小泉八雲より学ぶ!日本の風物と心の深層を愛し、その民族の底に潜んでいる「日本の品格」を見出した人物を知っているか!

今日(6月27日)は、ギリシャ出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者としての肩書を持つ、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) )の生誕165年目にあたる日です。
来日前から八雲は日本に魅力を感じており、特に英訳の『古事記』などを読んでいたため、神々の国・出雲地方の松江市をこの上なく気に入り、松江こそ真に古き良き日本の文化伝説が残っていると考え、ここを「神々の国の首都」と呼んでこよなく愛したそうです。
八雲は、西洋では失われた自然への畏敬、八百万の神々への信仰が日本では生きていることに驚き、心から共感し、日本の民話や伝説、怪談などを聞き集め、それを作品にまとめて海外に紹介していますし、松江では昔ながらの日本の家に住み、着物を着て、日本食を食べ、日本の習慣に親しんだといわれています。
1896年(明治29年)、妻セツの小泉家に入夫し日本に帰化してから「八雲」と名乗っていますが、その「八雲」の名は、松江市の旧国名(令制国)である出雲国に因み、またセツの養祖父が『古事記』にある最初の和歌「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」からとって命名してくれたものといわれています。
こよなく出雲を愛した八雲にとって「古事記」に由来した名前を持つことは、どれ程誇らしかったのでしょうか。
日本人以上に日本を愛し、品格とは何かを日本人以上に理解していたギリシャのレフカダ島生まれの彼が、明治の日本と日本人の心のありようを、流暢な文章に載せて全世界に紹介し、イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルローなどと並んで日本の本当の姿を海外に知らしめた功績は多大なものです。

八雲の代表作には、『知られぬ日本の面影』『怪談』『神国日本』などがあります。

『知られぬ日本の面影』では、一時期住んだ松江の風情・情緒が八雲の心に深く日本のイメージを刻み込み、それが日本の愛すべき人々と風物を印象的に描き、アニミスティックな文学世界、世界観、日本への想いを色濃く伝える著作となって表れています。
 「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。
  これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。
  それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。
  ・・・
  人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。
  『こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。
   世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。
  たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない」

『怪談』では、単なるこけおどしのお化けや幽霊ではなく、怪談を通じて根本的な日本人の心の深層を色濃く投影しようとしたことが伺えます。

絶筆となった『神国日本』では、日本の強さを伝統的宗教の強さと同様に、物には現れていなくて、日本人の「民族の底に潜んでいる『民族の品格』」にあると述べ、彼自身が日本人として生活するなかで、西洋社会が失ってしまった古き良きものを日本のなかに発見しようと試みた著作ともいえます。

八雲が追求し、一連の作品の中に描いたものは、民族の品格であり「日本の品格」でした。
これを機に、一度小泉八雲を見直してみてはいかがでしょうか。

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『怪談』

【耳無芳一の話(The Story of Mimi-Nashi-Hoichi)】
七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮もがいていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。

芳一には出世の首途かどでの際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下したじたを呼びつけるような風に――
『芳一!』
芳一はあまりに吃驚びっくりしてしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許とこへ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。ところで、お前がその戦争いくさの話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』
当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居とのいの衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの!芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後しまいの段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭ふき込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。
芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下くさりを語れという殿様の御所望で御座いますか?』
女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦いくさの話をお語りなされ――その一条下ひとくさりが一番哀れの深い処で御座いますから』
芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧うまい琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦おののき慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前ごぜんで演奏わざをお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』

芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。

芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
芳一は言い※(「しんにゅう+官」、第3水準1-92-56)れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし!少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。

すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後うしろと周囲まわりと、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅ばかされているのだ!……芳一さん!』
しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚※(「口+戛」、第3水準1-15-17)※(「口+戛」、第3水準1-15-17)と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅ばかされていたのは確かなので、一同は芳一を捕つかまえ、その身体からだをもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。
芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
すると住職は云った……
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ!もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった!お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影まぼろしだ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為するがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』

日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐こわがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』

日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……
縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。
遂に自分のすぐ傍そばであらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』
その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた!痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……

日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然ぞっとして声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……
住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた!そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ――出来るだけ早く、その傷を治なおすより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』

深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。

【おしどり(Oshidori)】
陸奥国の鷹匠・村丞(Sonjo)はある日の猟を終え家に帰る途中、赤沼という地でおしどりがつがいで川を泳いでいるのに出くわします。
猟で獲物が捕れず腹を空かせていたため、村丞は躊躇いつつもつがいに矢を向け、雄のおしどりを仕留めました。
雌が逃げ出すのを見送り、彼は仕留めた獲物を持ち帰って食べました。

