『三国志演義』第二回 張翼徳怒って督郵を鞭うち、何国舅謀って宦官を誅す!

 董卓を殺そうとした張飛をあわてて劉備と関羽が引き止めた。
「我らは生死を誓った仲。役人を斬って追われよりここを去ろう。」と言い、張飛も
「それなら、腹の虫もいくらかおさまる。」と、その場を去る。
 3人は手勢を引き連れて、朱儁のもとで戦う。
 張角の弟、地公将軍張遼の軍と戦い、副将コウショウを張飛が討ち取る。
 しかし、深く敵陣へ切り込めば張苞は妖術にて撃退する。
 高昇の命を受けた劉備は、妖術を封じる術を用いて再び張苞に戦いを挑む。
 術が破れた張苞は退却した。
 そのころ、敗北続きの中郎将董卓にかわって、皇甫嵩が人公将軍張遼を破った。
 この時すでに天公将軍張角は病死しており地公将軍張遼が後を継いでいた。
 その張遼も皇甫嵩に斬られた。
 皇甫嵩はその功で車騎将軍に任ぜられた。
 朱儁もこれを聞き、人公将軍張苞を攻めたてていたが敵将厳政が張苞の首を献じ降参した。
 かくして官軍により黄巾の乱は平定された。

 各地に残る黄巾の残党を朱儁率いる劉備達がけちらし、途中孫権とともに活躍した。
 朱儁が都に帰ると車騎将軍に封じられ河南の伊に任ぜられた。
 そして孫権はつてをもとめて別郡司馬に任ぜられた。
 しかし、劉備には何の沙汰もない。
 街中で劉備は郎中チョウキンの車と行き会い、自分の功績を訴えた。
 郎中チョウキンは直ちに帝に
 「黄巾の乱の発端は十常侍の悪政にあり、その乱を鎮めた者達に恩賞が与えられておりませぬ。」と上奏した。
 しかし、十常侍は
「郎中チョウキンは陛下を欺く賊にございます。」と上奏し、郎中チョウキンは追放された。
十常侍は功労のあった者が官を授けられなかったのを恨んでこのような事にならないように、劉備に小さな官職を授けた。
 こうして劉備は中山府安喜県の県尉に任ぜられ役所に着任した。
 1ヶ月もするとその善政に民衆はなついた。
 4ヶ月ほどすると、都からの視察の督郵が劉備を訪れた。
 そして賄賂を要求したが、これを断ったために督郵の怒りを買い官職を召し上げられた。
 これに怒った張飛は督郵を打ち据えた。
 一度は止めた劉備だがこのままでは漢のために立ち上がった意味がないと関羽に言われ、官印をはずして代州へ行っ
た。
 代州で劉璝のもとに身を寄せ、劉璝は劉備が漢王室の血を引くと知ると幽州牧劉虞に紹介し反乱を鎮圧に向かわせた。
 劉備は、これを鎮圧した功績により平原県令に着任した。

 中平六年(189年)夏、霊帝の病気に伴い大将軍カシンが後事を議するために宮中に向かった。
 その途中で、十常侍のケンセキが命を狙っていることに気付き引き返した。
 すでに霊帝は崩御しており十常侍のケンセキが協皇子をたてようとしており、これを大将軍カシンは袁術率いる5千の兵と、荀攸ら三十余人の重臣を従えて宮廷に入るや霊帝の柩の前で太子弁を擁立して皇帝に即位させた。
 式が終わるや、袁術は、十常侍ケンセキを討ちに乗り込んだ。
 十常侍郝昭は十常侍ケンセキを討った。
 何皇后は
「争いの発端の十常侍ケンセキは討たれた今他の者に罪はない。」と争いをやめさせた。
 たが、袁術は、宦官を根絶やしにすることを勧めた。
そして、大将軍カシンに諸国に檄を飛ばし英雄達を集結させるよう進言した。
「このような事になんと大げさな。」
 一同声の主を見れば曹操であった。

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