『歎異抄』は、親鸞の教えた真実信心に異なっていることを歎き、親鸞の教えに帰ることを呼びかける書物で、親鸞から直接に教えを受けた門弟の一人・唯円が、師の教えを改めて明らかにしたいという願いから生み出されたものです。
(歎異とは、親鸞の教えに反する異議が存在していることを嘆いて書いたという意味です)
本書は序と本文18条と結語からなり、前半の10条は師訓篇とも呼ばれ、作者の耳の底にとどまって決して忘れることのできない親鸞の言葉を集めており、後半の8条は歎異篇とも呼ばれ、前半に掲げた親鸞の言葉に依りながら、実際に起こっている異なった見解をあげて、真実信心を見失っていることを批判しています。
そして結語には、そのような異義が起こってくる原因を「信心の異なり」として押さえ、お互いが自分の立場を正当化し、迷いを深めていくことの痛ましさを訴えているのですが、どこまでも親鸞の教える同一の信心に立ち帰ることの重要性を示そうとしており、親鸞の思想の核心を表した書物ともなっております。
「人類みな兄弟であり、上下などまったくない」
「善人でさえ浄土へ往生できる、まして悪人は、なおさらだ」
「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」、
親鸞の生きた時代は、地震、洪水、飢饉、戦乱、大火といった、生きる不安の絶えない時代でした。
こうした中、
人間とは?
命とは?
幸せとは?
といった命題に対して、冷酷な運命に甘んじて従うのではなく、自ら未来の幸せの種をまくことができるとして、当時の日本人の精神的な支えとなっていた親鸞の思想。
今の時代だからこそ、日本人に生きる力を与えてきた『歎異抄』から得るものもあるのかもしれません。
こうした親鸞の思想は、宗教云々以前に、世間からの評価や他人の目ばかりを気にするのではなく、自分自身がどう生きたいのか、を自答するための書ともいえます。
まずは現代語訳などで触れてみてはいかがでしょうか。
以下、参考までに一部現代語訳にて抜粋です。
【歎異抄】
わたしなりにつたない思いをめぐらして、親鸞聖人が
おいでになったころと今とをくらべてみますと、
このごろは聖人から直接お聞きした真実の信心とは
異なることが説かれていて、嘆かわしいことです。
これでは、後のものが教えを受け継いでいくにあたり、
さまざまな疑いや迷いがおきるのではないかと
思われます。
幸いにも縁あって、まことの教えを示してくださる方に
出会うことがなかったなら、どうしてこの易行の道に
入ることができるでしょうか。
決して自分勝手な考えにとらわれて、本願他力の
教えのかなめを思い誤ることがあってはなりません。
そこで、今は亡き親鸞聖人がお聞かせくださった
お言葉のうち、耳の底に残って忘れられないものを、
少しばかり書き記すことにします。これはただ、
同じ念仏の道を歩まれる人々の疑問を取り除き
たいからです。
【第一条】
阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきに
お救いいただいて、必ず浄土に往生するので
あると信じて、念仏を称えようという思いがおこるとき、
ただちに阿弥陀仏は、その光明の中に摂め取って
決して捨てないという利益をお与えくださるのです。
阿弥陀仏の本願は老いも若きも善人も悪人もわけ
へだてなさいません。
ただ、その本願を聞きひらく信心がかなめであると
心得なければなりません。
なぜなら、深く重い罪を持ち、激しい煩悩をかかえて
生きるものを救おうとしておこされた願いだからです。
ですから、本願を信じるものには、念仏以外のどんな
善もいりません。
念仏よりもすぐれた善はないからです。
また、どんな悪も恐れることはありません。
阿弥陀仏の本願をさまたげるほどの悪はないからです。
このよに聖人は仰せになりました。
【第二条】
あなたがたがはるばる十余りもの国境をこえて、
命がけでわたしを訪ねてこられたのは、ただひとえに
極楽浄土に往生する道を問いただしたいという
一心からです。
けれども、このわたしが念仏の他に浄土に往生する
道を知っているとか、またその教えが説かれたものなどを
知っているだろうとかお考えになっているのなら、
それは大変な誤りです。
そういうことであれば、奈良や比叡山にもすぐれた
学僧たちがいくらでもおいでになりますから、
その人たちにお会いになって、浄土往生のかなめを
詳しくお尋ねになるとよいのです。
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に
救われ往生させていただくのである」という法然上人の
お言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かが
あるわけではありません。
念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に
堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところでは
ありません。
たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ
堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。
なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずの
わたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちた
というのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、
どのよのうな行も満足に修めることのできないわたしには、
どうしても地獄以外に住み家はないからです。
阿弥陀仏の本願が真実であるなら,それを説き示して
くださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。
釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころを
あらわされた善導大師の解釈にいつわりのあるはずが
ありません。
善導大師の解釈が真実であるなら、それによって
念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人の
お言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。