その夜、村丞は夢をみます。美しい女が枕もとにたち、さめざめと泣くのです。
「どうしてあの人を殺したりなさったのでしょう。あの人がいなければ私も生きていけません。――明日赤沼へいらっしゃれば、あなたがどんなにひどいことをしたのかを思い知ることでしょう」
そのあまりにも悲痛な泣き声に、村丞は胸が張り裂けんばかりになりました。

翌日、夢でみた女の言葉が気になり村丞が赤沼へ行ってみると、昨日の雌のおしどりも彼に気付いてこちらへ向かってきました。
そして彼の目の前まで来ると突然、自らのからだをそのくちばしでつき破り、命を絶ったのです。

その後村丞は剃髪をし、仏門に入ったということです。

【お貞の話(The Story of O-Tei)】
お貞は医者の息子・長尾長生と婚約していた。
2人は長生の修業を待って結婚することになっていたが、生来病弱だったお貞はその日を待たずに亡くなってしまう。
必ずやまたこの現世で合える日が来る、その日を待っていてくれと長生に言い残して。

悲しみにくれ毎日お貞の仏前で拝んでいた長生だったが、やがて父親の薦めもあり一人の女性と結婚した。
それからというもの彼の身に不幸が続き、両親、妻、子どもを相次いで亡くした長生は傷心の旅に出る。

その旅の末行き着いた一軒の宿で出会った、お貞そっくりの少女。
彼女こそが、お貞の生まれ変わりだったのだ。
お貞の死から実に17年ぶりの再会であった。

その後2人は結婚し幸せな生活を送ったが、再会の日以来、お貞が前世の記憶を取り戻すことは決してなかったという。

【乳母桜(Ubazakura)】
村長の徳兵衛の一人娘・お露が重い病にかかってしまう。皆が途方にくれる中、乳母のお袖も心配し連日、西芳寺の不動明王のもとに回復祈願に向かった。

その甲斐もあってかお露は元気になり、皆それを喜んだ。
しかし突然、今度は乳母のお袖が病に倒れる。死の間際にお袖は、自らの命のかわりにお露の命を救ってもらうこと、そしてそのお礼に一本の桜の木を植えることを不動明王に約束したのだと皆に告げて亡くなった。

お袖の遺志をついだ徳兵衛たちの手によって西芳寺の庭に植えられた桜は、それから毎年100年以上もの間お袖の命日にあわせて見事な花をつけてきたという。その白とピンクの花が乳にぬれた乳母の乳首のようだと、人々はその桜を「乳母桜」と呼んだ。

【駆け引き(Diplomacy)】
自らの死刑執行が迫る中、自分が死んだら化けて出て仕返しをしてやると、男は恨みをこめて役人を見上げた。
そこで役人は「死した後もその憤りが消えぬと言うならば、それを証明してみるがよい」とある提案をする。
それは、切り落とされたその首で踏み石に噛み付いてみよというもので、興奮していた男もその申し出を受けた。

いよいよ死刑が執行され、切り落とされた男の首は地面を転がり、まさに踏み石に噛み付く格好となって息絶えた。
それを目撃した家来たちは、これは必ずや男の祟りがあるに違いないと恐れおののき、幻覚・幻聴に悩まされる始末。

しかし当のお役人はけろっとした様子でこのように言った。
「心配には及ばんよ。あの時、死にゆく男の頭には、私の言った『踏み石に噛み付く』という目的しかなかったはず。それを為し遂げた今、奴には何も思い残すことはあるまい」と。

【鏡と鐘 (Of A Mirror And A Bell)】
無間山の寺で、大鐘をつくる材料にするためとして鏡を寄付するよう檀家の女性たちに求めた。

その娘も求めに応じて鏡を差し出したが、その鏡が母親から、またその母親からと代々継がれてきた鏡だということを思い出しひどく後悔する。
今更返してくれと言えるわけもなく、こっそり盗もうとしてもそれも叶わず、娘はたいそう悲しんだ。

さて、無間山に集められた鏡はみな溶かされ鐘をつくる材料となるわけだが、その中に一つどうしても溶けない鏡がある。それはまさしくあの娘の鏡であった。
それが不信心にも寺への寄付を後悔している女がいるためだ、という噂はすぐに広まった。
いたたまれなくなった娘は「自分が死ねば鏡は容易く溶け鐘も造れよう。だが、その鐘を打って壊してくれた者には私の霊魂の力で大金が授かるだろう」との書き置きを残して川に身投げした。

かくして鐘は完成し、娘の噂を聞いた多くの者が鐘をつきに押し寄せた。
しかし上物の鐘はいくらついても壊れる様子はみせず、連日連夜響く鐘の音に悩まされた僧たちは、ついには鐘を沼へ転がり落としそれおさめた。
この話は、無間の鐘の伝説として人々に語り継がれていった。

