『修養』より学ぶ!日本を担う若者に向けた新渡戸 稲造の熱きメッセージに向き合おう!

先の武士道の折にも触れた新渡戸稲造の代表作に『修養』という書物があります。
武士道より学ぶ!新渡戸稲造の表す思想と陽明学の精神!

日本の教育者・思想家として知られている新渡戸ですが、
・22歳でアメリカに留学し、農政学の専門家となり、
・当時日本領となった台湾で農業改革を成功させ、
・東京大学の教授、東京女子大学の初代学長を歴任し、
・スイスで国際連盟の事務局次長を務め、
「太平洋の架け橋」になることに一生を捧げた人物でもあります。

新渡戸が英語で書いた『BUSHIDO』はアメリカでも非常に評判になり、日露戦争当時の大統領セオドア・ルーズベルトやエジソンといった著名人の愛読書にもなりましたが、そんな新渡戸が当時50歳の折に、これからの日本を担う若者に向けて自己修養の方法を具体的なメッセージとして書かれたとても熱い書物『修養』が今回の整理の対象です。

『修養』は、明治44年8月に発行され、その年だけで14版を重ね、大正2年末までに28版、大正3年に縮刷版となり4年末に46版、5年3月に48版が刊行され、昭和9年までに148版を重ねたという大ベストセラー。
そんな『修養』の「序」には、
「若し本書にして、一人にても二人にても、迷うものの為に指導者となり、落胆せんとする者に力を添え、泣くものの涙を拭い、不満の者の心をなだめ得るなら、これぞ著者望外の幸」
とあるように、人生の生き方を説いた実用書である以上に、己の心を見つめる世界が語りかけた精神の書でありました。
まず新渡戸は、修養とは何を意味するかを問い、
「修養とは修身養心ということ」
「功名富貴は修養の目的とすべきではない」
「身と心との健全なる発達を図るのが其の目的」
で、難しく考えるのではなく「平凡な務」こそが大切で、
「人はややもすれば、職業だとか或は言語だとかを見て、非凡と平凡とを区別するが、併し実際は平生の心掛と品性とを標準として決するが至当」
となし、平生からの心掛けと品性の大切なことを説いています。
新渡戸はこの中で、青年が世に出る、己の志を立てる、理想に向かって生きる上で何が大切かについて語り、その上で「どこまでも自分を鍛えて、世の中に役立つ人間になりなさい」という、熱いメッセージを散りばめているのですね。

世界的視野を持っていた新渡戸は、「世界の中の日本」という目で当時の日本を見ていたはずです。
その日本の将来を輝けるものにするために、教育=人造りこそが国造りの基本であることを前提とし、その担い手である若者にこの『修養』を託したともいえるでしょう。

「青年とは大きな希望抱負を有する者を称するので、年齢の多少を問わない。
 ゆえに希望なき者は、いかに若年であっても、片足を棺桶に踏み込んでいるのと同じようなもので、希望さえあれば、三十になっても、六十になっても、すなわち青年というべきである。
 (中略)
 自分の決心と実行とが相伴って、より以上の向上発展が実現されたならば、それこそ真の年を取ったのである。
 暦を繰り返したからといって、必ずしも老年というのではない。」

「ぼくはむしろ、あくまでも逆境に耐えしのび、逆境の中からひとつの修養の材料を求めるようにしたい。
 ぼくのいう逆境の善用とはこの意味である。
 (中略)
 いわゆる逆境があればこそ、我々は人に対する情を覚えるのである。
 人の情を知らぬ者が、どうして人情の真味を味わうことができよう。
 武士はもののあわれを知るという。
 これを知らぬは真の武士ではない。
 わが身をつねって人の痛さを知れというように、逆境に陥り、逆境の何たるかを知った者でなければ、人情の真味を味わうことができない。」

「外部から見れば、確かに順風にいるらしく見えても、この順風に乗じて進むには容易ならぬ苦心がいる。
 その間の浮き沈みのために船酔いしないよう、少しばかり上にあがったからといって得意にならず、沈んでも怒ったり他人をうらやんだりしないように、心を動かさずに平坦に進むことは、いわゆる順風に処する秘訣であろうと思う。
 孟子はかつて、『四十にして心を動かさず』と言ったが、これはすなわち境遇のいかんによって心を動かさないという意味である。」

「今日の青年は、頭脳が発達し知識思想は進歩した。
 しかしこれに反し、宗教心は薄弱となり、信念が乏しく徳義心も薄く、たまたまある者も武ばって、さわやかに発達せぬ者が多い。
 かかる時代には、人生の心の祝福を感ずることはほとんどないと言うて差し支えない。
 したがって、心の奥底には常に不平の種子が潜んでおる。
 もし、少しでも逆境に遭うときは、たちまち煩悶となって行為に現われ、社会に不満となり、はなはだしき自らその生命を傷つける。
 (中略)
 不満の種子のそばに別の一粒の種子をまき、奥底にある不満も煩悶もすべてこれを善用するように、この種子を養成し、喬木とすることを心がけねばならぬ。」

『修養』は近代化を追求してきた日本の思想の系譜にあって、個人主義を根本とする今日の考え方とは対極にある「己に克つ」こと=「克己心」を主張しています。
この「克己心」については、己のどこに克つのかを知らなくてはならず、「怖じけ心」を挙げながら、これを攻略するに、「敵のありかを突き止めるのが大切だ、としているのですね。
その原因は怖じけ心そのものではなく、その奥にある心、すなわち人からよく見られたいとか評価されたいという、いわゆる色気だ、 と。
つまり、外見からすると第一の原因のように見えても、それは第二、第三の原因であることが多く、その奥に潜む第一原因を根治することが、「怖じけ心」を克服する方法だと指摘しています。
さらに、これを克服するに、いきなり大きなことから取り掛かろうとするのではなく、できること、小さなことからはじめて、それを積み重ねていくことが非常に大事であることを強調しています。
とくに、小さな実践を積み重ねる必要性として、
 「小事を積んではじめて大事を行う力ができる」
 「人が国のため、親のために一 身を犠牲にして笑って死におもむくのは、一朝にしてできることではない。毎日己に克ち、己以上のことを身に捨てることが段々と重なりあって、ようやくできる」といっています。

