留魂録より改めて学ぶ!格調と矜持に満ちた魂の書!

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の句で始まる吉田松陰の『留魂録』。
安政六年(1859年)処刑前日の10月26日に完成した全十六章で構成される『留魂録』は、死を前にした松陰が獄中で松下村塾の門下生のために鬼気迫る気持ちを凝縮し、万感を込めてわずか2日で書き上げた「魂の遺書」です。
牢獄の中から愛弟子たちへ切々と最後の訓戒を訴え、また、死に直面した松陰が悟り得た死生観を書き記したその内容は、格調高く、人としての矜持に満ちており、それを読んだ長州藩志士達のバイブルとなり、「松陰の死」自体とともに、明治維新へと突き進む原動力の一つとなっています。
こうした松陰の門下生達への凄まじいまでの感化力の一端が垣間見れる『留魂録』は、まさに読む者の胸を打たずにおかない名文です。

吉田松陰というと、その突き抜けた高い精神と志で、人を純粋すぎる程に信頼した、ある種愚直なまでの行動の人でした。
情熱的で、至誠のためなら生死をも度外視する程の常人にはない突き抜けた一面を持っていた松陰の魅力は、現代の世でもその文面から十分に味わうことができるものです。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の「大和魂」という言葉が、戦時中の皇国史観的な立場で利用された悲しむべき経緯はありますが、本来ここで意図することは、”己の正しいと信ずるところを誠をもって一直線に貫き通すべし”と説いた、松陰の強靭なる精神の結晶と心情が集約された絶唱と捉えるべきでしょう。

第一章は「辞世の句」と「至誠について」です。
「余去年己来心蹟百変、挙げて数へ難し」と、猛を発してさまざまに試行錯誤した自分をまず振り返った上で、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一節を挙げ、至誠は必ず人を動かすということを信念としてこれまで努力をしてきたけれど、ついに事をなすこともなく今日に至ったのは自身に徳が薄かったためで、今はだれも恨むこともないと平静な心境を語っていきます。

次いで第二章から第七章までは、評定所における取り調べの経過を語り、その折々における自分の心境や感じたことを述べています。
第二章は「評定所での尋問の様子」
第三章は「尋問に対する答弁で『対策一道』を挙げ」
第四章は「供述書について」
第五章は「大原公のこと、間部要撃策のこと」
第六章は「間部要撃について」
第七章は「死の覚悟について」
といった具合ですね。
松陰は極めて冷静に過程を分析し「然れども十六日の口書、三奉行の権詐(けんさ・偽り、たくらみのこと)、吾れを死地に措かんとするを知りてより更に生を幸(ねが)ふの心なし。是れ亦平生学問の得力然るなり」と第七章を結んでいます。

第八章は「四季の循環について」
第九章は「水戸の堀江克之助について」
第十章は「大学校創立と尊攘堂について」
第十一章は「小林民部について」
第十二章は「高松藩士長谷川宗右衛門について」
第十三章は「勝野保三郎、有志同志のこと」
第十四章は「越前の橋本左内について」
第十五章は「僧月照、口羽徳祐について」
第十六章は「門下生と松下村塾について」
と綴り、次の五句を認めて「留魂録」を締め括っています。

かきつけ終わりて後
 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ 思い残せることなかりけり
 呼び出しの声まつ外に今の世に 待つべき事のなかりける哉
 討たれたる吾れをあはれと見ん人は 君を崇めて夷払へよ
 愚かなる吾れをも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々
 七たびも生きかへりつつ夷をぞ 攘はんこころ吾れ忘れめ哉

