ピース・又吉ならぬ又吉直樹氏の初純文学作品『火花』を読む!

2015年早々の文学界の話題は、又吉直樹氏の『火花』と西加奈子氏の『サラバ!』ですね。
そこで、まずは『火花』に触れてみます。
※)『サラバ!』については、”西加奈子氏の『サラバ!』は、感情を抑えきれなくなる程の不思議な力が宿る小説”を参照ください。

掲載されている純文学誌『文学界』2月号が昭和8年の発行以来初の増刷に踏み切ったという話題に始まり、ネット上でも『文学界』2月号に異常な値段が付いたり、早くも『火花』は芥川賞候補だ、いや直木賞候補だ、と熱もなかなか引きませんね。
書店でも売り切れ状態でしたがようやく今週から手に取れるようになりましたので、早速購入してみました。

あらすじはざっとこのようなものです。

物語は、とある花火大会でのお笑い芸人の漫才営業で同じ舞台を踏んだ、他を寄せ付けない孤高の天才芸人「神谷」と年齢的にも後がなく自分の「笑い」にも限界を感じつつある「僕」との交友を描く中編小説。
同世代の芸人が次々と売れていくなかで、僕も神谷もなかなか芽が出ない。
「自分の不遇を時代のせいに出来るほど、鈍感ではなかった」僕と、流行りのお笑いに対して「共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな」と批評と防衛を続ける先輩、神谷。
互いの不遇を慰め合うでも罵り合うでもなく、気づけば二人は東京の街に取り残されていく。
結局のところ、「僕には、神谷さんの考えそうなことはわかっても、神谷さんの考えることはわからなかった」。

やがて売れ始めた僕に対して、少しも芽が出ぬまま、同棲相手に追い出され、行方をくらましてしまう神谷。
そんな先輩を「誰にも理解を得られない、この人の存在が悔しい」と感じる僕と「自分が面白いと思うとこでやめんとな、その質を落とさずに皆に伝わるやり方を自分なりに模索しててん」と諦めようとしない神谷。
「僕」もその後、仕事が徐々に減っていった。
漫才の相方の彼女のお腹には赤ちゃんができ、相方はその彼女との結婚を決意する。
それを機に10年続いた漫才コンビを解散し、芸人を辞める決意をした。
そんな時に「僕」は神谷と1年ぶりに再会する。
神谷は、笑いを追及し過ぎた果てに、衝撃的な姿で現れ…。

このオチを書いてしまうと、せっかくの『火花』の面白さが半減してしまうので、続きは『文学界』2月号か、3月に発売された単行本で楽しんで欲しいのですが、両者のそれぞれの人間臭さや心の葛藤の表現も魅力的で、「お笑い」を題材に取った青春群像として、清々しささえ感じる読み応えのある作品です。
しかも太宰治を好きだと公言するだけあって、その文体は昭和文学の骨太な表現で紡がれ、作品の根底に静謐さ、優しさを感じさせてくれます。
出だし冒頭の書き出しは、まさに昭和文学を愛した人ならではの真骨頂ですね。
「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の根が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。沿道の脇にある小さな空間に、裏返しにされた黄色いビニールケースがいくつか並べられ、その上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の下で、僕達は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。」
このあたりは人によって好き嫌いがでてしまうのかもしれませんが、私は嫌いじゃないですね、この感じ。

『火花』には、「この世の中は生きていく上での不具合や不都合に満ちているけど、そこに優しさを向けるだけでは新たな残酷を呼び込む一方である」と気づき始める「僕」の心のゆらめきが真摯に描かれています。
本文は芸人の話ではありますが、又吉自身にとっては芸人という肩書きは、却って邪魔になってしまうのではないかと思えるほどに、「多声性」を自在に解放し切った、それでいてある種の静寂に満ちた小説です。

是非書店で手に取ってみてください。

追記:
 7月16日、第153回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は又吉直樹さんの「火花」(文学界2月号)と羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」(文学界3月号)に決まりました。
 新進純文学の最高峰で、自身初の純文学作品が、芥川賞を受賞という快挙です。
 今年1月「火花」を文芸誌「文学界」に発表し、創刊約80年に及ぶ同誌を初の増刷に導いた上、単行本も新人作家としては異例の64万部に達しています。
 おめでとう!!

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