『三国志演義』三国時代に至る数多くの乱世の風「合すること久しければ必ず分かれる」

『三国志(正史)』を元にして施耐庵あるいは羅貫中によって描かれた『三国志演義』を日々お届けしているところですが、改めてここ三国時代に至るまでの多くの乱世の風を少し整理しておこうと思います。

『三国志演義』の壮大なる物語に触れてみませんか?史書への精通に裏打ちされた通俗歴史小説のスケール感を楽しみましょう!
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『三国志演義』の冒頭で
「そもそも天下の大勢は、分かれること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かれるもの」
と歌われているように、三国時代に限らず権力とは未来永劫、ひとつのところに安住することはありませんでした。
夏王朝に始まり、殷、周、秦へと王朝が交代していった原因は、夏王朝の傑王、殷王朝の紂王、周王朝の幽王といった暴君が自ら乱を招いて台頭するものに政権を奪われていったためです。

春秋戦国時代に幕を下ろして中国を統一した秦の始皇帝でさえも、
・「焚書坑儒」といって、それまでの書を焼き払い儒者を虐殺し
・民を酷使して巨大な始皇帝陵や阿房宮を建設させ、
・民への数々の締め付けを持って、人々を苦しめた
結果、奢淫暴虐と評され、政権の崩壊を招いたことは自明です。

楚の項羽と漢の劉邦が合して秦を滅ぼしたのちも、「合従連衡」の言葉そのもので次には楚と漢が争い始めます。
遊侠の徒を率いて敗走を繰り返す劉邦に対し、連戦連勝の才気ほとばしる項羽の圧倒的な勝利を誰しも疑わなかったのに、慢心し先々で虐殺行為を繰り返した項羽から「信」という宝剣が抜け落ちていきます。
やがて垓下へ追い詰められた項羽は、愛妾・虞美人を前に自らの愚かさをこうさらけ出します。
「力は山を抜き、気は世を蓋う。
 時、利あらず、騅、逝かず。
 騅の逝かざるをいかにすべき。
 虞よ、虞よ、なんじをいかにせん!」
ついに項羽は自らの首を刎ね、劉邦による天下統一が実現し、400年以上に渡る強大な漢帝国が出現するのです。

しかし、高祖・劉邦が打ち立てた前漢や、光武帝・劉秀が再建した後漢も
「そもそも天下の大勢は、分かれること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かれるもの」
からは逃れることは出来ませんでした。
政治が乱れ、国力が衰える中、26代皇帝・桓帝、27代皇帝・霊帝の愚かさゆえに、漢帝国は滅亡の運命を歩み始めます。

蜀の諸葛亮が『出師の表』において「未だ嘗て、桓・霊に嘆息痛恨せずんばありざりき」と言わしめた程で、民の苦しみを顧みず、栄華を享受し続けたばかりか、清貧とは真逆の悪政ばかりを繰り返した結果、民は私大に後漢帝国に大きな不満を抱くようになり、やがて民衆の怒りは爆発。
各地で農民達を中心とした反乱が頻発し、社会は動乱の時代を迎えるようになってしまったのです。
こうした乱世の渦の中、やがて三国時代が到来していく、当時はこうした時代背景があったわけです。

引き続き、『三国志演義』もお楽しみください。

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