法然上人のお言葉が真実であるなら、
この親鸞が申すこともまた無意味なことでは
ないといえるのではないでしょうか。
つきつめていえば、愚かなわたしの信心は
この通りです。
この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、
念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。
このように聖人は仰せになりました。
【三条】
善人でさえ浄土に往生することができるのです。
まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生する
のだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。
これは一応もっともなようですが、本願他力の救いの
おこころに反しています。
なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする
人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けて
いるから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。
しかしそのような人でも、自力にとらわれた心を
あらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、
真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれる
ことはできません。
阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願を
おこされたのであり、そのおこころはわたしどもの
ような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする
悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を
持つものなのです。
それで、善人でさえも往生するのだから、まして
悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
【第四条】
慈悲について、聖道門と浄土門とでは
違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、
いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに
救いとげることは、きわめて難しいことです。
一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに
仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままに
すべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、
気の毒だと思っても、思いのままに救うことはで
きないのだから、このような慈悲は完全なものでは
ありません。
ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。
このように聖人は仰せになりました。
【五条】
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏した
ことは、かつて一度もありません。
というのは、命のあるものはすべてみな、これまで
何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、
父母であり兄弟・姉妹であったのです。
この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、
どの人をもみな救わなければならないのです。
念仏が自分の力で努める善でありますなら、
その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、
念仏はそのようなものではありません。
自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生して
さとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、
どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で
不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を
救うことができるのです。
このように聖人は仰せになりました。
【六条】
同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、
他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、
それはもってのほかのことです。
この親鸞は、一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで他の人に念仏
させるのなら、その人はわたしの弟子ともいえる
でしょうが、阿弥陀仏のはたらきにうながされて
念仏する人を、わたしの弟子などというのは、
まことに途方もないことだからです。
つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき
縁があれば離れていくものなのに、師に背き
他の人にしたがって念仏するものは往生できない
などというのは、とんでもないことです。
如来からいただいた信心を、まるで自分が与えた
ものであるかのように、取り返そうとでもいうの
でしょうか。
そのようなことは、決してあってはならないことです。
本願のはたらきにかなうなら、おのずから仏のご恩も
わかり、また師の恩もわかるはずです。
このように聖人は仰せになりました。
【第七条】
念仏者は、何ものにもさまたげられない
ただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する
人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、
よこしまな教えを信じるものも、その歩みを
