今日(9月1日)は、二百十日にして長月!吹き飛ばす石は浅間の野分かな!

今日(9月1日)は、雑節のひとつで立春を起算日として210日目の二百十日にして、長月!
イネの果時期で、台風の来襲する季節とも一致するため、昔から農家には厄日として警戒されてきた日で、風害を免れるよう祈願のため神社などで風祭をする所も多かったそうですが、今ではすっかりそうした風習も少なくなりましたね。
風祭としては越中八尾の風の盆「おわら風の盆」が有名ですが、これも300年以上の歴史がある風神を踊りにあわせて送り出してしまう祭りです。

また、嵐の来襲する確率の高い荒日として、八朔・二百十日・二百二十日が三大厄日として怖れられてきていますが、それ以上に激しい気象状況になってきており、こうした雑節も新たな21世紀の暦として見直してみる、ということも必要なのかもしれません。

長月は、新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり夜がだんだん長くなる「夜長月」の略とする説や、雨が多く降る時季であるため「長雨月」からとする説、「稲刈月」「稲熟月」「穂長月」の約や、稲を刈り収める時期のため、「長」は稲が毎年実ることを祝う意味からといった説など諸説ありますね。

今日から二百二十日頃に吹く秋の強風を野分と呼びますが、しかしこうした風流だけはしっかりと大切にしていきたいものです。
 吹き飛ばす石は浅間の野分かな(芭蕉)
 我が声の吹き戻さるる野分かな(内藤雪鳴)

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【二百十日 夏目漱石】

ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行いて来た」
「何か観るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏の樹が一本、門前にあった」
「それから」
「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻ねった首を真直にして、圭さんがこう云った。
「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧みなものだね」
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても好いから教えるさ」
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪るじゃないか」
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気だよ」
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
「聞えるだろう」と圭さんが云う。
「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
「そこで、その、相手が竹刀を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手を取ったんだあね」
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」
二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然として、対坐していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。
かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走った上に何だか心細い。
「まだ馬の沓を打ってる。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣の下で堅くなる。碌さんも同じく白地の単衣の襟をかき合せて、だらしのない膝頭を行儀よく揃える。やがて圭さんが云う。
「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺と云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降って、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。ざあざあと豆腐の水を易える音がする」
「君の家は全体どこにある訳だね」
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ傍さ」
「豆腐屋の向か、隣りかい」
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄が一面に降りて、町の外れの瓦斯灯に灯がちらちらすると思うとまた鉦が鳴る。かんかん竹の奥で冴えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」
「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団を敷いて寝る。――僕のうちの吉原揚は旨かった。近所で評判だった」
隣り座敷の小手と竹刀は双方ともおとなしくなって、向うの椽側では、六十余りの肥った爺さんが、丸い背を柱にもたして、胡坐のまま、毛抜きで顋の髯を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾ね返り、顋は上へ反り返る。まるで器械のように見える。
「あれは何日掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ一日かな」
「一日や二日で奇麗に抜けるなら訳はない」
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫で廻しながら抜いてるのを」
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生えるかも知れないね」
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより幾日掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好いがつまらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申し出しを惜気もなし撤回した。
一度途切れた村鍛冶の音は、今日山里に立つ秋を、幾重の稲妻に砕くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、肴屋だって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」
「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。
「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着を云う。
「そう注文通りに行けば結構だ。ハハハハ」
「だって僕は今日までそうして来たんだもの」
「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」
「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介だな。ハハハハ」
「なったら、どうするつもりだい」
「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向の方が悪いのだろう」
「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」
「えらい者た、どんな者だい」
「えらい者って云うのは、何さ。例えば華族とか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。
「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」
「その豆腐屋連が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」
「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」
「こっちがする気でも向がならないやね」
「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」
「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」
「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼するぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨し始める。
「君はそんな目に逢った事があるのかい」
圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変かあんかあんと鳴る。
「まだ、かんかん遣ってる。――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴を碌さんの前に圧しつけた。
「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨いた事があるのかい」
「豆も磨いた、水も汲んだ。――おい、君粗忽で人の足を踏んだらどっちが謝まるものだろう」
「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」
「突然、人の頭を張りつけたら?」