ここに記されている”七たびも生きかへり”は、実は『丙辰幽室文稿』に収められた「七生説」を指しています。
※)『丙辰幽室文稿』は、まとまった著述というものではなく、松陰の多くの短文をまとめた、いわば所感集、随筆集といったもので、「幽室の壁に題す」に始まり、読書記、知友へ与えた書、回顧的な記録、生活の中での雑感など、多様な五十数編の短文が収められているものです。
ここに記されている詩
「青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
 木の下陰に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
 忍ぶ鎧の袖の上に
 散るは涙かはた露か」
は、楠木正成と弟の正季との自決前のシーンを詩ったものです。
正成が弟の正季に「死んだらなにをするのか」と問いかけると、正季は「願わくば七たび人間に生まれ変わって、国賊を滅ぼしたい」と答えたところ、大楠公は喜んで「自分の心と同じである」と云ってたがいに刺し違えて死んだという話があります。
頼山陽は、湊川を訪れて大楠公の桜井遺跡が忘却されていることを目の当たりにして人心の荒廃を読み取り、『日本外史』の中で大楠公の事跡を説き「七生報国」に生きようとした大楠公を歴史に復活させたという経緯がありました。
それを読んでいた松陰も三度湊川を訪れて、涙が落ちるのをとめることができなかったと「七生説」で述べており、そこから松陰が門下生に宛てて「七生報国」を「七生説」として「七たびも生きかへりつつ」と説き聞かせている訳です。
最後の最後まで、明日の日本を切り拓かんと門下生を鼓舞し続けた松陰の姿が垣間見える訳ですが、それに応えてでしょう、以後門下生はこれを筆写して経典として持ち歩いていたと言われています。

獄中最後の期に、松陰は大音声で留魂録の冒頭の詩と次の五言絶句を辞世詩歌として三回歌ったと言われています。

 我今為国死  我今国の為に死す
 死不背君親  死して君親に背かず
 悠々天地事  悠々天地の事
 感賞在明神  感賞明神に在り

死に対する松陰の覚悟と、自分の死後に関する行き届いた配慮。
そうした心ばえを背景に、後世まで輝きを放つ『留魂録』は執筆されているのです。

熟読、熟考を重ねてみるべきです。

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以下、参考までに『留魂録』の現代語訳と原文です。

【留 魂 録(現代語訳)         吉田松陰】

身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

     十月二十五日     二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ)

一 私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。
とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。
だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という送別の句を贈ってくれたのである。
しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。
この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。
私はそのことについては考えず。
一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。
これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。
昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。
いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。
しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。
私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。
今さら誰を咎め怨むことがあろうか。
誰も怨むことはない。

一 七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。
三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、次の二点について私を尋問した。
一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。
二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。
訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。
そういう意味で彼と密議などするはずがない。
私は公明正大であることを好む。
どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。
その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。

一 私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。
そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。
だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。
そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。
こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。
私の説に対し幕吏は「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」と弁じた。
私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、それを避けようとは思わない」とだけ述べた。
幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。
その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。
聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。
さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。
この気概は私も及ばないところである。
私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。
思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難しために殺された。
こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。
大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。
そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。
私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。

一 このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。
七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。
私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。
私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。
安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。

一 七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。
これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。
幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。
だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。
又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。
これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。
これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。
同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。

一 間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったとは、実際には私が云っていないことである。
ところが三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。
そのような偽りの罪をどうして受け入れられようか。
そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。
私は、死を恐れたのではない。
両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。
これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。
吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。
だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。
私も惜しいと思わない訳ではない。
しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬにあたり、「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉の問題ではない。
今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。
全ては天地神明の照鑑上にある。
何を惜しむことはないであろう。

一 私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。
また、死を求めたこともない。
ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。
七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。
私はそれを詩に書き留めた。
「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩の横暴を訴えたことにより処刑されたが、忠誠を貫いて死んだことに満足したであろう。
 漢の名医・淳干意は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。
ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったために欺かれ、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。
これは、私が命を惜しんだのではない。
昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。
今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親公は萩を出発した。
敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。
そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こってきた。
しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。
私が死罪とならない限り、この心にわき立つ気概は決してなくなることはないだろう。
しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持ちはをなくなった。
私がこういう気持になれたのも、平素の学問の力であろう。