さまたげることはなく、また、どのような罪悪も
その報いをもたらすことはできず、どのような善も
本願の念仏には及ばないからです。
このように聖人は仰せになりました。
【第八条】
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく
善でもありません。
念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、
行ではないというのです。
また、自分のはからいによって努める善ではないから、
善ではないというのです。
念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、
自力を離れているから、それを称えるものに
とっては、行でもなく善でもないのです。
このように聖人は仰せになりました。
〈九条】
念仏しておりましても、おどりあがるような
喜びの心がそれほど湧いてきませんし、
また少しでもはやく浄土に往生したいという心も
おこってこないのは、どのように考えたらよいの
でしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せに
なりました。
この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、
唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。
よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜び
するはずのことが喜べないから、ますます往生は
間違いないと思うのです。
喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、
煩悩のしわざなのです。
そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏は
はじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身に
そなえた凡夫であると仰せになっているのですから、
本願はこのようなわたしどものために、大いなる
慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、
ますますたのもしく思われるのです。
また、浄土にはやく往生したいという心がおこらず、
少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと
心細く思われるのも、煩悩のしわざです。
果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に
変りし続けれきた、苦悩に満ちたこの迷いの
世界は捨てがたく、まだ生れたことのない
安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、
まことに煩悩が盛んだからなのです。
どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、
どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に
往生させていただくのです。
はやく往生したいという心のないわたしどものような
ものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思って
くださるのです。
このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心で
おこされた本願はますますたのもしく、往生は間違い
ないと思います。
おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、
また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、
煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われること
でしょう。
このように聖人は仰せになりました。
【第十条】
本願他力の念仏においては、自力のはからいが
まじらないことを根本の法義とします。
なぜなら、念仏ははからいを超えており、たたえ尽くす
ことも、説き尽すことも、心で思いはかることも
できないからですと、聖人は仰せになりました。
思えばかつて、親鸞聖人がおいでになったころ、
同じ志をもってはるかに遠い京の都まで足を運び、
同じ信心をもってやがて往生する浄土に思いをよせた
人々は、ともに親鸞聖人のおこころを聞かせていただき
ました。
けれども、その人々にしたがって念仏しておられる
方々が、老いも若きも数え切れないほどたくさん
おいでになる中で、近ごろは、聖人が仰せになった教え
とは異なることをさまざまにいいあっておられるということを、
人づてに聞いています。
それら正しくない考えの一つ一つについて、以下に
詳しく述べていきましょう。
【第十一条】
文字の一つも知らずに念仏している人に向かって
「 おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきを
信じて念仏しているのか、それとも、名号の不可思議
なはたらきを信じて念仏しているのか 」 といって相手を
おどかし、この二つの不可思議について、その詳しい
内容をはっきりと説き明かすこともなく、相手の心を
迷わせるということについて。
このことは、よくよく気をつけて考えなければなりません。
阿弥陀仏は、誓願の不可思議なはたらきにより、
たもちやすく称えやすい南無阿弥陀仏の名号を
考え出してくださり、この名号を称えるものを浄土に
迎えとろうと約束されているのです。
だから、まず一つには、大いなる慈悲の心でおこされた
誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、
この迷いの世界を離れることができると信じ、
念仏を称えるのも阿弥陀仏のおはからいであることを
思うと、そこにはまったく自分のはからいがまじらない
のですから、そのまま本願にかなって、真実の浄土に
往生するのです。
これは、誓願の不可思議なはたらきをひとすじに
信じれば、名号の不可思議なはたらきもそこに
そなわっているのであり、誓願と名号の不可思議な
はたらきは一つであって、決して異なったものでは