――

それから後、平家の武士・梶原景季とその旅に添っていた梅が枝の二人が、旅銀も底をつき途方にくれていた時のこと。
梅が枝がふとこの無間の鐘の話を思い出し、手水鉢を鐘になぞらえて壊れるまで叩き続けると、大量の小判が出てきたという話がある。

また、この梅が枝の例にならい、とある百姓が無間の鐘をまねて粘土で鐘をつくりそれを打ったところ、目の前に白い着物をきた女が現れ百姓につぼを手渡して消えていった。
果たしてその中に何が入っていたのか――いや、それは言わないでおこう。

【食人鬼(Jikininki)】
禅僧・夢想国師は美濃の山中で道に迷い、山頂でようやく見つけた庵室に一夜の宿を乞うた。
庵室の老僧はそれを拒否したが、かわりに近くの村へと続く道を教えてくれた。

しかしその日はある村人が亡くなったため、村のしきたりで皆、遺体を残し村を離れなければならないという。
心配する村人たちを見送り、通夜を引き受け遺体とともに夜を明かす事になった夢想は、その夜恐ろしい光景を目にする。
何物か大きな影が、遺体を供物もろともむさぼり喰い、去っていったのだ。

翌日、村に帰った者たちにその夜の事を話したところ、それが村の慣習なのだという。
そこで夢想は庵室の老僧のことを思い出し、彼に葬儀は執ってもらわぬのかと尋ねると、山にはそんな僧も庵室もないはずだと、村人は首をかしげるばかりだった。

気になった夢想が再び山頂を訪れると、果たして庵室はそこにある。
老僧は彼を招き入れ、昨夜見たのは、生前道心を蔑ろにし衣食のためにのみ法事を行い続けたばかりに「食人鬼」となった己の死後の姿であると言って深く恥じていた。
因果に苦しみ続けた老僧は、救いを求めて夢想の前に姿を現したのである。

夢想に願いが聞き届けられると、彼は庵室とともに消えていった。
そして夢想は、足元に五輪石を見つける。それは老僧の墓石であった。

【むじな(Mujina)】】
東京、赤坂通りの紀伊国坂には「むじな」が出るという噂があり、夜になる頃には全く人も寄り付かぬ。
最後にむじなを見たという男の話は斯様である――

ある夜、すっかり暗くなった紀伊国坂を男が歩いていると、堀のそばで女がうずくまって泣いている。
心配して声をかけても、女はただただうつむいて泣くばかり。
必死になだめなんとか顔をあげさせると、その女の顔はなんと、目も鼻も口もないのっぺらぼうであった。

驚いた男は慌てふためいて坂を登り、灯りの見えたそば屋の屋台に駆け込んだ。
男が主人に事の次第を話そうとしてどもっていると、
「おまえさんが見たのは、これのことかい?」
そう言った主人ののっぺらぼうが現れるとともに、屋台の灯りがふっと消えた。

【ろくろ首(Rokuro-kubi)】
五百年ほど前に、九州菊池の侍臣に磯貝平太左衞門武連たけつらと云う人がいた。この人は代々武勇にすぐれた祖先からの遺伝で、生れながら弓馬の道に精しく非凡の力量をもっていた。未だ子供の時から劒道、弓術、槍術では先生よりもすぐれて、大胆で熟練な勇士の腕前を充分にあらわしていた。その後、永享年間(西暦一四二九―一四四一)の乱に武功をあらわして、ほまれを授かった事たびたびであった。しかし菊池家が滅亡に陥った時、磯貝は主家を失った。外の大名に使われる事も容易にできたのであったが、自分一身のために立身出世を求めようとは思わず、また以前の主人に心が残っていたので、彼は浮世を捨てる事にした。そして剃髪して僧となり――囘龍と名のって――諸国行脚に出かけた。
しかし僧衣の下には、いつでも囘龍の武士の魂が生きていた。昔、危険をものともしなかったと同じく、今はまた難苦を顧みなかった。それで天気や季節に頓着なく、外の僧侶達のあえて行こうとしない処へ、聖い仏の道を説くために出かけた。その時代は暴戻乱雑の時代であった。それでたとえ僧侶の身でも、一人旅は安全ではなかった。