「そりゃ気違だろう」
「気狂なら謝まらないでもいいものかな」
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」
「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋連はみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」
「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」
圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独り言のようにつけた。
村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端から端までかあんかあんと響く。
「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺の鉦に似ている」
「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜から、今日までに変化した因縁はどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」
「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯前に温泉に這入ろう。君いやか」
「うん這入ろう」
圭さんと碌さんは手拭をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。

「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。
「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍は癒らないぜ」
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉を掬んで、口へ入れて見る。やがて、
「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」と碌さんはがぶがぶ飲む。
圭さんは臍を洗うのをやめて、湯槽の縁へ肘をかけて漫然と、硝子越しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬かって、相手の臍から上を見上げた。
「どうも、いい体格だ。全く野生のままだね」
「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪るいと華族や金持ちと喧嘩は出来ない。こっちは一人向は大勢だから」
「さも喧嘩の相手があるような口振だね。当の敵は誰だい」
「誰でも構わないさ」
「ハハハ呑気なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙ろうかと思った」
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行いたつもりだ」
「本当かい?はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼の敵だね」
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」
碌さんは湯の中で首を捩じ向ける。
「かぼちゃさ」
「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」
「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ唄かい」
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが生るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」
「また慷慨か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ参詣して、十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君一人りで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供のようだね」
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない」
「では蕎麦か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類じゃ、とても凌げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走が食いたい」
「阿蘇の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好いんだからね」
「だから柔弱でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。
「そんなに痩せもしなかったがただ虱が湧いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯したらよかろう」
「煮え湯?煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭が一文もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩いた。そうしたら虱が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚、がんもどきと怒鳴って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐いと云う資格はないのかな。大に僕の財産を見縊ったね」
「時に君、背中を流してくれないか」
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭をしごいたと思ったら、両端を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜に膏切った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨り始める。
手拭の運動につれて、圭さんの太い眉がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹して、小鼻が勃として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締ったまま、両耳の方まで割けてくる。
「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極、流しへ突っ立ったまま、茫然として、仁王の行水を眺めている。
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽のなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端を放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽の湯は一度に面喰って、槽の底から大恐惶を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢れだす。
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀と小手の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似をする。
「ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家かも知れない。そらよく草双紙にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉に這入りに来る時、覗いて見たら、二人共木枕をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載せたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「伊賀の水月さ」と碌さんは、躊躇なく答えた。
「伊賀の水月?伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻った。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない?なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入る。圭さんはまた槽のなかへ突立った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上るから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門?そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何も知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
「相撲取だ」
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦である。
「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州相良って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」
