福翁自伝より学ぶ!福沢諭吉の知への姿勢と現代への私達へ伝える熱い熱を感じてみてはいかが!

「門閥制度は親の敵で御座る」の言葉でも知られる『福翁自伝』は、口述筆記をとらせた後に自身が加筆・補訂してほぼ1ヵ年で完結した福沢諭吉の自伝で、大半は幕末・明治初年の間における諭吉の青年時代の叙述に費やされています。
その叙述は平明でリアリティーに富んでおり、自伝文学の白眉であるとともに歴史的な史料としても大変貴重なものとされており、門閥制度を敵とし「一身独立」のために闘ってきた前半生を、肩肘張らずに描き出しているところに、その大いなる魅力の源泉があります。

そこには「読書にくたびれ眠くなってくれば、机の上につっぷして眠るか、あるいは床の間の床ぶちを枕にして眠るか、ついぞ本当に布団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない」と語る程に、学問に向き合う喜びがあふれており、欧米諸国に留学し、西洋精神に目覚め、慶應義塾を創立するに至る諭吉の「知への姿勢」は、21世紀の私達にとっても非常に学ぶところが多いものです。

かといって、型苦しいだけのものではなく、激動の時代を痛快に、さわやかに生きた諭吉の破天荒なエピソードが収められており、口語体での記述ということも相まって非常に読み易いものとなっています。

人間というものは、だれでも無限の可能性を秘めています。
勿論その可能性を開花させることは個々人の努力次第ではあるものの、その努力は必ず報われるものだということを、『福翁自伝』の中で伝えようとしている諭吉の熱すらここでは感じることができるのです。

改めて日本人が生きる上でヒントの数々を与えてくれる『福翁自伝』。
是非とも一読あれ。

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以下、参考までに一部抜粋です。

【福翁自伝 福沢諭吉】

幼少の時

 福沢諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福沢百助、母は同藩士族橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来るというのですから、足軽よりは数等宣しいけれども、士族中の下級、今日でいえばまず判任官の家でしょう。
藩でいう元締役を勤めて、大阪にある中津藩の蔵屋敷に長く勤番していました。
それゆえ家内残らず大阪に引っ越していて、私共は皆大阪で生まれたのです。
兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。
私の生まれたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。
ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。
跡に遺る母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。
斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。

兄弟五人 中津の風に合わず

 さて中津に帰ってから私の覚えていることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一緒に混和することが出来ない、その出来ないというのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。
マア何十人という従兄弟がある。
また近所の子供も幾許もある、あるけれどもその者らとゴチャックチャになることは出来ぬ。
第一言葉が可笑しい。
私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と言うところを、私共は「そうでおます」なんと言うような訳で、お互いに可笑しいからまず話が少ない。
それからまた母はもと中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、子供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。
有合の着物を着せるから、自然、中津の風とは違わなければならぬ。
着物が違い言葉が違うという外には何も原因はないが、子供のことだから何だか人中に出るのを気恥かしいように思って、自然、内に引っ込んで兄弟同士遊んでいるというような風でした。
それからもう一つこれに加えると、私の父は学者であった。
普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司る役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。
金銭なんぞ取り扱うよりも読書一遍の学者になっていたいという考えであるに、存じ掛けもなく算盤を執って金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとかいう仕事で、今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。
ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。

儒教主義の教育

 私は勿論幼少だから手習いどころの話でないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家には町家の子供も来る。
そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。
二二が四、二三が六。
これは当然の話であるが、そのことを父が聞いて「怪しからぬことを教える。
幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。
こういう所に子供くを遣って置かれぬ。
何を教えるか知れぬ。
さっそく取り返せ」と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。
何でも大変喧しい人物であったことは推察が出来る。
その書き遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心屋漏に愧じずということばかり心掛けたものと思われるから、その遺風はおのずから私の家には存していなければならぬ。
一母五子、他人を交えず世間の附合いは少なく、明けても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです。
ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思って、骨肉の従兄弟に対してさへ、心の中には何となくこれを目下に見下していて、それらの者のすることは一切咎めもせぬ、多勢に無勢、咎め立てをしようといっても及ぶ話でないと諦めていながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、いわば人を馬鹿にしていたようなものです。
今でも覚えているが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛びまわり刎ねまわりして、至極活発にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことが出来ずに孤立したせいでしょう。

厳ならずして家風正し

 今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語(げんぎょ)風俗を殊にして、他人の知らぬところに随分淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極正しい。
厳重な父があるでもないが、母子睦じく暮して兄弟喧嘩などただの一度もしたことがない、のみか、仮初にも俗な卑陋なことはしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧しい六かしい人でないのに、自然にそうなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。
その事実に現れたことを申せば、鳴物などの一条で、三味線とか何とかいうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。
かようなものは、全体私なんぞの聞くべきものでない、いわんや玩ぶべきものでないという考えを持っているから、ついぞ芝居見物など念頭に浮かんだこともない。
たとえば、夏になると中津に芝居がある。
祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令が出る。
芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立ち寄ること相成らぬ、住吉の社の石垣より以外に行くことはならぬというその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、ただ一片の御布令だけのことであるから、俗士族は脇差を一本挟して頬冠りをして颯々と芝居の矢来を破って這入る。
もしそれを咎めれば却って叱り飛ばすというから、誰も怖がって咎める者はない。
町の者は金を払って行くに、士族は忍姿で却って威張って只這入って見る。
しかるに中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは凡そ私のところ一軒ぐらいでしょう。
決して行かない。
ここから先は行くことはならぬと言えば、一足でも行かぬ、どんなことがあっても。
私の母は女ながらもついぞ一口でも芝居のことを子供に言わず、兄もまた行こうと言わず、家内中一寸でも話がない。
夏、暑い時のことであるから涼みには行く。
しかしその近くで芝居をしているからといって、見ようともしない、どんな芝居をやっているとも噂にもしない、平気でいるというような家風でした。

 前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。
されば中津を蹴飛ばしてして外に出れば宣い。
ところが決してソンナ気はなかった様子だ。
如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじていたのは、時勢のために進退不自由なりし故でしょう。
私は今でも独り気の毒で残念に思います。

成長の上坊主にする

 たとえば、父の生前にこういうことがある。
今から推察すれば父の胸算に、福沢の家は総領に相続させる積りで宜しい、ところが子供の五人目に私が生まれた、その生まれた時は大きな瘠せた骨太な子で、産婆の申すに「この子は乳さえ沢山のませれば必ず見事に育つ」と言うのを聞いて、父が大層喜んで「これは好い子だ、この子がだんだん成長して十か十一になれば寺に遣って坊主にする」と、毎度母に語ったそうです。
そのことを母がまた私に話して「アノとき阿父さんは何故坊主にすると仰ッしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になっている筈じゃ」と、何かの話の端には母がそう申していましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経っても一寸とも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様、何年経っても一寸とも変化というものがない。
ソコデ私の父の身になって考えてみれば、到底どんなことしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主というものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったというような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると言ったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。

門閥制度は親の敵

 こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。
また初生児の行末を謀り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。
私のために門閥制度は親の敵で御座る。

 私は坊主にならなかった。
坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。
ところが誰も世話の為人がない。
私の兄だからとといって兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間はみな女の子、母もまたたった一人で、下女下男を置くということの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜をこしらえたりして五人の子供の世話をしなければならぬから、なかなか教育の世話などは存じ掛けもない。
いわばヤリ放しである。
藩の風で幼少の時から論語を読むとか大学を読むくらいのことは遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もいない。
殊に誰だって本を読むことの好きな子供はいない。
私一人本が嫌いということもなかろう、天下の子供みな嫌いだろう。
私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりいて何もしない。
手習いもしなければ本も読まない。

年十四五歳にして初めて読書に志す

 根ッから何にもせずにいたところが、十四か十五になってみると、近所に知っている者はみな本を読んでいるのに、自分独り読まぬというのは外聞が悪いとか恥かしいとか思ったのでしょう。
それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。
どうも十四、五になって初めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。
外の者は詩経を読むの書経を読むのというのに、私は孟子の素読をするという次第である。
ところがここに奇なことは、その熟で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をするということになると、私は天稟、少し文才があったのか知らん、よくその意味を解して、朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。
先生は文字を読むばかりでその意味は受け取りの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗なら訳けはない。
その中、塾も二度か三度更えたことがあるが、最も多く漢書を習ったのは、白石(しらいし)という先生である。
そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。

左伝通読十一遍

 白石の塾にいて漢書は如何なるものを読んだかと申すと、経書を専らにして論語孟子は勿論、すべての経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経というものは本当に講義をして貰って善く読みました。
ソレカラ、蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子というようなものも能く講義を聞き、その先は私独りの勉強、歴史は史記を始め、前後漢書、晋書、五代史、元明史略 というようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度び読み返して、面白いところは暗記していた。
それで一ト通り漢学者の前座ぐらいになっていたが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑していた。
広瀬淡窓などのことは、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと言って居られました。
先生がそう言えば門弟子もまたそういう気になるのが不思議だ。
淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下していて、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章といわれるなら、誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。
仮令い舌足らずで屹ったところが意味は通ずるというようなものだ」なんて大層な剣幕で、先生からそう教え込まれたから、私共も山陽外史のことば軽く見ていました。
白石先生ばかりでない。
私の父がまたその通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付き合わぬ。
野田笛浦という人が父の親友で、野田先生はどんな人は知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむといえば、笛浦先生は浮気でない学者というような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたというから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。

手端器用なり

 以上は学問の話ですが、なおこの外に申せば、私は旧藩士族の子供に較べてみると手の先の器用な奴で、物の工夫をするようなことが得意でした。
たとえば井戸に物が墜ちたといえば、如何いう塩梅にしてこれを揚げるとか、箪笥の錠が明かぬといえば、釘の尖などを色々に曲げて遂に見事にこれを明けるとかいう工夫をして面白がっている。
また障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論、親類へ雇われて張りに行くこともある。
兎に角に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。
ソレカラだんだん年を取るに従って仕事も多くなって、固より貧士族のことであるから、自分で色々工夫して、下駄の鼻緒もたてれば雪駄の剥れたのも縫うということは私の引受けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも繕うてやる。
或いは畳針を買って来て畳の表を附け替え、また或いは竹を割って桶の箍を入れるようなことから、そのほか戸の破れ屋根の漏りを繕うまで、当前の仕事で、みな私が一人でしていました。
ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を拵えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。
刀の身を磨ぐことは知らぬが、鞘を塗り柄を巻き、そのほか金物の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。
今でも私の塗った虫食い塗りの脇差の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。
すべてコンナ事は近所に内職をする士族があって、その人に習いました。

鋸鑢に驚く

 金物細工をするに鑢は第一の道具で、これも手製に作って、その制作には随分苦心していたところが、その後、年経て私が江戸に来てまず大いに驚いたことがある、と申すは、ただの鑢は鋼鉄をこうしてこうやれば私の手にもオシオシ出来るが、鋸鑢ばかりは六かしい。
ソコデ江戸に這入ったとき、今思えば芝の田町、所も覚えている、江戸に這入って往来の右側の家で、小僧が鋸の鑢の目を叩いている。
皮を鑢の下に敷いて鏨で刻んで颯々(さっさ)と出来る様子だから、私は立ち留ってこれを見て、心の中で「さてさて大都会なる哉、途方もないことが出来るもの哉、自分らは夢にも思わぬ、鋸の鑢を拵えようということは全く考えたこともない、然るに子供がアノ通りやっているとは、途方もない工芸の進んだ場所だ」と思って、江戸に這入ったその日に感心したことがあるというような訳けで、少年の時から読書の外は俗なことばかりして俗なことばかり考えていて、年を取っても兎角手先の細工事が面白くて、動もすれば鉋だの鑿だの買い集めて、何か作ってみよう、繕うてみようと思うその物はみな俗な物ばかり、いわゆる美術という思想は少しもない。
平生万事至極殺風景で、衣服住居などに一切頓着せず、如何いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。
着物の上着か下着かソレモ構わぬ。
まして流行の縞模様など考えてみたこともない程の無風流なれども、何か私に得意があるかと言えば、刀剣の拵えとなれば、これは善く出来たとか、小道具の作柄釣合が如何とかいう考えはある。
これは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。

青天白日に徳利

 それから私が世間に無頓着ということは、少年から持って生まれた性質、周囲の事情に一寸とも感じない。
藩の小士族などは、酒、油、醤油、などを買うときは、自分自ら町に使いに行かねばならぬ。
ところがそのころの士族一般の風として、頬冠をして宵出掛けて行く。
私は頬冠は大嫌いだ。
生まれてからしたことはない。
物を買うのに何だ、銭をやって買うに少しも構うことはないという気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟すが、徳利を提げて、夜はさておき白昼公然、町の店に行く。
銭は家の銭だ、盗んだ銭じゃないぞというような気位で、却って藩中者の頬冠をして見栄をするのを可笑しく思ったのは少年の血気、自分独り己惚ていたのでしょう。
ソレカラまた家に客を招く時に、大根や牛蒡を煮て食わせるということについて、必要があるから母の指図に従って働いていた。
ところで私は、客などがウジャウジャ酒を飲むのは大嫌い。
俗な奴等だ、呑むなら早く呑んで帰ってしまえば宣いと思うのに、なかなか帰らぬ。
家は狭くて居所もない。
仕方ないから客の呑んでる間は、私は押し入れの中に這入って寝ている。
何時でも客をする時には、客の来るまでは働く、けれども夕方になると、自分も酒が好きだから颯々と酒を呑んで飯を食って押入れに這入ってしまい、客が帰ったあとで押入れから出て、何時も寝る所に寝直すのが常例でした。

 それから、私の兄は年を取っていて色々の朋友がある。
時勢論などをしていたのを聞いたこともある、けれども私は、それについて嘴を容れるような地位でない。
ただ追い使われるばかり。
そのとき中津の人気は如何かといえば、学者は挙って水戸の御隠居様、即ち烈公のことと、越前の春嶽様の話が多い。
学者は水戸の老公と言い、俗では水戸の御隠居様と言う。
御三家のことだから譜代大名の家来は大変に崇めて、仮初にも隠居などと呼び捨てにする者は一人もいない。
水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居ったから、私も左様思っていました。
ソレカラ江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭でも屹と様付にして、これもなかなか評判が高い。
あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸と聞いて、なにそのくらいのことは誰でも出来るというような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着で敷布団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。
スルト母はこれを見て「何の真似か、ソンナことをする風邪を引く」と言って、頻りに止めるけれども、トウトウ聴かずに一冬通したことがあるが、これも十五、六歳のころ、ただ人に負けぬ気でやったので、身体も丈夫であったとおもわれる。

 また当時世間一般のことであるが、学問といえば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、ただ他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んでいました。
帆足先生といえばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に「鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くというのは大間違い」というその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。
兄も矢張り先輩に倣うて、算盤の高尚なところまで進んだ様子です。
この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他はいわゆる孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。

兄弟問答

 あるとき兄が私に問いを掛けて「お前はこれから先、何になる積りか」と言うから、私が答えて「左様さ、まず日本一の大金持になって思うざま金を使うてみようと思います」と言うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が反問して「兄さんは如何なさる」と尋ねると、真面目に「死に至るまで孝悌忠信」とただ一言で、私は「ヘーイ」と言ったきりそのままになったことがあるが、まず兄はソンナ人物で、また妙なところもある。
あるとき私に向かって「乃公(おれ)は総領で家督をしているが、如何かして六かしい家の養子になってみたい。
何とも言われない頑固な、ゴク喧しい養父母に事(つか)えてみたい。
決して風波を起させない」と言うのは、畢竟養父母と養子との間柄の悪いのは養子の方の不行届だと説を極めてたのでしょう。
ところが私は正反対で「養子は忌なことだ、大嫌いだ。
親でもない人を誰が親にして事える者があるか」というような調子で、折々は互いに説が違っていました。
これは私の十六、七のころと思います。

  母もまた随分妙なことを悦んで、世間並みには少し変わっていたようです。
一体、下等社会の者に付き合うことが数寄で、出入りの百姓町人は勿論、えたでも乞食でも颯々と近づけて、軽蔑もしなければ忌がりもせず、言葉など至極丁寧でした。
また宗教について、近所の老婦人たちのように普通の信心はないように見える。
例えば家は真宗でありながら、説法も聞かず「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、可笑しくてキマリが悪くて出来ぬ」と常に私共に言いながら、毎月、米を袋に入れて寺に持って行って墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。
阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。
檀那寺の和尚は勿論、また私が漢学塾に修行して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主がいて、毎度私所に遊びに来れば、母は悦んでこれを取持って馳走でもするというような風で、コンナ所を見れば、ただ仏法が嫌いでもなうようです。
とにかくに、慈善心はあったに違いない。

乞食の虱をとる

 ここに誠に汚い奇談があるから話しましょう。
中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ、チエといって、毎日市中を貰ってまわる。
ところが此奴が汚いとも臭いとも言いようのない女で、着物はボロボロ、髪はボウボウ、その髪に虱がウヤウヤしているのが見える。
スルト母が毎度のことで天気の好い日などには、「おチエ此方に這入って来い」と言って、表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼び出される。
拾うように取れる虱を取っては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、「この石の上のを石で潰せ」と申して、私は小さい手ごろな石をもって構えている。
母が一匹取って台石の上に置くと、私はコツリと打潰すという役目で、五十も百も、まずその時に取れるだけ取ってしまい、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせてくれた褒美に飯を遣るという極りで、これは母の楽しみでしたろうが、私は汚くて汚くて堪らぬ。
今思い出しても胸が悪いようです。

反故を踏みお札を踏む

 また私の十二、三歳のころと思う。
兄が何か反故を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないか」と大層な剣幕だから「アア左様でございましたか、私は知らなんだ」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずじゃ、御名を足で踏むとは如何いう心得である、臣士の道は」と、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずにはいられぬ。
「私が悪うございましたから堪忍して下さい」と御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。
「何のことだろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだ」と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いと言えば、神様のお名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。
「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場に持って行って遣ろう」と、一歩を進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。
「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんなことを言わんでも宜いのじゃ」と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず姉にも言われず、言えば屹(きつ)と叱られるから、一人で窃(そつ)と黙っていました。

稲荷様の神体を見る

 ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄りなどの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起して、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けて見たら、石が這入っているから、その石を打擲ってしまって代りの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟(のぼり)を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから、私は可笑しい。
「馬鹿め、乃公の入れて置いた石にお御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と、独り嬉しがっていたというような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸もない。
ト筮(うらない)呪詛(まじない)一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。
子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。

 ある時に大阪から妙な女が来たことがあるその女というのは、私共が大阪に居る時に邸に出入りをする上荷頭(うわにがしら)の伝法寺屋松右衛門というものの娘で、年のころ三十ぐらいでもあったかと思う。
その女が中津に来て、お稲荷様を使うことを知っていると吹聴するその次第は、誰にでも御弊(ごへい)を持たして置いて何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠(とっつ)くとか何とか言って、頻りに私の家に来て法螺を吹いている。
それからその時に私は十五、六の時だと思う。
「ソリャ面白い、やって貰おう、乃公がその御幣を持とう、持っている御幣が動き出すというのは面白い、サアもたしてくれろ」と言うと、その女がつくづくと私を見ていて「坊さんはイケマヘン」と言うから、私は承知しない。
「今誰にでもと言ったじゃないか、サアやって見せろ」と、酷くその女を弱らして面白かったことがある。

門閥の不平

 ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平でたまらぬというのは無理でない。
一体、中津の藩風というものは、士族の門閥制度がチャント定まっていて、その門閥の堅いことは常に藩の公用についてのみならず、今日私の交際上、子供の交際に至るまで、貴賎上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かっては丸で言葉が違う。
私などが上士族に対して「アナタがどうなすって、こうなすって」と言えば、先方では「貴様がそう為(し)やって、こう為やれ」と言うような風で、万事その通りで、何でもないただ子供の戯れ遊びにも門閥が付いてまわるから、どうしても不平がなくてはいられない。
その癖今の貴様とか何とかいう上下士族の子弟と学校に行って、読書会読というようなことになれば、何時でも此方が勝つ。
学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。
それがその交際、朋友互いに交わって遊ぶ子供遊びの間にも、ちゃんと門閥というものを持って横風至極だから、子供心に腹が立ってたまらぬ。

下執事の文字に叱られる

 況(ま)して大人同士、藩の御用を勤めている人々に貴賎の区別はなかなか喧しいことで、私が覚えているが、あるとき私の兄が家老のところに手紙をやって、少し学者風でその表書に「何々様下執事」と書いてやったら大いに叱られ、「下執事とは何のことだ、御取次衆と認(したた)めて来い」と言って、手紙を突き返して来た。
私はこれを見ても側から独り立腹して泣いたことがある。
馬鹿々々しい、こんなところに誰が居るものか、如何したってこれはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思っていました。
ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分かるようになる中(うち)に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。
能く書を読む男がある。
固より下士族の仲間だから、兄などと話のときには藩風が善くないとか何とかいろいろ不平を漏らしているのを聞いて、私は始終ソレを止めていました。
「よしなさい、馬鹿々々しい。
この中津に居る限りはそんな愚論をしても役に立つものでない。
不平があれば出てしまうが宜い、出なければ不平を言わぬが宜い」と、毎度止めていたことがあるが、これはマア私の生まれ付きの性質とでもいうようなものでしょう。

喜怒色に顕わさず

 あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怒色に顕さずという一句を読んで、その時にハット思うて大いに自分で安心決定したことがある。
「これはドウモ金言だ」と思い、始終忘れぬようにして独りこの教えを守り、ソコデ誰が何と言って誉めてくれても、ただ表面に程よく受けて心の中には決して悦ばぬ。
また何と軽蔑されても決して怒らない。
どんなことがあっても怒ったことはない。
いわんや朋輩同士で喧嘩をしたということは、ただの一度もない。
ツイゾ人と掴合ったの、打ったの、打たれたのということは一寸ともない。
これは少年の時ばかりでない。
少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体に触れたことはない。
ところが先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をしてやるにも拘わらず、再三再四の不埒、あるときその者が何処に何をしたか夜中酒に酔って生意気な風をして帰ってきたゆえ「貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座をしていろ」と申し渡して置いて、少しして行ってみればグウグウ鼾をしている。
「この不埒者め」と言って、その肩のところをつらまえて引き起こして、目の醒めてるのをなおグングンゆたぶってやったことがある。
そのとき、あとで独り考えて「コリャ悪いことをした、乃公は生涯、人に向かって此方から腕力を仕掛けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬことをした」と思って、何だか坊主が戒律でも破ったような心地がして、今に忘れることが出来ません。
その癖私は少年の時から能く饒舌り、人並みよりか口数の多いほどに饒舌って、そうして何でもすることは甲斐々々しくやって、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論ということをしない。
仮令い議論すればといっても、ほんとうに顔を赧らめて如何あっても勝たなければならぬという議論をしたことはない。
何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起となって来れば、此方はスラリと流してしまう。
「彼の馬鹿が何を馬鹿言っているのだ」とこう思って、頓と深く立ち入るということは決してやらなかった。
ソレでモウ自分の一身は何処に行って如何な辛苦も厭わぬ、ただこの中津に居ないで如何かして出て行きたいものだと、独りそればかり祈っていたところが、とうと長崎に行くことが出来ました。

長崎遊学

 それから長崎に出掛けた。
ころは安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三ヵ月)の時である。
その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。
都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。
ところがそのころは丁度ペルリの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でもみな知って、同時に砲術と言うことが大変喧しくなってきて、ソコデ砲術を学ぶ者は皆オランダ流に就いて学ぶので、そのとき私の兄が申すに「オランダの砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬ」と言うから、私にはわからぬ。
「原書とは何のことです」と兄に質問すると、兄の答に「原書というのはオランダ出版の横文字の書だ。
いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。
それについては貴様はその原書を読む気はないか」と言う。
ところが私は素(も)と漢書を学んでいるとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼みにする気があったと思われる。
「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」とソコデ兄弟の相談は出来て、そのとき丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。
長崎に落付き、初めて横文字のabcというものを習うたが、今では日本国中到る所に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。
目に慣れて珍しくもないが、初めての時はなかなか六かしい。
二十六文字を習うて覚えてしまうまでには三日も掛かりました。
けれども段々読む中にはまた左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修行のことはさておき、そもそも私の長崎に往ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのが忌で忌で堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いというので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯(コンナ)所に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰って来はしないぞ、今日こそ宣い心地だと独り心で喜び、後向いて唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えている。