一 今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。
つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。
未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。
私は現在三十歳。
いまだ事を成就させることなく死のうとしている。
農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。
だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。
そう考えると必ずしも悲しむことではない。
なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。
農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。
しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。
二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。
五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。
百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。
同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。

一 東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。
彼が私に言った。
「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食して仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。
 今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。
 そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。
私は、その言葉に心から感服した。
又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫は私に告げて言った。
「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が遠島にされれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。
 但し、天下の益になることについては同志に託して、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。
この言葉は、私と意を同じくするものだった。
私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊皇攘夷に大きな功を立ててほしいということである。
私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。
又、本所亀沢町に山口三輶という人がいる。
彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。
私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。
この人は思うに、非凡な人だと思われる。
この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。

一 堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除せんと望んでいる。
彼は、朝廷から教書を発行して、天下に配布するのが良いと考えている。
私が思うに、教書の発行をするには一つの方法があると思う。
それは身分のわけ隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、天朝の学風を天下に示すことだ。
全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心はおのずから定まるだろう。
そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。
杉蔵がよく同志と相談し、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならないであろう。
去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊皇攘夷運動は決してやめるべきではないから、よい方法を考え、先人の志を継承せねばならない。
そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではあるまいか。

一 小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されている。
講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。
これを基本にして考えれば、更によい方法が見つかることだろう。
又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。
小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび遠島の罪科に処せらている。
安政の大獄に連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。
この人は、有能にして芸事深い方であるが、文学にはあまり深くないようだ。
ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居だったが、後に東口に移された。
小林は、京都の吉田神社の鈴鹿石州や筑州とは特に親しいということだ。
又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて遠島先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。
京都で事をなす時は、必ずや力になってくれるであろう。

一 讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との周旋につとめ苦心した人物である。
今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。
私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。
「玉となって砕かれようとも、瓦となって生きながらえてはならない」。
私はその言葉に深く感動した。
同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。

一 今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。
天下の事を成功させるためには、天下の有志の士と志を通じなければ達成し得ない。
そこで、私がここに記した数人のことは、このたび新たに知り得た人物だから、これを同志に知らせておく。
なお、勝野保三郎は既に出牢している。
したがって、何かのことについて彼に詳細を問尋ねるがよい。
勝野の父の豐作は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。
いずれ、頃合いをみて探し出すのが良かろう。
今日の事、同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にするがよい。
一度失敗したからといって挫折するようでは、どうして勇士といえようか。
このことを切に頼む。頼むぞ。

一 越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。
十月七日のことであった。
左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。
その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。
後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いてますます左内と会えなかったことを残念に思っている。
左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。
又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。
勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。
私は、ますます左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。
ああ、とても残念なことだ。

一 僧・月性の護国論及び吟稿、口羽徳祐の詩稿、いずれも天下同志の士に見せたいと思う。
そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。
同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。

一 同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮、久保清太郎、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。
松下村塾の事、須佐、阿月の同志の事、飯田正伯、尾寺新之丞、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。
これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。

かきつけが終わった後に
心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり
呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな
討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾をも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々
七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや

十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士

【留 魂 録(原文)         吉田松陰】

身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂

     十月念五日     二十一回猛士

一 余去年已来心蹟百変挙て数へ難し就中
趙ノ貫高ヲ希ヒ楚ノ屈平ヲ仰く諸知友ノ知
ル所ナリ故ニ子遠カ送別ノ句ニ 燕趙多士一貫高
荊楚深憂只屈平ト云モ此事也然ルニ五月
十一日関東ノ行ヲ聞シヨリハ又一ノ誠字ニ工夫
ヲ付タリ時ニ子遠死字ヲ贈ル余是ヲ用ヒズ
一白綿布ヲ求テ孟子至誠而不動者未之
有也ノ一句ヲ書シ手巾ヘ縫付携テ江戸ニ来リ
是ヲ評諚所ニ留メ置シモ吾志ヲ表スル也
去年来ノ事恐多クモ  天朝幕府ノ間誠意
相孚セサル所アリ天苟モ吾カ區々ノ悃誠ヲ諒シ
給ハヽ幕吏必吾説ヲ是トセント志ヲ立タレトモ
蚊蝱負山ノ喩終ニ事ヲナスコト不能今日ニ至
ル亦吾德ノ菲薄ナルニヨレハ今將誰ヲカ尤
メ且怨ンヤ

