護」とある(本項の画像参照)。

以後は京都の本阿弥家によって保管されていたが、第8代将軍徳川吉宗は本阿弥家に命じて江戸城に持参させたという記録がある。そして明治に至り、徳川家からも皇室からも所有権について明示がなされないことに困惑した本阿弥家が新政府に届け出、明治14年(1881年)に「後水尾天皇に献上されたものを徳川幕府を通じて本阿弥家に預けていたものである」として明治天皇の元に取り寄せられた。現在は御物として皇室の所蔵となっている。

なお、「天下五剣」のうち鬼丸国綱だけは御物であるために国宝及び重要文化財としての文化財指定を受けていない。御物としての性格上一般公開されることも少なく、書籍等に掲載される写真も数少ない機会に撮影されたものに限られている。

【三日月宗近】国宝 東京国立博物館所蔵。
三日月宗近は、平安時代の刀工・三条宗近の作で、刀身に鎬と反りのある形式の日本刀(太刀)としてはもっとも古いものの一つである。
三日月の異名は、刃縁に沿って続く打ちのけがあたかも三日月のように見えることから付けられており、「天下五剣」の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。

豊臣秀吉の正室高台院が所持し、その後、寛永元年(1624年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となった。
三日月宗近の伝来については諸説あり、高台院から徳川秀忠に送られる以前の伝来については確定しておらず、確かな史料も少ない。

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大永7年(1527年)に権大納言・日野内光が恵勝寺合戦で野死(討死)にした際に、当時”五阿弥切り”とよばれていた三日月宗近で奮戦したとされる。その後、日野内光の菩提を弔うため、友軍だった畑山卜山が三日月宗近を高野山に納めたということが徳川家の記録にあるというが、徳川将軍家の「御腰物台帳」には記されていない。また、畑山卜山とは畠山尚順のことであるが、尚順は内光より五年前、つまり大永2年(1522年)7月17日に病死しているため、卜山による三日月宗近奉納説は成立しないとされている。

また、三日月宗近に関する逸話として有名なものとして、足利将軍家の秘蔵の名刀として継承され、1565年(永禄8年)、松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した際(永禄の変)には義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦し、変の後に戦利品として三好政康の手に渡り、後に政康から豊臣秀吉に献上されたという伝来があるが、両話共にこれを裏付ける史料はない。足利義昭から羽柴秀吉に下賜された、という伝来もあるが、史料による裏付けがないことは同様である。

尼子氏の家臣で忠義の逸話で知られる山中鹿之介(山中幸盛)が一時佩用してたという伝承、また高台院の従者で似名の「山中鹿之助」なるものが与えられて佩用していたという伝承があるが、伝承の枠を出ない。
鹿之助は三日月を信仰し、武具に三日月を記したといい、現存する鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されており、鹿之助が佩用していたという伝承が正しいとすれば、この拵えは、鹿之助が作らせたということも考えられる。

【大典太光世】国宝 前田育徳会所蔵。
大典太は、平安時代後期の筑後の刀工・典太光世作の日本刀(太刀)で、正式には「太刀 銘 光世作 名物大典太」とも「大典太光世」とも呼ばれている。

大典太は足利将軍家の家宝であったが、足利家の没落により流出し豊臣秀吉の所有となった。その後、豊臣秀吉から前田利家に贈られたとも、豊臣秀吉が徳川家康に贈り、徳川秀忠から前田利家に譲られたとも伝えられる。以降、前田家第一の家宝として代々伝えられた。
加賀前田家には、三池光世作の太刀が二振り、または太刀と刀の二振りがあり、長い方が「大伝太」と呼ばれた。

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寛政4年(1792年)8月19日、江戸千住の小塚原で行われた試し切りにおいて、幕府の御様御用(おためしごよう)首斬り役山田浅右衛門吉睦が大典太光世を使った試し切りを行った。1回目は一ノ胴、2回目は車先(臍の辺)を試したところ、ともに土壇に五寸(15cm)ほど切り込んだ。3回目は骨の多い雁金(腋の下)を試したところ、同じく土壇まで切り込んだ。4回目には三つ胴を試したところ、積み重ねた罪人の死体を二体の擦り付け(鳩尾)を切断し、三体目の一ノ胴の少し上を切り裂いた上で背骨で止まったといわれている。

秀吉の晩年、話し相手として加藤清正や黒田長政が詰めていた。ある時、千畳敷の廊下を深夜に渡ると何者かが刀の小尻を掴んで引くので通れず、無理せず引き返すと特に異常はなかったという。この話を前田利家にしたところ、利家はそんな馬鹿な話があるかと取り合わなかったが、それでは前田殿もいってみなされということになり、清正が「行った証拠にこの軍扇を廊下に置いてきなされ」と扇を差し出した。このやりとりを聞いていた秀吉が「前田殿、この太刀を差して行かっしゃい」とこの大伝太を貸し、それを差して千畳敷へ行ったが何も起らなかったという。

【数珠丸恒次】重要文化財 本興寺所蔵。
数珠丸は、平安時代の刀工、青江恒次作の日本刀(太刀)である。

日蓮が所持していたとされる太刀で、日蓮が甲州身延山へ入山したとき、護身用として信者から贈られたと伝えられ、柄に数珠を掛けていたことからこの名が付いたとされる。日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に寄進されていたが、享保年間に行方不明となった。
寄進した人物には二説ある。

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1.波木井三郎十兆節
日蓮上人(立正大師)が身延山を開山する時に、麓の信徒大檀那、地頭波木井三郎実長より寄進されたもので、破邪顕正の剣として剣の柄に数珠を巻いて佩いていたためにこの名がついたという。(南部氏ともいう。)一般には、こちらの波木井氏寄進説が流布している。
2.北条弥源太説
日蓮上人が入山する3ヶ月前に北条弥源太が大小二振りを寄進しており、上人がこれに次のような返信をしている。この時の大刀が数珠丸であるともいう。 しかしこの太刀は三条小鍛冶宗近の作と伝わり、備中青江恒次作ではなくなる。同時に久国作の短刀も寄進されている。

1920年(大正9年10月)ごろ、宮内省の刀剣御用掛の杉原祥造氏が、某華族の競売の中から発見し、私財を投じて海外流出を防いだという。
身延山久遠寺に数珠丸を返納しようとしたが、引き取り条件が合わず難航(真贋で揉めたと言う)したため、杉原氏の自宅前にあった本興寺に奉納の相談があり、大阪の篤信者である紙問屋の北風熊七翁から1万円(当時)の寄進があり、大正11年1月に山納された経緯がある。

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