活動の始まり

 それから長崎に行って、そして桶屋町の光永寺というお寺を便ったというのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壱岐という人はそのお寺と親類で、そこに寓居しているのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になっているそのうちに、小出町に山本物次郎という長崎両組の地役人で砲術家があって、そこに奥平が砲術を学んでいるその縁をもって、奥平の世話で山本の家に食客に入り込みました。
そもそもこれが、私の生来活動の始まり。
有らん限りの仕事を働き、何でもしないことはない。
その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。
またその家に十八、九の倅があって独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬというので、ソコデその倅に漢書を教えてやらなければならぬ。
これが仕事の一つ。
それから家は貧乏だけれども活計は大きい。
借金もある様子で、その借金の言延し、新たに借用の申込みに行き、また金談の手紙の代筆もする。
そこの家に下婢が一人に下男が一人ある。
ところで、動(やや)もするとその男が病気とか何とかいう時には、男の代をして水も汲む。
朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取ったりしてやらなければならぬ。
またその内儀さんが猫が大好き、狆(ちん)が大好き、生物が好きで、猫も狆も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。
上中下一切の仕事、私一人で引き受けてやっていたから、酷く調法な男だ、何とも言われない調法な血気の少年でありながら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くというので、ソコデもって段々その山本の家の気に入って、しまいには先生が養子にならないかと言う。
私は前にも言う通り中津の士族で、ついぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になっているから、その事を言うと、先生が「それならなおさら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話してやるから」とたびたび言われたことがある。

 その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取って貸す。
写したいと言えば、写すための謝料を取るというのが、まず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いからみな私の手を経る。
それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取り扱っている。
その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或いは出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、或いは大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実はみな私がやる。
私は本来素人で、鉄砲を打つのを見たこともないが、図を引くのは訳けはない。
颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られるくらいに挨拶したり世話をしたりするという調子である。
ところで私を山本の居候に世話をして入れてくれた人、即ち奥平壱岐だ。
壱岐と私とは主客ところを易えて、私が主人みたようになったから可笑しい。
壱岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。
小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。
もう一つは私の目的は原書を読むに在って、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。
原書というものは初めて見たのであるが、五十日百日と、おいおい日を経るに従って、次第に意味が分るようになる。
ところが奥平壱岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書など読める訳けはない。
その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。
全体奥平という人は決して深い巧らみのある悪人ではない。
ただ大家の我儘なお坊さんで智慧がない。
その時に旨く私を籠絡して生捕ってしまえば譜代の家来同様に使えるのに、却ってヤッカミ出したとは馬鹿らしい。
歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還すような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。

長崎に居ること難し

 ソリャこういう次第になって来た。
その奥平壱岐という人に与兵衛という実父の隠居があって、私共はこれを御隠居様と崇めていた。
ソコデ私の父は二十年前に死んでいるのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、また大阪に行って勤番をしていて、中津には母一人で何もない。
姉は皆嫁(かたづ)いていて、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱という医者がただ一人、よく事がわかり書もよく読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法なことをしたというは、何れ長崎の倅壱岐の方から打合せのあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼びに来て、隠居の申すに「諭吉を呼び還せ、アレが居ては倅壱岐の妨げになるから早々呼び還せ、ただしソレについては母が病気だと申し遣わせ」という御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、ただ「畏りました」と答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気につき早々帰省致せという表向きの手紙と、また別紙に、実は隠居からこうこういう次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳らかに事実を書いてくれたから、私はこれを見て実に腹が立った。
何だ、鄙劣(ひれつ)千万な、計略を運らして母の病気とまで偽を言わせる、ソンナ奴があるものか、モウ焼けだ、大議論をしてやろうかと思ったが、イヤイヤ左様でない、今アノ家老と喧嘩をしたところが、負けるに極っている、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思い直して、それからシラバクレテ胆を潰した風をして奥平の所に行って「さて中津から箇様(かよう)申して参りまして、母が俄に病気になりました、平生至極丈夫な方でしたが、実に分らぬものです、今ごろは如何いう容体でしょうか、遠国に居て気になります」なんて、心配そうな顔をしてグチャグチャ述べ立てると、奥平も大いに驚いた顔色を作り「左様か、ソリャ気の毒なことじゃ、さぞ心配であろう、とにかくに早く帰国するが宣かろう、しかし母の病気全快の上はまた再遊の出来るようにしてやるから」と、慰めるように言うのは、狂言が旨く行われたと心中得意になっているに違いない。
ソレカラまた私は言葉を続けて「ただいま御指図の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言はございませんか、何れ帰れば御目に掛ります、また何か御品があれば何でも持って帰ります」と言って、一トまず別れて翌朝また行ってみると、主公が家にやる手紙を出して、これを屋敷に届けてくれ、親仁(おやじ)にこうこう伝言をしてくれと言い、また別に私の母の従弟の大橋六助という男にやる手紙を渡して「これを六助の所に持っていけ、そうすると貴様の再遊に都合が宣かろう」と言って、故意(わざ)とその手紙に封をせずに明けて見よがしにしてあるから、何もかも委細承知して丁寧に告別して、宿に帰って封なしの手紙を開いて見れば「諭吉は母の病気につき是非帰国と言うからその意に任せて還すが、修行勉強中のことゆえ再遊のできるようその方にて取り計らえ」という文句。
私はこれを見てますます癪に障る。
「この猿松め、馬鹿野郎め」と独り心の中で罵り、ソレカラ山本の家にも事実は言われぬ、もしこれが顕われて奥平の不面目にもなれば、禍いは却って私の身に降って来て如何な目に逢うか知れない、ソレガ恐いから、ただ母の病気とばかり言って暇乞いをしました。

江戸行きを志す

 丁度そのとき、中津から鉄屋(くろがねや)惣兵衛という商人が長崎に来ていて、幸いその男が中津に帰るというから、ともかくもこれと同伴と約束をして置いて、ソコデ私の胸中は固より中津に帰る気はない。
何でも人間の行くべき所は江戸に限る、これから真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事については誰かに話して相談をせねばならぬ。
ところが江戸から来た岡部同直という蘭学書生がある。
これは医者の子で至極面白い慥かな人物と見込んだから、この男に委細の内情を打ち明けて「こうこういう次第で僕は長崎に居られぬ、余り癪に障るからこのまま江戸に飛び出す積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。
君の家は江戸ではないか、大人(オトッサン)は開業医と聞いたが、君の家に食客に置いてくれることは出来まいか。
僕は医者でないが丸薬を丸めるくらいのことは屹とできるから、何卒世話をして貰いたい」と言うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てて容易く私の言うことを請け合い「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。
僕の親仁は日本橋檜物町に開業しているから、手紙を書いてやろう」と言って、親仁名当の一封をくれたから私は喜んでこれを請け取り、「ソコデも今このことが知れると大変だ、中津にかえらなければならぬようになるから、こればかりは奥平にも山本にも一切誰にも言わずに、君一人で呑み込んでいて外に洩らさぬようにして、僕はこれから下ノ関に出て船に乗ってまず大阪に行く、およそ十日か十五日も掛かれば着くだろう。
その時を見計ろうて、中村(諭吉当時は中村の姓を冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと言って長崎を出た、と奥平にも話してくれ。
これも聊か面当てだ」と互いに笑って、朋友と内々の打合せは出来た。

 それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めてしまい、これは例の御隠居様に遣らなければならぬ。
「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諌早まで参りましたところが、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、これから江戸に参ります。
ついては壱岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙はこれですからお届け申す」と丁寧に認めてやって、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛てた手紙を本人に届けるために、私が手紙を書き添えて「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿なことはないがこのままお届け申します。
原(もと)はと言えば自分の方で呼び還すように企てて置きながら、表(うわ)べに人を欺くというのは卑劣至極な奴だ。
私はもう中津に帰らずに江戸に行くからこの手紙を御覧下さい」というような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一緒に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。

諫早にて鉄屋と別る

 丁度夕方着いたが、何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。
「さて鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、これから中津に帰るは忌(いや)になった。
貴様の荷物と一緒に、乃公のこの蔦籠も序に持って帰ってくれ。
乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。
これから下ノ関に出て、大阪へ行って、それから江戸に行くのだ」と言うと惣兵衛殿は呆れてしまい「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くというのは」「馬鹿言うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか」「けれども私は中津に帰ってお母さんに言いようがない」「なあに構うものか、乃公は死にも何もせぬから内のおッ母さんに宜しく言ってくれ、ただ江戸に参りましたと言えばそれで分かる」。
鉄屋も何とも言うことが出来ぬ。
「時に鉄屋、乃公はこれから下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。
貴様は諸方を歩くが、下ノ関に知ってる船宿はないか」「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門(すぐえもん)という船宿があります、そこへお入来(いで)なされば宜しい」と言う。
そもそもこの事をわざわざ鉄屋に聞かねばならぬというのは、実はそのとき私の懐中に金がない。
内からくれた金が一分もあったか、その外にオランダの字引の訳鍵(やくけん)という本を売って、掻き集めたところで二分二朱か三朱しかない。
それで大阪までいくには如何しても船賃が足らぬという見込みだから、そこで一寸と船宿の名を聞いて置いて、それから鉄屋に別れて、諫早から丸木船という船が天草の海を渡る。
五百八十文出してその船に乗れば、明日の朝、佐賀まで着くというので、その船に乗ったところが、浪風なく朝、佐賀に着いて、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、ただ東の方に向いて、小倉にはどう行くかと道を聞いて、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着いた。

贋手紙を作る

 その間の道中というものは随分困りました。
一人旅、殊にどこの者とも知れぬ貧乏そうな若侍、もし行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。
もう宿の善悪は択ぶに暇なく、ただ泊めてくれさえすれば宜しいというので無暗に歩行(ある)いて、何(どう)か斯(こう)か二晩泊って三日目に小倉に着きました。
その道中で私は手紙を書いた。
即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入りして決して間違いなき御方だから厚く頼む」と鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡ってこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどりついて泊った時はおかしかった。
彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、どこでも泊めない。
ヤット一軒泊めてくれた所が薄汚い宿屋で、相宿の同間に人が寝ている。
スルト夜中に枕辺で小便する音がする。
何だと思うと中風病の老爺が、しびんにやっている。
じつは客ではない、その家の病人でしょう。
その病人と並べて寝かされたので、汚くて汚くてたまらなかったのは能く覚えています。

 それから下ノ関の渡場を渡って、船場屋を捜し出して、かねて用意の贋手紙を持って行ったところが、なるほど鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めてくれて、万事能く世話をしてくれて、大阪まで船賃が一分二朱、賄(まかない)の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。
しかし大阪に行けば中津の蔵屋敷で賄の代を払うことにして、これも船宿で心能く承知してくれる。
悪いことだが全く贋手紙の功徳でしょう。

馬関の渡海

 小倉から下ノ関に船で来る時は怖いことがありました。
途中に出たところが、少し荒く風が吹いて浪が立ってきた。
スルトその纜(つな)を引っ張ってくれ、其方のところを如何してくれと、船頭が何か騒ぎ立って乗組の私に頼むから、ヨシ来たというので纜を引っ張ったり柱を起したり、面白半分に様々加勢をしてまず滞りなく下ノ関の宿に着いて「今日の船は如何したのか、こうこういう浪風で、こういう目に遇った、潮を冠って着物が濡れた」というと、宿の内儀(かみ)さんが「それはお危ないことじゃ、彼れが船頭なら宣いが実は百姓です。
この節暇なものですから、内職にそんなことをします。
百姓が農業の間に慣れぬことをするから、少し波風があると毎度大きな間違いを仕出来(しでか)します。
」というのを聞いて、実に恐かった。
なるほど奴らが一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。

馬関より乗船

 それから船場屋寿久右衛門のところから乗った船には、三月のことでみな上方見物、それはそれは種々様々な奴が乗っている。
間抜けな若旦那も乗っていれば、頭の禿げた老爺も乗っている、上方辺の茶屋女もいれば,下ノ関の安女郎もいる。
坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴らが狭い船の中で、酒を飲み、博打をする。
下らぬことに大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしている中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。
船は安芸の宮島へ着いた。
私は宮島に用はない。
ただ来たから、島を見に上がる。
外の連中はお互いに朋友だから宣いだろう。
みな酒を飲む。
私も飲みたくてたまらぬけれども、金がないからただ宮島を見たばかりで、船に帰ってむしゃむしゃ船の飯を食ってるから、船頭もこんな客は忌だろう、妙な顔をして私を睨んでいたのは今でも覚えている。
その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、それから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。
多度津に船が着いて金比羅まで三里と言う。
行きたくないことはないが、金がないから行かれない。
外の奴はみな船から出て行って、私一人で船の番をしている。
そうすると、一晩泊って、どいつもこいつもグデングデンに酔って陽気になって帰って来る。
癪に障るけれども何としても仕様がない。

明石より上陸

 そういう不愉快な船中で、如何やらこうやら十五日目に播州明石に着いた。
朝五ツ時、今の八時ごろ、明旦順風になれば船が出るという、けれどもこんな連中のお供をしては際限がない。
これから大阪までは何里と聞けば、十五里という。
「ヨシそれじゃ乃公ははこれから大阪まで歩いて行く。
ついてはこれまでの勘定は、大阪に着いたら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けていくから」と言うと、船頭がなかなか聞かない。
「そう旨くは行かぬ、一切勘場は払っていけ」と言う。
言われても払う金は懐中にない。
その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持っていたから「ここに着物が二枚ある、これで賄の代ぐらいはあるだろう、外に書籍もあるが、これは何にもならぬ。
この着物を売ればそのくらいの金にはなるではないか。
大小を預ければ宣いが、これは挟して行かねばならぬ。
何時でも宣しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払ってやるから取りに来い」と言っても、船頭は頑張って承知しない。
「中津屋敷は知ってるが、お前さんは知らぬ人じゃ。
何でも船に乗って行きなさい。
賄の代金は大阪で請け取るという約束がしてあるからそれは宣しい。
何日掛っても構わぬ、途中から上がることは出来ぬ」と言う。
此方は只管(ひたすら)頼むと小さくなって訳を言えば、船頭は何でも聞かぬと剛情をはって段々声が大きくなる。
喧嘩にもならず実に当惑していたところに、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請け合うとまず発言して船頭に向かい「コレお前もそう、いんごうな事をいうものじゃない。
賄代の抵当に着物があるじゃないか。
このお方はお侍じゃ、貴様たちを騙す所存ではないように見受ける。
もし騙したら乃公が払う、サアお上がりなさい」と言って、船頭もこれに安心して無理も言わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述べて船を飛び出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。

 そこで明石から大阪まで十五里の間というものは、私は泊ることが出来ぬ。
財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚(とて)も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。
途中何という所か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二号飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯食って、それからグングン歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通ったか少しもわからぬ。
そうして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡って、有難いことにお侍だから船賃は只で宣かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に会わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい所で変な奴に会えば却って気味が悪い。
そのとき私の挟してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。
実を言えば、大阪近在に人殺しの無暗に出る訳もない、ソンナに怖がることはない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし、臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。
後で考えれば却って危ないことだと思う。
ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋ということを知ってるから、ただ大阪の玉江橋へはどういくかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着いて兄に会ったが、大変に足が痛かった。

大阪着

 大阪に着いて久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼い時から私を知ってる者が沢山ある。
私は三歳の時に国に帰って二十二の歳に再び行ったのですから、私の生まれた時に知ってる者は沢山。
私の面(かお)がどこか幼顔に肖(に)ているというその中には、私に乳を呑ましてくれた仲仕の内儀さんもあれば、また今度兄の供をして中津から来ている武八という極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着いた翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の所を通ると、男の言うに「お前の生まれる時に我身(オリャ)夜中にこの横町の彼の産婆さんの所に迎いに行ったことがある、その産婆さんは今も達者にしている、それからお前が段々大きくなって、此身(オリャ)お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行った、その産婆さんの家は彼処の方じゃ」と、指をさして見せたときには、私も旧を懐(おも)うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。
すべて如斯(コン)な訳で、私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰った通りで誠に宣い心地。
それから兄が私に如何して貴様は出し抜けにここに来たのかという。
兄のことであるから構わずこういう次第で参りましたと言ったら、「乃公(おれ)が居なければ宣いが、道の順序を言ってみれば、貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。
その中津を横に見ておッ母さんの所を避けて来たではないか。
それも乃公がここに居なければ兎も角、乃公がここで貴様に面会しながらこれを手放して江戸に行けと言えば兄弟共謀だ。
如何にも済まぬではないか。
おっ母さんはそれほどに思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。
それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ。
大阪で蘭学を学ぶが宣い」と言うので、兄の所に居て先生を捜したら緒方という先生のあることを聞き出した。

長崎遊学中の逸事

 鄙事(ひじ)多能は私の独特、長崎に居る間は山本先生の家に食客生となり、無暗に勉強して蘭学もようやく方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生の家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引き受けて、これは出来ない、それは忌だと言ったことはない。
丁度上方辺の大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の素読をしてやった跡で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶を担いで一足踏み出すその途端にガタガタと動揺(ゆれ)れて足が滑り、誠に危ないことがありました。

 寺の和尚、今は既に物故したそうですが、これは東本願寺の末寺、光永寺と申して、下寺の三カ寺も持っている、まず長崎では名のある大寺、そこの和尚が京に上って何か立身して帰ってきて、長崎の奉行所に廻勤に行く若党に雇われてお供をしたところが、和尚が馬鹿に長い衣か装束か妙なものを着ていて、奉行所の門で駕籠を出ると、私があとからその裾を持ってシズシズと付いて歩いて行く。
吹き出しそうに可笑しい。
またその和尚が正月になると大檀那の家に年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲んでる供待の間に、供の者にも膳を出して雑煮など食わせる。
これは難有く戴きました。

  また節分に物貰いをしたこともある。
長崎の風に、節分の晩に法螺の貝を吹いて何か経文のようなことを怒鳴ってまわる、東京で言えば厄払い、その厄払いをして市中の家の門に立てば、銭をくれたり米をくれたりすることがある。
ところが私のいる山本の隣家に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)という若い男があって、面白い人物。
「どうだ今夜行こうじゃないか」と私を誘うから、勿論同意。
ソレカラどこかで法螺の貝を借りて来て、面を隠して二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦していた蒙求の表題と千文字で受け持ち、王戎簡要天地玄黄(おうじゅうかんようてんちげんこう)なんぞ出鱈目に怒鳴り立てて、誠に上首尾、銭だの米だの随分相応に貰って来て、餅を買い鴨を買い雑煮を拵えてタラフク食ったことがある。

師弟アベコベ

 私が初めて長崎に来て初めて横文字を習うというときに、薩州の医学生に松崎鼎甫という人がある。
その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引き立て、松崎も蘭学修行を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宣かろうと言うので行ったところが、松崎がabcを書いて仮名を附けてくれたのにはまず驚いた。
これが文字とは合点が行かぬ。
二十何字を覚えてしまうにもよほど手間が掛かったが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴りも分るようになって来た。
ソコデ松崎という先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。
よって私の心中窃(ひそ)かに「これは高の知れた人物だ。
今でも漢書を読んでみろ、自分のほうが数等上流の先生だ。
漢蘭等しく字を読み義を解することとすれば、左(さ)までこの先生を恐るることはない。
如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えてくれたいものだ」と、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。
ソレはそれとしてその後、私は大阪に行き、これまで長崎で一年も勉強していたから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。
ところが人事の回り合せは不思議なもので、その松崎という男が九州から出て来て緒方の熟に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をしているその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。
私の無鉄砲な野心が本当なことになって、もとより人には言われず、また言うべきことでないから黙っていたが、その時の愉快はたまらない。
独り酒を飲んで得意がっていました。
されば、軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ孰(いず)れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。
ソンナことを議論したり理屈を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並みに俗な馬鹿げた野心があるから可笑しい。

大阪修行

 兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。
その前、長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をしたところは楢林という和蘭(オランダ)通詞の家、同じく楢林という医者の家、それから石川桜所という蘭方医師、この人は長崎に開業していて立派な門戸を張っている大家であるから、なかなか入門することは出来ない。
ソコデこの玄関に行って調合所の人などに習っていたので、そういうように彼方此方にちょいちょいと教えてくれるような人があればそこへ行く。
どこの何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読んだということはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのはこれが本当に蘭学修行の始まり、初めて規則正しく書物を教えて貰いました。
その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宣い方であったと思う。

兄弟共に病気

 ソコデ安政二年も終り三年の春になると、新春早々ここに大なる不仕合な事が起こって来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄がリョウマチスに罹り病症が甚だ軽くない。
トウトウ手足も叶わぬというほどになって、追々全快するが如く全快せざるが如くしている間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持って書くというような容体。
ソレと同時にその歳の二月ごろであったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で予(かね)て世話になっていたが加州の岸直輔という人が、腸チフスに罹ってなかなかの難症。
ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。
また加州の書生に鈴木儀六という者があって、これも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとうとう助からぬ。
一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送ってやろうと両人相談のうえ、遺骸を大阪の千日の火葬場に持って行って焼いて、骨を本国に送り、まず事は済んだところが、私が千日から帰って三、四日経つとヒョイト煩(わずら)いついた。
容体がドウモただの風邪でない。
熱があり気分が甚だ悪い。
ソコデ私の同窓生はみな医者だから、誰かに見て貰ったところが、これは腸チフスだ、岸の熱病が伝染したのだと言うている間に、そのことが先生に聞こえて、そのとき私は堂島の倉屋敷に寝ていた。
ところが先生が見舞いに見えまして、いよいよ腸チフスに違いない、本当に療治しなければこれは馬鹿にならぬ病気であると言う。

緒方先生の深切

 それから私はその時に今にも忘れぬことのあるというのは、緒方先生の深切。
「乃公はお前の病気を屹(きつ)と診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。
何分にも迷うてしまう。
この薬あの薬と迷て、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳で、しまいには何の療治をしたか訳が分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙(しつび)は外の医者に頼む。
そのつもりにして居れ」と言って、先生の朋友、内藤数馬という医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰って、先生はただ毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。
マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多く沖(とて)も手に及ばないないことで、その師弟の間はおのずから公なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。
後世だんだんに世が開けて進んで来たならば、こんなことはなくなってしまいましょう。
私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べてみて大変に違う。
私は真実緒方の家の者のように思い、また思わずには居られません。
ソレカラただいま申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気もなかなか軽くない。
煩いついて四、五日目から人事不省、およそ一週間ばかりは何も知らないほどの容体でしたが、幸いにして全快に及び、衰弱はしていましたけれども、歳は若し、平生身体の強壮なそのためでしょう、回復はなかなか早い。
モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄はリョウマチスを煩って居り、私は熱病の大病後である、どうにも始末が付かない。

兄弟中津に帰る

 そのうちに丁度兄年期というものがあって、二カ年居れば国に帰るという約束で、今年の夏が二年目になり、私もまた病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、とにかく帰国が宣かろうというので、兄弟一緒に船に乗って帰ったのがその歳の五、六月ごろと思う。
ところが私は病後ではあるが日々に回復して、兄のリョウマチスも全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。
「それでは私はまた大阪に参りましょう」と言って出たのがその歳、即ち安政三年の八月。
モウその時は病後とは言われませぬ、なかなか元気が能くて、大阪に着いたその時に、私は中津屋敷の空長屋を使用して独居自炊、即ち土鍋で飯を炊いて食って、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学していました。

