【源氏物語】 (佰拾肆) 梅枝 第一章 光る源氏の物語 薫物合せ

紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。

そんな今回は、「梅枝」の物語です。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ

第一章 光る源氏の物語 薫物合せ
 [第一段 六条院の薫物合せの準備]
 御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい、並々ではない。春宮も同じ二月に、御元服の儀式がある予定なので、そのまま御入内も続くのであろうか。
 正月の月末なので、公私ともにのんびりとした頃に、薫物合わせをなさる。大宰大弐が献上したいくつもの香を御覧になると、「やはり、昔の香には劣っていようか」とお思いになって、二条院の御倉を開けさせなさって、唐の品々を取り寄せなさって、ご比較なさると、
 「錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった」
 とおっしゃって、身近な調度類の、物の覆いや、敷物、座蒲団などの端々に、故院の御代の初め頃、高麗人が献上した綾や、緋金錦類など、今の世の物には比べ物にならず、さらにいろいろとご鑑定なさっては、今回の綾、羅などは、女房たちにご下賜なさる。
 数々の香は、昔のと今のを、取り揃えさせなさって、ご夫人方にお配り申し上げさせなさる。
 「二種類づつ調合なさって下さい」
 と、お願い申し上げさせなさった。贈物や、上達部への禄など、世にまたとないほどに、内にも外にも、お忙しくお作りなさるに加えて、それぞれに材料を選び準備して、鉄臼の音が喧しく聞こえる頃である。
 大臣は、寝殿に離れていらっしゃって、承和の帝の御秘伝の二つの調合法を、どのようにしてお耳にお伝えなさったのであろうか、熱心にお作りになる。
 紫の上は、東の対の中の放出に、御設備を特別に厳重におさせになって、八条の式部卿の御調合法を伝えて、互いに競争して調合なさっている間に、たいそう秘密にしていらっしゃるので、
 「匂いの深さ浅さも、勝負けの判定にしよう」
 と大臣がおっしゃる。子を持つ親御らしくない競争心である。
 どちらにも、御前に伺候する女房は多くいない。御調度類も、多く善美を尽くしていらっしゃる中でも、いくつもの香壷の御箱の作り具合、壷の恰好、香炉の意匠も、見慣れない物で、当世風に、趣向を変えさせていらっしゃるのが、あちらこちらで一生懸命にお作りになったような香の中で、優れた幾種かを、匂いを比べた上で入れようとお考えなのである。

 [第二段 二月十日、薫物合せ]
 二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに、色も香も他に似る物がない頃に、兵部卿宮がお越しになった。御裳着の支度が今日明日に迫ってお忙しいことについて、ご訪問なさる。昔から特別にお仲が好いので、隠し隔てなく、あの事この事、とご相談なさって、紅梅の花を賞美なさっていらっしゃるところに、前斎院からと言って、散って薄くなった梅の枝に結び付けられているお手紙を持ってまいった。宮、お聞きになっていたこともあるので、
 「どのようなお手紙があちらから参ったのでしょうか」
 とおっしゃって、興味をお持ちになっているので、にっこりして、
 「たいそう無遠慮なことをお願い申し上げたところ、几帳面に急いでお作りになったのでしょう」
 とおっしゃって、お手紙はお隠しになった。
 沈の箱に、瑠璃の香壷を二つ置いて、大きく丸めてお入れになってある。心葉は、紺瑠璃のには五葉の枝を、白いのには白梅を彫って、同じように結んである糸の様子も、優美で女性的にお作りになってある。
 「優雅な感じのする出来ばえですね」
 とおっしゃって、お目を止めなさると、
 「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、
  香を焚きしめた袖には深く残るでしょう」
 薄墨のほんのりとした筆跡を御覧になって、宮は仰々しく口ずさみなさる。
 宰相中将、お使いの者を捜し出して引き止めさせなさって、たいそう酔わせなさる。紅梅襲の唐の細長を添えた女装束をお与えになる。お返事も同じ紙の色で、御前の花を折らせてお付けになる。
 宮、
 「どんな内容か気になるお手紙ですね。どのような秘密があるのか、深くお隠しになさるな」
 と恨んで、ひどく見たがっていらっしゃった。
 「何でもありません。秘密があるようにお思いになるのが、かえって迷惑です」
 とおっしゃって、御筆のついでに、
 「花の枝にますます心を惹かれることよ
  人が咎めるだろうと隠しているが」
 とでもあったのであろうか。
 「実のところ、物好きなようですが、二人といない娘のことですから、こうするのが当然の催しであろうと、存じましてね。たいそう不器量ですから、疎遠な方にはきまりが悪いので、中宮を御退出おさせ申し上げてと存じております。親しい間柄でお慣れ申し上げているが、気の置ける点が深くおありの宮なので、何事も世間一般の有様でお見せ申しては、恐れ多いことですから」
 などと、申し上げなさる。
 「あやかるためにも、おっしゃるとおり、きっとお考えになるはずのことなのでしたね」
 と、ご判断申し上げなさる。