「君は第一平生から惰弱でいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩に逢った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青があるじゃないか」
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半されるんだから、愚の極だ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇の噴火口を見る事ができるだろう」
「可愛想に。一人だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外意気地がないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑なものだ」
「なあに年が年中思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」
「時にあの髯を抜いてた爺さんが手拭をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう湯気に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入っていたまえ」
「おや、あとから竹刀と小手がいっしょに来たぜ」
「どれ。なるほど、揃って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽へ這入るのかな」
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌を臍のあたりまで吹き抜けた。出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごううごううと遠くながら鳴っている。
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。

「姉さん、この人は肥ってるだろう」
「だいぶん肥えていなはります」
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理じゃ、あした、御山へ登れそうもないな」
「また御馳走を食いたがる」
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」
「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉に、椎茸に、芋に、豆腐、いろいろあるじゃないか」
「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。昨日は饂飩ばかり食わせられる。きょうは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」
「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味だ」
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴は何もないのかい」
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも辟易だな」
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って御出。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然たる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても好い。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎に這入ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
下女は心得貌に起って行く。幅の狭い唐縮緬をちょきり結びに御臀の上へ乗せて、絣の筒袖をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪に、だいぶ碌さんと圭さんの胆を寒からしめたようだ。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接いだようにつけた。
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも好かろう。しかしそれより前に文明の皮を剥かなくっちゃ、いけない」
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜のような事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性を社会全体に蔓延させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根の悪い奴があるものだ」
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる美事なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」
「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党の御仲間入りをやろうかな」
「無論の事さ。だからまず第一着にあした六時に起きて……」
「御昼に饂飩を食ってか」
「阿蘇の噴火口を観て……」
「癇癪を起して飛び込まないように要心をしてか」
「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の気象を養って、齷齪たる塵事を超越するんだ」
「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減に超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」
「弱い男だ」
筒袖の下女が、盆の上へ、麦酒を一本、洋盃を二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。
「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。
「だって玉子は僕が誂らえたんだぜ」
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの饂飩が気になるから、このうち二個は携帯して行こうと思うんだ」
「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。
「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢の沙汰だが、可哀想でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」
「おおかた熊本でござりまっしょ」
「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨いや。君どうだ、熊本製の恵比寿は」
「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は生だぜ」と玉子を割った圭さんはちょっと眉をひそめた。
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」と圭さんは首を延して相手の膳の上を見る。
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手を打つ。
「ハハハハ単純なものだ」
「まるで落し噺し見たようだ」
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」
「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」と圭さんが玉子に関係のない方面へ出て来た。
「ここが阿蘇でござりまっす」
「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日逗留して、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」と碌さんがすぐ云う。
「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」
「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。圭さんは相手にしない。
「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。
「ねえ」
「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」
「御宮までは三里でござりまっす」
「山の上までは」
「御宮から二里でござりますたい」
「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。
「ねえ」
「御前登った事があるかい」
「いいえ」
「じゃ知らないんだね」
「いいえ、知りまっせん」
「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「御山へ御登りなさいますか」
「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、