始めての長い旅のうちに、囘龍は折があって、甲斐の国を訪れた。ある夕方の事、その国の山間を旅しているうちに、村から数理を離れた、はなはだ淋しい処で暗くなってしまった。そこで星の下で夜をあかす覚悟をして、路傍の適当な草地を見つけて、そこに臥して眠りにつこうとした。彼はいつも喜んで不自由を忍んだ。それで何も得られない時には、裸の岩は彼にとってはよい寝床になり、松の根はこの上もない枕となった。彼の肉体は鉄であった。露、雨、霜、雪になやんだ事は決してなかった。
横になるや否や、斧と大きな薪の束を脊負うて道をたどって来る人があった。この木こりは横になっている囘龍を見て立ち止まって、しばらく眺めていたあとで、驚きの調子で云った。
「こんなところで独りでねておられる方はそもそもどんな方でしょうか。……このあたりには変化へんげのものが出ます――たくさんに出ます。あなたは魔物を恐れませんか」
囘龍は快活に答えた、「わが友、わしはただの雲水じゃ。それゆえ少しも魔物を恐れない、――たとえ化け狐であれ、化け狸であれ、その外何の化けであれ。淋しい処は、かえって好む処、そん処は黙想をするのによい。わしは大空のうちに眠る事に慣れておる、それから、わしのいのちについて心配しないように修業を積んで来た」
「こんな処に、お休みになる貴僧は、全く大胆な方に相違ない。ここは評判のよくない――はなはだよくない処です。「君子危うきに近よらず」と申します。実際こんな処でお休みになる事ははなはだ危険です。私の家はひどいあばらやですが、御願です、一緒に来て下さい。喰べるものと云っては、さし上げるようなものはありません。が、とにかく屋根がありますから安心してねられます」
熱心に云うので、囘龍はこの男の親切な調子が気に入って、この謙遜な申出を受けた。きこりは往来から分れて、山の森の間の狭い道を案内して上って行った。凸凹の危険な道で、――時々断崖の縁を通ったり、――時々足の踏み場処としては、滑りやすい木の根のからんだものだけであったり、――時々尖った大きな岩の上、または間をうねりくねったりして行った。しかし、ようやく囘龍はある山の頂きの平らな場所へ来た。満月が頭上を照らしていた。見ると自分の前に小さな草ふき屋根の小屋があって、中からは陽気な光がもれていた。きこりは裏口から案内したが、そこへは近処の流れから、竹の筧で水を取ってあった。それから二人は足を洗った。小屋の向うは野菜畠につづいて、竹藪と杉の森になっていた。それからその森の向うに、どこか遥かに高い処から落ちている滝が微かに光って、長い白い着物のように、月光のうちに動いているのが見えた。