家兄の不幸 再遊困難

 ところがまた不幸な話で、九月の十日ごろであったと思う。
国から手紙が来て「九月三日に兄が病死したから即刻帰って来い」という急報。
どうも驚いたけれども仕方ない。
取るものも取り敢えずスグ船に乗って、この度は誠に順風で、速やかに中津の湊に着いて、家に帰ってみればモウ葬式は勿論、何もかも片がついてしまった後のことで、ソレカラ私は叔父のところの養子になっていた、ところが自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、これは弟が相続する、当然(アタリマエ)の順序だというので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福沢の主人になっていて、当人の帰国を待って相談なんということはありはしない。
貴様は福沢の主人になった、と知らせてくれるくらいのことだ。
さてその跡を襲(つ)いだ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。
それから、家督相続といえば、それ相応の勉めがなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤めを命ぜられている、けれども私の心というものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落ち付かぬ。
何としても中津に居ようなどということは思いも寄らぬことであるけれども、藩の正式によればチャント勤めをしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。
ただ言行を慎み、何と言われてもハイハイと答えて勤めていました。
自分の内心には如何しても再遊と決しているけれども、周囲の有様というもにはなかなか寄り付かれもしない。
藩中一般の説は姑(しばら)く差置き、近い親類の者までも西洋は大嫌いで、何事も話し出すことが出来ない。
ソコデ私に叔父があるから、そこに行って何か話しをして、序ながらそれとなく再遊の事を少しばかり言い掛けてみると、それはそれは恐ろしい剣幕で頭から叱られた。
「けしからぬ事を申すではないか。
兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤めをする筈のものだ。
ソレにオランダの学問とは何たる心得違いか、あきれ返った話だ」とか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして「貴様のような奴は負角力の痩錣(やせしこ)というものじゃ」と苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずという意味でしょう。
迚も叔父さんに賛成して貰おうということは出来そうにもしないが、私が心に思っていればおのずから口の端にも出る。
出れば狭い所だから直ぐ分かる。
近所あたりにどことなく評判をする。
平生私の所に能く来るお婆(ばば)さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんという人。
今でもその面を覚えている。
つい向うのお婆さんで、あるとき私方に来て「何か聞けば諭吉さんはまた大阪に行くという話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんなことはさせなさらんじゃろう、再び出すなんというのはお前さんは気が違うていはせぬか」というような、世間一般まずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺(よるべ)汀(なぎさ)の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。

母と直談

 ソコデ私は独り考えた。
「これは迚も仕様がない。
ただ頼むところは母一人だ。
母さえ承知してくれれば誰が何と言うても怖い者はない」と。
ソレカラ私はとっくり話した。
「おっ母さん。
今私が修行しているのはこういう有様、こういう塩梅で、長崎から大阪に行って修行して居ります。
自分で考えるには、どうしても修行は出来て何か物になるだろうと思う。
この藩に居たところが、何としても頭の上がる気遣いはない。
真に朽ち果つるというものだ。
どんな事があっても私は中津で朽ち果てようとは思いません。
アナタはお淋しいだろうけれども、何卒(ドウゾ)私を手放してくださらぬか。
私の産まれたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めてください」。
そのとき私が出れば、母と死んだ兄の娘、産まれて三つになる女の子と五十有余の老母とただの二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して「どうぞ二人で留守をしてください、私は大阪に行くから」と言ったら、母もなかなか思いきりの宣い性質で「ウム宣しい」「アナタさえそう言ってくだされば、誰が何と言っても怖いことはない。
」「オーそうとも。
兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。
お前も余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。
どこへでも出ていきなさい」。
ソコデ母子の間というものはちゃんと魂胆が出来てしまって、ソレカラいよいよ出ようということになる。

四十両の借金 家財を売る

 出るには金の始末をしなければならぬ。
その金の始末というのは、兄の病気や勤番中のそれこれの入費、凡そ四十両借金がある。
この四十両というものは、その時代に私などの家にとってっは途方もない大借。
これをこのままにしておいては迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。
如何しよう。
外に仕方がない。
何でも売るのだ。
一切万物売るより外なしと考えて、いささか頼みがあるというのは、私の父は学者であったから、藩中ではなかなか蔵書を持っている。
およそ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もある。
例えば私の名を諭吉というその諭の字は、天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望していた明律(みんりつ)の上諭条例という全部六、七十冊ばかりの唐本を買い取って、大層喜んでいるところに、その夜男子が出生して重ね重ねの喜びというところから、その上諭の諭の字を取って私の名にしたと母から聞いたことがあるくらいで、随分珍しい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようということになって、まず手近な物から売れるだけ売ろうというので、軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば、頼山陽の半切の掛物を金二分に売り、大雅堂の柳下人物の掛物を二両二分、徂徠の書、東涯の書もあったが、誠に値がない、見るに足らぬ。
その他はごたごたした雑物ばかり。
覚えているのは大雅堂と山陽。
刀は天正祐定二尺五寸拵(こしらえ)付、能く出来た物で四両。
ソレカラ蔵書だ。
中津の人で買う者はありはせぬ。
如何したって何十両という金を出す藩士はありはせぬ。
ところで私の先生、白石という漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追い出されて豊後の臼杵(うすき)藩の儒者になっていたから、この先生に便って行けば売れるだろうと思って、臼杵までわざわざ出掛けて行って、先生に話をしたところが、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買って貰い、まず一口に大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口も一切売って、ようやく四十両の金が揃い、その金で借金は奇麗に済んだが、その蔵書中に易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書き入れをした見事なものがある。
これは亡父が存命中、大阪で買い取って殊(こと)の外珍重したものとみえ、蔵書目録に父の筆をもって、この東涯先生書き入れの易経十三冊は天下希有の書なり、子孫謹んで福沢の家に蔵むべし、とあたかも遺言のようなことが書いてある。
私もこれを見ては何としても売ることが出来ません。
これだけはと思うて残して置いたその十三冊は、今でも私の家にあります。
それと今に残っているのは唐焼の丼が二つある。
これは例の雑物売り払いのとき、道具屋が値を付けて丼二つ三分というその三分とは中津の藩札で、銭にすれば十八文のことだ。
余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有っても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗になっているのも可笑しい。

築城書を盗写す

 それはそれとして、私が今度不幸で中津に帰っているその間に一つ仕事をしました、というのはその時に奥平壱岐という人が長崎から帰っていたから、勿論私は御機嫌伺いに出なければならぬ。
ある日、奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して「この本は乃公が長崎から持って来たオランダ新版の築城書である」というその書を見たところが、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書窮理書の外についぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だとまず私は感心しなければならぬ、というのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国海防軍備の話がなかなか喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読んでみたくて堪らない。
けれどもこれは、貸せと言ったところが貸す気遣いはない。
それからマアいろいろ話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。
二十三両で買えたから」なんと言うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。
迚も自分に買うことは出来ず、さればとてゆるりと貸す気遣いはないのだから、私はただ原書を眺めて心の底で独り貧乏を嘆息しているその中に、ヒョイと胸に浮かんだ一策を遣ってみた。
「なるほどこれは結構な原書でございます。
迚もこれを読んでしまうということは急な事では出来ません。
せめては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいか」と手軽に触(アタ)ってみたらば、「よし貸そう」と言ってかしてくれたこそ天与の僥倖。
ソレカラ私は家に持って帰って、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初めから写し掛けた。
およそ二百ページ余のものであったと思う。
それを写すについては、誰にも言われぬのは勿論、写すところを人に見られては大変だ。
家の奥の方に引っ込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。
そのとき私は、藩の御用で城の門の番をする勤めがあって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃(そつ)と写物を持ち出して、朝、城門の明くまで写して、一日も眠らないのは毎度のことだが、またこの通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか言って来はしないだろうか、いよいよ露顕すればただ原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕でなかなか六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
生まれてから泥棒をしたことはないが、泥棒の心配も大抵こんなものであろうと推察しながら、とうとう写し終わりて、図が二枚あるその図も写してしまって、サア出来上がった。
出来上がったが読み合わせに困る。
これができなくては大変だというと、妙なこともあるもので、中津にオランダのスペルリングの読める者がたった一人ある。
それは藤野啓山という医者で、この人は甚だ私のところに縁がある、というのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私の家に寄宿して、母も常に世話をしてやったという縁故からして、固より信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の所に行って「大秘密をお前に語るが、実はこうこういうことで、奥平の原書を写してしまった。
ところが困るのはその読み合わせだが、お前はどうか原書を見ていてくれぬか、私が写したのを読むから。
実は昼やりたいが、昼は出来られない。
ヒョッと分ってはたいへんだから、夜分私が来るからご苦労だが見ていてくれよ」と頼んだら、藤野が宣しいと快く請け合ってくれて、ソレカラ私はそこの家に三晩か四晩読み合わせに行って、ソックリ出来てしまった。
モウ連城の[タマ]を手に握ったようなもので、それから原書は大事にしてあるから如何にも気遣いはない。
しらばくれて奥平壱岐の家に行って、「誠に有難うございます、お陰で初めてこんな兵書をみました。
こういう新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、嘸(さぞ)マア海防家には有益の事でありましょう。
しかしこんな結構なものは貧書生の手に得らるるものでない。
有難うございました。
返上いたします」と言って奇麗に済んだのはうれしかった。
この書を写すに幾日かかったか能く覚えてないが、何でも二十日以上三十日足らずの間に写してしもうて、原書の主人に毛頭疑うような顔色もなく、マンマとその宝物の正味を偸(ぬす)み取って私の物にしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入ったようだ。

医家に砲術修行の願書

 その時に母が、「お前は何をするのか。
そんなに毎晩夜を更かして禄に寝もしないじゃないか。
何のことだ。
風邪でも引くと宣くない。
勉強にも程のあったものだ」と喧しく言う。
「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。
わたしは写本をしているのです。
このくらいの事で私の身体は何ともなるものじゃない。
御安心下さい。
決して煩いはしませぬ」と言うたことがありましたが、ソレカラいよいよ大阪に出ようとすると、ここに可笑しいことがある。
今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。
可笑しいとも何とも言いようがない。
これまで私は部屋住だから、外に出るからといって届も願も要らぬ。
颯々(さっさ)と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。
それから私は、かねて母との相談が済んでいるから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。
出抜けに蘭学の修行に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせてくれるに「それはイケない。
蘭学修行ということは御家に先例のない事だ」と言う。
「そんなら如何すれば宣いか」と尋ぬれば、「左様さ。
砲術修行と書いたならば済むだろう」と言う。
「けれども緒方といえば大阪の開業医師だ。
お医者様のところに鉄砲を習いに行くというのは、世の中に余り例のない事のように思われる。
これこそ却って不都合な話ではござらぬか」「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。
事実相違しても宣しいから、やはり砲術修行でなければ済まぬ」と言うから、「エー宣(よろ)しい。
如何でも為(し)ましょう」と言って、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修行に罷越(まかりこ)したい云々と出して聞き済みになって、大阪に出ることになった。
大抵当時の塩梅式が分るであろう、というのは、これは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流などということは仮初にも通用しない。
俗にいう鼻摘まみの世の中に、ただペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、いはば一線の血路が開けて、ソコデ砲術修行の願書で穏やかに事が済んだのです。

母の病気

 願が済んでいよいよ船に乗って出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。
ソレカラ私は一生懸命、この医者を頼み、あの医者に相談、様々に介抱したところが、虫だと言う。
虫なれば如何なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネというものはない、セメンシーナが妙薬だと言う。
この薬は至極価(あたい)の高い薬で田舎の薬店には容易にない。
中津にたった一軒あるばかりだけれども、母の病気に薬の価(ね)が高いの安いのと言って居られぬ。
私は今こそ借金を払った後で、なけなしの金を何でも二朱か一分出して、そのセメンシーナを買って母に服用させて、それが利いたのか何か分らぬ、田舎医者の言うことも固より信ずるに足らず、私はただ運を天に任せて看病大事と昼夜番をしていましたが、幸いに難症でもなかったとみえて、日数およそ二週間ばかりで快くなりましたから、いよいよ大阪へ出掛ける日を定めて、出立のとき別を惜しみ無事を祈ってくれる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送りはさておき見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後間もなく、家財は残らず売り払うて諸道具もなければ金もなし、赤貧洗うが如くにして、他人の来て訪問(おとずれ)てくれる者もなし、寂々寥々、古寺みたような家に、老母と小さい姪とタッタ二人残して出て行くのですから、さすが磊落書生もこれには弱りました。

先生の大恩、緒方の食客となる

 船中無事大阪に着いたのは宣しいが、ただ生きて身体が着いたばかりで、さて修行をするという手当ては何もない。
ハテ如何したものかと思ったところが仕方ない。
何しろ先生のところへ行ってこの通り言おうと思って、それから、大阪着はその歳の十一月ごろと思う、その足で緒方へ行って「私は、兄の不幸、こうこういう次第でまた出て参りました」とまず話をして、それから私は、先生だからほんとうの親と同じことで何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売り払うたことから、一切万事何もかも打ち明けて、かの原書写本の一条まで真実を話して「実はこういう築城書を盗写してこの通り持って参りました」と言ったところが、先生は笑って「そうか、ソレは一寸の間に、怪しからぬ悪い事をしたような、また善い事をしたようなことじゃ。
何はさておき、貴様は大層見違えたように丈夫になった」「左様でございます。
今も身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時のことはモウ覚えませぬ。
元の通り丈夫になりました」「それは結構だ。
ソコデお前は一切聞いてみると如何しても学費のないということは明白に分かったから、私が世話をしてやりたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宣くない。
待て待て。
その原書は面白い。
ついては乃公がお前に言い付けてこの原書を訳させると、こういうことにしよう、そのつもりでいなさい」と言って、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生というのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくただ翻訳という名義で医家の食客生になっているのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に翻訳はしてもしなくても宣いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を翻訳してしまいました。

書生の生活 酒の悪弊

 私はこれまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通っていたのであるが、安政三年の十一月ごろから塾に這入って内塾生となり、これがそもそも私の書生生活、活動の始まりだ。
元来緒方の塾というものは、真実、日進進歩主義の塾で、その中に這入っている書生はみな活発有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛び込んで共に活発に乱暴を働いた、けれどもまたおのずから外の者と少々違っているということもお話しなければならぬ。
まず第一に私の悪いことを申せば、生来酒を嗜むというのが一大欠点、成長した後には自らその悪いことを知っても、悪習すでに性をなして自ら禁ずることの出来なかったということも、敢えて包み隠さず明白に自首します。
自分の悪いことを公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、まず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。
そもそも私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従って飲み覚え、飲み慣れたというでなくして、生まれたまま物心の出来た時から自然に数寄でした。
今に記憶していることを申せば、幼少のころ月代(さかやき)を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。
スルト剃ってくれる母が「酒を給(た)べさせるからここを剃らせろ」というその酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らしていたことは幽かに覚えています。
天性の悪癖、誠に愧ずべきことです。
その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外なことは働かず行状はまず正しい積りでしたが、俗にいう酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宣しい。

 ソレカラ長崎に出たとき、二十一歳とはいいながらその実は十九歳余り、マダ丁年にもならぬ身で立派な酒客、ただ飲みたくて堪らぬ。
ところが、かねての宿願を達して学問修行とあるから、自分の本心に訴えて何としても飲むことは出来ず、滞留一年の間、死んだ気になって禁酒しました。
山本先生の家に食客中も、大きな宴会でもあればそのときに盗んで飲むことは出来る。
また銭さえあれば町に出て一寸と升の角からやるのも易いが、何時か一度は露顕すると思って、トウトウ辛抱して一年の間、正体を現わさずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。
その後、程経て文久元年の冬洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度洋行の次第を語り、そのとき初めて酒のことを打ち明け、下戸とは偽り実は大酒飲みだと白状して、飲んだも飲んだか、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かしたことを覚えています。

血に交わりて赤くならず

 この通り幼少の時から酒が数寄(すき)で、酒のためには有らん限りの悪いことをして随分不養生も犯しましたが、また一方から見ると私の性質として品行は正しい。
これだけは少年時代、乱暴書生に交わっても、家を成して後、世の中に交際しても、少し人に変って大きな口が利かれる。
滔々たる濁水社会にチト変人のように窮屈なようにあるが、さればとて実際浮気な花柳談ということは大抵事細かに知っている。
何故というに、他人の夢中になって汚ないことを話しているのを能く注意して聞いて心に留めて置くから、何でも分らぬことはない。
たとえば、私は元来囲碁を知らぬ、少しも分からないけれども、塾中の書生仲間に囲碁が始まると、ジャジャ張り出て巧者なことを言って「ヤア黒のその手は間違いだ、それまたやられたではないか、油断をすると此方の方が危いぞ、馬鹿な奴だあれを知らぬか」などと宣い加減に饒舌(シャベ)れば、書生の素人の拙囲碁(ヘタゴ)で、助言は固より勝手次第で、何方が負けそうなということは双方の顔色を見て能くわかるから、勝つ方の手を誉めて負ける方を悪くさえ言えば間違いはない。
ソコデ私はなかなか囲碁が強いように見えて「福沢一番やろうか」と言われると「馬鹿言うな、君たちを相手にするのは手間潰しだ、そんな暇はない」と、高くとまって澄まし込んでいるから、いよいよ上手のように思われて、およそ一年ばかりはごまかしていたが、何かの拍子にツイ化けの皮が現われて散々罵られたことがある、というようなもので、花柳社会のことも他人の話を聞きその様子を見て大抵こまかに知っている、知っていながら自分一身は鉄石の如く大丈夫である。
マア申せば、血に交わりて赤くならぬとは私のことでしょう。
自分でも不思議のようにあるが、これは如何しても私の家の風だと思います。
幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ないことは仮初(かりそめ)にも蔭にも日向にも家の中で聞いたこともなければ話したこともない。
清浄潔白、おのずから同藩普通の家族とは色を異にして、ソレカラ家を去って他人に交わっても、その風をチャント守って、別に慎むでもない、当然なことだと思っていた。
ダカラ緒方の塾にいるその間も、ついぞ茶屋遊びをするとかいうようなことは決してない、と言いながら、前にも言う通り、何も偏屈でそれを嫌って恐れて逃げて回って蔭で理窟らしく不平な顔をしているというようなことも頓としない。
遊郭の話、茶屋の話、同窓生と一緒になってドンドン話をして問答して、そうして私はそれをまた冷かして「君たちは誠に野暮な奴だ。
茶屋に行ってフラれて来るというような馬鹿があるか。
僕は登楼はしない。
しないけれども、僕が一度び奮発して楼に登れば、君たちの百倍被待(モテ)て見せよう。
君らのようなソンナ野暮なことをするなら止してしまえ。
ドウセ登楼などの出来そうな柄でない。
田舎者めが、都会に出て来て茶屋遊びのabcを学んでいるなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞ」というような調子で哦鳴り回って、実際においてその哦鳴る本人は決して浮気でない。
ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。
能く世間にある徳行の君子なんていう学者が、ムズムズしてシント考えて、他人のすることを悪い悪いと心の中で思って不平を呑んでいる者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒に戯れて酒蛙々々(しゃあしゃあ)としているから却って面白い。

書生を懲らしめる

 酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、初めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が初めて私に会って言うには「君はどこから来たか」「長崎から来た」というのが話の始まりで、その書生の言うに「そうか、以来は懇親にお交際(ツキアイ)したい。
ついては酒を一献酌もうではないか」と言うから、私がこれに答えて「初めてお目に掛かって自分のことを言うようであるが、私は元来酒客、しかも大酒だ。
一献酌もうとは有難い。
是非お供致したい。
早速お供したい。
だが念のため申して置くが、私には金はない。
実は長崎から出て来たばかりで・塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。
有るか無いか分らない。
いわんや酒を飲むなどという金は一銭もない。
これだけは念のためにお話して置くが、酒を飲みにお誘いとは誠に辱(かたじけ)ない。
是非お供致そう」とこう出掛けた。
ところがその書生の言うに「そんな馬鹿げたことがあるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。
そればかりの金のない筈はないじゃないか」と言う。
「何と言われても、ない金はないが、折角飲みに行こうというお誘いだから是非行きたいものじゃ」というのが物分れでその日はしまい、翌日も屋敷から通って塾に行ってその男に出会い「昨日のお話は立消えになったが、如何だろうか。
私は今日も酒が飲みたい。
連れて行ってくれないか、どうも行きたい」と此方(こっち)から促したところが、「馬鹿言うな」というようなことで、お別れになってしまった。

 ソレカラ一月経ち二月三月経って、此方もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知るということになって、当り前に勉強している。
一日(あるひ)その今の男を引捕まえた。
引捕まえて面談「お前は覚えているだろう、乃公(おれ)が長崎から来て初めて入門したその日に何と言った、酒を飲みに行こうと言ったじゃないか。
その意味は新入生というものは多少金がある、それを誘い出して酒を飲もうと、こういう考えだろう。
言わずとも分かっている。
あの時に乃公が何と言った、乃公は酒は飲みたくて甚らないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎(は)ね付けて、その翌日は此方から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。
能く考えてみろ。
憚りながら諭吉だからそのくらいに強く言ったのだ。
乃公はその時に自ら決するところがあった。
お前が愚図々々言うなら、即席に叩き倒して先生のところに引き摺って行ってやろうと思ったその決心が顔色に顕われて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引っ込んでしまった。
如何にしても済まない奴だ。
こういう奴のあるのは、塾のためには獅子身中の虫というものだ。
こんな奴がいて塾を卑劣にするのだ。
以来新入生に会って仮初にも左様なことを言うと、乃公は他人のことは思わぬぞ。
直ぐにお前を捕まえて、誰とも言わず先生の前に連れて行って、先生に裁判をして貰うが宜しいか。
心得ていろ」と酷く懲らしめてやったことがあった。

塾長になる

 その後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。
さて塾長になったからといって、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、ただ塾中一番六(むつ)かしい原書を会読するときその会頭を勤めるくらいのことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。
塾長殿も以前のとおりに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではない、どうかといえばまず乱暴をして、面白がっていることだから、その乱暴生が徳義をもって人を感化するなどという鹿爪らしいことを考える訳けもない。
また塾風を善くすれば先生に対しての御奉公御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、ただ私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貧らず、人の金を借用せず、ただの百文も借りたことはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧(はじ)ずという、おのずから外の者とちがうところがあるから、一緒になってワイワイ言っていながら、マア一口に言えば同窓生一人も残らず自分の通りになれ、また自分の通りにしてやろうというような、血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とかまた大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしいことはさらに覚えはなかったのです。
しかし何でもそう威張り回って暴れたのが、塾のために悪いこともあろう、またおのずから役に立ったこともあるだろうと思う。
もし役に立って居ればそれは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。

緒方の塾風

 そう言えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張って自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、また一方から見れば、酒を飲むことでは随分塾風を荒らしたこともあろうと思う。
塾長になっても相変わらず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮している、私は塾長になってから表向きに先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき、先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金弐朱を呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、これが大抵酒の代になる。
衣服は国の母が手織木綿の品を送ってくれて、それには心配がないから、少しでも手もとに金があれば直に飲むことを考える。
これがためには同窓生の中で私に誘われてツイツイ飲んだ者も多かろう。
さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲む。
それから少し都合の宣い時には、一朱か二朱もって一寸と料理茶屋に行く。
これは最上の奢(おごり)で容易に出来かねるから、まず度々行くのは鶏肉屋、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。
そのとき大阪中で牛鍋を食わせる所はだ二軒ある。
一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。
文身(ホリモノ)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。
どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんなことには頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛ほ随分硬くて臭かった。

塾生裸体

 当時は士族の世の中だからみな大小は挟している、けれども内塾生五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀はチャント持っているその外、塾中に二腰か三腰もあったか、跡はみな質に置いてしまって、塾生の誰か所持しているその刀があたかも共有物で、これでも差支のないというは、銘々倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、普段は脇差一本、ただ丸腰にならぬだけのことであったから。
それから大阪は暖かい所だから冬は難渋なことはないが、夏は真実の裸体、褌も襦袢も何もない真裸体(まっぱだか)。
勿論飯を食う時と会読をする時には、おのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引っ掛ける、中にも絽の羽織を真裸体の上に着てる者が多い。
これは余程おかしな風で、今の人が見たらさぞ笑うだろう。
食事の時には迚(とて)も坐って食うなんということは出来た話でない。
足も踏み立てられぬ板敷だから、みな上草履を穿いて立って食う。
一度は銘々に別けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。
お鉢がそこに出してあるから、銘々に茶碗に盛って百鬼立食。
ソンナ訳けだから食物の価(ね)も勿論安い。
お菜は一六が葱と薩摩芋の難波煮、五十が豆腐汁、三八が蜆汁というようになっていて、今日は何が出るということは極っている。

裸体の奇談失策

 裸体(はだか)のことについて奇談がある。
ある夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。
すると一人の思い付きに、この洒をあの高い物干の上で飲みたいと言うに、全会一致で、サア屋根づたいに持ち出そうとしたところが、物干の上に下婢が三、四人涼んでいる。
これは困った、今あそこで飲むと彼奴らが奥に行って何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃなと言う中に、長州生に松岡勇記という男がある。
至極元気の宜い活発な男で、この松岡の言うに、僕が見事にあの女共を物干か逐い払ってみせようと言いながら、真裸体で一人ツカツカと物干に出て行き「お松どんお竹どん、暑いじゃないか」と言葉を掛けて、そのまま仰向きに大の字なりに成って倒れた。
この風体を見ては、さすがの下婢もそこにいることが出来ぬ。
気の毒そうな顔をして、みな下りてしまった。
すると松岡が、物干の上から蘭語で、上首尾早く来いという合図に、塾部屋の酒を持ち出して涼しく愉快に飲んだことがある。