ないということです。
次に、自分の勝手なはからいから、善と悪とについて、
善が往生の助けとなり、悪が往生のさまたげと
なると区別して考えるのは、誓願の不可思議な
はたらきを信じないで、自分のはからいで浄土に往生
しようと努め、称える念仏をも自分の力でする行と
みなしてしまうことです。
このような人は、名号の不可思議なはたらきも信じて
いないのです。
しかし、信じてはいないけれども、念仏すれば辺地、
懈慢界・疑城胎宮などといわれる方便の浄土に
往生して、果遂の願により、ついには真実の浄土に
生まれることができます。
それは名号の不可思議なはたらきなのです。
このことはそのまま誓願の不可思議なはたらきによるの
ですから、この二つはまったく一つのものなのです。
【第十二条】
経典や祖師方の書かれたものを読んだり学んだり
することのない人々は、浄土に往生できるかどうか
わからないということについて。
このことは、論じるまでもない誤った考えと
いわなければなりません。
本願他力の真実の教えを説き明かされている
聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏に
なるということが示されています。
浄土に往生するために、この他にどのような学問が
必要だというのでしょうか。
本当に、このことがわからないで迷っている人は、
どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを
知るべきです。
経典や祖師方の書かれたものを読んで学ぶにしても、
その聖教の本意がわからないのでは、何とも
気の毒なことです。
文字の一つも知らず、経典などの筋道もわからない
人々が、容易に称えることができるように成就された
名号ですから、念仏を易行というのです。
学問を主とするのは聖道門であり、難行といいます。
学問をしても、それによって名誉や利益を得ようという
誤った思いをいだく人は、この世の命を終えて浄土に
往生することができるかどうか疑わしいということの
証拠となる文もあるはずです。
このごろは、念仏の道を歩む人々と聖道門の人々とが、
お互いの教義についてことさらに議論し、 「 わたしの
信じる教えこそがすぐれていて、他の人が信じている
教えは劣っている 」 などというために、仏の教えに敵対
する人も出てくるし、それを謗るというようなことも
おこるのです。
このようなことはそのまま、自分の信じる仏の教えを
謗り、滅ぼすことになってしまうのではないでしょうか。
たとえ他のさまざまな宗派の人々が口をそろえて、
「 念仏は力のない人のためのものであり、その教えは
浅くてつまらない 」 といっても、少しもいい争うことなく、
「 わたしどものように自らさとる力もなく愚かであり、
文字の一つも知らないものでも、本願を信じるだけで
救われるということを、お聞かせいただいて信じて
おりますので、能力のすぐれている人々にはまったく
つまらないものであっても、わたしどもにとっては
この上ない教えなのです。
たとえ他の教えがすぐれていても、わたしにとっては
力が及ばないので修行することができません。
だれもがみな迷いの世界を離れることこそ、仏がたの
おこころでありますから、わたしが念仏するのを
さまたげないでください 」 といって、気にさわる態度を
とらなければ、いったいだれが念仏のさまたげなど
するでしょう。
さらにまた、いい争いをすれば、そこにはさまざまな
煩悩がおこるものであり、智慧ある人はそのような
場から遠く離れるべきであるということの
証拠となる文もあるのです。
今は亡き親鸞聖人は、 「 この念仏の教えを信じる
人もいれば、謗る人もいるだろうと、すでに釈尊が
お説きになっています。
わたしは現に信じておりますし、一方、他の人が謗る
こともありますので、釈尊のお言葉はまことであった
と知られます。
だからこそ、往生はますます間違いないと思うのです。
もしも念仏の教えを謗る人がいなかったなら、
信じる人はいるのに、どうして謗る人はいないのだろうか
と思ってしまうに違いありません。
しかし、このように申したからといって、必ず人に
謗られようというのではありません。
釈尊は、信じる人と謗る人とがどちらもいるはずだと
あらかじめ知っておいでになり、信じる人が疑いを
持たないようにとお考えになって、すでにそれを
お説きになっているということを申しているのです 」 と
仰せになりました。
このごろは、学問をして他の人が謗るのをやめさせ、
議論し問答することこそ大切だと心がけておられるの
でしょうか。
学問をするのであれば、ますます深く如来のおこころを
知り、本願の広大な慈悲のおこころを知って、自分の
ようなつまらないものは往生できないのではないかと
心配している人にも、本願においては、善人か悪人か、
心が清らかであるかないかといったわけへだてが
ないということを説き聞かせてこそ、学問をするもの
としての値うちもあるでしょう。
それなのに、たまたま何のはからいもなく本願の
おこころにかなって念仏する人に、経典などを学んで
こそ往生することができるなどといっておどすのは、
教えをさまたげる悪魔や、仏に敵対するものの
することです。
自分自身に他力の信心が欠けているだけでなく、
誤って他の人をも迷わそうとしているのです。
つつしんで恐れるべきです、親鸞聖人のおこころに
背くことを。
あわせて悲しむべきです。
阿弥陀仏の本願のおこころにかなっていないことを。
【第十三条】
阿弥陀仏の本願のはたらきが不可思議である
からといって、自分の犯す悪を恐れないのは、
すなわち 「 本願ぼこり 」 であって、これもまた浄土に
往生することができないということについて。
このことは、本願を疑うことであり、また、この世に
おける善も悪もすべて過去の世における行いによると
心得ていないことなのです。
善い心がおこるのも、過去の世の善い行いが
そうさせるからです。
悪いことを考え、それをしてしまうのも、過去の世の
悪い行いがはたらきかけるからです。
今は亡き親鸞聖人は、 「 うさぎや羊の毛の先についた
塵ほどの小さな罪であっても、過去の世における行いに
よらないものはないと知るべきである 」
と仰せになりました。
またあるとき聖人が、 「 唯円房はわたしのいうことを
信じるか 」 と仰せになりました。
そこで、 「 はい、信じます 」 と申しあげると、 「 それでは、
わたしがいうことに背かないか 」 と、重ねて仰せに
なたので、つつしんでお受けすることを申しあげました。