囘龍が案内者と共に小屋に入った時、四人の男女が炉にもやした小さな火で手を暖めているのを見た。僧に向って丁寧にお辞儀をして、最も恭しき態度で挨拶を云った。囘龍はこんな淋しい処に住んでいるこんな貧しい人々が、上品な挨拶の言葉を知っている事を不思議に思った。「これはよい人々だ」彼は考えた「誰かよく礼儀を知っている人から習ったに相違ない」それから外のものが「あるじ」と云っているその主人に向って云った。
「その親切な言葉や、皆さんから受けたはなはだ丁寧なもてなしから、私はあなたを初めからのきこりとは思われない。たぶん以前は身分のある方でしたろう」
きこりは微笑しながら答えた。
「はい、その通りでございます。ただ今は御覧の通りのくらしをしていますが、昔は相当の身分でした。私の一代記は、自業自得で零落したものの一代記です。私はある大名に仕えて、重もい役を務めていました。しかし余りに酒色に耽って、心が狂ったために悪い行をいたしました。自分の我儘から家の破滅を招いて、たくさんの生命を亡ぼす原因をつくりました。その罸があたって、私は長い間この土地に亡命者となっていました。今では何か私の罪ほろぼしができて、祖先の家名を再興する事のできるようにと、祈っています。しかしそう云う事もできそうにありません。ただ、真面目な懺悔をして、できるだけ不幸な人々を助けて、私の悪業の償いをしたいと思っております」
囘龍はこのよい決心の告白をきいて喜んで主人に云った、
「若い時につまらぬ事をした人が、後になって非常に熱心に正しい行をするようになる事を、これまでわしは見ています。悪に強い人は、決心の力で、また、善にも強くなる事は御経にも書いてあります。御身は善い心の方である事は疑わない。それでどうかよい運を御身の方へ向わせたい。今夜は御身のために読経をして、これまでの悪業に打ち勝つ力を得られる事を祈りましょう」
こう云ってから囘龍は主人に「お休みなさい」を云った。主人は極めて小さな部屋へ案内した。そこには寝床がのべてあった。それから一同眠りについたが、囘龍だけは行燈のあかりのわきで読経を始めた。おそくまで読経勤行に余念はなかった。それからこの小さな寝室の窓をあけて、床につく前に、最後に風景を眺めようとした。夜は美しかった。空には雲もなく、風もなかった。強い月光は樹木のはっきりした黒影を投げて、庭の露の上に輝いていた。きりぎりすや鈴虫の鳴き声は、騒がしい音楽となっていた。近所の滝の音は夜のふけるに随って深くなった。囘龍は水の音を聴いていると、渇きを覚えた。それで家の裏の筧を想い出して、眠っている家人の邪魔をしないで、そこへ出て水を飲もうとした。襖をそっとあけた。そうして、行燈のあかりで、五人の横臥したからだを見たが、それにはいずれも頭がなかった。
直ちに――何か犯罪を想像しながら――彼はびっくりして立った。しかし、つぎに彼はそこに血の流れていない事と、頭は斬られたようには見えない事に気がついた。それから彼は考えた。「これは妖怪に魅ばかされたか、あるいは自分はろくろ首の家におびきよせられたのだ。……「捜神記」に、もし首のない胴だけのろくろ首を見つけて、その胴を別の処にうつしておけば、首は決して再びもとの胴へは帰らないと書いてある。それから更にその書物に、首が帰って来て、胴が移してある事をさとれば、その首は毬のようにはねかえりながら三度地を打って、――非常に恐れて喘ぎながら、やがて死ぬと書いてある。ところで、もしこれがろくろ首なら、禍をなすものゆえ、――その書物の教え通りにしても差支はなかろう」……
彼は主人の足をつかんで、窓まで引いて来て、からだを押し出した。それから裏口に来てみると戸が締っていた。それで彼は首は開いていた屋根の煙出しから出て行った事を察した。静かに戸を開けて庭に出て、向うの森の方へできるだけ用心して進んだ。森の中で話し声が聞えた、それでよい隠れ場所を見つけるまで影から影へと忍びながら――声の方向へ行った。そこで、一本の樹の幹のうしろから首が――五つとも――飛び※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って、そして飛び※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りながら談笑しているのを見た。首は地の上や樹の間で見つけた虫類を喰べていた。やがて主人の首が喰べる事を止めて云った、
「ああ、今夜来たあの旅の僧、――全身よく肥えているじゃないか、あれを皆で喰べたら、さぞ満腹する事であろう。……あんな事を云って、つまらない事をした、――だからおれの魂のために、読経をさせる事になってしまった。経をよんでいるうちは近よる事がむつかしい。称名を唱えている間は手を下す事はできない。しかしもう今は朝に近いから、たぶん眠ったろう。……誰かうちへ行って、あれが何をしているか見届けて来てくれないか」
一つの首――若い女の首――が直ちに立ち上って蝙蝠のように軽く、家の方へ飛んで行った。数分の後、帰って来て、大驚愕の調子で、しゃがれ声で叫んだ、
「あの旅僧はうちにいません、――行ってしまいました。それだけではありません。もっとひどい事には、主人の体を取って行きました。どこへ置いて行ったか分りません」
この報告を聞いて、主人の首が恐ろしい様子になった事は月の光で判然と分った。眼は大きく開いた、髪は逆立った、歯は軋きしった。それから一つの叫びが唇から破裂した、忿怒の涙を流しながらどなった、
「からだを動かされた以上、再びもと通りになる事はできない。死なねばならない。……皆これがあの僧の仕業だ。死ぬ前にあの僧に飛びついてやろう、――引き裂いてやろう、――喰いつくしてやろう。……ああ、あすこに居る――あの樹のうしろ――あの樹のうしろに隠れている。あれ、――あの肥ふとた臆病者」……
同時に主人の首は他の四つの首を随えて、囘龍に飛びかかった。しかし強い僧は手ごろの若木を引きぬいて武器とし、それを打ちふって首をなぐりつけ、恐ろしい力でなぎたててよせつけなかった。四つの首は逃げ去った。しかし、主人の首だけは、いかに乱打されても、必死となって僧に飛びついて、最後に衣の左の袖に喰いついた。しかし囘龍の方でも素早くまげをつかんでその首を散々になぐった。どうしても袖からは離れなかったが、しかし長い呻きをあげて、それからもがくことを止めた。死んだのであった。しかしその歯はやはり袖に喰いついていた。そして囘龍のありたけの力をもってしても、その顎を開かせる事はできなかった。
彼はその袖に首をつけたままで、家へ戻った。そこには、傷だらけ、血だらけの頭が胴に帰って、四人のろくろ首が坐っているのを見た。裏の戸口に僧を認めて一同は「僧が来た、僧が」と叫んで反対の戸口から森の方へ逃げ出した。
東の方が白んで来て夜は明けかかった。囘龍は化物の力も暗い時だけに限られている事を知っていた。袖についている首を見た――顔は血と泡と泥とで汚れていた。そこで「化物の首とは――何と云うみやげだろう」と考えて大声に笑った。それからわずかの所持品をまとめて、行脚をつづけるために、徐ろに山を下った。
直ちに旅をつづけて、やがて信州諏訪へ来た。諏訪の大通りを、肘に首をぶら下げたまま、堂々と濶歩していた。女は気絶し、子供は叫んで逃げ出した。余りに人だかりがして騒ぎになったので、捕吏とりてが来て、僧を捕えて牢へ連れて行った。その首は殺された人の首で、殺される時、相手の袖に喰いついたものと考えたからであった。囘龍の方では問われた時に微笑ばかりして何にも云わなかった。それから一夜を牢屋ですごしてから、その土地の役人の前に引き出された。それから、どうして僧侶の身分として袖に人の首をつけているか、なぜ衆人の前で厚顔にも自分の罪悪の見せびらかしをあえてするか、説明するように命ぜられた。
囘龍はこの問に対して長く大声で笑った、それから云った、
「皆様、愚僧が袖に首をつけたのではなく、首の方から来てそこへついたので――愚僧迷惑至極に存じております。それから愚僧は何の罪をも犯しません。これは人間の首でなく、化物の首でございます、――それから化物が死んだのは、愚僧が自分の安全を計るために必要な用心をしただけのことからで、血を流して殺したのではございません」……それから彼は更に、全部の冒険談を物語って、五つの首との会戦の話に及んだ時、また一つ大笑いをした。
しかし、役人達は笑わなかった。これは剛腹頑固な罪人で、この話は人を侮辱したものと考えた。それでそれ以上詮索しないで、一同は直ちに死刑の処分をする事にきめたが、一人の老人だけは反対した。この老いた役人は審問の間には何も云わなかったが、同僚の意見を聞いてから、立ち上って云った、「まず首をよく調べましょう、これが未だすんでいないようだから。もしこの僧の云う事が本当なら、首を見れば分る。……首をここへ持って来い」
囘龍の背中からぬき取った衣にかみついている首は、裁判官達の前に置かれた。老人はそれを幾度も※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、注意深くそれを調べた。そして頸の項うなじにいくつかの妙な赤い記号らしいものを発見した。その点へ同僚の注意を促した。それから頸の一端がどこにも武器で斬られたらしい跡のない事を見せた。かえって落葉が軸から自然に離れたように、その頸の断面は滑らかであった。……そこで老人は云った、
「僧の云った事は全く本当としか思われない。これはろくろ首だ。「南方異物志」に、本当のろくろ首の項うなじの上には、いつでも一種の赤い文字が見られると書いてある。そこに文字がある。それはあとで書いたのではない事が分る。その上甲斐の国の山中にはよほど昔から、こんな怪物が住んでおる事はよく知られておる。……しかし」囘龍の方へ向いて、老人は叫んだ――「あなたは何と強勇なお坊さんでしょう。たしかにあなたは坊さんには珍らしい勇気を示しました。あなたは坊さんよりは、武士の風がありますな。たぶんあなたの前身は武士でしょう」
「いかにもお察しの通り」と囘龍は答えた。「剃髪の前は、久しく弓矢取る身分であったが、その頃は人間も悪魔も恐れませんでした。当時は九州磯貝平太左衞門武連と名のっていましたが、その名を御記憶の方もあるいはございましょう」
その名前を名のられて、感嘆のささやきが、その法廷に満ちた。その名を覚えている人が多数居合せたからであった。それからこれまでの裁判官達は、たちまち友人となって、兄弟のような親切をつくして感嘆を表わそうとした。恭しく国守の屋敷まで護衛して行った。そこでさまざまの歓待饗応をうけ、褒賞を賜わった後、ようやく退出を許された。面目身に余った囘龍が諏訪を出た時は、このはかない娑婆世界でこの僧ほど、幸福な僧はないと思われた。首はやはり携えて行った――みやげにすると戯れながら。