「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが打ち壊わした。
「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」
「うん、ここで寝転んで、あのごうごう云う音を聞いている方が楽なようだ。ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ烈しくなったようだぜ、君」
「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」
「御山が少し荒れておりますたい」
「荒れると烈しく鳴るのかね」
「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」
「よなた何だい」
「灰でござりまっす」
下女は障子をあけて、椽側へ人指しゆびを擦りつけながら、
「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。
「なるほど、始終降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。
「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」
「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」
「荒れればなお愉快だ。滅多に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。ねえ、姉さん」
「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」
どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。
「いやあ、こいつは熾だ。おい君早く出て見たまえ。大変だよ」
「大変だ?大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」
「何が」
「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」
「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」
「ねえ」
「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の頬ぺたを撫で廻す。
「大袈裟な事ばかり云う男だ」
「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」
「嘘ばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」
「星のひかりと火のひかりとは趣が違うさ」
「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」
「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは向をゆびさして大きな輪を指の先で描いて見せる。
「よるだもの」
「夜だって……」
「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非登る訳かな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
言い棄てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然と、眉を軒げて、奈落から半空に向って、真直に立つ火の柱を見詰めていた。

「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭さんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋の爺さんがか」と碌さんはしきりに胸を撫で廻す。
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡だ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥かに尊といさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性に合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨んでも後の祭りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇の火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々剣呑になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。剛健党になるかと思うと、天祐派になる。この次ぎには天誅組にでもなって筑波山へ立て籠るつもりだろう」
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に逢ったんだい」
「いつでもいいさ。桀紂と云えば古来から悪人として通り者だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被ってるから小憎らしい」
「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似がしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一とからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様に地獄の下へ落しちまったら」
「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く渦巻く煙りを仰いで、草鞋足をうんと踏張った。
「大変な権幕だね。君、大丈夫かい。十把一とからげを放り込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」
「あの音は壮烈だな」
「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」
「どんなだい」
「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」
「その割に煙りがこないな」
「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」
「樹が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」
しばらくは雑木林の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善くても並んで歩行く訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々と振って先へ行く。碌さんは小さな体躯をすぼめて、小股に後から尾いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。
路は左右に曲折して爪先上りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上るものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨にかかっている。そのほかに人の気色はさらにない、饂飩腹の碌さんは少々心細くなった。
きのうの澄み切った空に引き易えて、今朝宿を立つ時からの霧模様には少し掛念もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇の社までは漕ぎつけた。白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思われた。
雑木林を小半里ほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、梢にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠めて、翻える木の葉と共にまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。
一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、後は知らず、貫いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々たる青草が波を打って幾段となく連なる後から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。
林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道の圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘は畳んだまま、帽子さえ、被らずに毬栗頭をぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。
「おうい。少し待ってくれ」
「おうい。荒れて来たぞ。荒れて来たぞうう。しっかりしろう」
「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを這い上がる。ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、
「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが遣っつける。