すると聖人は、 「 まず、人を千人殺してくれないか。
そうすれば往生はたしかなものになるだろう 」 と仰せに
なったのです。
そのとき、 「 聖人の仰せではありますが、わたしの
ようなものには一人として殺すことなどできるとは
思えません 」 と申しあげたところ、
「 それでは、どうしてこの親鸞のいうことに
背かないなどといったのか 」 と仰せになりました。
続けて、 「 これでわかるであろう。どんなことでも
自分の思い通りになるのなら、浄土に往生する
ために千人の人を殺せとわたしがいったときには、
すぐに殺すことができるはずだ。
けれども、思い通りに殺すことのできる縁が
ないから、一人も殺さないだけなのである。
自分の心が善いから殺さないわけではない。
また、殺すつもりがなくても、百人あるいは
千人の人を殺すこともあるだろう 」 と
仰せになったのです。
このことはわたしどもが、自分の心が善いのは
往生のためによいことであり、自分の心が
悪いのは往生のために悪いことであると勝手に
考え、本願の不可思議なはたらきによって
お救いいただくということを知らないでいることに
ついて、仰せになったのであります。
かつて誤った考えにとらわれた人がいて、
悪を犯したものをお救いくださるという本願で
あるからと、わざわざ悪を犯し、それを往生の
ための行いとしなくてはならないなどといい、
しだいにそのよくないうわさが聞こえてきました。
そのとき聖人がお手紙に 「 いくら薬があるから
といって、好きこのんで毒を飲むものではない 」 と
お書きになられましたのは、そのような誤った
考えにとらわれているのをやめさせるためなのです。
決して悪を犯すことが往生のさまたげになると
いうのではありません。
「 戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を
信じることができるのなら、わたしどもはどうして
迷いの世界を離れることができるだろうか 」 と、
聖人は仰せになっています。
このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の
本願に出会わせていただいてこそ、本当にその
本願をほこり甘えることができるのです。
だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いを
することなどできないでしょう。
また聖人は、 「 海や河で網を引き、釣りをして
暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を
捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して
日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ 」 と
仰せになり、そして 「 人はだれでも、しかるべき
縁がはたらけば、どのような行いもするものである 」
と仰せになったのです。
それなのにこのごろは、いかにも来世の往生を
願うもののように殊勝に振舞って、善人だけが
念仏することができるかのように思い、あるときは
念仏の道場に張り紙をして、これこれのことを
したものを道場に入れてはならないなどという人が
いますが、それこそ、外にはただ賢そうに善い
行いに励む姿を見せ、内には嘘いつわりの心を
いだいていることなのではないでしょうか。
阿弥陀仏の本願をほこり、それに甘えてつくる
罪も、過去の世の行いが縁となってはたらくことに
よるのです。
だから、善い行いも悪い行いもすべて過去の世
からの縁にまかせ、ただ本願のはたらきに身を
ゆだねるからこそ、他力なのであります。
『唯信鈔』にも、 「 阿弥陀仏にどれほどの力が
おありになると知った上で、自分は罪深い身で
あるから、とても救われないなどと思うので
あろうか 」 と示されています。
本願をほこる心があるからこそ、他力に身を
ゆだねる自分の信心もまさに定まっていると
思われます。
自分の罪悪や煩悩を滅し尽した後に本願を
信じるというのであれば、本願をほこる思いも
なくてよいでしょう。
しかし、煩悩を滅したならそのまま仏になるので
あり、そのようにすでに仏になったものには、
五劫という長い間思いをめぐらしてたてられた
阿弥陀仏の本願も、もはや意味のないもので
ありましょう。
本願ぼこりはよくないといましめる方々も、
煩悩を身にそなえ、清らかでないように
見受けられます。
それは本願をほこり甘えておられることには
ならないのでしょうか。
どのような悪を本願ぼこりであるといい、
どのような悪を本願ぼこりではないというのでしょうか。
本願ぼこりはよくないというのは、むしろ考えが
おさないのではないでしょうか。
【第十四条】
一回念仏することで八十億劫もの間迷いの
世界で苦しみ続けるほどの重い罪が消えると
信じなければならないということについて。
このことは、十悪や五逆などの重い罪を犯し、
日ごろは念仏したことがない人であっても、
まさに命を終えようとするときに、はじめて
善知識の教えを受け、一回念仏すれば八十億
劫もの間苦しみ続けるほどの重い罪が消え、
十回念仏すればその十倍もの重い罪が消え去って、
浄土に往生することができるといっているのです。
これは、十悪や五逆の罪がどれほど重いもので
あるかを知らせるために、一回の念仏や十回の
念仏といっていると思われますが,要するに
念仏することによって罪を消し去る利益が
得られるというのです。
しかしそれは、わたしどもが信じるところには
遠く及びません。
それは次のようなことによるのです。
わたしどもは阿弥陀仏の光明に照らされて、
本願を信じる心がはじめておこるときに決して
こわれることのない信心をいただくのですから、
そのときすでに阿弥陀仏はこの身を正定聚の
位につかせてくださるのであり、この世の命を
終えれば、さまざまな煩悩や罪悪を転じて
真実のさとりを開かせてくださるのです。
もし、この大いなる慈悲の心からおこして
くださった本願がなかったなら、わたしどもの
ようなあきれるほど罪深いものがどうして
迷いの世界を離れることができるだろうかと
考えて,一生のうちに称える念仏は、すべて
みな如来の大いなる慈悲の心に対し、
そのご恩に報い、そのお徳に感謝するもので
あると思わなければなりません。
念仏するたびに自分の罪が消え去ると
信じるのは、それこそ自分の力で罪を消し去って
浄土に往生しようと努めることに他なりません。
