さて周瑜は諸葛瑾の言葉を聞いて諸葛亮を憎み、生かしてはおけぬと決意した。
魏軍の糧道を諸葛亮に襲わせることで敵に殺させようとしたが、逆に諸葛亮は
「得意と言えば水の上の戦いしかない周瑜殿とは違い、いずれの戦も意のままである。」
と言った。怒った周瑜は
「わしが1万の軍勢で糧道を絶ってみせる。」
と言った。
魯粛は
「魏を破ってから彼の事は考えた方がよいではござらぬか。」
と言い、周瑜もこれに同意した。
さて劉備は劉琦に江夏の守備を命じて夏口に移ろうとしたが、東呉がすでに出陣したのを知って樊口に陣を構えた。糜竺は諸葛亮の安否を気にして東呉に向かった。周瑜は
「魏を破るには今彼は必要な人材故、手放せぬ。それより劉備殿にお越し頂き軍略を練りたいと思っております。」
と言って糜竺に劉備を誘い出させた。
魯粛は劉備暗殺を諌めたが周瑜は聞き入れずひそかに号令を出した。糜竺の言葉を聞いて劉備は関羽を連れて周瑜のもとに向かった。周瑜は酒宴を開きもてなしたが、頃合いを見計らって盃を投げて合図を出そうとした。しかし、関羽を見て慌てて名を聞いた。劉備が答えて、
「弟の関羽でござる。」
「あの、文醜、顔良を斬ったとかいう。」
と驚くと、冷や汗をたらして盃を関羽に与えた。
さて、周瑜が劉備を送り出して本陣に戻ったところに魯粛が来て何故暗殺しなかったのかを聞いた。関羽がいて果たせなかった事を言うと魯粛は愕然とした。そこに曹操からの使者が来て書面を渡した。書面には、
「漢の大丞相より周都督へ致す」
とあった。怒った周瑜は使者を斬って、甘寧を先鋒、韓当を左翼、蒋欽を右翼に命じて自ら諸将を率いて出陣した。
曹操も使者が斬られて大いに怒って蔡瑁、張允らの荊州で降伏した大将に先鋒を命じて自ら後詰めの大軍を率いて三江口に殺到した。曹操の軍勢は水上戦にはなれていないため三江口では周瑜が大勝した。
曹操は周瑜と親交のあった蒋幹に呉の様子を探らせた。周瑜は久々の再会に蒋幹をもてなした。そして、すっかり酔ってしまった振りをして蒋幹に蔡瑁と張允の内通の手紙を見せた。それに驚いた蒋幹は戻って曹操に伝えた。曹操は怒って蔡瑁、チョウインを処刑した。後で周瑜の策略であった事に気付いたにだが、誤りを認めず
「あの者は軍律を乱したので斬って棄てたのじゃ。」
と言って毛玠と于禁を水軍大都督に命じた。これを知った周瑜は大いに喜んで
「皆の者はわしの計略には気付かなかったであろうが、諸葛亮だけはわしの上じゃ。おそらく彼の目は欺けまい。」
と言った。そして、魯粛に諸葛亮の探りを入れさせた。