さて、首はその後どうなったか、その話だけ残っている。
諏訪を出て一両日のあと、囘龍は淋しい処で一人の盗賊に止められて、衣類を脱ぐ事を命ぜられた。囘龍は直ちに衣ころもを脱して盗賊に渡した。盗賊はその時、始めて袖にかかっているものに気がついた。さすがの追剥ぎも驚いて、衣ころもを取り落して、飛び退いた。それから叫んだ、「やあ、こりゃとんでもない坊さんだ。おれよりもっと悪党だね。おれも実際これまで人を殺した事はある、しかし袖に人の首をつけて歩いた事はない。……よし、お坊さん、こりゃおれ達は同じ商売仲間だぜ、どうしてもおれは感心せずには居られない。ところで、その首はおれの役に立ちそうだ。おれはそれで人をおどかすんだね。売ってくれないか。おれのきものと、この衣ころもと取り替えよう、それから首の方は五両出す」
囘龍は答えた、
「お前が是非と云うなら、首も衣も上げるが、実はこれは人間の首じゃない。化物の首だ。それで、これを買って、そのために困っても、わしのために欺かれたと思ってはいけない」
「面白い坊さんだね」追剥ぎが叫んだ。「人を殺してそれを冗談にしているのだから、……しかし、おれは全く本気なんだ。さあ、きものはここ、それからお金はここにある。――それから首を下さい。……何もふざけなくってもよかろう」
「さあ、受け取るがよい」囘龍は云った。「わしは少しもふざけていない。何かおかしい事でももしあれば、それはお前がお化けの首を、大金で買うのが馬鹿げていてはおかしいと云う事だけさ」それから囘龍は大笑をして去った。