もしそうだとすれば、一生の間に心に思うことは、
すべてみな自分を迷いの世界につなぎとめるもの
でしかないのですから、命の尽きるまでおこたる
ことなく念仏し続けて、はじめて浄土に往生
できることになります。
ただし過去の世の行いの縁により、思い通りに
生きられるものではないのですから、どのような
思いがけない出来事にあうかもしれないし、
また病気に悩まされ苦痛に責められて、
心安らかになれないまま命を終えることも
あるでしょう。
そのときには念仏することができません。
その間につくる罪はどのようにして消し去る
ことができるのでしょうか。
罪は消え去らないのだから浄土に往生する
ことはできないというのでしょうか。
すべての衆生を光明の中に摂め取って
決して捨てないという阿弥陀仏の本願を信じて
おまかせすれば、どのような思いがけないことが
あって、罪深い行いをし、念仏することなく命が
終わろうとも、速やかに浄土に往生することが
できるのです。
また命が終わろうとするときに念仏することが
できるとしても、それはさとりを開くまさにその時が
近づくにつれて、いよいよ阿弥陀仏にすべてを
おまかせし、そのご恩に報いる念仏なので
ありましょう。
念仏して罪を消し去ろうと思うのは、自力に
とらわれた心であり、命が終わろうとするときに
阿弥陀仏を念じて心が乱れることなく往生しようと
願う人の本意なのですから、それは本願他力の
信心がないということなのです。
【第十五条】
あらゆる煩悩をそなえた身でありながら、
この世でさとりを開くということについて。
このことは、もってのほかのことです。
この身のままこの世で仏になるというのは
真言密教の根本の教えであり、三密の行を
修めて得られるさとりです。
また身心のすべてが清らかになるというのは
法華一乗の教えであり、四安楽の行を修めて
得られる功徳です。
これらはすべて、能力のすぐれた人が修める
難行の道であり、観念を成就して得られる
さとりなのです。
これに対して、次の世でさとりを開くというのが
他力浄土門の教えであり、信心が定まったときに
間違いなく与えられる本願のはたらきなのです。
これは、能力の劣った人に開かれた易行の道であり、
善人も悪人もわけへだてなく救われていく教えです。
この世で煩悩を絶ち罪悪を滅することなど、とても
できることではないので、真言密教や法華一乗の
行を修める徳の高い僧であっても、やはり次の世で
さとりを開くことを祈るのです。
まして、戒律を守って行を修めることもなく、教えを
理解する力もないわたしどもが、この世でさとりを
開くことなどできるはずもありません。
しかしそのようなわたしどもであっても、阿弥陀仏の
本願の船に乗って、苦しみに満ちた迷いの海を渡り,
浄土の岸に至りついたなら、煩悩の雲がたちまちに
晴れ、さとりの月が速やかに現れて、何ものにも
さまたげられることなくあらゆる世界を照らす
阿弥陀仏の光明と一つになり、すべての人々を
救うことができるのです。
そのときにはじめてさとりを開いたというのです。
この世でさとりを開くといっている人は、
釈尊のように、人々を救うためにさまざまな姿と
なって現れ、三十二相八十隋形好をそなえ、
教えを説いて人々を救うのでしょうか。
このようなことができてこそ、この世でさとりを
開いたといえるのです。
『高僧和讃』に
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける
決して壊れることのない信心がさだまる
まさにそのとき、阿弥陀仏の慈悲の光明に
摂め取られ、つねに護られて、もはや迷いの
世界に戻ることがない。
とあるように、信心が定まるそのときに、阿弥陀仏は
わたしどもを摂め取って決してお捨てにならないの
ですから、迷いの世界に生れ変り死に変り
するはずがありません。
だから、もはや迷いの世界に戻ることがないのです。
しかしこのように知らせていただくことを、さとりだなどと
ごまかしていってよいものでしょうか。
大変悲しいことです。
「 往生浄土の真実の教えでは、この世において
阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりを
開くのであると法然上人から教えていただきました 」
と、今は亡き親鸞聖人のお言葉にはございました。
【第十六条】
本願を信じて念仏する人は、おのずと、ふとした
ことで腹を立てたり、悪いことをしたり、同じ念仏の
仲間と口論をしたりしたなら、必ずそのたびに
悪い心をあらためなければならないということについて。
このことは、悪を断ち切り、善を修めて浄土に
往生しようという考えなのでしょうか。
本願を信じてひとすじに念仏する人にとって、
心をあらためるということは、ただ一度だけ
あるものです。
それは、つねひごろ本願他力の真実の教えを
知らないで過ごしている人が、阿弥陀仏の智慧を
いただき、これまでのような心のままで浄土に
往生することはできないと知って、その自力の心を
捨てて本願のはたらきにおまかせすることであり、
これを、 「 心をあらためる 」 というのです。
あるゆることにつけて朝夕に悪い心をあらためて
こそ往生することができるというのであれば、
人の命は息を吐いてふたたび吸う間もないうちに
終わるものですから、心をあらためることもなく、
安らかで落ちついた思いになる前に命が終わって
しまったなら、すべての人々を摂め取って決して
捨てないという阿弥陀仏の誓願は意味のない
ことになるのでしょうか。
口では本願のはたらきにおまかせいたしますと
いいながら、心の中では、悪人を救おうという本願が
どれほど不可思議なものであるといっても、やはり
善人だけをお救いになるのだろうと思うから,
本願のはたらきを疑い,他力におまかせする心が
欠けて、辺地といわれる方便の浄土に往生する
ことになってしまうのです。
これこそ、もっとも悲しくお思いになるべきことです。
信心が定まったなら、浄土には阿弥陀仏の
おはからいによって往生させていただくのですから、
わたしのはからいによるはずがないのです。
自分がどれほど悪くても、かえってますます本願の
はたらきの尊さを思わせていただくなら、その本願の
はたらきを受けておのずと、安らかで落ちついた心も
おこるでしょう。
浄土への往生については、何ごとにもこざかしい
考えをはさまずに、ただほれぼれと、阿弥陀仏の
ご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのが
よいでしょう。