 またあるときこれは私の大失策――ある夜私が二階に寝ていたら、下から女の声で「福沢さん福沢さん」と呼ぶ。
私は夕方酒を飲んで今寝たばかり。
うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。
それから真裸体で飛び起きて、階子段を飛び下りて、「何の用だ」とふんばたかったところが、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。
どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真裸体で坐ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置所がない。
奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも言わず奥の方に引っ込んでしまった。
翌朝お詫びに出て、昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭(とうとう)末代御挨拶なしに済んでしまったことがある。
こればかりは生涯忘れることが出来ぬ。
先年も大阪に行って緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前のことを思い出して、独り心の中で赤面しました。

不潔に頓着せず

 塾風は不規則といわんか不整頓といわんか、乱暴狼籍、まるで物事に無頓着。
その無煩着の極は、世間でいうように潔不潔、汚ないということを気に止めない。
例えば、塾のことであるから勿論桶だの丼だの皿などのあろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中にいながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て食うというようなことを普段やっている、その趣きは、あたかも手鍋世帯の台所みたようなことを机の周囲でやっていた。
けれども道具の足るということのあろう筈はない。
ソコで洗手盥(ちょうずだらい)も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中などどこからか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮(ユデ)て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持って来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せは上出来、そのほか肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナことは少しも汚ないと思わなかった。

 それどころではない。
虱は塾中永住の動物で、誰一人もこれを免かれることは出来ない。
一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。
春さき少し暖気になると羽織の襟に匍出(はいだ)すことがある。
ある書生の説に「ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似ている。
冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月、蚤と交代して引込み、九月ごろ新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しい」と言ったことがある。
私は一案を工夫し、そもそも虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺してみせようと言って、厳冬の霜夜に襦袢を物干に晒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。
この工夫は私の新発明ではない、曾て誰かに聞いたことがあるからやってみたのです。

豚を殺す

 そんな訳けだから、塾中の書生に身なりの立派な者はまず少ない。
そのくせ市中の縁日などいえば夜分屹度(きっと)出て行く。
行くと往来の群集、就中娘の子などは、アレ書生が来たと言って脇の方に避けるその様子は、何かえたでも出て来てそれをきたながるようだ。
如何も仕方がない。
往来の人から見てえたのように思う筈だ。
あるとき難波橋の吾々得意の牛鍋屋の親爺が豚を買い出して来て、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分に殺すことが出来ぬからと言って、緒方の書生が目ざされた。
それから親爺に会って「殺してやるが、殺す代りに何をくれるか」―― 「左様ですな」――「頭をくれるか」――「頭なら上げましょう」。
それから殺しに行った。
此方はさすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちっそく)させれば訳けはないということを知っている。
幸いその牛屋は河岸端であるから、そこへ連れて行って、四足を縛って水に突っ込んですぐ殺した。
そこてお礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食ったことがある。
これは牛屋の主人からえたのように見込まれたのでしょう。

熊の解剖

 それからまた、ある時にはこういうことがあった。
道修町(どしょうまち)の薬種屋に丹波か丹後から熊が釆たという触れ込み。
ある医者の紹介で、後学のため解剖を拝見いたしたいから誰か来て熊を解剖してくれぬかと塾に言って来た。
「それは面白い」。
当時緒方の書生はなか/\解剖ということに熱心であるから、早速行ってやろうというので出掛けて行く。
私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。
それから解剖して、これが心臓で、これが肺、これが肝と説明してやったところが、「誠に有難い」と言って薬種屋も医老もふっと帰ってしまった。
その実は彼らの考えに、緒方の書生に解剖して貫えば無疵に熊胆が取れるということを知っているものだから、解剖に託して熊胆が出るや否や帰ってしまったということがチャソトわかったから、書生さんなか/\了簡しない。
これは一番こねくってやろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれぞれ掛りの手分けをした。
塾中に雄弁滔々と能く喋舌(シャベ)って誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎(今は新吾と改名して加賀金沢にいる)という、これが応接掛り。
それから私が掛合手紙の原案着で、信州飯山から来ている書生で菱湖(りょうこ)風の書を善く書く沼田芸平という男が原案の清書する。
それから先方へ使者に行くのは誰、脅迫するのは誰と、どうにもこうにも手に余る奴ばかりで、動(やや)もすれば手短に打毀しに行くというような風を見せる奴もある。
また彼方から来れば捏(こね)くる奴が控えている。
何でも六、七人手勢を揃えて拈込(ねじこ)んで、理屈を述べることは筆にも口にも隙はない。
応接掛りは普段の真裸体(まっぱだか)に似ず、袴羽織にチャソト脇差を挟して緩急剛柔、ツマリ学医の面目云々を楯にして剛情な理屈を言うから、サア先方の医者も困ってしまい、そこで平あやまりだという。
ただ謝るだけで済めば宣いが、酒を五升に鶏と魚か何かを持って来て、それで手を拍(う)って塾中で大いに飲みました。

芝居見物の失策

 それに引換えて此方から取られたことがある。
道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見回りに行くと、スット桟敷に通って、芝居の者共が茶を持って来る菓子を持って来るなどして、大威張りで芝居をただ見る。
かねてその様子を知ってるから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠って、その役人の真似をして度々行って、首尾能く芝居見物していた。
ところが度重なれば顕われるの諺に洩れず、ある日、本者が来た。
サア此方は何とも言われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。
その時は、こねくられれたととも何とも、進退谷(きわま)り大騒ぎになって、それから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣き付いて内済を頼んで、ヤット無事に収まった。
そのとき、酒を持って行ったり肴を持って行ったりして、何でも金にして三分ばかり取られたと思う。
この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益という男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、このことを不安心に思うて「それは余り宣くなかろう、マサカの時は大変だから」と言ったが肯(き)かない。
「なに訳けはない、おのずから方便あり」なんてズウ/\しくやっていたが、とう/\捕まったのが可笑しいどころか一時大心配をした。

喧嘩の真似

 それから時としてこういうこともあった。
その乱暴さ加減は今人の思い寄らぬことだ。
警察がなっかたから、いわば何でも勝手次第である。
元来大阪の町人は極めて臆病だ。
江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。
夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。
申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。
お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。
そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂(ひっそ)りとなる。
喧嘩といったところが、ただそれだけのことで、外に意味はない。
その法は、同類が二、三人ずつ分れて、一番繁昌な賑やかな所で双方から出逢うような仕組にするから、賑やかな所といえばまず遊郭の近所、新町九軒の辺で常極りにやっていたが、しかし余り一カ所でやって化けの皮が顕われるとイカヌから、今夜は道頓堀でやろう、順慶町でやろうと言うてやったこともある。
信州の沼田芸平などは、よほど喧嘩の上手であった。

弁天小僧

 それから一度はこういうことがあった。
私と先輩の同窓生で久留米の松下元芳という医者と二人連れで御霊という宮地に行って夜見世の植木を冷かしている中に、植木屋が「旦那さん悪さをしてはいけまへん」と言ったのは、吾々の風体を見て万引をしたという意味だから、サア了簡しない。
まるで弁天小僧みたように捏繰(ねじくり)返した。
「何でもこの野郎を打ち殺してしまえ。
理屈を言わずに打ち殺してしまえ」と私が怒鳴る。
松下は慰めるような風をして「マア殺さぬでも宣いじゃないか」「ヤア面倒だ、一打ちに打ち殺してしまうから止めなさんな」と、それこれする中に往来の人は黒山のように集まって大混雑になって来たから、此方はなお面白がって威張っていると、御霊の善栽(ぜんさい)屋の餅搗(もちつき)きか何かしている角力(すもう)取が仲裁に這入って来て「どうか宥(ゆる)してやって下さい」と言うから、「よし、貴様が中に這入れば宥してやる。
しかし、明日の晩ここに見世を出すと打ち殺してしまうぞ。
折角中に這入ったから今夜は宥してやるから」と言つて、翌晩行ってみたら、正直な奴だ、植木屋のところだけ土場見世を休んでいた。
今のように一寸も警察というものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪いことをしない。
一寸とこの植木見世くらいの話で、実のある悪事は決してしない。

チボとよばれる

 私が一度大いに恐れたことは、これも御霊の近所で上方に行われる砂持という祭礼のようなことがあって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠(とうろう)を頭に掛けてヤイ/\言って行列をして町を通る。
書生三、四人してこれを見物している中に、私が如何いう気であったか、何れ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯寵を打ち落してやった。
スルトその連中の奴と見える。
チボじゃ、チボじゃ、と怒鳴り出した。
大阪でチボ(スリ)といえば、理非を分かたず打ち殺して川に投(ほう)り込む習わしだから、私は本当に怖かった。
何でも逃げるに若かずと覚悟をして、跣(はだし)になって堂島の方に逃げた。
そのとき私は脇差を一本挟していたから、もし追い付かれるようになれば後向いて進んで斬るより外、仕方がない。
斬っては誠に不味い。
仮初にも人に疵を付ける了簡はないから、ただ一生懸命に駆けて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷に飛び込んでホット呼吸をしたことがある

無神無仏

 また大阪の東北の方に葭屋橋(あしやばし)という橋があるその橋手前の所を築地といって、在昔(むかし)は誠に如何な家ばかり並んでいて、マア待合をする地獄屋とでもいうような内実きたない町であったが、その築地の入口の角に地蔵様か金比羅様か知らん小さな堂がある。
なか/\繁昌の様子で、其処に色々な額が上げてある。
あるいは男女の拝んでるところが画いてある、何か封書が額に貼り付けてある、または髻(もどり)が切って結い付けてある。
それを昼の中に見て置いて、夜になるとその封書や髻のあるのを引っさらえて塾に持って帰って開封してみると、種々様々の願が掛けてあるから面白い。
「ハハアこれは博打を打った奴が止めるというのか。
これは禁酒だ。
これは難船に助かったお礼。
此方のは女狂いにこり/”\した奴だ。
それは何歳の娘が妙なことを念じている」などと、ただそれを見るのが面白くて毎度やったことだが、兎に角に人の一心を寵めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。
無神無仏の蘭学生に会っては仕方が

遊女の置手紙

 それから塾中の奇談をいうと、そのときの塾生は大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪で国から出てくるけれども、大阪の都会に居る間は半髪になって天下普通の武家の風がしてみたい。
今の真宗妨主が毛を少し延ばして当前の断髪の真似をするような訳けで、内実の医者坊主が半髪になって刀を挟して威張るのを嬉しがっている。
そのとき江戸から釆ている手塚という書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作の刀を挟してるという風だから、如何にも見栄があって立派な男であるが、如何も身持ちが善くない。
ソコデ私がある日、手塚に向かって「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地に行くことは止しなさい」と言ったら、当人もその時は何か後悔したことがあるとみえて「アア新地か、今思い出しても忌だ。
決して行かない」「それなら吃度(きっと)君に教えてやるけれども、マダ疑わしい。
行ないという証文を書け」「宜しい、如何なことでも書く」と言うから、云々(しかじか)今後きっと勉強する、もし違約をすれは坊主にされても苦しからず、という証文を書かせて私の手に取って置いて、約束の通りに毎日別段に教えていたところが、その後手塚が真実勉強するから面由くない。
こういうのは全く此方が悪い。
人の勉強するのを面白くないとは怪しからぬことだけれども、何分興がないから窃(そっ)と両三人に相談して「彼奴の馴染の遊女は何という奴か知ら」「それはすぐにわかる、何々という奴」「よし、それならば一つ手紙をやろう」と、それから私が遊女風の手紙を書く。
片言交りにあれらの言いそうなことを並べ立て、何でもあの男は無心を言われているに相違ないと推察して、その無心は、吃度麝香(じゃこう)をくれろとか何とか言われたことがあるに違いないと堆察して、文句の中に「ソレあのとき役足(やくそく)のじゃこはどておます」というような、判じて読まねば分らぬようなことを書き入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、しかし私の手蹟じゃ不味いから、長州の松岡勇記という男が御家流で女の手に紛らわしく書いて、ソレカラ玄関の取次をする書生に言い含めて「これを新地から来たと言って持って行け。
しかし事実を言えば打ち撲るぞ。
宜しいか」と脅迫して、それから取次が本人の所に持って行って「鉄川という人は塾中にない、多分手塚君のことと思うから持って来た」と言って渡した。
手紙偽造の共謀者は、その前から見え隠れに様子を窺うていたところが、本人の手塚は一人で頻りにその手紙を見ている。
麝香の無心があったことか如何か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカというそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益の思い付きでよほど善く出来てる。
そんなことで如何やらこうやら、遂に本人をしゃくり出してしまったのは罪の深いことだ。
二、三日は止まっていたが果してやって行ったから、ソリャ締めたと共謀者は待っている。
翌朝帰って平気でいるから、此方も平気で、私が鋏を持って行ってひょいと引捕えたところが、手塚が驚いて「どうする」と言うから「どうするも何もない、坊主にするだけだ。
坊主にされてまた今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。
往生しろ」と言って、髻(もとどり)を捕えて鋏をガチャ/\いわせると、当人は真面目になって手を合わせて拝む。
そうすると共謀者中から仲裁人が出て来て「福沢、余り酷いじゃないか」「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だ」と問答の中に、馴合(なれあい)の中人がだん/\取り持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一緒に飲みながらまた冷かして「お願いだ、もう一度行ってくれんか、また飲めるから」とワイワイ言ったのは、随分乱暴だけれども、それがおのずから切諌(イケン)になっていたこともあろう。

御幣担ぎを冷やかす

 同窓生の間にはいろいろな事のあるもので、肥後から来ていた山田謙輔という書生は極々の御掛担ぎで、し’の字を言わぬ。
そのとき今の市川団十郎の親の海老蔵が道頓掘の芝居に出ているときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよ’ば’い’を見るなんて言うくらいな御幣担ぎだから、性質は至極立派な人物だけれども、如何も蘭学書生の気に入らぬ筈だ。
何か話の端にはこれを愚弄していると、山田の言うに「福沢々々、君のように無法なことばかり言うが、マア能く考えてみ給え。
正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼にあうと、鶴を台に載せて担いで来るのを見ると何方が宜いか」と言うから、私は「それは知れたことだ。
死人は食われんから鶴の方が宣い。
けれども鶴だッて乃公に食わせなければ死人も同じことだ」と答えたような塩梅式で、何時も冷かして面白がっている中に、あるとき長与専斎か誰かと相談して、彼奴を一番大いにやってやろうじゃないかと、一工夫して、当人の不在の間にその硯に紙を巻いて位牌をこしらえて、長与の書が旨いから、立派に何々院何々居士という山田の法名を書いて机の上に置いて、当人の飯を食う茶わんに灰を入れて線香を立てて、位牌の前にチャソト供えて置いたところが、帰って来てこれを見て、忌な顔をしたとも何とも、真青になって腹を立てていたが、私共は如何も怖かった。
もしも短気な男なら切り付けて来たかも知れないから。

欺して河豚を食わせる

 それからまた、一度やった後で怖いと思ったのは、人をだまして河豚を食わせた事だ。
私は大阪にいると颯々(さっさ)と河豚も食えば河豚の肝も食っていた。
あるとき芸州仁方(にがた)から来ていた書生三刀元寛(みとうげんかん)という男に「鯛の味噌を貰って来たが食わぬか」と言うと、「有難い、なるほど宣い味がする」と、悦んで食ってしまって二時間ばかり経ってから、「イヤ可哀そうに、今食ったのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰った河豚の味噌潰だ。
食物の消化時間は大抵知ってるだろう、今吐剤を飲んでも無益だ。
河豚の毒が嘔かれるなら嘔いてみろ」と言ったら、三刀も医者のことだから能くわかっている。
サア気を揉んで、私に武者振り付くように腹を立てたが、私も後になって余り洒落に念が入り過ぎたと思って心配した。
随分間違いの生じ易い話だから。

料理茶屋の物を盗む

 前に言う通り御霊の植木見世で万引と疑われたが、疑われる筈だ、緒方の書生は本当に万引をしていたその万引というは呉服店で反物なんという念の入ったことではない、料理茶屋で飲んだ帰りに、猪口だの小皿だの、いろいろ手ごろな品を窃(そっ)と盗んで来るような万引である。
同窓生互いにそれを手柄のようにしているから、送別会などという大会のときには獲物も多い。
中には昨晩の会で団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し、吸物椀の蓋を袂にする者もある。
またある奴は、「君たちがそんな半端物を挙げて来るのはまだ拙(つた)ない。
乃公の獲物を拝見し給え」と言って、小皿を十人前揃えて手拭に包んで来たこともある。
今思えばこれは茶屋でもトックに知っていながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払いの内に這入っているに相違ない、毎度のことでお極りの泥棒だから。

難波橋から小皿を投ず

 その小皿に縁のある一奇談は、ある夏のことである、夜十時過ぎになって洒が飲みたくなって「嗚呼(ああ)飲みたい」と一人が言うと「僕もそうだ」という者がすぐに四、五人出来た。
ところがチャソト門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜という納涼(すずみ)の葭簾張(よしずばり)で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲んで、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。
夜十二時過ぎでもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗ってジャラ/\三味線を鳴らして騒いでいる奴がある。
「あんなことをしていやがる。
此方は百五十かそこらの金を見付け出してへようやく一盃飲んで帰るところだ。
忌々敷(いまいまし)い奴らだ。
あんな奴があるから此方等(こちとら)が貧乏するのだ」と言いさま、私の持ってる小皿を二、三枚投げ付けたら、一番しまいの一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。
その時は急いで逃げたから、人が怪我をしたかどうか分らなかったところが、不思議にも一カ月ばかり経ってそれが能く分った。
塾の一書生が北の新地に行ってどこかの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に「世の中には酷い奴もある。
一カ月ばかり前の夜に、私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んでいたら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に当たって裏表の皮を打ち抜きましたが、本当に危ないことで、まずまず怪我をせんのが仕合わせでした。
どこの奴か四、五人連れで、その皿を投げておいて南の方にドンドン逃げて行きました。
実に憎らしい奴もあればあるもの」と、こうこう芸者が話していたというのを、私共はそれを聞いて下手人にはチャソト覚えがあるけれども、言えば面倒だから、その同窓の書生にもその時には隠しておいた。

禁酒から煙草

 また私は酒のために生涯の大損をして、その損害は今日までも身に付いているというその次第は緒方の塾に学問修業しながら、兎角酒を飲んで宣いことは少しもない。
これは済まぬことだと思い、あたかも一念ここに発起したように断然酒を止めた。
スルト熱中の大評判ではない大笑いで「ヤア福沢が昨日から禁酒した。
コリャ面白い、コリャ可笑しい。
いつまで続くだろう。
迚(とて)も十日は持てまい。
三日禁酒で明日は飲むに違いない」なんて冷かす者ばかりであるが、私もなかく剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずにいると、親友の高橋順益が「君の辛抱はエライ。
よくも続く。
見上げてやるぞ。
ところが凡そ人間の習慣は、仮令(たとい)い悪いことでも頓(とみ)に禁ずることは宜しくない。
到底出来ないことだから。
君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに煙草を始めろ。
何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と親切らしく言う。
ところが私は煙草が大嫌いで、これまでも同塾生の煙草をのむのを散々に悪く言うて「こんな無益な不養生な訳けのわからぬ物をのむ奴の気が知れない。
何はさておき臭くて汚くて堪らん。
乃公(おれ)の側ではのんでくれるな」なんて、愛想づかしの悪口を言っていたから、今になって自分が煙草を始めるのは如何(どうも)もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理でもない。
「そんならやってみょうか」と言ってそろ/\試みると、塾中の者が煙草をくれたり、煙管を貸したり、中にはこれは極く軽い煙草だと言ってわざ/\買って来てくれる者もあるというような騒ぎは、何も本当な親切でも何でもない。
実は、私が普段、煙草のことを悪くばかり言っていたものだから、今度は彼奴を喫煙者にしてやろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分っているけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な煙を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らしている中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、だん/\風味が善くなって来た。
凡そ一カ月ばかり経って本当の喫煙者になった。
ところが例の酒だ。
何としても忘れられない。
卑怯とは知りながら、一寸と一盃やってみると堪らない。
モウ一盃、これでおしまいと力んでも、徳利を振ってみて音がすれば我慢が出来ない。
とう/\三合の洒をみな飲んでしまって、また翌日は五合飲む。
五合三合従前(もと)の通りになって、さらば煙草の方はのまぬむかしの通りにしようとしても、これも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。
迚(とて)も叶わぬ禁酒の発心、一カ月の大馬鹿をして酒と煙草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども煙草は止みそうにもせず、衝生のため自ら作(な)せる損害と申して一言の弁解はありません。

城山から帰って火事場に働く

 塾中兎角貧生が多いので、料理茶屋に行って旨い魚を食うことはまず六かしい。
夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。
マアいわば魚の残物(ひけもの)のようなもので値が安い。
それを買って来て洗手盥(ちょうずだらい)で洗って、机のこわれたのか何かを俎(まないた)にして、小柄(こづか)をもって拵えるというようなことは毎度やっていたが、私は兼て手の先が利いてるから、何時でも魚洗いの役目に回っていた。
頃は三月桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山という所があって盛りだというから、花見に行こうと相談が出来た。
迚(とても)彼方に行って茶屋で飲み食いしようということは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物を買って来て、その外氷豆腐だの野菜物だの買い調えて、朝早くから起きて匆々(そうそう)に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから洒を買って、およそ十四、五人も同伴(ツレ)があったろう、弁当を順持にして桃山に行って、さん/”\飲み食いして宣い機嫌になっているその時に、不図西の方を見ると、大阪の南に当って大火事だ。
日はよほど落ちて昔の七ツ過ぎ。
サア大変だ。
丁度その日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行っている。
吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも如何も構わないけれども、長与が行っている。
もしや長与が焼死はせぬか。
何でも長与を救い出さなければならぬというので、桃山から大阪まで二、三里の道をどん/\駈けて、道頓堀に駆け付けてみたところが、疾うに焼けてしまい、三芝居あったが三芝居とも焼けて、だん/\北の方に焼け延びている。
長与は如何したろうかと心配したものの、迚(とても)も捜す訳けに行かぬ。
間もなく日が暮れて夜になった。
もう夜になっては長与のことは仕方がない。
「「火事を見物しようじゃないか」と言って、その火事の中へどんどん這入って行った。
ところが荷物を片付けるので大騒ぎ。
それからその荷物を運んでやろうというので、夜具包か何の包か風呂敷包を担いだり箪笥を担いだり、なか/\働いて、だん/\と進んで行くと、そのとき大阪では焼ける家の柱に網を付けて家を引き倒すということがあるその綱を引っ張ってくれと言う。
「よし来た」とその綱を引っ張る。
ところが、握飯を食わせる、酒を飲ませる。
如何も堪えられぬ面白い話だ。
さん/\酒を飲み握飯を食って八時ごろにもなりましたろう。
それから一同塾に帰った。
ところがマダ焼けている。

「もう一度行こうではないか」とまた出掛けた。
その時の大阪の火事というものは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ這入ると誠に静かなもので、一人も人が居らぬくらい。
どうもない。
ただその周囲の所に人がドヤ/\群集しているだけである。
それゆえ大きな声を出して蹴破って中へ飛び込みさえすれば誠に楽な話だ。
中には火消の黒人(くろうと)と緒方の書生だけで大いに働いたことがあるというような訳けで、随分活発なことをやったことがありました。

 一体塾生の乱暴というものはこれまで申した通りであるが、その塾生同士相外互の間柄というものは至って仲の宜いもので、決して争いなどをしたことはない。
勿論議論はする、いろ/\の事について互いに論じ合うということはあっても、決して喧嘩をするようなことは絶えてない、ことで、殊に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。
仮令(たと)い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。
スルト私は「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない」と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何(どう)あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。

塾生の勉強

 およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。
ソレゆえ一寸(ちょい)と一目見たところでは――今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問どころのことではなく、ただワイ/\していたのかと人が思うでありましょうが、そこの一段に至っては決してそうでない。
学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩ろうて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座蒲団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉慶敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図思い付いた。
これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時でも構わぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。
読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ伏して眠るか、あるいは床の間床柱を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。
その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。
これでも大抵趣きがわかりましょう。
これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大砥みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。