「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。ああ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」
「そうか、君のも真黒だ」
圭さんは、無雑作に白地の浴衣の片袖で、頭から顔を撫で廻す。碌さんは腰から、ハンケチを出す。
「なるほど、拭くと、着物がどす黒くなる」
「僕のハンケチも、こんなだ」
「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝しながら、空模様を見廻す。
「よなだ。よなが雨に溶けて降ってくるんだ。そら、その薄の上を見たまえ」と碌さんが指をさす。長い薄の葉は一面に灰を浴びて濡れながら、靡く。
「なるほど」
「困ったな、こりゃ」
「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの煙りの出る所を目当にして行けば訳はない」
「訳はなさそうだが、これじゃ路が分らないぜ」
「だから、さっきから、待っていたのさ。ここを左りへ行くか、右へ行くかと云う、ちょうど股の所なんだ」
「なるほど、両方共路になってるね。――しかし煙りの見当から云うと、左りへ曲がる方がよさそうだ」
「君はそう思うか。僕は右へ行くつもりだ」
「どうして」
「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」
「そうかい」と碌さんは、身躯を前に曲げながら、蔽いかかる草を押し分けて、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、
「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と云った。
「ないだろう」
「そっちにはあるかい」
「うん。たった二つある」
「二つぎりかい」
「そうさ。たった二つだ。そら、こことここに」と圭さんは繻子張の蝙蝠傘の先で、かぶさる薄の下に、幽かに残る馬の足跡を見せる。
「これだけかい心細いな」
「なに大丈夫だ」
「天祐じゃないか、君の天祐はあてにならない事夥しいよ」
「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い了らぬうちに、雨を捲いて颯とおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽を遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの態に戻る。
「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが幾重となく起伏する青い草の海を指す。
「痛快でもないぜ。帽子が飛んじまった」
「帽子が飛んだ?いいじゃないか帽子が飛んだって。取ってくるさ。取って来てやろうか」
圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を重しに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。
「おいこの見当か」
「もう少し左りだ」
圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。
「おうい。大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
鼻の先から出る黒煙りは鼠色の円柱の各部が絶間なく蠕動を起しつつあるごとく、むくむくと捲き上がって、半空から大気の裡に溶け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然として、首の消えた方角を見つめている。
しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然と現われた。
「帽子はないぞう」
「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」
圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄の中を泳いでくる。
「おい、どこへ飛ばしたんだい」
「どこだか、相談が纏らないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、歩行くのは厭になったよ」
「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」
「あの煙と、この雨を見ると、何だか物凄くって、あるく元気がなくなるね」
「今から駄々を捏ねちゃ仕方がない。――壮快じゃないか。あのむくむく煙の出てくるところは」
「そのむくむくが気味が悪るいんだ」
「冗談云っちゃ、いけない。あの煙の傍へ行くんだよ。そうして、あの中を覗き込むんだよ」
「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」
「ともかくもあるこう」
「ハハハハともかくもか。君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう饂飩を食っちまった。これで赤痢にでも罹かれば全くともかくもの御蔭だ」
「いいさ、僕が責任を持つから」
「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」
「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」
「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」
「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。やっぱり天祐があるんだよ」
「ありがたい仕合せだ。あるく事はあるくが、今夜は御馳走を食わせなくっちゃ、いやだぜ」
「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」
「それから……」
「まだ何か注文があるのかい」
「うん」
「何だい」
「君の経歴を聞かせるか」
「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」
「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」
「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の伜なんだ」
「その伜の時、寒磬寺の鉦の音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話しをさ」
「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに呑気なんだ。君はディッキンスの両都物語りと云う本を読んだ事があるか」
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」
「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、仏国の革命の起る前に、貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝ながら話してやろう」
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち留まって、黒い煙の方を見る。
濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて、幾百噸の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ躍り上がって来る。
雨と風のなかに、毛虫のような眉を攅めて、余念もなく眺めていた、圭さんが、非常な落ちついた調子で、
「雄大だろう、君」と云った。
「全く雄大だ」と碌さんも真面目で答えた。
「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
圭さんは、何にも云わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返叩いた。
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴らさ」
「うん」
「社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ」
「うん」
「商売なら、衣食のためと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らは、どうしても叩きつけなければならん」
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」
圭さんは、のっそりと踵をめぐらした。碌さんは黙然として尾いて行く。空にあるものは、煙りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみである。二人は煢々として無人の境を行く。
薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽うている。身を横にしても、草に触れずに進む訳には行かぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚絆だけを紺にして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠のように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。
たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか見極めのつくものではない。草をかぶればなおさらである。地に残る馬の足跡さえ、ようやく見つけたくらいだから、あとの始末は無論天に任せて、あるいていると云わねばならぬ。
最初のうちこそ、立ち登る煙りを正面に見て進んだ路は、いつの間にやら、折れ曲って、次第に横からよなを受くるようになった。横に眺める噴火口が今度は自然に後ろの方に見えだした時、圭さんはぴたりと足を留めた。
「どうも路が違うようだね」
「うん」と碌さんは恨めしい顔をして、同じく立ち留った。
「何だか、情ない顔をしているね。苦しいかい」
「実際情けないんだ」
「どこか痛むかい」
「豆が一面に出来て、たまらない」
「困ったな。よっぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは歩行き好いかも知れない」
「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。
「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」
「全体いつ宿へつくんだい」
「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」
「上りたてから鼻の先にあるぜ」
「そうさな。もう少しこの路を行って見ようじゃないか」
「うん」
「それとも、少し休むか」
「うん」
「どうも、急に元気がなくなったね」
「全く饂飩の御蔭だよ」
「ハハハハ。その代り宿へ着くと僕が話しの御馳走をするよ」
「話しも聞きたくなくなった」
「それじゃまたビールでない恵比寿でも飲むさ」
「ふふん。この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」
「なに、大丈夫だよ」
「だって、もう暗くなって来たぜ」
「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分前だ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変って来ると少し困るな。山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」
「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」
「ハハハハ。あの煙りが前に見えたんだが、もうずっと、後ろになってしまった。すると我々は熊本の方へ二三里近付いた訳かね」
「つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ」
「そう云えばそうさ。――君、あの煙りの横の方からまた新しい煙が見えだしたぜ。あれが多分、新しい噴火口なんだろう。あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。どうして行かれないだろう。何でもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」
「路があったって駄目だよ」
「どうも雲だか、煙りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。壮んなものだ。ねえ、君」
「うん」
「どうだい、こんな凄い景色はとても、こう云う時でなけりゃ見られないぜ。うん、非常に黒いものが降って来る。君あたまが大変だ。僕の帽子を貸してやろう。――こう被ってね。それから手拭があるだろう。飛ぶといけないから、上から結わいつけるんだ。――僕がしばってやろう。――傘は、畳むがいい。どうせ風に逆らうぎりだ。そうして杖につくさ。杖が出来ると、少しは歩行けるだろう」
「少しは歩行きよくなった。――雨も風もだんだん強くなるようだね」
「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」
「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」
「晩にね、僕が、煙草の吸殻を飯粒で練って、膏薬を製ってやろう」
「宿へつけば、どうでもなるんだが……」
「あるいてるうちが難義か」
「うん」
「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高い草山が見えるだろう」
「あの右の方かい」
「ああ。あの上へ登ったら、噴火孔が一と眼に見えるに違ない。そうしたら、路が分るよ」
「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」
「待ちたまえちょっと時計を見るから。四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと物見をしてくるから」
「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。二人離れ離れになっちまうよ」
「大丈夫だ。どうしたって死ぬ気遣はないんだ。どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」
「うん。呼んでくれたまえ」
圭さんは雲と煙の這い廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。
大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈しく轟となる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然と立つ碌さんの体躯へ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、顫えている。よなのしずくは、碌さんの下腹まで浸み透る。
毒々しい黒煙りが長い渦を七巻まいて、むくりと空を突く途端に、碌さんの踏む足の底が、地震のように撼いたと思った。あとは、山鳴りが比較的静まった。すると地面の下の方で、
「おおおい」と呼ぶ声がする。
碌さんは両手を、耳の後ろに宛てた。
「おおおい」
たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から湧いて出る。
「おおおい」
碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。
「おおおい」と癇の高い声を、肺の縮むほど絞り出すと、太い声が、草の下から、
「おおおい」と応える。圭さんに違ない。
碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。
「おおおい」
「おおおい。どこだ」
「おおおい。ここだ」
「どこだああ」
「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」
「どこへ落ちたんだああ」
「ここへ落ちたんだああ。気をつけろう」
「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」
「落ちると、足の豆が痛いぞうう」
「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」
「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」
圭さんの胴間声は地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。
「おい、落ちたよ」
「どこへ落ちたんだい」
「見えないか」
「見えない」
「それじゃ、もう少し前へ出た」
「おや、何だい、こりゃ」
「草のなかに、こんなものがあるから剣呑だ」
「どうして、こんな谷があるんだろう」
「火熔石の流れたあとだよ。見たまえ、なかは茶色で草が一本も生えていない」
「なるほど、厄介なものがあるんだね。君、上がれるかい」
「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」
「弱ったな。どうしよう」
「僕の頭が見えるかい」
「毬栗の片割れが少し見える」
「君ね」
「ええ」
「薄の上へ腹這になって、顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ」
「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」
「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは蝙蝠傘で、崖の腹をとんとん叩く。碌さんは見当を見計って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを溝の上へ出して、
「おい」
「おい。どうだ。豆は痛むかね」
「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」
「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって楽だぜ」
「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」
「君」
「ええ」
「ハンケチはないか」
「ある。何にするんだい」
「落ちる時に蹴爪ずいて生爪を剥がした」
「生爪を?痛むかい」
「少し痛む」
「あるけるかい」
「あるけるとも。ハンケチがあるなら抛げてくれたまえ」
「裂いてやろうか」
「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」
