南方熊楠に学ぶ!日本人の可能性の極限を示し続けた知の巨人の生き方!

南方熊楠を一言で言い表すのは難しい。

幼い時から驚くべき記憶力の持ち主で歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者、生物学者、菌類学者、民俗学者という言葉だけで括るには申し訳ないばかりの知の巨人です。
熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本したそうですが、熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」。
何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動力の持ち主だったことが伺えますね。

19歳の時に渡米。
粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭しながらキーウエストからキューバに渡り、サーカス団に入って象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にしています。
米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡英。
その抜群の語学カと博識で大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表。
天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載され後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介されています。

『ネイチャー』に論文が載るのは研究者の夢ですし、科学者なら一生に一度は掲載されたいと思うのが常ですが、それを熊楠は51回。
しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の専門分野の粘菌学ではなかったというのが驚きですね。

また、当時イギリスに亡命中の“中国革命の父”孫文と知り合い意気投合、以後親交を結びます。
33歳で帰国し、紀州は田辺に居を構えると日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出します。
翌年、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家に訪問。
熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、数々の新種を発見、植物や昆虫の彩色図鑑を作ります。
また世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の『方丈記』をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み、完成させたそうです。
38歳に、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。
これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知されました。

42歳、明治政府の神社合祀(統合)により古木の森の生態系破壊を憂慮して、神社合祀反対運動を開始。
熊楠は日本で初めて“エコロジー(生態学)”という言葉を使い、「生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれている」と訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾したのです。
熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えました。
53歳、長年の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択。
これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めていきます
世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、現代に姿を見ることが出来なかったかもしれない巨木(樹齢800年の杉等)が数多あるそうです。

一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされた熊楠。
学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、生涯を通じてただの民間の一研究者であり続けた熊楠。
何もかもが独学で肩書きナシ。
国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人物が明治から昭和にかけて実在したことを、私達はもっと知るべきです。

柳田国男をして「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」と言わしめ、
熊楠自身も「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と言い放った生涯。

学歴や肩書きばかりで、自らが何を為すべきか、この世に生を受けて何を残すべきかも見出せないまま、日々を過ごすことが如何に無為であるのかを、熊楠の背中を見て改めて見直してみるべきでしょう!

この鮮烈なる生き方に自らをなぞらえてみてはいかがですか!

4309728847410120912X40615852824309472060430947207943094720874309472095430947210940878900154582921922