 それから緒方の塾に這入ってからも、私は自分の身に覚えがある。
夕方食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。
一寝して目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。
それからヒョイと起きて書を読む。
夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを合図にまた寝る。
寝て丁度飯の出来上ったころ起きてそのまま湯屋に行って朝湯に這入ってそれから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。
勿論衛生などということは頓と構わない。
全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或いは思い出さなかったのか、一寸でも喧しく言ったことはない。
それで平気で居られたというのは、考えてみれば身体が丈夫であったのか、或いはまた衛生々々というようなことを無闇に喧しく言えば却って身体が弱くなると思うていたのではないかと思われる。

原書写本会読の法

 それから塾で修業するその時の仕方は如何いう塩梅であったかと申すと、まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。
何も知らぬ者に如何して教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。
一をガランマチカといい、一をセインタキスという。
初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読をを授ける傍(かたわら)に講釈をもして聞かせる。
これを一冊読了る(よみおわる)とセインタキスをまたその通りにして教える。
如何やらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。
会読ということは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞いていて、出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、それから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、また質問を試みるような卑劣な者もない。
緒方の塾の蔵書というものは、物理書と医書とこの二種類の外に何もない。
ソレモ取り集めて僅か十部に足らず、固よりオランダから舶来の原書であるが、一種類ただ一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原害を写さなくてはならぬ。
銘々に写して、その写本をもって毎月六斎ぐらい会読をするのであるが、これを写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかということは籤(くじ)で定(き)めるので、さてその写しようは如何するというに、その時には勿論洋紙というものはない、みな日本紙で、紙を能く磨(す)って真書で写す。
それはどうも埒(らち)が明かない。
埒が明かないから、その紙に礬水(どうさ)をして、それから筆は鵞筆(ガペン)でもって写すのがまず一般の風であった。
その鷲筆というのは如何いうものであるかというと、そのとき大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。
これは鰹の釣道具にするものとやら聞いていた。
価は至極安い物で、それを買って、研ぎ澄ました小刀でもってその軸をペソのように削って使えば役に立つ。
それから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。
日本の墨壷というのは、磨った墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用いるのは、ただ墨を磨ったまま墨壷の中に入れて、今日のインキのようにして貯えて置きます。
こういう次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから、写本はなか/\上達して上手である。
一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入って、颯々と写してスペルを誤ることがない。
こういう塩梅に、読むと写すと二人掛りで写したり、また一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に回す。
その人が写し了るとまたその次の人が写すというように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚かあるいは四、五枚より多くはない。

自身自力の研究

 さてその写本の物理書医書の会読を如何するかというに、講釈の為人(して)もなければ読んで聞かしてくれる人もない。
内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一もこれを犯す者はない。
ただ自分一人でもってそれを読み砕かなければならぬ。
読み砕くには、文典を土台にして辞書に便る外に道はない。
その辞書というものは、ここにヅーフという写本の字引が塾に一部ある。
これはなか/\大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。
これを一部こしらえるということは、なか/\大きな騒ぎで、容易に出来たものではない。
これは昔、長崎の出島に在留していたオラソダのドクトル・ヅーフという人が、ハルマというドイツオラソダ対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、それを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄り合って見ていた。
それからモウ一歩立上ると、ウェーランドというオランダの原書の字引が一部ある。
それは六冊物でオランダの註が入れてある。
ヅーフで分らなければウェーランドを見る。
ところが初学の間はウェーランドを見ても分かる気遣はない。
それゆえ便るところはただヅーフのみ。
会読は一六とか三八とか、大抵日目が極っていていよ/\明日が会読だというその晩は、如何な懶堕生(らんだせい)でも大抵寝ることはない。
ヅーフ部屋という字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している。
それから翌朝の会読になる。
会読をするにも簸(くじ)でもってここからここまでは誰と極めてする。
会頭は勿論原書を持っているので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割り当てられたところを順々に講じて、もしその者が出来なければ次に回す。
またその人も出来なければその次に回す。
その中で解し得た者は白玉、解し傷(そこの)うた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んでしまったという者は白い三角を付ける。
これはただの丸玉の三倍ぐらい優等な印で、およそ塾中の等級は七、八級ぐらいに分けてあった。
そうして毎級第一番の上席を三カ月占めていれば登級するという規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いてやり、至極親切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験にあうようなものだ。
そういう訳けで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読み尽して、いわば手を空(むな)しうするようなことになる、その時には何か六かしいものはないかというので、実用もない原書の緒言とか序文とかいうようなものを集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、または先生に講義を願ったこともある。
私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にもさま/”\先生の説を聞いて、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度のことで、講義終り塾に帰って朋友相互に「今日の先生の卓説は如何だい。
何だか吾々頓(とみ)に無学無識になったようだ」などと話したのは今に覚えています。

市中に出て大いに洒を飲むとか暴れるとかいうのは、大抵会読をしまったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があるという時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなると、いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強していました。
書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面をごまかして何年いたから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うというのが事実に行われて居ったから、大概の塾生は能く原書を読むことに達していました。

写本の生活

 ヅーフのことについて序(ついで)ながら言うことがある。
如何かすると、その時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰いたいという注文を申し込んで来たことがある。
ソコででその写本ということがまた書生の生活の種子(たね)になった。
当時の写本代は、半紙一枚十行二十字詰で何文という相場である。
ところがヅーフ一枚は横文字三十行ぐらいのもので、それだけの横文字を写すと一枚十六文、それから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、ただの写本に較べると余程割りが宣しい。
一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。
註の方ならばその半値八十文になる。
註を写す者もあれ、は横文字を写す者もあった。
ソレを三千枚写すというのであるから、合計してみるとなか〈大きな金高になって、おのずから書生の生活を助けていました。
今日より考うれば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。
一例を申せば、白米一石が三分二朱、酒が一升百六十四文から二百文で、書生在塾の入費は一カ月一分二朱から一分三朱あれば足る。
一分二朱はその時の相場でおよそ二貫四百文であるから、一日が百文より安い。
然るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余るほどあるので、およそ尋常一様の写本をして塾にいられるなどということは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。
ソレについて一例を挙げればこういうことがある。
江戸はさすがに大名の居る所で、常にヅーフばかりでなく蘭学書生のために写本の注文は盛んにあったもので、おのずから価が高い。
大阪と比べてみれば大変高い。
加賀の金沢の鈴木儀六という男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男は元来一文なしに江戸に居て、辛苦して写本でもって自分の身を立てたその上に金を貯えた。
およそ一、二年辛抱して金を二十両ばかり拵えて、大阪に出て来て到頭その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰った。
これなどは全く蘭書写本のお蔭である。
その鈴木の考えでは、写本をして金を取るのは江戸が宣いが、修業するには如何しても大阪でなければ本当なことが出来ないと目的を定めて、ソレでその金を持って来たのであると話していました。

工芸技術に熱心

 それからまた一方では、今日のようにすべて工芸技術の種子というものがなかった。
蒸気機関などは、日本国中で見ようといってもありはせぬ。
化学(ケミスト)の道具にせよ、どこにも揃ったものはありそうにもしない。
揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。
けれどもそういう中に居ながら、器械のことにせよ化学のことにせよ大体の道理は知っているから、如何かして実地を試みたいものだというので、原書を見てその図を写して似寄(によ)りの物を拵えるということについては、なか/\骨を折りました。
私が長崎に居るとき、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫(すず)を附けることが出来るということを聞いて知っている。
それまで日本では松脂(まつやに)ばかりを用いていたが、松脂では銅(あかがね)の類に錫を流して鍍金(めっき)することは出来る。
唐金(からかね)の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋(いかけや)の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くというので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとしたところが、薬屋に行っても塩酸のある気遣いはない。
自分でこしらえなければならぬ。
塩酸をこしらえる法は書物で分る。
その方法に依って何うやら斯うやら塩酸を拵えて、これに亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬことが立派に出来たというようなことが面白くて堪らぬ。
あるいはまたヨジュムを作ってみようではないかと、いろ/\書籍を取り調べ、天満の八百屋市に行って昆布荒布(あらめ)のような海草類を買って来て、それを炮烙(ほうろく)で煎って如何いう風にすれば出来るというので、真黒になって遣ったけれどもこれは到頭出来ない。
それから今度は[ドウ]砂製造の野心を起して、まず第一の必要は塩酸アンモニアであるが、これも勿論薬屋にある品物でない。
そのアンモニアを造るには如何するかといえば、骨――骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋(べっこうや)などに馬爪(ばす)の削屑(けずりくず)がいくらもあって只くれる。
肥料にするかせぬか分らぬが行きさえすればくれるから、それをドツサリ貰って来て徳利に入れて、徳利の外面(そと)に士を塗り、また素焼ききの大きなか瓶を買って七輪にして沢山火を起し、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を附けて瓶の外に出すなどいろ/\趣向して、ドシ/\火を扇ぎ立てると管の先からタラ/\液が出て来る。
即ちこれがアンモニアである。
至極旨く取れることは取れるが、ここに難渋はその臭気だ。
臭いにも臭くないにも何とも言いようがない。
あの馬爪、あんな骨類を徳利に入れて蒸し炊きにするのであるから、実に鼻持もならぬ。
それを緒方の塾の庭の狭い所でやるのであるから、奥でもって堪らぬ。
奥で堪らぬばかりではない。
さすがの乱暴書生も、これには辟易して迚(とて)も居られない。
夕方湯屋に行くと、着物が臭くって犬が吠えるという訳け。
仮令い真裸体(まっぱだか)でやっても、身体が臭いといって人に忌がられる。
勿論、製造の本人らは如何でも斯うでもして[ドウ]砂という物を拵えててみましょうという熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻りに試みているけれども、なにぶん周辺の者が喧しい。
下女下男までも、胸が悪くて御飯が食べられないと訴える。
それこれの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉のような物ばかりで結晶しない。
如何しても完全な[ドウ]砂にならない、加うるに喧しくて/\堪らぬから一旦罷めにした。
けれども気強い男はマダ罷めない。
折角仕掛った物が出来ないといっては学者の外聞が悪いとか何とかいうような訳けで、私だの久留米の松下元芳、鶴田仙庵らは思い切ったが、二、三の人はなお遣った。
如何しかというと、淀川の一番粗末な船を借りて、舶頭を一人雇うて、その船に例の瓶の七輪を積み込んで、船中で今の通りの臭い仕事をやるは宣いが、矢張り煙が立って風が吹くと、、その煙が陸(おか)の方へ吹き付けられるので、陸の方で喧しくいう。
喧しくいえば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ズット下の玉江橋辺まで、上下に逃げて回ってやったことがある。
その男は中村恭安いう讃岐の金比羅の医者であった。
この外にも犬猫は勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度のことであったが、シテみると当時の蘭学書生は如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬところに読書研究、また実地のことについてもなか/\勉強したものだ。

 製薬のことについても奇談がある。
あるとき硫酸を造ろうというので、様々大骨折りで不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬというので、その日はまず茶椀に入れて棚の上に上げて置いたところが、鶴田仙俺が自分でこれを忘れて、何かの機にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠り、身体にまでの怪我はなかったが、丁度旧磨四月の頃で、一枚の袷をズタ/\にしたことがある。

 製薬には兎角(とかく)徳利が入用だから、丁庶宣しい、塾の近所の丼池(どぶいけ)筋に米藤という酒屋が塾の御出入、この酒屋から酒を取り寄せて、洒は飲んでしまって徳利は留め置き、何本でもみんな製薬用にして返さぬというのだから、酒屋でも少し変に想ったと見え、内々塾僕に聞き合わせると、この節書生さんは中味の酒よりも徳利の方に用があるというので、酒屋は大いに驚き、その後何としても酒を持って来なくなって困ったことがある。

黒田公の原書を写し取る

 また筑前の国主黒田美濃守という大名は、今の華族黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入して、勿論筑前に行くでもなければ江戸に行くでもない、ただ大阪に居ながら黒田家の御出入医ということであった。
故に黒田の殿様が江戸出府、あるいは帰国の時に、大阪を通行する時分には、先生は吃度中ノ島の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うという常例であった。
ある歳、安政三年か四年と思う。
筑前侯が大阪通行になるというので、先生は例の如く中ノ島の屋敷に行って、帰宅早々私を呼ぶから、何事かと思って行ってみると、先生が一冊の原書を出して見せて「今日筑前屋敷に行ったら、こういう原書が黒田侯の手に這入ったといって見せてくれられたから、一寸と借りて来た」と言う。
これを見ればワンダーベルトという原書で、最新の英書をオラソダに翻訳した物理書で、書中は誠に新しいことばかり、就中エレキトルのことが如何にも詳(つまびらか)らかに書いてあるように見える。
私などが大阪で電気のことを知ったというのは、ただ纔(わずか)にオランダの学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。
ところがこの新舶来の物理書は、英国の大家フハラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来ているから、新奇とも何ともただ驚くばかりで、一見直ちに魂を奪われた。
それから私は先生に向かって「これは誠に珍しい原書でございますが、何時までここに拝借していることが出来ましょうか」と言うと、「左様さ。
何れ黒田侯は二晩とやら大阪に泊るという。
御出立になるまでは、あちらに入用もあるまい」「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとうございます」と言って、塾へ持って来て「如何だ、この原書は」と言ったら、塾中の書生は雲霞の如く集って一冊の本を見ているから、私は二、三の先輩生と相談して、何でもこの本を写して取ろうということに一決して、「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。
見ることは止めにして、サア写すのだ。
しかし千頁もある大部の書をみな写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルのところだけ写そう。
一同筆紙墨の用意して総掛りだ」といったところで、ここに一つ困ることには、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。
毀して手分けて遣れば、三十人も五十人もいるから瞬く間に出来てしまうが、それは出来ない。
けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得ているから、一人が原書を読むと一人はこれを耳に聞いて写すことが出来る。
ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍って来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると、こういう仕組にして、昼夜の別なく、飯を食う間も煙草をのむ間も休まず、一寸とも隙(ひま)なしに、およそ二夜三日の間に、エレキトルのところは申すに及ばず、図も写して読み合わせまで出来てしまって、紙数はおよそ百五、六十枚もあったと思う。
ソコデ出来ることなら外のところも写したいと言ったが時日が許さない。
マア/\これだけでも写したのは有り難いというばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買い取られたと聞いて、貧書生らはただ篤くのみ。
固より自分に買うという野心も起りはしない。
いよ/\今夕、候の御出立と定(き)まり、私共はその原書を撫くりまわし誠に親に暇乞をするように別れを惜しんで還したことがございました。
それから後は、塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達していたと申して憚(はばかり)ません。
私などが今日でも電気の話を聞いておよそその方角のわかるのは、全くこの写本の御蔭である。
誠に因縁のある珍しい原書だから、その後たび/\今の黒田侯の方へ、ひょっとあの原書はなかろうかと問い合わせましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬという。
惜しいことでございます。

大阪書生の特色

 只今申したような次第で、緒方の書生は学問上のことについては一寸とも怠ったことはない。
その時の有様を申せば、江戸にいた書生が折節(おりふし)大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪からわざ/\江戸に学びに行くというものはない。
行けば則ち教えるという方であった。
されば大阪に限って日本国中粒選(つぶえり)のエライ書生のいよう訳けはない。
また江戸に限って日本国中の鈍い書生ばかりいよう訳けもない。
しかるに何故ソレが違うかということこついては考えなくてはならぬ。
勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をしていたたけれども、それは人物の相違ではない。
江戸と大阪とおのずから事情が違っている。
江戸の方では開国の初とはいいながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷というものがあって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。
従って、いささかでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、あるいは翻訳させればその返礼に金を与えるとかいうようなことで、書生輩がおのずから生計の道に近い。
極都合の宣い者になれば大名に抱えられて昨日までの書生が今日は何百石の侍になったということもまれにはあった。
それに引き替えて、大阪はまるで町人の世界で、何も武家というものはない。
従って砲術を遣ろうという者もなければ原書を取り調べるべようという者もありはせぬ。
それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。
すなわち衣食に縁がない。
緑がないから縁を求めるということにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば一寸と説明はない。
前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。
名を求めぬどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるはかりで、既に已に焼けに成っている。
ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳けのわからぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。
これを一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様(コン)なことが出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下(がんか)に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。
たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれどども自分たちより外にこんな苦いい薬を呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。

漢家を敵視す

 もしも真実その苦学の目的如何なんて問う者あるも返答はただ漠然たる議論ばかり。
医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開国論をいえば固より開国なれども、甚だしくこれを争う者もなく、ただ当の敵は漢方医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でもかでもシナ流は一切打ち払いということは、どことなく定まっていたようだ。
儒者が経史の講釈しても聴聞しようという者もなく、漢学書生を見ればただ可笑しく思うのみ。
殊に漢医書生はこれを笑うばかりでなくこれを罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島に華岡という漢医の大家があって、その塾の書生は孰(いず)れも福生とみえ服装(みなり)も立派で、なか/\もって吾々蘭学生の類でない。
毎度往来に出逢うて、もとより言葉も交えず互いに睨み合うて行き違うそのあとで、「彼の様ア如何だい。
着物ばかり奇麗で何をしているんだ。
空々寂々チンプンカンの講釈を聞いて、その中で古く手垢の付いてる奴が塾長だ。
こんな奴らが二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰って人を殺すとは恐ろしいじゃないか。
今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから」なんてワイ/\言ったのは毎度のことであるが、これとても此方(こっち)に如斯(こう)という成算も何もない。
ただ漢方医流の無学無術を罵倒して、蘭学生の気焔を吐くばかりのことである。

目的なしの勉強

 兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるがその目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。
ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろうと思う。
さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。
宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。
就学勉強中はおのずから静かにして居らなければならぬ、という理屈がここに出て釆ようと思う。

大阪を去って江戸に行く

 私が大阪から江戸へ来たのは、安政五年二十五歳の時である。
同年江戸の奥平の屋敷から、御用があるから来いといって、私を呼びに来た。
それは江戸の屋敷に岡見彦曹という蘭学好きの人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何かして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたいというので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。
ところで奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木弘安、杉亨二というような学者を雇うていたような訳けで、私が大阪に居るということがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福沢を呼べということになって、ソレで私を呼びに来たので、そのとき江戸詰の家老には奥平壱岐が来ている。
壱岐と私との関係については、私は自ら自慢をしても宣いことがある。
これはが如何しても悪感情がなければならぬ筈、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と一寸とも戦ったことがない。
彼は私を敵視し愚弄しているということは、長崎を出た時の様でチャソトわかっている。
長崎を立つ時に「貴様は中津に帰れ。
帰ったら誰にこの手紙を渡せ。
誰にこう伝言せよ」と命ずるから、ヘイ/\〈と畏まりながら、心の中では舌を出して「馬鹿言え、乃公は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞ」と言わぬばかりに、席を蹴立てて出たことも、後になれば先方でも知っている。
けれどもその後、私は毎度本人に逢うて仮初にも怨言(えんげん)を言うたことのないどころではない、わざと旧恩を謝するという趣きばかり装うている中に、またもやその大切な原書を盗み写したこともある。
先方も悪ければ此方も十分悪い。
けれどもただ私が、そのことを人に語らず顔色にも見せずに、御家老様と尊敬していたから、いわゆる国家老のお坊さんで、今度私を江戸に呼び寄せることについても、家老に異議なく直に決して幸いであったが、実を申せば壱岐よりも私の方が粥って罪が深いようだ。

三人同行

 大阪から江戸に来るについては、何はさておき中津に帰って一度母に会うて別れを告げて釆ましょうというので、中津に帰ったその時はコレラの真っ盛りで、私の家の近所まで病人だらけ、バタ/\死にました。
その流行病最中、船に乗って大阪に着いて暫時逗留、ソレカラ江戸に向かって出立ということにしたところが、およそ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば、道中並びに在勤中、家来を一人くれるのが常例で今度も私の江戸勤番について家来一人ぶりの金を渡してくれた。
けれども家来なんぞということは思いも寄らぬことで、何も要らぬ。
けれどもここに旅費がある。
待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいという者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実はこういう訳けで金はあるぞと言うと、即席にどうぞ連れて行ってくれと言ったのが岡本周吉、すなわち古川節蔵である(広島の人)。
「よし連れて行ってやろう。
連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宣しいか。
江戸へ行けば米もあれば長屋もある、鍋釜も貸してくれるが、本当の家来をやめにすれば飯炊きがない。
その代りに連れて行くのだが如何だ」「飯を炊くぐらいのことは何でもない、飯を炊こう」「それじゃ一緒に来い」と言って、それから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連れは私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵(らいぞう)という矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。
その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止めなどいう災難に遇わず、滞りなく江戸に着いて、まず木挽町汐留(しおどめ)の奥平屋敷に行ったところが、鉄砲洲(てっぽうず)に中屋敷がある、そこの長屋を貸すと言うので、早速岡本と私とその長屋に住み込んで、両人自炊の所帯持ちになって、それから同行の原田は下谷練塀小路(ねりべいこうじ)の大医大槻俊斎先生のところへ入り込んだ。
江戸へ参れば知己朋友は幾人もいて、だん/\面白くなって来た。

江戸に学ぶに非ず教うるなり

 さて私が江戸に参って鉄砲洲の奥平中屋敷に住まっているという中に、藩中の子弟が三人五人ずつ学びに来るようになり、また他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授していたが、前にも言う通り大阪の書生は修業するために江戸に行くのでほない、行けば教えに行くのだというおのずから自負心があった。
私も江戸に来てみたところで、全体江戸の蘭学社会は如何いうものであるか知りたいものだと思っている中に、ある日島村鼎甫(ていほ)の家に尋ねて行ったことがある。
島村は勿論緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の翻訳などしていた。
私も甚だ能く知っているので、尋ねて参れば何時も学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の翻訳最中、その原書を持ち出して言うには、この文の一節が如何してもわからないと言う。
それから私がこれを見たところが、なるほど解し悪(にく)いところだ。
よって主人に向かって、これは外の朋友にも相談してみたかと言えば「イヤもう、親友誰々、四、五人にも相談をしてみたが如何してもわからぬ」と言うから「面白い、ソレじゃ僕がこれを解してみせよう」と言って、本当に見たところがなか/\六かしい。
およそ半時問ばかりも無言で考えたところで、チャソトわかった。
「一体これはこういう意味であるが如何だ、物事はわかってみると造作のないものだ」と言って、主客共に喜びました。
何でもその一節は、光線と視力との閑係を論じ、蝋燭(ろうそく)を二本点けて持てその灯光(あかり)をどうかすると影法師が如何とかなるという随分六かしいところで、島村の翻訳した生理発蒙(せいりはつもう)という訳書中にある筈です。
この一事で私もひそかに安心して、まずこれならば江戸の学者もさまで恐れることはないと思うたことがある。

 それからまた、原書の不審なところを諸先輩に質問してひそかにその力量を試したこともある。
大阪に居る中に毎度人の読み損うたところか人の読み損いそうなところを選り出して、そうしてそれを私はわからない顔して不審を聞きに行く。
聞きに行くと、毎度のことで、学者先生と称している人が読み損うているから、此方はかえって満足だ。
実は欺いて人を試験するようなもので徳義上において相済まぬ罪なれども、壮年血気の熱心、おのずから禁ずることが出来ない。
畢竟(ひっきょう)私が大阪に居る間は同窓生と共に江戸の学者を見下だして取るに足らないものだとこう思うていながらも、ただソレを空に信じて宣い気になっていては大間違いが起るから、大抵江戸の学者の力量を試さなければならぬと思って、悪いこととは知りながら試験をやってみたのです。

英学発心

 ソコデもって、蘭学社会の相場は大抵わかってまず安心ではあったがさてまたここに、大不安心なことが生じて来た。
私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜正しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。
その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住まって店を出している。
其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。
此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。
店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。
何を見ても私の知っている文字というものはない。
英語だか仏語だか一向わからない。
居留地をブラ/\歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。
その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。
此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろ/\な話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。
御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行ってその晩の十二時に帰ったから、丁度一昼夜歩いていた訳けだ。

