七福神は、福をもたらすとして七柱の神様ユニットですが、これは日本特有の習合文化の顕著なものです。
今回は、古来より福をもたらすめでたい象徴としての七福神を整理してみます。
”大黒天”はインドのヒンドゥー教の神マハーカーラ神と大国主命の習合となったもので、台所の神として最澄が比叡山で祀ることから始まっています。
憤怒の神としてなぞらえられ、食物・財福を司る神として徐々に民間に広まっていきます。
”恵比寿”はイザナミ・イザナギの間に生まれた子・蛭子ないしは大国主命の子・事代主命を祀ったもので、唯一日本由来の神です。
古くは大漁追福の漁業の神でしたが、時代と共に福の神として商売繁盛や五穀豊穣をもたらす商業や農業の神となり、恵比寿とペアで祀られるようになりました。
”毘沙門天(多聞天)”はインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、戦いの神でしたが、仏教に習合され四天王の一神として北方を守護するようになり、やがて福徳増進の神として信仰されるようになりました。
平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった”毘沙門天・恵比寿・大黒天”を三神として信仰されるようになります。
この三神セットのパターンはかなり後まで一般的でしたが、平安末期から鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると”毘沙門天”ではなく”恵比寿・大黒・弁才天”とするケースも増えていきました。
”弁才天(弁財天)”は、インドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神で、仏教に習合され、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女として信仰されるようになりました。
七福神の中の紅一点ですが、神道の女神アメノウズメノミコトと入れ代わることもあったようです。
室町時代、仏教の”布袋尊”、道教の”福禄寿・寿老人”などが中国から入ってきて、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものです。
”布袋尊”は、唐の末期の明州に実在したといわれる仏教の禅僧・釈契此で、弥勒菩薩の化身ともいわれています。
太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる神です。
”福禄寿”は、道教の宋の道士天南星または道教の神で南極星の化身の南極老人として、長寿と福禄、人望をもたらす神です。
寿老人と同一神とされることもあります。
”寿老人(白鬚明神)”は、道教の神で南極星の化身の南極老人(カノープス)として、長寿と富貴、寿命をもたらす神です。
”寿老人”の代わりに”吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩”などと入れ代わることもあったようです。
江戸自体前半になり、現在と同じ七福神が揃うようになってきます。
以前御朱印のことについて整理しましたが、7つの神々に開運祈願をして各社寺の御朱印を集めるといった風習は、一説には江戸幕府が開かれた折に、上野寛永寺の開祖天海僧正から”人生に7つの福徳が大切である”という話しを聞いて、庶民が守り神として広めたそうです。(あくまで一説)
当時は一般的に
・元旦から新春七草(七日)までの間に各寺社を巡り、
・福神をかたどった小さな像を授かり、
・七体を宝船に乗せて神棚に祀った
慣習があったようです。
七福神を宝船に乗せた絵も流行し、正月2日夜、その絵を枕の下に置いて寝ると、縁起の良い初夢を見られるともいわれていたようです。
明治時代になるとそういった七福神信仰も衰退していましたが、やがてブームが復活し今に至っています。
七福神めぐりも全国100箇所以上に点在しているようです(地域によってかなり偏りはあるようですが)ので、(特に正月云々にこだわることなく)普段の運動不足解消がてら、巡ってみてはいかがでしょう。
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