そうすれば念仏も口をついて出てまいります。
これが、 「 おのずとそうなる 」 ということです。
自分のはからいをまじえないことを、「 おのず
とそうなる 」というのです。
これはすなわち阿弥陀仏の本願のはたらきなのです。
それなのに、おのずとそうなるということが、
この本願のはたらきの他にもあるかのように、
物知り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、
実になげかわしいことです。
【第十七条】
辺地といわれる方便の浄土に往生する人は、
結局は地獄に堕ちることになるということについて。
このことは、どこにその証拠となる文があるの
でしょうか。
これは学者ぶった人の中からいいだされたと
聞きますが、あきれた話です。
そのような人は経典や祖師方の書かれたものを
どのように読まれているのでしょうか。
信心の欠けた念仏者は、阿弥陀仏の本願を疑う
ことにより、方便の浄土に往生し、その疑いの罪を
つぐなった後、真実の浄土においてさとり開くと
うかがっております。
本願を信じて念仏するものが少ないので、仮に
方便の浄土に多くのものを往生させておられるの
です。
それが結局意味のないことであるようにいうのは、
それこそ浄土の教えをお説きくださった釈尊が
嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることに
なるのです。
【第十八条】
寺や僧侶などに布施として寄進する金品が多いか
少ないかにより、大きな仏ともなり、あるいは小さな
仏ともなるということについて。
このことは、言語道断、とんでもないことであり、
筋の通らない話です。
まず、仏のお体に対して、大きいとか小さいとかを
決めることなど、あってはならないことでしょう。
経典に阿弥陀仏のお体の大きさが説かれては
いますが、それは方便として示された仮の
すがたです。
真実のさとりを開いて、長いとか短いとか、四角い
とか円いとかの形を超え、また青・黄・赤・白・黒
などの色を離れた仏の身となるのなら、どうして
大きいとか小さいとかを決めることができる
でしょうか。
念仏すると、仏のすがたを見せていただくことが
あるそうです。
そのことは経典に、 「 大きな声で念仏すれば大きな
仏を見、小さな声で念仏すれば小さな仏を見る 」 と
あるのですが、あるいはこの説などにこじつけて、
大きな仏や小さな仏になるなどというのでしょうか。
一方、その寄進は、仏になるための布施の行とも
いえるのですが、どれほど財宝を仏前にささげ、
師に施したとしても、本願を信じる心が欠けて
いたなら、何の意味もありません。
寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんの
わずかな金銭を寄進することすらなくても、本願の
はたらきにすべておまかせして、深い信心を
いただくなら、それこそ本願のおこころにかなう
ことでありましょう。
結局、世俗的な欲望もあるために、仏の教えに
かこつけてこのようなことをいい、同じ念仏の仲間を
おどされるのでしょうか。
これまで述べてきた誤った考えは、どれもみな
真実の信心と異なっていることから生じたものかと
思われます。
今は亡き親鸞聖人からこのようなお話をうかがった
ことがあります。
法然上人がおいでになったころ、そのお弟子は
大勢おいでいになりましたが、法然上人と同じく
真実の信心をいただかれている方は少ししか
おられなかったのでしょう。
あるとき、親鸞聖人と同門のお弟子方との間で、
信心をめぐって論じあわれたことがありました。
といいますのは、親鸞聖人が、 「 この善信の
信心も、法然上人のご信心も同じである 」 と
仰せになりましたところ、勢観房、念仏房などの
同門の方々が、意外なほどに反対なさって、
「 どうして法然上人のご信心と善信房の信心とが
同じであるはずがあろうか 」 といわれたのです。
そこで、 「 法然上人は智慧も学識も広くすぐれて
おられるから、それについてわたしが同じであると
申すのなら、たしかに間違いであろう。
しかし、浄土に往生させていただく信心については、
少しも異なることはない。まったく同じである 」 と
お答えになったのですが、
それでもやはり、 「 どうしてそのようなわけがあろうか 」 と
納得せずに非難されますので、結局、法然上人に
直接お聞きして、どちらの主張が正しいかを決めよう
ということになりました。
そこで法然上人に、詳しい事情をお話ししたところ、
「 この源空の信心も如来からいただいた信心です。
善信房の信心も如来よりいただかれた信心です。
だからまったく同じ信心なのです。
別の信心をいただいておられる人は、この源空が
往生する浄土には、まさか往生なさることは
ありますまい 」 と法然上人が仰せになったと
いうことでありました。
ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、
親鸞聖人のご信心と異なっておられることも
あるのだろうと思われます。
どれもみな同じことの繰り返しではありますが、
ここに書きつけておきました。
枯れ草のように老い衰えたこの身に、露のように
はかない命がまだわずかに残っているうちは、
念仏の道を歩まれる人々の疑問もうかがい、
親鸞聖人が仰せになった教えのこともお話しして
お聞かせいたしますが、わたしが命を終えた後は、
さぞかし多くの誤った考えが入り乱れることに
なるのではないかと、今から嘆かわしく思われて
なりません。
ここに述べたような誤った考えをいいあって
おられる人々の言葉に惑わされそうになったときには、
今は亡き親鸞聖人がそのおこころにかなって
用いておられたお聖教をよくよくご覧になるのが
よいでしょう。
聖教というものには、真実の教えと方便の教えとが
まざりあっているのです。
方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただく
ことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。
くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることが
あってはなりません。
そこで、大切な証拠の文となる親鸞聖人のお言葉を、
少しではありますが抜き出して、箇条書きにして
この書に添えさせていただいたのです。