「じくじく濡れてるから、大丈夫だ。飛ぶ気遣はない。いいか、抛げるぜ、そら」
「だいぶ暗くなって来たね。煙は相変らず出ているかい」
「うん。空中一面の煙だ」
「いやに鳴るじゃないか」
「さっきより、烈しくなったようだ。――ハンケチは裂けるかい」
「うん、裂けたよ。繃帯はもうでき上がった」
「大丈夫かい。血が出やしないか」
「足袋の上へ雨といっしょに煮染んでる」
「痛そうだね」
「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」
「僕は腹が痛くなった」
「濡れた草の上に腹をつけているからだ。もういいから、立ちたまえ」
「立つと君の顔が見えなくなる」
「困るな。君いっその事に、ここへ飛び込まないか」
「飛び込んで、どうするんだい」
「飛び込めないかい」
「飛び込めない事もないが――飛び込んで、どうするんだい」
「いっしょにあるくのさ」
「そうしてどこへ行くつもりだい」
「どうせ、噴火口から山の麓まで流れた岩のあとなんだから、この穴の中をあるいていたら、どこかへ出るだろう」
「だって」
「だって厭か。厭じゃ仕方がない」
「厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がって見ないか」
「それじゃ、君はこの穴の縁を伝って歩行くさ。僕は穴の下をあるくから。そうしたら、上下で話が出来るからいいだろう」
「縁にゃ路はありゃしない」
「草ばかりかい」
「うん。草がね……」
「うん」
「胸くらいまで生えている」
「ともかくも僕は上がれないよ」
「上がれないって、それじゃ仕方がないな――おい。――おい。――おいって云うのにおい。なぜ黙ってるんだ」
「ええ」
「大丈夫かい」
「何が」
「口は利けるかい」
「利けるさ」
「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」
「ちょっと考えていた」
「何を」
「穴から出る工夫をさ」
「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」
「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が御留守になって、落ちてしまった」
「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」
「そうさな。――なに僕は構わないよ。それよりか。君、早く立ちたまえ。そう草で腹を冷やしちゃ毒だ」
「腹なんかどうでもいいさ」
「痛むんだろう」
「痛む事は痛むさ」
「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る工夫を考えて置くから」
「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」
「よし」
会話はしばらく途切れる。草の中に立って碌さんが覚束なく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹で、どっと崩れて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間なく吹き卸ろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々と逼る暮色のなかに、嵐は卍に吹きすさむ。噴火孔から吹き出す幾万斛の煙りは卍のなかに万遍なく捲き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く漲り渡る。
「おい。いるか」
「いる。何か考えついたかい」
「いいや。山の模様はどうだい」
「だんだん荒れるばかりだよ」
「今日は何日だっけかね」
「今日は九月二日さ」
「ことによると二百十日かも知れないね」
会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡く姿さえ、判然と見えぬようになった。
「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」
谷の中の人は二百十日の風に吹き浚われたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇の御山は割れるばかりにごううと鳴る。
碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように腹這になった。
「おおおい。おらんのか」
「おおおい。こっちだ」
薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。
「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」
「ここから上がるんだああ」
「上がれるのかああ」
「上がれるから、早く来おおい」
碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎の勢で飛び出した。
「おい。ここいらか」
「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」
「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘を上から出したら、それへ、取っ捕らまって上がれるだろう」
「傘だけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」
「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」
「兵児帯を解いて、その先を傘の柄へ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう」
「曲ってるとも。大いに曲ってる」
「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」
「結びつけるとも。すぐ結びつけてやる」
「結びつけたら、その帯の端を上からぶら下げてくれたまえ」
「ぶら下げるとも。訳はない。大丈夫だから待っていたまえ。――そうら、長いのが天竺から、ぶら下がったろう」
「君、しっかり傘を握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体は十七貫六百目あるんだから」
「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」
「いいかい」
「いいとも」
「そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」
「今度は大丈夫だ。今のは試して見ただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ」
「君が滑べると、二人共落ちてしまうぜ」
「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」
「君、薄の根へ足をかけて持ち応えていたまえ。――あんまり前の方で蹈ん張ると、崖が崩れて、足が滑べるよ」
「よし、大丈夫。さあ上がった」
「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」
「おい」
「何だい」
「君は僕が力がないと思って、大に心配するがね」
「うん」
「僕だって一人前の人間だよ」
「無論さ」
「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」
「じゃ上がるよ。そらっ……」
「そらっ……もう少しだ」
豆で一面に腫れ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、素肌を二百十日の雨に曝したまま、海老のように腰を曲げて、一生懸命に、傘の柄にかじりついている。麦藁帽子を手拭で縛りつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分通り阿蘇卸ろしに吹きつけられて、喰い締めた反っ歯の上にはよなが容赦なく降ってくる。
毛繻子張り八間の蝙蝠の柄には、幸い太い瘤だらけの頑丈な自然木が、付けてあるから、折れる気遣はまずあるまい。その自然木の彎曲した一端に、鳴海絞りの兵児帯が、薩摩の強弓に新しく張った弦のごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。その隠れているあたりから、しばらくすると大きな毬栗頭がぬっと現われた。
やっと云う掛声と共に両手が崖の縁にかかるが早いか、大入道の腰から上は、斜めに尻に挿した蝙蝠傘と共に谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんと仰向きになって、薄の底に倒れた。

「おい、もう飯だ、起きないか」
「うん。起きないよ」
「腹の痛いのは癒ったかい」
「まあ大抵癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも知れないね。ともかくも饂飩が祟ったんだから、容易には癒りそうもない」
「そのくらい口が利ければたしかなものだ。どうだいこれから出掛けようじゃないか」
「どこへ」
「阿蘇へさ」
「阿蘇へまだ行く気かい」
「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。行かない訳には行かない」
「そんなものかな。しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」
「豆は痛むかね」
「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」
「あんなに、吸殻をつけてやったが、毫も利目がないかな」