一 七月九日初テ評諚所呼出アリ三奉行出座
尋鞠ノ件両條アリ一曰梅田源次郎長門下
向ノ節面會シタル由何ノ密議ヲナセシヤ二曰
御所内ニ落文アリ其手跡汝ニ似タリト源次郎
其外申立ル者アリ覚アリヤ此二條ノミ夫
梅田ハ素ヨリ奸骨アレハ余與ニ志ヲ語ルコト
ヲ欲セサル所ナリ何ノ密議ヲナサンヤ吾性
光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧
ノ事ヲナサンヤ余是ニ於テ六年間幽囚中ノ
苦心スル所ヲ陳シ終ニ大原公ノ西下ヲ請ヒ
鯖江侯ヲ要スル等ノ事ヲ自首ス鯖江
侯ノ事ニ因テ終ニ下獄トハナレリ

一 吾性激烈怒罵ニ短シ務テ時勢ニ従ヒ人情ニ適スルヲ
主トス是ヲ以テ吏ニ対シテ幕府違勅ノ已ムヲ得サルヲ
陳シ然ル後當今的当ノ處置ニ及フ其説常ニ
講究スル所ニシテ具ニ對策ニ載スルカ如シ是ヲ以テ幕吏
ト雖甚怒罵スルコト不能直ニ曰ク汝陳白スル所
悉ク的当トモ思ハレズ且卑賎ノ身ニシテ国家
ノ大事ヲ議スルコト不届ナリ余亦深ク抗
セズ是ヲ以テ罪ヲ獲ルハ萬々辞セサル所
ナリト云テ已ミヌ幕府ノ三尺布衣国ヲ憂ル
コトヲ許サズ其是非吾曽テ弁争セサルナリ聞ク薩ノ
日下部以三次ハ対吏ノ日當今政治ノ缺失
ヲ歴詆シテ如是ニテハ往先三五年ノ無
事モ保シ難ト云テ鞠吏ヲ激怒セシメ乃曰
是ヲ以死罪ヲ得ルト雖トモ悔サルナリト是
吾ノ及サル所ナリ子遠ノ死ヲ以テ吾ニ責ムル
モ亦此意ナルベシ唐ノ段秀実郭曦ニ於テハ彼
カ如クノ誠梱朱泚ニ於テハ彼カ如クノ激烈然ラハ
則英雄自ラ時措ノ宜シキアリ要内省不疚
ニアリ抑亦人ヲ知リ幾ヲ見ルコトヲ尊フ吾ノ
得失當サニ蓋棺ノ後ヲ待テ議スヘキノミ

一 此回ノ口書甚草々ナリ七月九日一通リ申立タル
後九月五日十月五日両度ノ呼出モ差タル
鞠問モナクシテ十月十六日ニ至リ口書読聞セ
アリテ直ニ書判セヨトノ事ナリ余カ苦心
セシ墨使応接航海雄畧等ノ論一モ書載
セス唯数ヶ所開港ノ事ヲ程克申延テ國
力充実ノ後御打拂可然ナト吾心ニモ非サル
迂腐ノ論ヲ書付テ口書トス吾言テ益ナキ
ヲ知ル故ニ敢テ云ハス不満ノ甚シキ也甲寅
ノ歳航海一条ノ口書ニ比スル時ハ雲泥ノ違ト
云フヘシ