どうですか。

単なる鼓舞や啓蒙に終始するのではなく、その文面には新渡戸の深い愛情が感じられます。
小手先ばかりの自己啓発本が氾濫していますが、百年以上前に書かれた本書の神髄ははるかに深く得られることの多い、繰り返し読める書物の一つともいえます。

年齢は関係ありません。
まずは『修養』を手に取ってみてください。

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以下、参考までに一部抜粋です。

【修養 新渡戸稲造】

目次
 総説
 第一章 青年の特性
 第二章 青年の立志
 第三章 職業の選択
 第四章 決心の継続
 第五章 勇気の修養
 第六章 克己の工夫
 第七章 名誉に対する心懸
 第八章 貯蓄
 第九章 余が実験せる読書法
 第十章 逆境にある時の心得
 第十一章 順境にある時の心得
 第十二章 世渡りの標準
 第十三章 道
 第十四章 黙思
 第十五章 暑中の修養
 第十六章 暑中休暇後の修養
 第十七章 迎年の準備

すなわち修身とは克己なることが本となって、肉体情欲のために心を乱さぬよう、心が主となって身体の動作または志の向く所を定め、整然として、順序正しく、方角を誤らぬよう、挙動の乱れぬよう、進み行く意であろうと思う。

我々がたびたび履行せねばならぬ務めは平凡な問題で、脳漿を絞らなくとも、常識で判断のできるものである。しかしてまたこれが最も困難なる所である。否、判断のみでない。判断したことの実行こそ実に容易ならぬ難事である。この日々の平凡な務めを、満足に行い続けさえすれば、一生に一度あるか、なしかの大難題が起こるとも、これを解決するは容易である。ただ日々の平凡の務めを怠る者は、かかる大難題に出合うと、はなはだしく狼狽し、策の出ずる所を失う。ゆえに難題の解決も、要するに日々の平凡の務めをなし遂げることによって、初めてできることと思う。

世の人は、何か目立ったこと、非凡なこと、人を驚かすような、ドラマチックを喜ぶから、平凡なる日々の修養を軽視する風がある。しかし、これはむしろ未熟の思想であると思う。例えば、読本がようやく分かるかどうかという少年時代に、高尚な哲学書をひもときたがるごときものである。いかに説明を聞いても、半分も分からぬ。字書を引いても、同じく半解でありながら、ただ高尚な書を見れば、高尚な人らしく見えるのを楽しむ。それと同じく、修養なき者は、力の及ばぬ議論を吐き、識の足らぬ説を述べて、一時を快うするという風がある。しかし、修養ある人はそういうものであるまいと思う。生まれた子供は乳で育てるが、その後、だんだん、日を重ぬるに従い、堅い食物も消化することができるようになると等しく、義務を尽くすにもまた、その地位にあれば、その地位に相当するだけの義務をよく尽くした後、初めてそれ以上の義務を尽くすに足るの力を養い得るものである。

僕がここに修養法を説くに当たっても、我々が平凡なる日々の務めを尽くすに、必要な心がけを述ぶるを目的とするので、一躍して英雄豪傑の振る舞いをなし、むずかしいこと、世の喝采を受けることを目的とせぬ。功名富貴は修養の目的とすべきものでない。

順境の人の警戒すべき危険

順境の人は傲慢になりやすい
人が順境に立つ時は、すなわち順境の誘惑が出で来る。これがために、自分は逆境であるぞと覚悟していた時よりも、かえって不幸に陥ることがままある。しかして、僕は少なくも五個の危険が、順境の背後に潜んでいると思う。
順境に立つ人は、ややもすれば傲慢となる。いわゆる得意の人となりやすい。人に褒められると、今までは、それほどにも思わなかった者も、妙にのぼせ上がる。人が自分のことを、学者学者というと、自分も真に偉い学者であるかのごとく思い、人が才子であると称すれば、自分も才子であるかと思う気になる。
しかして、これは単に自分を偉いと思うだけにとどまらぬ。ひいて他人を見下し、したがってものを言うにも、高慢気となり、他人の欠点をさがすのを、何とも思わなくなる。人に対して無礼の振る舞いを意とせぬが、人が少しでも、無礼をすると、大いにその威厳を傷つけられたかのごとく思う。
かかる例は、世間にたくさんある。ほとんど毎日、この例を目撃せぬことはない。しかして、その変化の急激なことは、全く別人を見るがごとき思いをする。昨日まで困窮して、卑屈の態度を持していた者が、今朝一片の辞令書を受け取ると、その瞬間から、都大路を狭しと横行闊歩する者もある。その変化のはげしい態度を見ると、こんないやなものは世間に少ないと思う。
少し油断すると、役人などにこんな者が多い。近頃は、だんだんに減少するようであるが、しかし、それでも役人、ことに小役人には、こんな型の人がすこぶる多い。もっとも、これは決して役人に限った弊害でない。いかなる職業にある人でも、少し持てて来かけると、たいていこの傲慢心が萌しやすいものである。度量の小さい者は、小さいのに反比例して、逆上の度が高いようである。