親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、
「 阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらして
たてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、
この親鸞一人をお救いくださるためであった。
思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う
身であったのに、救おうと思い立ってくださった
阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことで
あろうか 」 と、しみじみとお話しになって
おられました。
そのことを今またあらためて考えてみますと、
善導大師の、
「 自分は現に、深く重い罪悪をかかえて
迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、
果てしない過去の世から今に至るまで、いつも
この迷いの世界に沈み、つねに生れ変り
死に変りし続けてきたのであって、そこから
脱け出る縁などない身であると知れ 」 と
いう尊いお言葉と、少しも違ってはおりません。
そうしてみると、もったいないことに、親鸞聖人が
ご自身のこととしてお話しになったのは、わたし
どもが、自分の罪悪がどれほど深く重いものかも
知らず、如来のご恩がどれほど高く尊いものかも
知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを
気づかせるためであったのです。
本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど
尊いかを問うこともなく、いつもお互いに善いとか
悪いとか、そればかりをいいあっております。
親鸞聖人は、
「 何が善であり何が悪であるのか、
そのどちらもわたしはまったく知らない。
なぜなら、如来がそのおこころで善と思いに
なるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を
知ったといえるであろうし、また如来が悪と
お思いになるほどに悪を知り尽したので
あれば、悪を知ったとえいえるからである。
しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩を
そなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家の
ようにたちまちに移り変わる世界であって、
すべてはむなしくいつわりで、真実といえる
ものは何一つない。
その中にあって、ただ念仏だけが真実なの
である 」 と仰せになりました。
本当に、わたしも他の人もみなむなしいことばかりを
いいあってはおりますが、とりわけ心の痛むことが
一つあります。
それは、念仏することについて、お互いに信心の
あり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、
相手にものをいわせず、議論をやめさせるために、
親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで
聖人の仰せであるといい張ることです。
まことに情けなく、やりきれない思いです。
これまで述べてきたことを十分にわきまえ、心得て
いただきたいことと思います。
これは決してわたし一人の勝手な言葉では
ありませんが、経典や祖師方の書かれたものに
説かれた道理も知らず、仏の教えの深い意味を
十分に心得ているわけでもありませんから、
きっとおかしなものになっていることでしょう。
けれども、今は亡き親鸞聖人が仰せになって
おられたことの百分の一ほど、ほんのわずかばかりを
思い出して、ここに書き記したのです。
幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の
浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、
何と悲しいことでしょう。
同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、
涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。
「 歎異抄 」 と名づけておきます。
同じ教えを受けた人以外には見せないでください。
【流罪記録】
後鳥羽上皇の御治世のころ、法然上人は、
他力本願念仏の一宗を興し、世にひろめられた。
そのとき、興福寺の僧たちが、それは仏の教えに
背くものであるとして朝廷に訴えた。
そして、法然上人のお弟子のなかで無法な振舞いが
あったという根も葉もないうわさによって、処罰された
人々は次の通りである。
法然上人、およびそのお弟子の七人は流罪となり、
また、お弟子の四人は死罪に処せられた。
法然上人は、土佐の国の幡多というところに
流罪となり、罪人の名としては藤井元彦、男性など
とあり、年齢は七十六歳であった。
親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人の名としては
藤井善信などとあり、年齢は三十五歳であった。
浄聞房は備後の国に、禅光房澄西は伯耆の国に、
好覚房は伊豆の国に、法本房行空は佐渡の国に
流罪となった。
成覚房幸西と善恵房の二人は、同じく流罪と
決まったが、無動寺の慈鎮和尚が願い出て二人の
身柄を引き受けたという。
流罪に処せられた人々は、以上の八人であったという。
死罪に処せられた人々は、一、善綽房西意、
二、性願房、三、住蓮房、四、安楽房であった。
これたの刑は、二位の法印尊長の裁定である。
親鸞は、流罪になったとき、僧籍を取り上げられて
俗名を与えられた。
そこで、僧侶でもなく俗人でもない身となったのである。
これにより、禿の字を自分の姓として、朝廷に申し出て
認められた。
その書状が今も外記庁に納められているという。
このようなわけで流罪の後は、自分の名前を愚禿親鸞と
お書きになるのである。
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にとって
大切な聖教である。
仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、
安易にこの書を見せてはならない。
釈蓮如