一 七月九日一通リ大原公ノ事鯖江要駕ノ事等
申立タリ初意ラク是等ノ事幕ニモ已ニ諜知
スヘケレハ明白ニ申立タル方却テ宜シキナリト已ニシテ
逐一口ヲ開キシニ幕ニテ一圓知ラサルニ似タリ
因テ意ラク幕ニテ知ラヌ所ヲ強テ申立テ
多人数ニ株連蔓延セハ善類ヲ傷フコト
少ナカラズ毛ヲ吹テ瘡ヲ求ムルニ斉シト是ニ
於テ鯖江要撃ノ事モ要諫トハ云替タリ又
京師往来諸友ノ姓名連判諸士ノ姓名等可
成丈ハ隠シテ具白セズ是吾後起人ノ為メニスル
區々ノ婆心ナリ而シテ幕裁果シテ吾一人ヲ罰シテ
一人モ他ニ連及ナキハ実ニ大慶ト云フヘシ同志
ノ諸友深ク考思セヨ

一 要諫一條ニ付事不遂時ハ鯖侯ト刺違テ死シ
警衛ノ者要蔽スル時ハ切拂ヘキトノ事実ニ
吾カ云ハサル所ナリ然ルニ三奉行強テ書載シテ
誣服セシメント欲ス誣服ハ吾肯テ受ンヤ是ヲ
以テ十六日書判ノ席ニ臨テ石谷池田ノ両
奉行ト大ニ爭辨ス吾肯テ一死ヲ惜マンヤ
両奉行ノ權詐ニ伏セサルナリ是ヨリ先九月
五日十月五日両度ノ吟味ニ吟味役マテ具ニ
申立タルニ死ヲ決シテ要諫ス必シモ刺違切拂等ノ
策アルニ非ズ吟味役具ニ是ヲ諾シテ而モ且
口書ニ書載スルハ權詐ニ非スヤ然トモ事已ニ
爰ニ至レハ刺違切拂ノ両事ヲ受ケサルハ却
テ激烈ヲ欠キ同志ノ諸友亦惜ムナルベシ
吾ト云トモ亦惜シマサルニ非ズ然トモ反復是ヲ
思ヘハ成仁ノ一死區々一言ノ得失ニ非ズ今
日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照
鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン

一 吾此回初メ素ヨリ生ヲ謀ラス又死ヲ必セズ
唯誠ノ通塞ヲ以テ天命ノ自然ニ委シタルナリ
七月九日ニ至テハ略一死ヲ期ス故ニ其詩ニ云
継盛唯當甘市戮倉公寧復望生還 其後
九月五日十月五日吟味ノ寛容ナルニ欺カレ
又必生ヲ期ス亦頗ル慶幸ノ心アリ此心吾此身
ヲ惜シム為メニ発スルニ非ズ抑故アリ去臘大晦
朝議已ニ幕府ニ貸ス今春三月五日吾公ノ駕
已ニ萩府ヲ発ス吾策是ニ於テ尽果タレハ死ヲ
求ムルコト極テ急ナリ六月ノ末江戸ニ来ルニ及ンテ
夷人ノ情態ヲ見聞シ七月九日獄ニ来リ天下ノ
形勢ヲ考察シ神国ノ事猶ナスヘキモノアルヲ
悟リ初テ生ヲ幸トスルノ念勃々タリ吾若シ
死セスンハ勃々タルモノ決シテ汨没セサルナリ
然トモ十六日ノ口書三奉行ノ權詐吾ヲ死地ニ
措ントスルヲ知リテヨリ更ニ生ヲ幸ノ心ナシ
是亦平生学問ノ得力然ルナリ

一 今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル
所アリ蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋
苅冬藏ス秋冬ニ至レハ人皆其歳功ノ成ルヲ
悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歡声アリ未
タ曽テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ
聞カズ吾行年三十一事成ルコトナクシテ死シテ
禾稼ノ未タ秀デズ実ラサルニ似タレハ惜シム
ヘキニ似タリ然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ
是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀シマン何トナレハ
人寿ハ定リナシ禾稼ノ必ズ四時ヲ經ル如キニ非ズ
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ三十ハ自ラ三十ノ
四時アリ五十百ハ自ラ五十百ノ四時アリ十歳
ヲ以テ短トスルハ蟪蛄ヲシテ靈椿タラシメント欲
スルナリ百歳ヲ以テ長シトスルハ靈椿ヲシテ蟪
蛄タラシメント欲スルナリ斉シク命ニ達セストス
義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其
粟タルト吾ガ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其
微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ乃チ後来ノ
種子未タ絶ヘズ自ラ禾稼ノ有年ニ恥
サルナリ同志其是ヲ考思セヨ