小石川に通う

 横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。
これは/\どうも仕方ない、今まで数年の間、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬことをしたわいと、実に落胆してしまった。
けれども決して落胆していられる場合でない。
あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。
ところで今、世界に英語の普通に行われているということはかねて知っている。
何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚(とて)も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰った翌日だ、一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を極めて、さてその英語を学ぶということについ如何して宣いか取付端(とりつきは)がない。
江戸中にどこで英語を教えているという所のあろう訳けもない。
けれども段々聞いてみると、その時に条約を結ぶというがために、長崎の通詞の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用を勤めている。
その人が英語を知っているという噂を聞き出したから、ソコで森山の家に行って習いましょうとこう思うて、その森山という人は小石川の水道町に住居していたから、早速その家に行って英語教授のことを頼み入ると、森山の言うに「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというならば教えて進ぜょう、ついては毎日出勤前、朝早く来い」ということになって、そのとき私は鉄砲洲に住まっていて、鉄砲洲から小石川まで頓(やが)て二里余も有りましょう。
毎朝早く起きて行く。
ところが、「今日はもう出勤前だからまた明朝来てくれ」、明くる朝早く行くと、「人が来ていて行かない」と言う。
如何しても教えてくれる暇がない。
ソレは森山の不親切という訳けではない、条約を結ぼうという時だから、なか/\忙しくて実際に教える暇がありはしない。
そうすると、こんなに毎朝来てて何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来てくれぬかと言う。
ソレじゃ晩に参りましょうと言って、今度は日暮から出掛けて行く。
あの往来は、丁度今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺で、素(も)と護持院ガ原というて、大きな松の樹などが生茂っている恐ろしい淋しいし所で、追剥でも出そうな所だ。
そこを小石川から帰途にが夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さというものは今でも能く覚えている。
ところが、この夜稽古も矢張り同じことで、今晩は客がある、イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来から出て行かなければならぬというような訳けで、頓と仕方がない。
およそそこに二月か三月通うたけれども、どうにも暇がない。
迚もこんなことでは何も覚えることも出来ない。
加うるに森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない、ようやく少し発音を心得ているというくらい。
迚もこれは仕方がないと、余儀なく断念。

藩書調所に入門

 その前に私が横浜に行った時に、キニッフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買って来た。
ソレヲ独りで読むとしたところで、字書がない。
英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解すことが出来るから、どうか字書を欲しいものだといったところで、横浜に字書などを売るところはない。
何とも仕方がない。
ところがその時に、九段下に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)という幕府の洋学校がある。
そこには色々な字書があるということを聞き出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ。
借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出し抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいといっても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居というものが願書に裏印をして然る後に入門を許すという。
それから藩の翻守居の所に行って奥印のことを頼み、私は(かみしも)を着て蕃書調所に行って入門を願うた。
その時には箕作麟祥(みつくりりんしょう)のお祖父さんの箕作阮甫(げんぽ)という人が調所の頭取で、さっそく入門を許してくれて、入門すれば字書を借りることが出来る。
直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に受け取って、通学生のいる部屋があるから、そこでしばらく見て、それから懐中の風呂敷を出してその字書を包んで帰ろうとすると、ソレはならぬ、ここで見るならは許して苦しくないが、家に持ち帰ることは出来ませぬと、その係の者が言う。
こりや仕方がない、鉄砲洲から九段坂下まで毎日字引を引きに行くということは迚も間に合わぬ話だ。
ソレも、ようやく入門して、たった一日行ったきりで断念。

 さて如何したら宜かろうかと考えた。
ところで、だん/\横浜に行く商人がある。
何か英蘭対訳の字書はないかと頼んでおいたところが、ホルトロップという英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。
誠に小さな字引だけれども価五両という。
それから私は奥平の藩に歎願して買い取って貰って、サアもうこれで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首っ引きで、毎日毎夜独り勉強。
またあるいは英文の書を蘭語に翻訳してみて、英文に慣れることばかり心掛けていました。

英学の友を求む

 そこで自分の一身はそう定めたところで、これは如何しても朋友がなくてはならぬ。
私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は悉(ことごと)く不便を感じているに違いない。
迚も今まで学んだのは役に立たない。
何でも朋友に相談をしてみようとこう思うたが、このこともなか/\易くないというのは、その時の蘭学者全体の考えは、私を始めとして皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸でこれを捨ててしまって英学に移ろうとすれば、新たに元の通りの苦しみをもう一度しなければならぬ。
誠に情ないつらい話である。
たとえば五年も三年も水練を勉強して、ようやく泳ぐことが出来るようになったところで、その水練を罷めて今度は木登りを始めようというのと同じことで、以前の勉強が丸で空になると、こう考えたものだから、如何にも決断が六(むつ)かしい。
ソコデ学友の神田孝平に面会して、如何しても英語をやろうじゃないかと相談を掛けると、神田の言うに「イヤもう僕も疾うから考えていて実は少し試みた。
試みたが如何にも取付端(とりつきは)がない。
どこから取り付いて宜いか実に訳けがわからない。
しかし年月を経(ふ)れば何か英語を読むという小口が立つに違いないが、今のところでは何とも仕方がない。
マア君たちは元気が宣いからやってくれ、大抵方角が付くと僕も吃とやるから、ダガ今のところでは何分自分でやろうと思わない」と言う。
それから番町の村田蔵六(後に大村溢次郎)の所に行って、その通りに勧めたところが、これは如何してもやらぬという考えで、神田とは丸で説が違う。
「無益なことをするな。
僕はそんな物は読まぬ。
要らざることだ。
何もそんな困難な英書を、辛苦して読むがものはないじゃないか。
必要な書は皆オランダ人が翻訳するから、その翻訳書を読めばソレで沢山じゃないか」と言う。
「なるほどそれも一説だが、けれどもオランダ人が何もかも一々翻訳するものじゃない。
僕は先頃横浜に行って呆れてしまった。
この塩梅では迚も蘭学は役に立たぬ。
是非英書を読まなくてはならぬではないか」と勧むれども、村田はなか/\同意せず「イヤ読まぬ。
僕は一切読まぬ。
やるなら君たちはやり給え。
僕は必要があれば蘭人の翻訳したのを読むから構わぬ」と威張っている。
これは迚も仕方がないというので、今度は小石川にいる原田敬策にその話をすると、原田は極(ごく)熱心で「何でもやろう。
誰がどう言うても横わぬ。
是非やろう」と言うから「そうか、ソレは面白い。
そんなら二人でやろう。
どんなことがあってもやり遂げようではないか」というので、原田とは極説が合うて、いよ/\英書を読むという時に、長崎から来ていた子供があって、その子供が英語を知っているというので、そんな子供を呼んで来て発音を習うたり、またあるいは漂流人で折節(おりふし)帰るものがある、長く彼方へ漂流していた者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。
その時に、英学で一番六かしいというのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうというのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、子供でも宣ければ漂流人でも構わぬ、そういう者を捜し回っては学んでいました。
始めはまず英文を蘭文に翻訳することを試み、一字々々字を引いて、ソレを蘭文に書き直せば、ちゃんと蘭文になって、文章の意味を取ることに苦労はない。
ただその英文の語音を正しくするのに苦しんだが、これも次第緒(いとぐち)が開けて来ればそれほどの難渋でもなし、詰まるところは最初私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨ててしまい、数年勉強の結果を空して生涯二度の艱難辛苦と思いしは大間違いの話で、実際を見れば蘭といい英というも等しく横文にして、その文法も略(ほぼ)相同じければ、蘭書読むカはおのずから英書にも適用して、決して無益でない。
水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。

初めてアメリカに渡る

咸臨丸(かんりんまる)

 ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府からアメリカに軍艦を遣るという日本開闢以来未曾有の事を決断しました。
さてその軍艦と申しても、至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒュルプマシーネと申して、港の出入りに蒸気を焚くばかり、航海中はただ風を便りに運転せねばならぬ。
二、三年前オランダから買い入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸という。
その前、安政二年のころから幕府の人が長崎に行って、蘭人に航海術を伝習して、その技術もようやく進歩したから、このたび使節がワシントンに行くにつき、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海とこういう訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。
船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海のことについては色々お話がある。

 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟していたところが、その時アメリカのカピテン・ブルックという人が、太平洋の海底測量のために小帆前船(しょうほまえせん)へネモココパラ号に乗って航海中、薩摩の大島沖で難船して幸いに助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、カピテン以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だからこれに乗って帰国したいと言うので、その事が定(き)まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと言う。
何故かというに、もしその人たちを連れて帰れば、却って銘々共(めいめいども)がアメリカ人に連れて行って貰ったように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。
それこれで政府もよほど困った様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆(ぎりょう)を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらば、マサカの時に何かの便利になろうという老婆心であったと思われる。

木村摂津守

 艦長木村摂津守という人は、軍艦奉行の職を奉じて海軍の最上官であるから身分相当に従者を連れて行くに違いない。
それから私は、どうもその船に乗ってアメリカ州に行ってみたい志はあるけれども、木村という人は一向知らない。
去年大阪から出て来たばかりで、そんな幕府の役人などに緑のある訳けはない。
ところが幸いに、江戸に桂川という幕府の蘭家の侍医がある。
その家は、日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸はさておき日本国中蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はない。
ソレ故、私なども江戸に来れば何はさておき桂川の家には訪問するので、度々その家に出入している。
その桂川の家と木村の家とは親類――ごく近い親類である。
それから私は、桂川に頼んで「如何かして木村さんの御供をしてアメリカに行きたいが、紹介して下さることは出来まいか」と懇願して、桂川の手紙を貰って木村の家に行ってその願意を述べたところが、木村では即刻許してくれて「宜しい、連れて行ってやろう」とこういうことになった。
というのは、案ずるに、その時の世態人情において、外国航海など言えば、開闢以来の珍事と言おうか、むしろ恐ろしい命懸けのことで、木村は勿論艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来という者も余り行く気はないところに、仮初めにも自分から進んで行きたいと言うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸というくらいなことであったろうと思う。
直に許されて私は御供をすることになった。

浦賀に上陸して酒を飲む

 咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出てまず浦賀に行った。
同時に日本からアメリカに使節が立って行くので、アメリカからその使節の迎船が来た。
ポーハタソというその軍艦に乗って行くのであるが、そのポーハタソは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して、まず浦賀に泊まった。
浦賀にいて面白いことがある。
船に乗組んでいる人はみな若い人で「もうこれが日本の訣別(オワカレ)であるから浦賀に上陸して洒を飲もうではないか」と言い出した者がある。
何れも同説で、それから陸に上がって茶屋みたようなところに行って、さん/″\酒を飲んでサア船に帰るという時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶碗(うがいじゃわん)が一つあった、これは船の中で役に立ちそうな物だと思って、一寸と私がそれを盗んで来た。
その時ほ冬のことで、サア出帆したところが大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶碗に飯を盛って本式に食べるなんということは容易なことではない。
ところが私の盗んだ嗽茶碗が役に立って、その中にいっばい飯を入れて、その上に汁でも何でも皆かけて、立って食う。
誠に世話のない話で、大層便利を得て、アメリカまで行って、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持って帰って、久しく私の家にゴロチャラしていた。
程経て聞けば、その浦賀で上陸して飲み食いした所は遊女屋だという。
それはその当時私は知らなかったが、そうしてみると、あの大きな茶碗は女郎の嗽茶碗であったろう。
思えばきたないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。

銀貨狼藉

 さてそれから船がでて、ずっと北方に乗り出した。
その咸臨丸というのは百馬力の船であるから、航海中始終石炭を焚くということは出来ない。
ただ港を出るとき這い入るときに焚くだけで、沖に出れば丸で帆前船(ほまえせん)、というのは、石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。
その帆前船に乗って太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船(はしけぶね)が四艘あったが、激浪のために二艘も取られてしもうた。
その時は、私は艦長の家来であるから、艦長のために始終左右の用を弁じていた。
艦長は船の艫(とも)の方の部屋にいるので、ある日、朝起きて、いつもの通り用を弁じましょうと思って艫の部屋に行った、ところがその部屋に弗(ドルラル)が何百枚か何千枚か知れぬほど散乱している。
如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押し入れの中に積み上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、激しい船の動揺で、弗の袋が戸を押し破って外に散乱したものと見える。
これは大変なことと思って、直に引返して艫の方にいる公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大いに驚き、場所に駈け付け、私も加勢してその弗を拾い集めて、袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替ということについて一寸とも考えがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持って行くという極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置いたその金が、嵐のために溢れ出たというような奇談を生じたのである。
それでも大抵四十年前の事情が分りましょう。
今ならば一向訳けはない。
為替で一寸と送って遣れば、何も正金(しょうきん)を船に積んで行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。
航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打ち上げる。
今でも私は覚えているが、甲板の下にいると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。
それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くということは毎度のことであった。
四十五度傾くと沈むというけれども、幸いに大きな災いもなくただその航路を進んで行く。
進んで行く中に、何も見えるものはないその中でもって、一度帆前船に会うたことがあった。
ソレはアメリカの船で、シナ人を乗せて行くのだというその船を一艘見た切り、外には何も見ない。

牢屋に大地震の如

 ところで三十七日かかってサンフランシスコに着いた。
航海中私は身体が丈夫だとみえて怖いと思うたことは一度もない。
始終私は同船の人に戯れて「これは何の事はない」生まれてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入って毎日毎夜大地震にあっていると思えば宣いじゃないか」と笑っているくらいなことで、船が沈もうということは一寸とも思わない。
というのは、私が西洋を信ずるの念が骨に徹していたものとみえて、一寸とも怖いと思ったことがない。
それから途中で水が乏しくなったので、ハワイに寄るか寄らぬかという説が起った。
辛抱して行けばハワイに寄らないでも間に合うであろうが、ごく用心をすれば寄港して水を取って行く、如何しょうかというたが、ついにハワイに寄らずにサンフランシスコに直航とこう決定して、それから水の倹約だ。
何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬということになった。
ところでその時に大いに人を感激せしめたことがある、というのは船中にアメリカの水夫が四、五人いましたその水夫らが、動(やや)もすると水を使うので、カピテン.ブルックに「どうも水夫が水を使うて困る」と言ったら、カピテンの言うには「水を使うたら直に鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵じゃから、説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さい」と言う。
理屈を言えば、その通りに違いない。
それから水夫を呼んで「水を使えば鉄砲で打ち殺すからそう思え」というような訳けで水を倹約したから、如何やらこうやら水の尽きるということがなくて、同勢合せて九十六人、無事にアメリカに着いた。
船中の混雑はなか/\容易ならぬことで、水夫共は皆筒紬(つつそで)の着物は着ているけれども穿物(はきもの)は草鞋(わらじ)だ。
草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。
船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。
誠に船の中は大変な混雑であった(サンフランシスコ着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買ってやって、それから大いに体裁がよくなった)。

日本国人の大胆

 しかしこの航海については、大いに日本のために誇ることがある、というのは、そも/\日本の人が初めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年のことで、安政二年に長崎においてオランダ人から伝習したのがそも/\事の始まりで、その業成って外国に船を乗り出そうということを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しょうというその時、少しも他人の手を借らずに出掛けて行こうと決断したその勇気といいその伎倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。
前にも申した通り、航海中は一切外国人のカピテン・ブルックの助力は借らないというので、測量するにも日本人自身で測量する。
アメリカの人もまた自分で測量している。
互いに測量したものを後で見合わせるだけの話で、決してアメリカ人に助けて貰うということは一寸でもなかった。
ソレだけは大いに誇っても宣いことだと思う。
今の朝鮮人、シナ人、東洋全体を見渡したところで、航海術を五年学んで太平海を乗り越そうというその事業、その勇気のある者は決してありはしない。
ソレどころではない。
昔々ロシアのペートル帝がオランダに行って航海術を学んだというが、べートル大帝でもこのことは出来なかろう。
たとい大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時のロシアにおいて日本人の如く大胆にして且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。

米国人の歓迎祝砲

 海上恙(つつが)なくサンフランシスコに着いた。
着くやいなや土地の重立ったる人々は船まで来て祝意を表し、これを歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。
次いで陸から祝砲を打つということになって、彼方から打てば咸臨丸から応砲せねばならぬと、このことについて一奇談がある。
勝麟太郎という人は艦長木村の次にいて指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端指図する中に、かの祝砲のことが起った。
ところで勝の説に、ソレは迚も出来ることでない、ナマジ応砲などして遣り損なうよりも此方は打たぬ方が宣いと言う。
そうすると運用方の佐々倉桐太郎は「イヤ打てないことはない、乃公(おれ)が打ってみせる」「馬鹿言え、貴様たちに出来たら乃公の首をやる」と冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。
何でも応砲してみせるというので、それから水夫共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計をもって時を計り、物の見事に応砲が出来た。
サア佐々倉が威張り出した。
首尾よく出来たから勝の首は乃公の物だ。
しかし航海中、用も多いからしばらくあの首を当人に預けて置くと言って、大いに船中を笑わしたことがある。
兎も角もマア祝砲だけは立派に出来た。
ソコで無事に港に着いたらば、サアどうも彼方の人の歓迎というものは、ソレは/\実に至れり尽くせり、この上のしようがないというほどの歓迎。
アメリカ人の身になってみれば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たという訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じことをすると同様、乃公がその端緒を開いたと言わぬばかりの心持(こころもち)であったに違いない。
ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、サンフランシスコに上陸するや否や、馬車をもって迎いに来て、取り敢えず市中のホテルに休息というそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立った人が雲霞のごとく出掛けて来た。
様々の接待饗応。
それからサンフランシスコの近傍に、メールアイランドという所に、海軍港がある。
その海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸してくれ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、ドックに入れて修復をしてくれる。
逗留中はもちろん彼方で賄も何もそっくりしてくれる筈であるが、水夫をはじめ日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ食えないというので、自分賄という訳けにしたところが、アメリカの人はかねて日本人の魚類を好むということをよく知っているので、毎日々々魚を持って来てくれたり、あるいは日本人は風呂に這入ることが好きだというので、毎日風呂を立ててくれるというような訳け。
ところでメールアイランドという所は町でないものですから、折節今日はサンフランシスコに来いと言って誘う。
それから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応するというようなことが毎度ある。

敷物に驚く

 ところが此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても初めてだから実に驚いた。
そこに車があって馬が付いて居れば、乗物だということは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考えが付かぬ。
ところで、戸をあけて這入ると馬が駈け出す。
なるほどこれは馬の挽く事だと初めて発明するような訳け。
何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿いている。
ソレで、ホテルに案内されて行ってみると、絨[毯](じゅうたん)が敷き詰めてあるその絨[毯]はどんな物かというと、まず日本で言えばよほどの贅沢者が一寸四方幾干(いくつ)という金を出して買うて、紙入れにするとか莨(たばこ)入れにするとかいうようなソンナ珍しい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い所に敷き詰めてあって、その上を靴で歩くとは、さて/\途方もないことだと実に驚いた。
けれどもアメリカ人が往来を歩いた靴のままで颯々(さっさ)と上がるから、此方も麻裏草履でその上に上がった。
上がると突然酒が出る。
徳利の口をあけると恐ろしい音がして、まず変なことだと思うたのはシャンパンだ。
そのコップの中に何が浮いているのもわからない。
三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、まずコップに浮いているものを口の中に入れて、胆を潰して吹き出す者もあれば、口から出さずにガリ/\噛む者もあるというような訳けで、ようやく氷が這入っているということがわかった。
ソコでまた煙草を一服と思ったところで、煙草盆がない、灰吹きがないから、そのとき私はストーヴの火で一寸(ちょい)と点けた。
マッチも出ていたろうけれども、マッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸い付けたところが、どうも灰吹きがないので吸殻を捨てる所がない。
それから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹き出して、念を入れて揉んで/\火の気のないようにねじ付けて袂(たもと)に入れて、しばらくしてまた後の一服をやろうとするその時に、袂から煙が出ている。
何ぞ図らん、能く消したと思ったその吸殻の火が紙に移って煙が出て来たとは大いに胆を潰した。

磊落(らいらく)書生も花嫁の如し

 すべてこんなことばかりで、私は生まれてから嫁入りをしたことはないが、花嫁が勝手のわからぬ家に住み込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ言われて、笑う者もあれば雑談(ぞうだん)を言う者もあるその中で、お嬢さんばかり独り静かにしてお行儀を繕(つくろ)い、人に笑われぬようにしようとして却ってマゴツイテ顔赤くするその苦しさはこんなものであろうと、凡そ推察が出来ました。
日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張っていた磊落書生も、初めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でも可笑しかった。
それから彼地の貴女紳士が打ち寄り、ダンシングとかいって踊りをして見せるというのは毎度のことで、さて行って見たところが少しもわからず、妙な風をして男女が座敷中を飛びまわるその様子は、どうにもこうにもただ可笑しくてたまらない、けれども笑っては悪いと思うから成るたけ我慢して笑わないようにして見ていたが、これも初めの中は随分苦労であった。

女尊男卑の風俗に驚く

 一寸したことでも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は少しも分らない。
ある時にメールアイランドの近所にバレーフォーという所があって、そこにオランダの医者が居る。
オランダ人は如何しても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待したいから来てくれないかというので、その医者の家に行ったところが、田舎相応の流行家とみえて、なか/\の御馳走が出る中に、如何にも不審なことには、お内儀(カミ)さんが出て来て座敷にすわり込んでしきりに客の取り持ちをすると、御亭主が周旋奔走している。
これは可笑しい。
まるで日本とアベコべなことをしている。
御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然あるに、さりとはどうも可笑しい。
ソコで御馳走は何かというと、豚の子の丸煮が出た。
これにも胆を潰した。
如何だ、マアあきれ返ったな、まるで安達ガ原に行ったような訳けだと、こう思うた。
さん/″\馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと言う。
ソレは面白い、久し振りだから乗ろうと言って、その馬を借りて乗って来た。
艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乗ることは上手だ。
江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。
それからその馬に乗ってどん/\駆けて来ると、アメリカ人が驚いて、日本人が馬に乗ることを知っていると言うて不思議な顔をしている。
そういう訳けで、双方共に事情が少しもわからない。

事物の説明に隔靴の歎あり

 それからまた、アメリカ人が案内して諸方の製作所などを見せてくれた。
その時はサンフランシスコ地方にマダ鉄道は出来ない時代である。
工業は様々の製作所があって、ソレを見せてくれた。
そこがどうも不思議な訳けで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。
それからガルヴァニの鍍金(メッキ)法というものも実際に行われていた。
アメリカ人の考えに、そういうものは日本人の夢にも知らないことだろうと思って見せてくれたところが、此方はチャント知っている。
これはテレグラフだ。
これはガルヴァニの力で、こういうことをしているのだ。
また砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするということを遣っている。
ソレを懇々と説くけれども、此方は知っている、真空にすれば沸騰が早くなるということは。
且つその砂糖を精浄にするには、骨炭で漉(こ)せば清浄になるということもチャント知っている。
先方では、そういうことは思いも寄らぬことだとこう察して、ねんごろに教えてくれるのであろうが、此方は日本に居る中に数年の間そんなことばかり穿鑿(せんさく)していたのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。
ただ驚いたのは、掃きだめに行ってみても浜辺に行ってみてもても、鉄の多いには驚いた。
申さば石油の箱みたような物とか、いろ/\な[缶]詰の空殻などが沢山捨ててある。
これは不思議だ。
江戸に火事があると焼け跡に釘拾いがウヤ/\出ている。
ところでアメリカに行ってみると、鉄は丸で塵埃(ごみ)同様に捨ててあるので、どうも不思議だと思うたことがある。
 それから物価の高いにも驚いた。
牡蠣を一罎(びん)買うと半弗、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒ぐらいしかない。
日本では二十四文か三十二文というその牡蠣が、アメリカでは一分二朱もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、あきれた話だと思ったような次第で、社会上政治上経済上のことは一向わからなかった。

ワシントンの子孫如何と問う

 ところで私が不図(ふと)胸に浮かんで或る人に聞いてみたのは外でない、今ワシソトンの子孫は如何なっているかと尋ねたところが、その人の言うに、ワシントンの子孫には女がある筈だ、今如何しているか知らないが、何でも誰かの内室になっている様子だと如何にも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。
これは不思議だ。
勿論私もアメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、此方の脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今でも能く覚えている。
理学上のことについては少しも胆を潰すということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角が付かなかった。

 或る時にメールアイランドの海軍港に居るカピテンのマッキヅガルという人が、日本の貨幣を見たいと言うので、艦長はかねてそんなことのために用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判をはじめとして万延年中までの貨幣をそろえてカビテンのところへ送ってやった。
ところが珍しい/\とばかりで、宝を貰ったという考えは一寸とも顔色に見えない。
昨日は誠に有り難うと言って、その翌朝お内儀さんが花を持って来てくれた。
私はその取次ぎをして独りひそかに感服した。
人間というものはアアありたい、如何にも心の置きどころが高尚だ、金や銀を貰ったからといってキョト/\喜ぶというのは卑劣な話だ、アアありたいものだと、大きに感心したことがある。