こんなにして盗賊は首と、衣を手に入れてしばらく、お化の僧となって追剥ぎをして歩るいた。しかし諏訪の近傍へ来て、彼は首の本当の話を聞いた。それからろくろ首の亡霊の祟りが恐ろしくなって来た。そこでもとの場所へ、その首をかえして、体と一緒に葬ろうと決心した。彼は甲斐の山中の淋しい小屋へ行く道を見つけたが、そこには誰もいなかった。体も見つからなかった。そこで首だけを小屋のうしろの森に埋めた。それからこのろくろ首の亡霊のために施餓鬼を行った。そしてろくろ首の塚として知られている塚は今日もなお見られる。

【葬られた秘密(A Dead Secret)】
丹波の豪商の娘・お苑は京に出て花嫁修業をした後、父親の知人の商家に嫁いだが、それからわずか4年で病気で亡くなってしまう。
そして葬儀が済んでからというもの、お苑の幽霊が彼女の使っていた部屋に出るようになり、家族の者は心配になって禅寺の大玄和尚に相談した。

その夜和尚が件の部屋に行くと、彼女の幽霊は何かもの言いたげな様子で箪笥を見つめている。
和尚が箪笥を調べてみると、一番下の引き出しに一通の手紙が隠されていた。
それは、お苑が京にいた頃に受け取った恋文であった。

和尚は家族の誰の目にも触れぬように手紙を燃やしてしまおうと約束した。
するとお苑は、安心したように微笑んで、姿を消した。

【雪女(Yuki-Onna)】
武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。

茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。
老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。
彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……

あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。

翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。

お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。
田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。
ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……
仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』
そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……
お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……
彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。

【青柳物語(The Story of Aoyagi)】
能登畠山氏に仕える侍・友忠は、主人の命を請け京の細川氏の許に向かっていた。
途中吹雪で立ち往生したところを、偶然見つけた茅葺きの家を訪ね、老夫婦に迎えられる。

その家の娘・青柳の美しさに惹かれた友忠は、彼女に求婚し一緒に京へと連れてくる。
青柳が細川氏に見初められてしまい、二人が引き離されようかという場面もあったが、細川氏の粋な計らいで二人はめでたく結婚し幸せな生活を送った。

しかし結婚から5年後のある日、青柳が突然ひどい激痛に襲われる。
痛みにあえぎながら青柳は、自分が柳の精であることを告白し、自らの宿る木を切り倒されてしまったために自分も死ぬのだと友忠に告げて、消えていってしまった。

出家し旅僧となった友忠は再びあの茅葺きの家を訪ねたが、そこには家の代わりに、古い柳の切り株が2本と若い切り株が1本、もう切り倒されて随分たっていたという。
友忠はそこに墓をつくり、青柳と両親のために祈りを捧げた。

【十六桜(Jiu-Roku-Zakura)】
伊予の国には、毎年旧暦1月16日、「十六桜」と呼ばれ雪空の中そのたった一日だけ花を咲かせるという古い桜の木があった――

これはある侍の話である。
彼が子どもだった頃、その桜の木は他と同様春に花を咲かせ、家族の目を楽しませていた。
しかしある夏のこと、彼はすっかり大人になり家族も皆失っていたが、そんな彼の唯一の支えであった桜の木も枯れてしまう。

大いに嘆き悲しみ、なんとか桜の木を救えないかと考え抜いた彼が見つけた唯一の方法は、自分の命と引き換えに桜を蘇らせることだった。
かくして彼が桜の下で自ら命を絶ったのが、1月16日。以来、桜に宿った彼の魂が、毎年美しい花を咲かせているのだという。