一 東口揚屋ニ居ル水戸ノ郷士堀江克之助余
未タ一面ナシト雖トモ真ニ知己ナリ真ニ益友ナリ
余ニ謂テ曰昔シ矢部駿刕ハ桑名侯ヘ御預
ケノ日ヨリ絶食シテ敵讐ヲ詛テ死シ果シテ
敵讐ヲ退ケタリ今足下モ自ラ一死ヲ期スル
カラハ祈念ヲ篭テ内外ノ敵ヲ拂ハレヨ一
心ヲ残置テ給ハレヨト丁寧ニ告戒セリ
吾誠ニ此言ニ感服ス又鮎沢伊太夫ハ水
藩ノ士ニシテ堀江ト同居ス余ニ告テ曰今足下
ノ御沙汰モ未タ測ラレズ小子ハ海外ニ赴ケハ
天下ノ事總テ天命ニ付センノミ但シ天下ノ
益トナルヘキ事ハ同志ニ托シ後輩ニ残シ
度コトナリト此言大ニ吾志ヲ得タリ吾ノ
祈念ヲ篭ル所ハ同志ノ士甲斐々々シク吾
志ヲ継紹シテ尊攘ノ大功ヲ建テヨカシ
ナリ吾死ストモ堀鮎二子ノ如キハ海外ニ在
トモ獄中ニ在トモ吾カ同志タラン者願クハ交ヲ
結ベカシ又本所亀沢町ニ山口三輶ト云
医者アリ義ヲ好ム人ト見ヘテ堀鮎二子
ノ事ナト外間ニ在テ大ニ周旋セリ尤モ
及フヘカラサルハ未タ一面モナキ小林民部
ノ事二子ヨリ申遣タレハ小林ノ為メニモ亦
大ニ周旋セリ 此人想フニ不凡ナラン且
三子ヘノ通路ハ此三輶老ニ托スヘシ

一 堀江常ニ神道ヲ崇メ  天皇ヲ尊ヒ大道ヲ天
下ニ明白ニシ異端邪説ヲ排セント欲ス謂ラク 
天朝ヨリ教書ヲ開板シテ天下ニ頒示スルニ如カズ
ト余謂ラク教書ヲ開板スルニ一策ナカルヘカラズ京師ニ
於テ大学校ヲ興シ上 天朝ノ御学風ヲ天下ニ示シ又天下ノ
竒才異能ヲ京師ニ貢シ然ル後天下古今ノ正論確議ヲ
輯集シテ書トナシ天朝御教習ノ餘ヲ天下ニ分ツ時ハ天下ノ
人心自ラ一定スヘシト因テ平生子遠ト密議スル所ノ尊
攘堂ノ議ト合セ堀江ニ謀リ是ヲ子遠ニ任スルコトニ決ス
子遠若シ能ク同志ト謀リ内外志ヲ協ヘ此事ヲシテ
少シク端緒アラシメハ吾ノ志トスル所モ亦荒セズト云
フヘシ去年勅諚綸旨等ノ事一跌スト雖トモ尊皇攘
夷苟モ已ムヘキニ非レハ又善術ヲ設ケ前緒ヲ継紹
セズンハアルベカラズ京師学校ノ論亦竒ナラズヤ