軍艦の修繕に価を求めず

 前に言うた通りアメリカ人は誠に能く世話をしてくれた。
軍艦をドックに入れて修覆してくれたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えてくれるとかいうことまでも親切にしてくれた。
いよ/\船の仕度も出来て帰るという時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと言うと、彼方の人は笑っている。
代金などとは何のことだ、というような調子で一寸とも話にならない。
何と言うても勘定を取りそうにもしない。

初めて日本に英辞書を入る

 その時に私と通弁の中浜万次郎という人と両人が、ウェブストルの字引を一冊ずつ買って来た。
これが日本にウェブストルという字引の輸入の第一番、それを買ってモウ外には何も残ることなく、首尾よく出帆してきた。

 ところで私が二度目にアメリカに行ったとき、カピテン・ブルックに再会して八年目に聞いた話がある。
それは最初日本の咸臨丸がアメリカに着いたとき、サンフランシスコでなか/\議論があった。
今度日本の軍艦が来たからその接待を盛んにしなけれはならぬというので、あすこに陸軍の出張所をみたようなものがある。
そこヘカピテン・ブルックが行って、大いに歓迎しようではないかと相談を掛けると、ワシントンに伺うた上でなければ出来ないと言う。
「そんなことをしていては間に合わないから、何でも出張所の独断でやれ」と談じても、とかく埒(らち)が明かないから、カピテンは少し立腹して「いよ/\政府の筋で出来なければ.此方に仕様がある」と言って、それから方向を転じてサンフランシスコの義勇兵に持ち込んで「どうだ、こういう訳けであるから接待せぬか」と言うと、義勇兵は大喜びで直に用意が出来た。

義勇兵

 全体この義勇兵というものは、普段軍役のあるではなし大将は御医者様で、少将は染物屋の主人というような者で組み立ててあるけれども、チャント軍服も持っていれば銃砲も何もすっかり備えていて、日曜か何か暇な時かまたは月夜などに操練をして、イザ戦争という時に出て行くというばかりで、太平の時はまず若い者の道楽仕事であるから、折角こしらえた軍服も滅多に着ることがないところに、今度カピテン・ブルックの話を聞いて千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、カビテンが話していました。

ハワイ寄港

 祝砲と共にめでたくサンフランシスコを出帆して、今度はハワイ寄港と定まり、水夫は二、三人アメリカから連れて来たけれども、カピテンのブルックは居らず、本当の日本人ばかりで、どうやらこうやらハワイを捜し出して、そこへ寄港して三、四日逗留した。
逗留中、ハワイの風俗については物珍しく言うほどの要用はないだろう、と思うのは、三十年前のハワイも今も変ったことはなかろう。
その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民と言うより外仕方がない。
王様にも会うたが、これも国王陛下と言えば大層なようだけれども、そこへ行ってみれば驚くほどのことはない。
夫婦連れで出て来て、国王はただ羅紗の服を着ているというくらいなこと、家も日本で言えば中ぐらいの西洋造り、宝物を見せると言うから何かと思ったら、鳥の羽で誂えた敷物を持って来て、これが一番のお宝物だと言う。
あれが皇弟か、その皇弟が笊(ざる)を堤(さ)げて買物に行くような訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。

少女の写真

 それからハワイで石炭を積み込んで出帆した。
その時に、一寸したことだが奇談がある。
私はかねて申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどということには仮初めにも身に犯したことないのみならず、口でもそんな如何わしい話をしたこともない。
ソレゆえ、同行の人は妙な男だというくらいには思うていたろう。
それからハワイを出航したその日に船中の人に写真を出して見せた。
これはどうだ(その写真はここにありとて、福沢先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年前の福沢先生のかたわらに立ち居るは十五、六の少女なり。
)――その写真というのはこの通りの写真だろう。
ソコで、この少女が芸者か女郎か娘かは、勿論その時に見さかいのある訳けはない。
――「お前たちはサンフランシスコに長く逗留していたが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞということは出来なかったろう、サアどうだ、朝夕口でばかり下らないことを言っているが、実行しなければ話にならないじゃないか」と、大いに冷かしてやった。
これは写真屋の娘で、歳は十五とかいった。
その写真屋には前にも行ったことがあるが、丁度雨の降る日だ、そのとき独りで行ったところが娘が居たから「お前さん一緒に取ろうではないか」と言うと、アメリカの娘だから何とも思いはしない。
「取りましょう」と言うて一緒に取っ たのである。
この写真を見せたところが、船中の若い士官たちは大いに驚いたけれども、口惜しくしくも出来なかろう、と言うのは、サンフランシスコでこのことを言い出すと、直に真似をする者があるから、黙って隠して置いて、いよ/\ハワイを離れてもうアメリカにもどこにも縁のないという時に見せてやって、一時の戯れに人を冷かしたことがある。

不在中桜田の事変

 帰る時は南の方を通ったと思う。
行くときとは違って至極海上は穏やかで、何でもその歳には閏(うるう)があって、閏をこめて五月五日の午前に浦賀に着した。
浦賀には是非錨を卸すというのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論湯に這入るということの出来る訳けもない、口嗽(うがい)をする水がヤット出来るというくらいなことで、身体はよごれているし、髪はクシャ/\になっている、何はさておき一番先に月代(さかやき)をして、それから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗って陸に着くと、木村のお迎えが数十日前から浦賀に詰め掛けていて、木村の家来に島安太郎という用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上がってその島に会うた。
正月の初めにアメリカに出帆して浦賀に着くまでというものは、風の便りもない、郵便もなければ船の交通というものもない。
その間はわずかに六ヵ月の間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、ほとんど六ヵ年も会わぬような心地。
ヒョイと捕賀の海岸で島に会って「イヤ誠にお久しぶり、時に何か日本に変ったことはないか」と尋ねたところが、島安太郎が顔色を変えて「イヤあったとも/\大変なことが日本にあった」と言うその時、私が一寸と島さん待ってくれ、言うてくれるな、私が中(あ)ててみせょう、大変と言えば何でもこれは水戸の浪人が掃部(かもん)様の屋敷にあばれ込んだというようなことではないか」と言うと、島は更に驚き「どうしてお前さんはそんなことを知っている、どこで誰に聞いた」「聞いたって聞かないたってわかるじゃないか、私はマア雲気を考えてみるに、そんなことではないかと思う」「イヤこれはどうも驚いた、屋敷にあばれ込んだどころではない、こう/\いう訳けだ」と言って、桜田騒動の話をした。
その歳の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、そのことを話したので、天下の治安というものはおおよそ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えてみると、どうせ騒動がありそうなことだと思っていたから、偶然にも中ったので誠に面白かった。
その前年からそろ/\攘夷説が行われるという世の中になって来て、アメリカに逗留中、艦長が玩具(おもちゃ)半分に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買った。
珍しいものだと言ってみな寄ってひねくって見ながら「如何だろう、これを日本に持って帰ってさして回ったら」「イヤそれはわかりきっている、新銀座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に、浪人者に斬られてしまうに違いない、まず屋敷の中で折節ひろげてみるより外に用のない品物だ」と言ったことがある。
およそこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛んになって来た。

幕府に雇わる

 アメリカから帰ってから塾生も次第に増している中に、私はアメリカ渡航を幸いに彼の国人に直接して英語ばかり研究して、帰ってからも出来るだけ英語を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉く英書を教える。
ところがマダなか/\英語が六かしくて自由自在に読めない。
読めないから、便るところは英蘭対訳の字書のみ。
教授とは言いながら、実は教うるが如く学ぶが如く共に勉強している中に、私は幕府の外国方(今で言えば外務省)に雇われた。
その次第は、外国の公使領事から政府の閣老または外国奉行へ差出す書翰を翻訳するためである。
当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ずオランダの翻訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字読む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたについてはおのずから利益のあるというのは、たとえば英公使、米公使というような者から来る書翰の原文が英文で、ソレにオランダの訳文が添うてある。
如何かしてこの翻訳文を見ずに直接英文を翻訳してやりたいものだと思って試みている間にわからぬところがある、わからぬと蘭訳文を見る、見るとわかるというような訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。
ソレからもう一つには幕府の外務省にはおのずから書物がある、種々様々な英文の原書がある。
役所に出ていて読むのは勿論、借りて自家へ持って来ることも出来るから、ソンナことで幕府に雇われたのは身の為めに大いに便利になりました。

ヨーロッパ各国に行く

 私がアメリカから帰ったのは万延元年。
その年に華英通語というものを翻訳して出版したことがある。
これがそも/\私が出版の始まり。
まずこの両三年間というものは、人に教うるというよりも自分でもって英語研究が専業であった。
ところが文久元年の冬、日本からヨーロッパ諸国に使節派遣ということがあって、その時にまた私はその使節に付いて行かれる機会を得ました。
この前アメリカに行く時には私(ひそか)に木村摂津守に懇願して、その従僕ということにして連れて行って貰ったが、今度は幕府に雇われていてヨーロッパ行きを命ぜられたのであるから、おのずから一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰ったかと思う。
旅中はい一切官費で、ただ手当として四百両の金を貰ったから、誠に世話なし。
ソコで私は平生頓と金のいらない男で、いたずらに金を費やすということは決してない。
四百両貰ったその中で、百両だけ国に居る母に送ってやった。
如何にも母に対して気の毒だというのは、アメリカから帰ってマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねてヨーロッパに行くというのだから、如何にも済まない。
のみならず私がアメリカ旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てて、アメリカに行って彼の地で死んだと言い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向かって、誠に気の毒なことじゃ、諭吉さんもとう/\アメリカで死んで、身体は醢(しおづ)けにして江戸に持って帰ったそうだなんと、威すのか冷かすのか、ソンナ事まで言って母を嬲(なぶ)っていたというようなことで、これも時節柄で我慢して黙っているより外に仕方がないとしていながら、母に対しては如何にも気が済まない。
金をやったからと言ってソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのという金は生まれてから見たこともない金だから、ソレでも送って遣ろうと思って、幕府から請け取った金を分けて送りました。

 それからヨーロッパに行くということになって、船の出発したのは文久元年十二月のことであった。
このたびの船は日本の使節が行くというために、イギリスか迎船のようにして来たオーヂンという軍艦で、その軍艦に乗ってホンコン、シンガポールというようなインド洋の港々に立ち寄り、紅海に這入って、スエズから上陸して蒸気車に乗って、エジプトのカイロ府に着いて二晩ばかり泊まり、それから地中海に出て、そこからまた船に乗ってフランスのマルセイル、そこで蒸気車に乗ってリオンに一泊、パリに着いて滞在およそ二十日、使節のことを終り、パリを去ってイギリスに渡り、イギリスからオランダ、オランダからプロスの都のベルリンに行き、ベルリンからロシアのペートルスポルグ、それから再びパリに帰って来て、フランスから船に乗って、ポルトガルに行き、ソレカラ地中海に這入って、元の通りの順路を経て帰って来たその間の年月はおよそ一カ年、即ち文久二年一杯、押し詰まってから日本に帰って来ました。

 さて今度の旅行について申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語るということがそろ/\出来て、それから前に申す通りに、金もいささか持っているその金は、何も使い所はないから、ただ日本を出る時に尋常一様の旅費をしただけで、その当時は物価の安い時だから、何もそんなに金のいる訳がない、その余った金は皆携えて行って、ロンドンに逗留中、外に買物もない、ただ英書ばかりを買って来た。
これがそも/\日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったというのもこれからのことである。

 それから彼(か)の国の巡回中、いろ/\観察見聞したことも多いが、これは後の話にして、まず使節一行の有様を申さんに、その人員は、

竹内下野守正使 松平石見守副使 京極能登守御目付 柴田貞太朗組頭 日高圭三郎御勘定 福田作太郎御徒士目付 水品楽太郎調役 岡崎藤左衛門同 高嶋祐啓御医師ただし漢方医なり 川崎道民雇医 益頭駿次郎御普請役 上田友助定役元締 森鉢太郎定役  福地源一郎通弁 立広作同 太田源三郎同 斎藤大之進同心 高松彦三郎御小人目付 山田八郎同 松木弘安反訳方 箕作秋坪同 福沢諭吉同

旅行中用意の品々、失策また失策

  右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄(まかない)小使六、七人、この小使の中には内緒で諸藩から頼んで乗り込んだ立派な士人もある。
松木、箕作、福沢らは、まず役人のような者ではあるが、大名の家来、いわゆる陪臣の身分であるから、一行中の一番下席だ。
総人数およそ四十人足らず、いずれも日本服に大小を横たえて、パリロンドンを闊歩したも可笑しい。
日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからというので、白米を箱に詰めて何百箱の兵粮(ひょうろう)を貯え、また旅中止宿(ししゅく)の用意というので、廊下にともす金行灯(かなあんどん)-二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、そのほか、提灯、手燭(てしょく)ボンボリ、蝋燭(ろうそく)等に至るまで、一切取りそろえて船に積み込んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に止宿するくらいの胸算に違いない。
それからいよ/\パリに着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて、まず此方よりの所望は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿はなるべく本陣に近い所に頼むというのは、万事不取締り不安心だから、一行の者を使節の近所に置きたいという意味でしょう。
スルト接待員は、いさい承知して、まず人数を聞き糺し、総勢三十何人とわかって「こればかりの人数なれば一軒の旅館に十組や二十組は引き受けます」との答に、何のことやら訳けがわからぬ。
ソレカラ案内に連れられて止宿した旅舘は、パリの王宮の門外にあるホテルデロウブルという広大な家で、五階造り六百室、脾僕五百余人、旅客は千人以上差し支えなしというので、日本の使節などはどこに居るやらわからぬ。
ただ旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレが心配でした。
各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数のガス灯は室内廊下を照らして日の暮るるを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも.口腹に攘夷の念はない、みな喜んでこれを味わうから、ここに手持ち無沙汰なるは日本から背負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯をつけるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯をたくことも出来ず、とう/\しまいには米をはじめ諸道具一切の雑物を、接待掛りの下役のランベヤという男に進上して、ただ貰って貰うたのも可笑しかった。

 まずこんな塩梅式だから、吾々一行の失策物笑いは数限りもない。
シガーとシュガーを間違えて煙草を買いにやって砂糖を持って来るもあり、医者は人参と思って買って来て生姜の粉であったこともある。
またあるときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンポリを持って供をして便所の二重の戸を明け放しにして、殿様が奥の方で日本流に用をたすその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下にひらき直ってチャント番をしているその廊下は旅館中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外ガスの光明昼よりも明らかなりというからたまらない。
私は丁度そこを通り掛って、篤いたとも驚くまいとも、まず表に立ちふさがって物も言わずに戸を打ち締めて、それからそろ/\その家来殿に話したことがある。

欧洲の政風人情

 政治上のことについては、ロンドン、パリ等に在留中、色々な人に会うて色々なことを聞いたがもとよりその事例の由来を知らぬから、よくわかる訳もない。
当時はフランスの第三世ナボレヲンが欧洲第一の政治家と持てはやされてエライ勢力であっだが、隣国のプロスも日の出の新進国で油断はならぬ。
オースタリ―との戦争、また、アルサス、ローレンスのことなども国交際の問題として、いずれ後年には云々(しかじか)の変乱が生ずるであろうなんということは朝野政通の予言するところで、私の日記覚書にもチョイ/\記してある。
またロンドンに居るとき、ある社中の人が社名をもって議院に建言したというて、その草稿を日本使節に送って釆た。
建言の趣意は、在日本英国の公使アールコックが新開国たる日本に居て乱暴無状、あたかも武力をもって征服したる国民に臨むが如し云々とて、種々様々の証拠を挙げて公使の罪を責めるその証拠の一つに、公使アールコックが日本国民の霊場として尊拝する芝の山内に騎馬にて乗り込みたるが如き、言語に絶えたる無礼なりと痛論したる節もある。
私はこの建言書を見て大いに胸が下がった。
なるほど世界は鬼ばかりでない、これまで外国政府の仕振りを見れば、日本の弱身に付け込み日本人の不文殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛けて真実困っていたが、その本国に来て見ればおのずから公明正大、優しき人もあるものだと思って、ます/\平生の主義たる開国一偏の説を堅固にしたことがある。

土地の売買勝手次第

 また各国巡回中、待遇の最も濃(こま)やかなるはオランダの右に出るものはない。
これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。
ことに私をはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったような訳で、自然に居心地が宣い。
それはさておきオランダ滞留中に奇談がある。
あるとき使節がアムストルダムに行って地方の紳士紳商に面会、四方八方(よもやま)の話のついでに、使節の問に「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるか」と言うに、彼の人答えて「もとより自由自在」「外国人へも売るか」「値段次第、誰にでも、また何ほどにても」「さればここに外国人が大資本を投じて広く土地を買い占め、これに城郭砲台でも築くことがあったら、それでも勝手次第か」と言うに、彼の人も妙な頗をして「ソンナことはこれまで考えたことはない、いかに英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買って城を築くような馬鹿気た商人はありますまい」と答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共はこれを見て実に可笑しかったが、当時日本の外交政略はおよそこの辺から割り出したものであるからたまらない訳けさ。

見物自由の中また不自由

 それはさておき、私がこの前アメリカに行ったときには、カリフヲルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度はスエズに上がって初めて鉄道に乗り、それからヨーロッパ各国を彼方此方(あちこち)と行くにもみな鉄道ばかり、到る所に歓迎せられて,海陸軍の場所をはじめとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、クラブ等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、あるいは名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、かえって招待の多いのにくたびれるというほどの次第であったが、ただここに一つ可笑しいというのは、日本はそのとき丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に会うことを止めようとするのが可笑しい。
使節は、竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附という役目で、ソレにはまた相応の属官が幾人も付いている。
ソレが一切の同行人を目ッ張子で見ているので、なか/\外国人に会うことが六かしい。
同行者は何れも幕府の役人連で、その中にまず同志同感、互いに目的を共にするというのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互いに往来していたので、彼方(あちら)に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。
何でも有らん限りの物を見ようとばかりしていると、ソレが役人連の目に面白くないとみえ、殊に三人とも陪臣で、しかも洋書を読むというからなか/\油断をしない。
何か見物に出掛けようとすると、必ず御目付方の下役が付いて行かなければならぬという御定まりで始終付いて回る。
此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣もないが、妙な役人が付いて来ればただうるさい。
うるさいのはマダ宣いが、その下役が何か外に差支えがあると、私共も出ることが出来ない。
ソレは甚だ不自由でした。
私はその時に「これはマア何のことはない、日本の鎖国をそのままかついで来て、ヨーロッパ各国を巡回するようなものだ」と言って、三人で笑ったことがあります。

血を恐れる

 ソレでも私共は、見ようと思うものは見、聞こうと思うことほ聞いたが、序(ついで)ながらこの見聞のことについて私の身の恥を言わねばならぬ。
私は少年の時から至極元気の宣い男で、時として大言壮語したことも多いが、天稟(うまれつき)気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。
例えば緒方の塾に居るときは刺烙(しらく)流行の時代で、同窓生は勿論、私も腕の脈に針をして血を取ったことがある。
ところが私は、自分でも他人でもその血の出るのを見て心地が善くないから、刺略といえばチャント眼を閉じて見ないようにしている。
腫物が出来ても針をすることはまず見合わせたいと言い、一寸とした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。
毎度都会の地にある行き倒れ、首くくり、変死人などは何としても見ることが出来ない。
見物どころか、死人の話を聞いても逃げてまわるというような臆病者である。
ところがロシアに滞留中、ある病院に外科手術があるから見物せよとの案内に、箕作も松木も医者だから直ぐに出掛ける。
私にも一緒に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入ってみれば石淋(せきりん)を取り出す手術で、執刀の医師は合羽(かっぱ)を着て、病人をば俎(まないた)のような台の上に寝かして、コロロホルムをかがせて、まずこれを殺して、それからその医師が光り耀く刀を執ってグット刺すと、大層な血がほとばしって医者の合羽は真赤になる、それから刀の切口に釘抜きのようなものを入れて、膀胱の中にある石を取り出すとかいう様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。
スルト同行の山田八郎という男が私を助けて室外に連れ出し、水など呑ましてくれてヤット正気に返った。
その前ドイツのべルリンの眼病院でも、ヤブニラミの手術とて子供の眼に刀を刺すところを半分ばかり見て、私は急いでその場を逃げ出して、その時には無事に済んだことがある。
松木も箕作も私に意気地がないと言って頻りに笑い頻りに冷かすけれども、持って生まれた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

事情探索の胸算

 それはさておき私のヨーロッパ巡回中の胸算(きょうさん)は、およそ書籍上(しょじゃくじょう)で調べられることは日本に居ても原書を読んでわからぬところは字引を引いて調べさえすればわからぬことはないが、外国の人に一番わかり易いことでほとんど字引にも載せないというようなことが此方では一番六かしい。
だから原書を調べてソレでわからないということだけをこの逗留中に調べておきたいものだと思って、その方向でもって、これは相当の人だと思えばその人について調べるということに力を尽くして、聞くに従って一寸々々こういうように(このとき先生細長くして古々しき一小冊子を示す)しるしておいて、それから日本に帰ってから、ソレを台にしてなお色々な原書を調べまた記憶するところを繰り合わせて、西洋事情というものが出来ました。
凡そ理化学、器械学のことにおいて、あるいはエレキトルのこと、蒸気のこと、印刷のこと、諸工業製作のことなどは、必ずしも一々聞かなくても宜しいというのは、元来私が専門学者ではないし、聞いたところが真実深い意味のわかる訳けはない、ただ一通りの話を聞くばかり、一通りのことなら自分で原書を調べて容易にわかるから、コンナことの詮索はまず二の次にして、外に知りたいことが沢山ある。
例えばココに病院というものがある、ところでその入費の金はどんな塩梅にして誰が出しているのか、また銀行(バンク)というものがあってその金の支出入は如何しているか、郵便法が行われていて、その法は如何いう趣向にしてあるのか、フランスでは徴兵令を励行しているがイギリスには徴兵令がないというその徴兵令というのは、そも/\如何いう趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓とわからない。
ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。
わからないから選挙法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人はただ笑っている、何を聞くのかわかり切ったことだというような訳け。
ソレが此方ではわからなくてどうにも始末が付かない。
また、党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削って争うているという。
何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。
サアわからない。
コリヤ大変なことだ、何をしているのか知らん。
少しも考えの付こう筈がない。
あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。
少しもわからない。
ソレが略(ほぼ)わかるようになろうというまでには骨の折れた話で、その謂れ因縁が少しずつわかるようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛かって、ヤット胸に落ちるというような訳けで、ソレが今度洋行の利益でした。

樺太の境界談判

 それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中次第々々に攘夷論が盛んになって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節がロシアに行った時に此方から樺太の境論(さかいろん)を持ち出して、その談判の席に私も出ていたので、日本の使節がソレを言い出すと先方は少しも取り合わない。
或いは地図などを持ち出して、地図の色はこう/\いう色ではないか、おのずからここが境だと言うと、ロシア人の言うには、地図の色で境がきまれば、この地図を皆赤くすれば世界中ロシアの領分になってしまうだろう、またこれを青くすれば世界中日本領になるだろうというような調子で、漫語放言、迚(とて)も寄り付かれない。
マア兎にも角にも、お互いに実地を調べたその上のことにしようというので、樺太の境はきめずに宣加減にして談判はやめになりましたが、ソレを私が傍から聞いていて、これは迚も仕様がない、一切万事便るところなし、日本の不文不明の奴らが殻威張(からいば)りして攘夷論が盛んになればなるほど、日本の国力は段々弱くなるだけの話で、しまいには如何いうようになり果てるだろうかと思って、実に情けなくなりました。