【安芸之助の夢(The Dream of Akinosuke)】
安芸之介はある日、郷士仲間の2人と庭の木陰でおしゃべりをしている最中に眠気におそわれ、うたた寝をしてしまった。

彼が目を覚ますと、大名行列の一行が近づいてくる。
その豪奢さに驚いて眺めていたが、なんとその行列は彼の家の前で止まったのである。
彼らは常世の国王の使者であり、安芸之介を家来として召喚したいということだった。

驚くままに使者に連れられて常世の王宮にやって来た安芸之介は、王の娘婿として厚く迎えられる。
そして王宮の南西にある島の統治を任され、そこで美しい妻と沢山の子どもたちに囲まれ穏やかな生活を送った。
しかし結婚から23年目、妻に先立たれ、哀しみにくれながら安芸之介は妻を美しい丘に埋葬した。

妻の死の悲しみも癒えた頃。
再び常世の王からの命で島をあとにした安芸之介だったが、ふと気が付くと、元の庭の木陰で目を覚ましていたのだった。
23年もの時が経ったはずが、2人の友人は眠る前と相変わらずお喋りをしている。
彼が常世の国で過ごした日々は、昼寝をしている数分の間に見た夢であった。

友人たちは彼が寝ている間に奇妙なものを見ていた。
彼の周りを飛んでいた小さな蝶が、地面に止まったところを大きなアリに巣穴に引き込まれていき、しばらくして巣穴からまた戻ってきた。そして突然ふっと消えてしまったという。

蝶は安芸之介の魂、アリは鬼だったのではと考えた彼らは、巣穴を掘り返してみた。
すると地面の下には都市のミニチュアのような巨大なアリの巣が広がっていた。中心には王宮のような巨大な空間、南西にはあの島と思われる場所もある。
自分が夢の中で過ごした場所だと確信した安芸之介が、あの丘にあたる場所を探すと、その下にはメスのアリが埋められていたという。

【力ばか(Riki-Baka)】
脳の障害から2歳程度の知能しか持たないその力(リキ)という若者を、村人たちは「力ばか」と呼んで何かと気にかけてやっていた。
力が亡くなった時、彼の母親は息子を不憫に思い、今度生まれ変わる時は幸せになれるようにと、願いを込めて彼の手のひらに「力ばか」と名前を刻んだ。

そして3ヵ月後、米麹の某お屋敷で生まれた男の子の左手には、まさしくあの「力ばか」の文字が浮かび上がっていたのである。
しかし「ばか」という字が子どもの手に在るのを良く思わなかったお屋敷の主人は、力の墓から取ってきたた土で子の手をこすり、その字を消してしまった。

【向日葵】
ある夏の日、まだ幼かった私は、ロバートと裏庭でフェアリーリングを探していた。
そうこうしている内に、街に吟遊詩人がやってくるのが見えて、私たちは山をかけおりていった。

その男の浅黒い肌、しかめっ面に無骨な手、とても吟遊詩人にはふさわしくないその風貌に、がっかりとしたものだ。
ところがその男の詩は、この上なく不快ながら胸をわしづかみにして離さないその声で、また次の瞬間響き渡る甘い調べで、思わず叫び出したくなるような衝撃を私に残していった。

ロバートはその男をジプシーと呼んだ。悪い魔法をかけて子どもたちをさらっていくのだと。

ふと見つけた向日葵が、40年もの間私の内に眠っていたあの男の声を呼び起こしたのは、昨日の事である。

私はあのウェールズの夏に思いを馳せる。その瞬間、ロバートが今も隣にいるような気がした。
結局、フェアリーリングは見つからなかったのだが。

【蓬莱】
床の間の「蜃気楼」という名の日本画の掛け軸には、聖地蓬莱の門が描かれている。

蓬莱とは、中国の言い伝えに在る、死も苦しみもなく、冬の訪れもないと言われる地のことである。
こうした言い伝えは多くあるが、本当にそんな場所があるとはとても信じがたい。
死も、冬の厳しい寒さも、確実に存在するはずである。

蓬莱において真に神秘的なものは、その大気であろう。
太陽より、やわらかなそれでいて確かな光を届けるこの地の大気は、古来より先祖代々の幾人もの死者の魂が混ざり合ったものである。
世の者がこの大気を吸うことで感化され、その体験から言い伝えも生まれたのだと思われる。

死者の伝えるものは、理想への思いであり、古き世の希望への憧れである。
そこにあるのはただ、互いに信頼し合い愛し合う、無私の美である。

しかし西方より訪れる悪魔の風によって、今ではその大気も薄れてしまった。
蜃気楼という名のとおり、もはや触れることはおろか、この目で見ることさえも絵や詩、夢の中でしか叶わない。