一 小林民部云京師ノ学習院ハ定日アリテ百姓町人ニ至ルマテ
出席シテ講釈ヲ聴聞スルコトヲ許サル講日ニハ公卿方出座
ニテ講師菅家清家及ヒ地下ノ儒者相混スルナリ
然ラハ此基ニ因テ更ニ斟酌ヲ加ヘハ幾等モ妙策
アルヘシ又懐德堂ニハ靈元上皇宸筆勅額アリ
此基ニ因リ更ニ一堂ヲ興スモ亦妙ナリト小林云ヘリ
小林ハ鷹司家ノ諸大夫ニテ此度遠島ノ罪科ニ
處セラル京師諸人中罪責極テ重シ其人多材
多藝唯文学ニ深カラズ處事ノ才アル人ト見ユ
西奥揚屋ニテ余ト同居ス後東口ニ移ル京師ニテ
吉田ノ鈴鹿石刕同筑州別テ知己ノ由亦山口三輶
モ小林ノ為メニ大ニ周旋シタレハ鈴鹿カ山口カノ
手ヲ以テ海外マテモ吾同志ノ士通信ヲナスヘシ
京師ノ事ニ就テハ後来必ズ力ヲ得ル所アラン

一 讃ノ高松ノ藩士長谷川宗右衛門年来主君
ヲ諫メ宗藩水家ト親睦ノ事ニ付テ苦心セシ人
ナリ東奥揚屋ニアリ其子速水余ト西奥ニ同居ス
此父子ノ罪科何如未タ知ルヘカラス同志ノ諸友
切ニ記念セヨ予初テ長谷川翁ヲ一見セシトキ獄
吏左右ニ林立ス法隻語ヲ交ルコトヲ得ス翁
獨語スルモノヽ如シテ曰寧為玉砕勿為瓦全
ト吾甚タ其意ニ感ス同志其之ヲ察セヨ

一 右数條余徒ニ書スルニ非ス天下ノ事ヲ成スハ天下
有志ノ士ト志ト通スルニ非レハ得ス而シテ右数人
余此回新ニ得ル所ノ人ナルヲ以テ是ヲ同志ニ
告示スナリ又勝野保三郎早已ニ出牢ス就テ
其詳ヲ問知スベシ勝野ノ父豐作今潜伏スト
雖トモ有志ノ士ト聞ケリ他日事平ヲ待テ物
色スベシ今日ノ事同志ノ諸士戦敗ノ餘傷残
ノ同士ヲ問訊スル如クスベシ一敗乃挫折スル
豈勇士ノ事ナランヤ切ニ囑ス切ニ囑ス

一 越前ノ橋本左内二十六歳ニシテ誅セラル実ニ十月
七日ナリ左内東奥ニ坐スル五六日ノミ勝保同
居セリ後勝保西奥ニ来リ予ト同居ス予勝保ノ
談ヲ聞テ益々左内ト半面ナキヲ嘆ス左内幽囚
邸居中資治通鑑ヲ読ミ註ヲ作リ漢紀ヲ終ル
又獄中教学工作等ノ事ヲ論セシ由勝保予カ
為メニ是ヲ語ル獄ノ論大ニ吾意ヲ得タリ予
益々左内ヲ起シテ一議ヲ発センコトヲ思フ嗟夫

一 清狂ノ護国論及ヒ吟稿口羽ノ詩稿天下同志
ノ士ニ寄示シタシ故ニ余是ヲ水人鮎沢伊太夫
ニ贈ルコトヲ許ス同志其吾ニ代テ此言ヲ践マハ幸甚ナリ

一 同志諸友ノ内小田村中谷久保久坂子遠兄弟
等ノ事鮎沢堀江長谷川小林勝野等ヘ
告知シ置ヌ村塾ノ事須佐阿月等ノ事モ
告置ケリ飯田尾寺高杉及ヒ利輔ノ事モ
諸人ニ告置シナリ是皆吾カ苟モ是ヲナスニ非ス

かきつけ終りて後
心なることの種々かき置ぬ思残せることなかりけり
呼たしの聲まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉
討れたる吾をあわれと見ん人ハ君を崇めて夷拂へよ
愚なる吾をも友とめづ人ハわがとも友とめでよ人々
七たひも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや

十月廿六日黄昏書 二十一回猛士