露政府の厚遇

 国交際の談判は右の通りに水臭い次第であるが、使節に対する私(わたくしの)の待遇はそうでない。
ベートルスボルグ滞在中は日本使節一行のために特に官舎を貸し渡して、接待委員という者が四、五人あってその官舎に詰め切りで、いろ/\饗応するその饗応の仕方というはすこぶる手厚く、何一つ遺憾はないという有様。
ソレで御用のない時は、名所旧跡をはじめ諸所の工場というような所に案内して見せてくれる。
その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々様々な話もしたが、その節ロシアに日本人が一人居るという噂を聞いたその噂は、どうも間違いない事実であろうと思われる。
名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないといという。
勿論その噂は接待委員から聞いたのではない。
その外の人から洩れたのであるが、まず公然の秘密というくらいなことで、チャントわかっていた。
そのヤマトフに会ってみたいと思うけれども、なか/\会われない。
とう/\逗留中出て来ない。
出て来ないが、その接待中の模様に至っては動(やや)もすると日本風のことがある。
例えば室内に刀掛があり、寝床には日本流の木の枕があり、湯殿には糠を入れた糠袋があり、食物もつとめて日本調理の風にして、箸茶碗なども日本の物に似ている。
どうしてもロシア人の思い付く物でない。
シテ見ると、噂の通り何処にか日本人の居るのは間違いない、明らかにわかっているけれども、到頭(とう/\)わからずに帰ってしまいました。
私の西航日記にこのことを記して、その傍に詩のようなものが一寸と書いてある。

起来就食々終眠〔起き来りて食に就き食終って眠る〕 飽食安眠過一年〔蝕食安眠して一年を過ごす〕
他日若遇相識問〔他日もし相識の間に遇うも〕   欧天不異故郷天〔欧天は故郷の天に異ならず〕

 今日になって一々記憶もないが、よほど日本流のことが多かったと思われます。

露国に止まることを勧む

 それからある日のことで、その接待委員の一人が私のところに来て、一寸こちらに来てくれろと言って、一間に私を連れて行った。
何だと言って話をすると、私の一身上のことに及んで「お前はこのたび使節に付いて来たが、これから先は日本に帰って何をする所存かソリャ勿論知らないが、お前は大層金持か」と尋ねるから「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をしている、用をしていればおのずからその報酬というものがあるから、衣食の道に差支はないものだ」とこう私は答えた。
ところが接待委員の言うに「日本のことだから我々に委しい事情のわかる訳けはない、わかりはしないけれども、どうも大体を考えてみたところで日本は小国だ、アアいう小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。
ソレよりかお前はヒョイとここに心を変えてこのロシアに止まらないか」と言うから、私は答えて「自分の身は使節に随従して来ているものであるから、そう勝手に止まられる訳けのものじゃない」と有りのままに言うと「イヤそれは造作もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば、直ぐに私が隠してやる。
どうせ使節は長くここに居る気遣いはない、間もなく帰る。
帰ればソレきりだ。
そうしてお前はロシア人になってしまいなさい。
このロシアには外国の人は幾らも来ている、就中(なかかんづく)ドイツの人などは大変に多い、その外オランダ人も来ていればイギリス人も来ている。
だから日本人が来ていたからと言って何も珍しいことはない、是非ここに止まれ。
いよ/\止まると決すれば、その上はどんな仕事でもしようと思えは面白い愉快な仕事は沢山ある。
衣食住の安心は勿論、随分金持になることも出来るから止まれ」と懇ろに説いたのは、決して尋常の戯れでない。
チャント一間の中に差向かいで真面目になって話したのである。
けれども私がその時に止まるという必要もなければ、また止まろうという気もない。
宣い加減に返答をして置くと、その後二、三度同じようなことを言って来たが、固より話はまとまらず。
その時に私は大いに心付きました。
なるほどロシアはヨーロッパの中で一種風俗の変った国だというが、ソレに違いない。
たとえば今度英仏にもしばらく滞留し、また前年アメリカに行ったときにも、人に逢いさえすれば日本に行こう/\と言う者が多い。
何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行ってくれないかと、ソリャもう行く先々でうるさいように言う者はあれども、ついぞ止まれということをただの一度も言った人ほない。
ロシアに来て初めて止まれという話を聞いたその趣きを推察すれば、決してこれは商売上の話ではない、如何しても政治上また国交際上の意味を含んでいるに違いない。
こりやどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれというところをみれば、或いは陰険の手段を施すためではないか知らんと思うたことがあった。
けれどもそんなことを聞いたと言うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論、日本に帰って来ても人に言わずに黙っていました。
或いはそういうことを言われたのは私一人でなく、同行の者も同じことを言われて、私と同じ考えで黙っていた者があったかも知れない。
とにかくに気の知れぬ国だと思われる。

生麦の報道到来して使節苦しむ

 それからロシアを去ってフランスに帰り、いよ/\出発というその時は生麦の大騒動、即ち生麦で英人のリチヤードソンというものを薩摩の侍が斬ったということが丁度彼方に報告になった時で、さあフランスのナポレオン政府が吾々日本人に対して気不味(きまづ)くなって来た。
人民はどうか知らないが、政府の待遇の冷淡無愛相になったことは甚だしい。
主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何にも言いようがない。
日本の使節が港から船に乗ろうというその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと並べて見送らした。
これは敬礼を尽すのではなくして、日本人を威かしたに違いない。
兵士を幾ら並べたって鉄砲を撃つ訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様というものは実にたまらない訳けであった。
私の「西航記」中の一節に、閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフヲルトに着。
ロシフヲルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。
蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛んに護衛の兵卒千余人を列せり。
敬礼を表するに似て或いは威を示すなり。
日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大いに疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直ちに又船に乗らしむ。
且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。

 それからフランスを出発してポルトガルのリスボンに寄港し、使節の公用を済ましてまた船に乗り、地中海に入り、インド洋に出て、海上無事、日本に帰ってみれば、攘夷論の真盛りだ。

攘 夷 論

攘夷論の鋒先洋学者に向かう

 井伊掃部頭(いいかもんんのかみ)はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた。
その乱暴者の一人が長州の屋敷に駆け込んだとか何とかいう話を聞いて、私はそのとき初めて心付いた、なるほど長州藩も矢張り攘夷の仲間に這入っているのかとこう思ったことがある。
兎にも角にも日本国中攘夷の真盛りでどうにも手の着けようがない。
ところで私の身にしてみると、これまでは世間に攘夷論があるというだけのことで、自分の身について危ないことは覚えなかった。
大阪の塾に居る中に勿論暗殺などということのあろう筈はない。
また江戸に出て来たからとて、怖い敵もなければ何でもないとばかり思っていたところが、サア今度ヨーロッパから帰って来たその上は、なか/\そうでない。
段々喧しくなって、外国貿易をする商人が俄に店を片付けてしまうなどというようなことで、浪人と名づくる者が盛んに出て来て、どこに居て何をしているのかわからない。
丁度今の壮士というようなもので、ヒョコ/\妙なところから出て来る。
外国の貿易をする商人さえ店をしまうというのであるから、まして外国の書を読んでヨーロッパの制度文物をそれこれと論ずるような者は、どうも彼輩は不埒な奴じゃ、畢竟彼奴(あいつ)らは虚言をついて世の中を瞞着する売国奴だ、というような評判がソロ/\行われて来て、ソレから浪士の鋒先(ほこさき)が洋学者の方に向いて来た。
これは誠に恐れ入った話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。
これはマアどこまで小さくなれば免るるかというと、幾ら小さくなっても免れない。
到頭しまいには洋書を読むことをやめてしもうて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫びが済むだろうが、マサカそんなことも出来ない。
此方が無頓着に、思うことをやろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。
既に私共と同様、幕府に雇われている翻訳方の中に手塚律蔵という人があって、その男が長州の屋敷に行って何か外国の話をしたら、屋敷の若者らが斬ってしまうと言うので、手塚はドン/\駈け出す、若者らは刀を抜いて追っかける、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃げ切れずに、寒い時だが日比谷外の濠の中へ飛び込んでようやく助かったこともある。
それから同じ長州の藩士で東条礼蔵という人も、矢張り私と同僚翻訳方で、小石川のもと蜀山人の住居という家に住んでいた。
ところがその家にいわゆる浮浪の徒があばれ込んで、東条は裏口から逃げ出してやっと助かったというような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。
さればとて、自分の思うところ、為す仕事はやめられるものじゃない。
それから私は構わない、構おうといったところが構われもせず、やめようといったところがやめられる訳けでない、マア/\言語挙動を柔らかにして決して人に逆らわないように、社会の利害というようなことはまず気の知れない人には言わないようにして、慎めるだけ自分の身を慎んで、ソレと同時に私はもっぱら著書翻訳のことを始めた。
その著訳の一条については、今ココで別段に言うことはない、私の今年開版した福沢全集の緒言に詳かに書いてあるからこれは見合わせるとして、その著訳事業中、すなわち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々にふえるから、その教授法に力を尽くし、また家の活計(クラシ)は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間のことには頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送っている。
あるとき可笑しいことがあった。
私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)「誰方か知らないがお目に掛りたいと言ってお侍が参りました」と下女が取り次ぎするから「ドンナ人だ」と聞くと「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟しています」と言うから「コリャ物騒な奴だ、名は何という」「名はお尋ね申しましたが、お目に掛ればわかると言って、おっしゃいません」。
どうも気味の悪い奴だと思って、それから私は、そっとのぞいて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒にいた親友だ。
思わずののしった。
「この馬鹿野郎、貴様は何だ、なぜ名を言ってくれんか、乃公(おれ)は恐くてたまらなかった」と言って、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑したことがある。
そういう世の中で、洋学者もつまらぬことに驚かされていました。

英艦来る

 それから攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂(いえもち)公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けるということになって、全く攘夷一偏の世の中となった。
ソコで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親をもって交わろうと思うてこれまでも有らん限り柔らかな手段ばかりを執っていた、然るに日本の国民が乱暴をして、あまつさえ人を殺した、如何にしてもその責は日本政府にあって免るべからざる罪であるから、こののち二十日を期して決答せよという次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、なお二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕って眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が釆た。
その時に私共が翻訳する役目に当っているので、夜中に呼びに来て、赤坂に住まっている外国奉行松平石見守の宅に行ったのが、私と杉川玄端、高畠五郎、その三人で出掛けてて行って、夜の明けるまで翻訳したが、これはマアどうなることだろうか、大変なことだと窃(ひそか)に心配したところが、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら、それを捨てておいておいて上洛してしもうた。
そうするとサア二十日の期限がチャント来た。
十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、ところがもう二十日待ってくれろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやらこうやら待ってもらうことになった。
ところでいよ/\償金を払うか払わないかという幕府の評議がなか/\決しない。
その時の騒動というものは、江戸市中そりやモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判、その二十日の期間も既に過ぎ去って、また十日ということになって、始終十日と二十日の期限をもって次第々々に返辞を延ばして行く。
私はその時に新銭座に住まっていたから、迚(とて)もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外にしようがないと、ソロ/\逃仕度をするというようなことで、ソコでいよ/\期日も差迫って、今度はもう掛値なし、一日も負からないという日になった、というのを私は政府の翻訳局に居て詳らかに知っているからなおたまらない。

仏国公使無法に威張る

 その翻訳をする間に、時のフランスのミニストル・ベレクルという者が、どういう気前だか知らないが、大層な手紙を政府に出して、今度のことについてフランスは全くイギリスと同説だ、いよ/\戦端を開く時には英国と共々に軍艦をもって品川沖をあばれ回ると、乱暴なことを言うて来た。
誠に謂れのない話で、丸でその趣きは今の西洋諸国の政府がシナ人を威すと同じことで、政府はただ英仏人の剣幕を見て心配するばかり。
私にはよくその事情がわかる、わかればわかるほど気味が悪い。

事態いよ/\迫る

 これはいよ/\やるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時までも説が決しない。
事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこにあるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い/\に小田原評議のグズ/\で、いよ/\期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。
今でも私のところに疵の付いた箪笥がある。
いよ/\荷物を片付けようというので箪笥を細引で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣いはないからというので、青山の穏田という所に呉黄石という芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私はかねて知っているから、呉の所に行って、どうか暫くここに立退場を頼むと相談もととのい、いよ/\青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。
これは今明日の中にいよ/\事は始まると覚悟をきめた。
その前に幕府から布令が出てある。
いよ/\兵端を開く時には、浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを合図に用意致せという市中に布令が出た。
江戸ッ子は口の悪いもので「瓢符(兵端)の開け初めは冷(火矢)でやる」と川柳があったが、これでも時の事情はわかる。

米と味噌と大失策

 それからまた可笑しいことがある。
私の考えに、これは何でも戦争になるに違いない、マア米を買おうと思って、出入の米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋に入れて置いた。
ところが期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると言ったところが、担いでいで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負ってって駐けることも出来なかろう。
これは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宣いと言ったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、これはマア逃げる時はこの米と味噌は捨てて行くより外はないと言って、その騒動の真盛りに大笑いを催したことがある。
その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はそのとき二分金で百両か百五十両持っていたから、この金を独りで持っていても策でない、イザと言えば誰がどこにどう行くか分らない、金があればまず餒(かつ)えることはないから、この金は私が一人で持っているよりか、家内が一人で持っているよりか、これは銘々に分けて持つが宜かろうというので、その金を四つか五つに分けて、頭割りにして銘々ソレを腰に巻いて行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日はいよ/\戦争の始まり、外に道はないと覚悟したところが、ここに幸いなことがあるというのは、その時に唐津の殿様で小笠原壱岐守という閣老がある。
それから横浜に浅野備前守という奉行がある。

小笠原壱岐守

 ソレらの人が極秘蜜に言い合わせたこととみえて、五月の初旬十日前後と思いますが、いよ/\今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守が、ヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出て行く。
するとイギリスの砲艦(ガンボート)が壱岐守の船の尻に尾いて走るというのは、壱岐守は上方に行くと言って品川湾を出発したから、もし本当にその方針を取って本牧の鼻を回れば、英人は後ろから砲撃する筈であったという。
ところが壱岐守は本牧を回らずに横浜の方へ這入って、自分の独断で即刻に償金を払うてしまった。
十万ポンドを時の相場にすればメキシコ弗(ドル)で四十万になるその正銀を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終りました。

鹿児島湾の戦争

 幕府に要求した十万ポンドの償金は五月十日に片付いて、それから今度はその英軍艦が鹿児島に行って、被害者の遺族の手当として二万五千ポンドを要求し、且つその罪人を英国人の見ている所で死刑に処せよという掛合のために、六艘の軍艦は鹿児島湾に回って錨を卸した。
スルト薩摩薄から直ちに来意訪問の使者が来る。
英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長鮎はウヰルモット、船長はジョスリソグという人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待っている。
ところがなか/\容易なことに返辞が出来ない。
ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買い取った船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取るという極意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引っ張って来るという手詰めの場合になった。
ズルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/\大合戦になった、というのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日ごろである。
その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことと思って錨を挙げずにいたところが、俄に陸の方で撃ち始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑(いとま)がないというので、錨の鎖を切ってそれから運動するようになった。
これが例のイギリスの軍艦の錨が薩摩の手に入った由来である。
ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官とカピテンと二人の将官が即死して船中の騒動、また船から陸に向かっての砲撃もなか/\激しく、海岸の建物は大抵焼き払うてこれも容易ならぬ損害であったが、詰まるところ、勝負なしの戦争というのは、薩摩の方はイギリスの軍艦を撃って二人の将官まで殺したけれどもその船を如何(どう)することも出来ない、また軍艦の方でも陸を焼き払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰ったのは六月十日前のころであったが、その時に面白い話がある。
戦争の済んだあとで、かの旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人らがしきりに語り合うに「こんな弾丸が日本で出来る訳けはない。
イヤよく見ればロシア製のものじゃ。
ロシアから日本に送ったのであろう」などと評議区々(まちまち)なりしという。
当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来イギリスとロシアとの間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。
今日に至るまでも仲は好くないように見える。

松本、五代、英艦に投ず

 それはさておきここに薩摩の船を二艘此方(こちら)に引っ張って来るという時に、その船長の松木弘安(後に寺島陶蔵また後に宗則)五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行という名義でいわば船長である。
ソコで英の軍艦が二艘の船を引っ張って来ようというその時に、乗り込みの水夫などはそこから上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。
投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じてひそかにその船の火薬庫に導火(みちび)をつけておいたから、間もなく船は二艘とも焼けてしまった。
それはそれとして、さて松木に五代というものは捕虜でもなければお客でもない、何しろ英の軍艦に乗り込んで横浜に来たに違いはない。
そのことは横浜の新聞紙にも出ていたのであるが、ソレきり少しも消息がわからない。
私はその前年松木とヨーロッパに一緒に行ったのみならず、以前から私と箕作と松木というものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗ったというが如何したろうかと、ただその噂をするばかりで尋ねる所もない。
英人がもしこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すにきまっている。
さればといってこれを幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取り調べる廉(かど)があるとか言って、取り敢えず牢には入れるだろう。
ところが今日まで薩摩に還したという沙汰もなければ、幕府に引き渡したという様子もない。
如何したろうか、如何にも不審なことじゃと、ただ箕作と私と始終その話をしていた。
ところがおよそこのことが済んで一年ばかりたってから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。

薩人英人と談判

 松木の話は次にしておいて、横浜にイギリスの軍艦が帰って来たあとで、薩摩から談判のために江戸に人の出て来たというのは、岩下佐次右衛門、重野厚保之丞(後に安繹/やすつぐ)、その外に黒幕みたような役目を帯びて来たのが大久保一蔵(後に利通)、その三人が出て来たところで、第一番に薩摩の望むところは兎にも角にもこの戦争をしばらく延引して貰いたいという注文なれども、その周旋を誰に煩むという手掛りもなく当惑の折柄、ここに一人の人があるその一人というのは清水卯三郎(瑞穗屋卯三郎)という人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋のことについては至極熱心、まず当時においてはその身分に不似合な有志者である。
初め英艦が薩摩に行こうというときに、もし薩摩の方から日本文の書翰を出されたときにほこれを読むに困る。
通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支(さしつかえ)ないけれども、日本文の書翰を颯々(さっさ)と読む人がない、というので英人から同行を頼まれた。
清水は平生勇気もあり随分そんなことの好きな人で、それは面白い行ってみようと容易(たやす)く承諾し、横浜税関の免状を申し受けて旗艦に乗り込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判につき、黒幕の大久保一蔵は取り敢えず清水卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争をしばらく延引して貰いたいということを、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛け合うことにした。
ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申し込んだところが、取り次ぎの者の言うに、かかる重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうというから、清水はこれを押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けていれば沢山だ、それでも拙者と話は出来ないかと少しく理窟を言ったところが、そういう訳けなら直ぐに会うというので、それから公使に面会して戦争中止のことを話し掛けると、なか/\聞きそうにもしない。
イヤもうすでにインド洋から軍艦を増発して何千の兵士はただいま支度最中、然るにこの戦争の時期を延ばして待つなどとは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。
ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分たちが自ら談判してみようと言って、ついに陵英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払うことになり、高は二万五千ポンド、時の相場にしておよそ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないというので、分家の島津淡路守の名をもって金を渡すことにして、且つまたリチャルドソンを殺した罪人は何分にもどこにか逃げてわからないから、もしわかったらば死刑ということでもって事が収まった。
その談判の席には大久保一蔵は出ない。
岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥一、監察方から斎藤謹吾という人が立ち会い、いよ/\書面を取り換わして事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔月(ついたち)か二日ごろであった。

松木、五代、埼玉郡に潜む

 さてそれから私の気になる松木、すなわち寺島の話はこういう次第である。
松木、五代が薩摩の船から英の軍艦に乗り移ったところが、清水が居たので松木も篤いた。
清水という男は、以前江戸にて英書の不審を松木に聞いていたこともある至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。
「イヤ如何してここに居るか」「お前さんは如何してまたここへ来た」というような訳けで、大変好都合であった。
ソコで横浜に来たけれども、このままに何時までもこの船の中に居られるものでない。
マア如何かして上陸したい、というそのことについては清水卯三郎が一切引き受ける。
それは松木と五代は極々日蔭者(ひかげもの)」で、青天白日の身というのは清水一人、そこで清水がまず横浜に上がって、それからアメリカ人のヴェンリートという人にその話をしたところが、如何でも周旋しよう、兎に角に艀船(はしけぶね)に乗って神奈川の方に上がる趣向にしよう、その船も何も世話をしてやろうということになった。
ところでアドミラルが如何言うか、ソレに聞いてみなければならぬので、アドミラルにそのことを話すと、至極寛大で、上陸差支(さしつかえ)なしと言うので、ソレカラ一切万事、清水とヴェソリートと諜合(しめし)わせて、落人(おちうど)両人の者は夜分ひそかにその艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から上がる積りに用意したところが、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目ごとに今の巡査交番所みたようなものがずっと建っていて、一人でも怪しいものは通行を咎めるということになっているから、なか/\大小などを挟して行かれるものでない。
ソコで大小も陣笠も一切の物はヴェンリートの家に預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗り込み、舟は段々東に下って、とう/\羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとしたところで、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。
ただの宿屋には泊られないから、江戸に這入ったらば、堀留の鈴木という船宿に、清水が先へ行って待っているからそこへ来いという約束がしてある。
ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/\に江戸の方に向かって足を進める中に夜が明けでしまい、コリャ大変とそれから駕籠に乗って顔を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。
清水は昨夜から待っているので万事の都合宜しく、その船宿に二晩ひそかに泊つて、それから清水の故郷武州埼玉郡羽生村(はにゅうむら)まで二人を連れて来て、そこも何だか気味が悪いというので、またその清水の親類で奈良村に吉田市右衛門という人がある、その別荘に移して、ここは極淋しい所で、見つかるような気遣いはないと安心して、二人とも収め込んでしまい、五代はその後五、六カ月してひそかに長崎の方に行き、松木はおよそ一年ばかりもそこに居る中に、本藩の方でも松木のことを心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野をはじめとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八郎などいう人が様々周綻の末、これは清水卯三郎が知っていはしないかと思い付いて、清水の所に尋ねに来た。
ところが清水はドウも怖くて言われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思って、真実が吐かれない。
一応はただ知らぬと答えたれども、薩摩の方ではなか/\疑っている様子。
そうかと思うと、時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。
ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。
殺さないなら早く出してやりたいが、殺すようなことなら今まで助けておいたものだから出したくないと、自分の思案に余って、それから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思って相談に行ったところが、先生の説に「ソリャ出すが宣かろう、薩藩人がそう言うなら有りのままに明かして渡してやるが宜かろう、マサカ殺しもしなかろう」と言うので、ソコで初めて決断して、清水の方から薩人に通知して、実は初めから何もかも自分が世話をしたことで一切知っている、早速お引き渡し申すが、ただ約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が初めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。
右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知っている者は藩中にただ七人しかないと清水が聞いたそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう

初めて松木に逢う

 その時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、ある日肥後七左衛門が不意と私方に来て、「松木居るが、お前の所に来ても差支はないか」と言う。
私は実に驚いた。
「去年からモウ気になっていて、箕作と会いさえすればその噂をしていたが、生きていたか」「確かに生きている」「何処に居るか」「江戸に居る、兎に角に此家(ここ)に来て宣いか」「宣いとも、大宣(おおよ)しだ。
何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに会いたい」と言うと、その翌日松木が出て来た。
誠に冥土の人に遭ったような気がして、ソレカラいろ/\な話し聞いて、清水と一緒になったということもわかれば何もかもわかってしまった。
そのとき私は新銭座に居ましたが、マア久しぶりで飲食を共にして、どこに居るかと聞けば、白金台町に曹某(そうなにがし)という医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んでいると言う。
その日はまずそのままわかれて、それから私は直ぐに箕作の所に事の次第を言って遣って、箕作も直ぐその翌日出て来て、両人同道して白金の曹の家に行き、三友団座、昼から晩までいろ/\なことを話すその中に、例の鹿児島戦争の話などもあって、その戦争のことについてはマダ/\いろ/\面白いことがあるけれども、長くなるから此処でこれを略し、さて寺島の身の上は如何だと言うに、薩摩の方は大抵これで宜しいが、マダ幕府の意向がわからない、けれどもこれとても別段に幕府の罪人でもないから、そう恐れることもない訳け。
ソコで寺島は何をして食っているかと聞けば、今は本藩の翻訳などしていると言う。
それこれの話の中に寺島が言うには「モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公(おれ)は鉄砲の音がドーソと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、それからまたその船の火薬庫に導火(みちび)をつけるときは随分気味の悪い話しだった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持って持って上陸した」と言う。
いろ/\の話の中に、英人が薩摩湾に碇泊中果物が欲しいと言うと、薩摩人がこれを進上する風をして、その機に乗じて斬り込もうとして出来なかったかったというような、種々様々な話がありますが、それはマアやめにして錨の話。