 [第三段 御方々の薫物]
 この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を、それぞれお使いを出して、
 「今日の夕方の雨じめりに試してみよう」
 とお話申し上げなさっていたので、それぞれに趣向を凝らして差し上げなさった。
 「これらをご判定ください。あなたでなくて誰に出来ましょう」
 と申し上げなさって、いくつもの御香炉を召して、お試しになる。
 「知る人というほどの者ではありませんが」
 と謙遜なさるが、何とも言えない匂いの中で、香りの強い物や弱い物の一つなどが、わずかの欠点を識別して、強いて優劣の区別をお付けになる。あのご自分の二種の香は、今お取り出させになる。
 右近の陣の御溝水の辺に埋める例に倣って、西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉が、掘り出して参上した。宰相中将が、受け取って差し上げさせなさる。宮、
 「とても難しい判者に任命されたものですね。とても煙たくて閉口しますよ」
 と、お困りになる。同じのは、どこにでも伝わって広がっているようだが、それぞれの好みで調合なさった、深さ浅さを、聞き分けて御覧になると、とても興味深いものが数多かった。
 まったくどれと言えない香の中で、斎院の御黒方、そうは言っても、奥ゆかしく落ち着いた匂い、格別である。侍従の香は、大臣のその御香は、優れて優美でやさしい香りである、とご判定になさる。
 対の上の御香は、三種ある中で、梅花の香が、ぱっと明るくて当世風で、少し鋭く匂い立つように工夫を加えて、珍しい香りが加わっていた。
 「今頃の風に薫らせるには、まったくこれに優る匂いはあるまい」
 と賞美なさる。
 夏の御方におかれては、このようにご夫人方が思い思いに競争なさっている中で、人並みにもなるまいと、煙にさえお考えにならないご気性で、ただ荷葉の香を一種調合なさった。一風変わって、しっとりした香りで、しみじみと心惹かれる。
 冬の御方におかれても、季節季節に基づいた香が決まっているから、負けるのもつまらないとお考えになって、薫衣香の調合法の素晴らしいのは、前の朱雀院のをお学びなさって、源公忠朝臣が、特別にお選び申した百歩の方などを思いついて、世間にない優美さを調合した、その考えが素晴らしいと、どれも悪い所がないように判定なさるのを、
 「当たりさわりのない判者ですね」
 と申し上げなさる。

 [第四段 薫物合せ後の饗宴]
 月が出たので、御酒などをお召し上がりになって、昔のお話などをなさる。霞んでいる月の光が奥ゆかしいところに、雨上がりの風が少し吹いて、梅の花の香りが優しく薫り、御殿の辺りに何とも言いようもなく匂い満ちて、皆のお気持ちはとてもうっとりしている。
 蔵人所の方にも、明日の管弦の御遊の試演に、お琴類の準備などをして、殿上人などが大勢参上して、美しい幾種もの笛の音が聞こえて来る。
 内の大殿の頭中将、弁少将なども、挨拶だけで退出するのを、お止めさせになって、いくつも御琴をお取り寄せになる。
 宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴を差し上げて、頭中将は、和琴を賜って、賑やかに合奏なさっているのは、たいそう興趣深く聞こえる。宰相中将、横笛をお吹きになる。季節にあった調べを、雲居に響くほど吹き立てた。弁少将は拍子を取って、「梅が枝」を謡い出したところ、たいそう興味深い。子供の時、韻塞ぎの折に、「高砂」を謡った君である。宮も大臣も一緒にお謡いになって、仰々しくはないが、趣のある夜の管弦の催しである。
 お杯をお勧めになる時に、宮が、
 「鴬の声にますます魂が抜け出しそうです
  心を惹かれた花の所では、
 千年も過ごしてしまいそうです」
 とお詠み申し上げなさると、
 「色艶も香りも移り染まるほどに、今年の春は
  花の咲くわたしの家を絶えず訪れて下さい」
 頭中将におさずけになると、受けて、宰相中将に廻す。
 「鴬のねぐらの枝もたわむほど
  夜通し笛の音を吹き澄まして下さい」
 宰相中将は、
 「気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に
 むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか
 無風流ですね」
 と言うと、皆お笑いになる。弁少将は、
 「霞でさえ月と花とを隔てなければ
  ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう」
 ほんとうに、明け方になって、宮はお帰りになる。御贈物に、ご自身の御料の御直衣のご装束一揃い、手をおつけになっていない薫物を二壷添えて、お車までお届けになる。宮は、
 「この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら
 女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう」
 と言うので、
 「たいそう弱気ですな」
 と言ってお笑いになる。お車に牛を繋ぐところに、追いついて、
 「珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう
  この花の錦を着て帰るあなたを
 めったにないこととお思いになるでしょう」
 とおっしゃるので、とてもつらがりなさる。以下の公達にも、大げさにならないようにして、細長、小袿などをお与えになる。

 

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