「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」
「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」
「癒ると思ったからさ」
「時に君はきのう怒ったね」
「いつ」
「裸で蝙蝠傘を引っ張るときさ」
「だって、あんまり人を軽蔑するからさ」
「ハハハしかし御蔭で谷から出られたよ。君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」
「豆を潰すのも構わずに引っ張った上に、裸で薄の中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」
「その代りこの宿まで担いで来てやったじゃないか」
「担いでくるものか。僕は独立して歩行いて来たんだ」
「それじゃここはどこだか知ってるかい」
「大に人を愚弄したものだ。ここはどこだって、阿蘇町さ。しかもともかくもの饂飩を強いられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。半日山のなかを馳けあるいて、ようやく下りて見たら元の所だなんて、全体何てえ間抜だろう。これからもう君の天祐は信用しないよ」
「二百十日だったから悪るかった」
「そうして山の中で芝居染みた事を云ってさ」
「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」
「あの時は感心もしたが、こうなって見ると馬鹿気ていらあ。君ありゃ真面目かい」
「ふふん」
「冗談か」
「どっちだと思う」
「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」
「あの時僕の経歴談を聴かせろって、泣いたのは誰だい」
「泣きゃしないやね。足が痛くって心細くなったんだね」
「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、昨日た別人の観がある」
「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」
「僕に対してかい」
「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」
「いい迷惑だ。時に君は粥を食うなら誂らえてやろうか」
「粥もだがだね。第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」
「馬車でどこへ行く気だい」
「どこって熊本さ」
「帰るのかい」
「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を蹴られたには実に弱ったぜ」
「そうか、僕はちっとも知らなかった。そんなに音がしたかね」
「あの音が耳に入らなければ全く剛健党に相違ない。どうも君は憎くらしいほど善く寝る男だね。僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。――そうして、非常ないびきをかいて――」
「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」
「時に天気はどうだい」
「上天気だ」
「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。――そうして顔は洗ったのかい」
「顔はとうに洗った。ともかくも起きないか」
「起きるって、ただは起きられないよ。裸で寝ているんだから」
「僕は裸で起きた」
「乱暴だね。いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」
「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。乾いてるよ。ただ鼠色になってるばかりだ」
「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、勢よく、手をぽんぽん敲く。台所の方で返事がある。男の声だ。
「ありゃ御者かね」
「亭主かも知れないさ」
「そうかな、寝ながら占ってやろう」
「占ってどうするんだい」
「占って君と賭をする」
「僕はそんな事はしないよ」
「まあ、御者か、亭主か」
「どっちかなあ」
「さあ、早くきめた。そら、来るからさ」
「じゃ、亭主にでもして置こう」
「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。負けた方が今日一日命令に服するんだぜ」
「そんな事はきめやしない」
「御早う……御呼びになりましたか」
「うん呼んだ。ちょっと僕の着物を持って来てくれ。乾いてるだろうね」
「ねえ」
「それから腹がわるいんだから、粥を焚いて貰いたい」
「ねえ。御二人さんとも……」
「おれはただの飯で沢山だよ」
「では御一人さんだけ」
「そうだ。それから馬車は何時と何時に出るかね」
「熊本通いは八時と一時に出ますたい」
「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」
「ねえ」
「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。せっかくここまで来て阿蘇へ上らないのはつまらないじゃないか」
「そりゃ、いけないよ」
「だってせっかく来たのに」
「せっかくは君の命令に因って、せっかく来たに相違ないんだがね。この豆じゃ、どうにも、こうにも、――天祐を空しくするよりほかに道はあるまいよ」
「足が痛めば仕方がないが、――惜しいなあ、せっかく思い立って、――いい天気だぜ、見たまえ」
「だから、君もいっしょに帰りたまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」
「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」
「そうでもないさ」
「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」
「幾度もあるよ」
「なに一度もない」
「昨日も聞いてるじゃないか。谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」
「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩を何遍も喰ってるじゃないか」
「ハハハハ、ともかくも……」
「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」
「そうか」
「おい、君」
「ええ」
「君じゃない。君さ、おい宿の先生」
「ねえ」
「君は御者かい」
「いいえ」
「じゃ御亭主かい」
「いいえ」
「じゃ何だい」
「雇人で……」
「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」
「うん、それがどうしたんだ」
「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、彼方へ行っても好いよ」
「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」
「そこが今悶着中さ」
「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度が出来ます」
「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」
「へへへへ御緩っくり」
「おい、行ってしまった」
「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促するからさ」
「ハハハありゃ御者でも亭主でもないんだとさ。弱ったな」
「何が弱ったんだい」
「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が賭に勝つ訳になるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」
「なるものか、そんな約束はしやしない」
「なに、したと見傚すんだね」
「勝手にかい」
「曖昧にさ。そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」
「そんな訳になるかね」
「なると思って喜こんでたが、雇人だって云うからしようがない」
「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」
「もし御者ですと云ったら、僕は彼奴に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴だ」
「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」
「だって君は一昨夜、あの束髪の下女に二十銭やったじゃないか」
「よく知ってるね。――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「例えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない」
「成功しないのは当り前だ」
「すると、同じようなわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも阿蘇へ登ろう」
「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」
二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している。