『自警録』より学ぶ!新渡戸稲造が教えてくれる、人としての心の持ちかた!

連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ないという、昔の武士の言葉があります。
「勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば、害その見にいたる」
孫子も同様に
「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」
と説いていますが、実は新渡戸稲造も『自警録』の中で、
「商売の勝運ばかりを目指していて、困難(失敗)を忘れる経営ではいけない」
と教示してくれています。

このように分かり易く、でもしっかりと心に響く言葉で訥々とその信念を説く『自警録』は、新渡戸稲造が「人としての心の持ちかた」を27の章に分けて教えてくれるものです。
そんな『自警録』から、幾つか気になるキーワードを拾い出してみましょう。

【理想】

「人はなんで活きているかというに、理想で活きている。
 ただ呼吸するだけならパンだけでもよい。
 この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならない。
 (中略)
 われわれのすべての働きは理想を実現せんがためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きているいことは存在というだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。
 ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することなりはせぬか。」
 (中略)
 理想があれば手なり足なりに現れる。
 ゆえに理想があるなら、つねにここが理想の実行するところだと考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。」

【悪口(批評)】

「一つ、悪口は知事的なものが多い
 人の噂も七十五日、その実は寝も葉もないことが多い。
 数週間もすれば、記憶から消え、さらに1月もすれば評価が逆になっていることもある。

 二つ、悪口に大部分は介意の値なし
 かくのごとき時には、少し度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言葉のはの、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず。

 三つ、知らぬ人の批評には弁解が要らぬ
 君を知らぬ人がからこれ批評をすることは、さほど意に介するに及ばぬ。
 すなわち君を知らぬ我が輩は君にいわゆる世間であるが、我が輩は君を何とも思わぬといった。

 四つ、かかる悪口は自然に消える
 これがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。
 ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。

 五つ、言語よりも実行をもって弁解せよ
 これがために他人に迷惑を及ぼすのであれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。
 もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。

 六つ、悪口に対する理想的態度
 日ごろの修養如何によりてその価値が著しく違う。
 白隠和尚は世間の毀誉褒貶に無頓着であったというが、悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。
 いかに人はかれこれいうとも己れさえ道を踏むことを怠らずば、何の策も弄せずとも、いつの間にか黒白判然するものである。」

【心の剛柔】

「心の剛柔とは、善意にも悪意にも解せられる。
 剛が過ぎれば剛情となり、頑固となり、意気地となる。
 柔に過ぐれば木偶となり、薄志弱行となる。
 極端に失すればいずれも悪しくなるが、度を過ぎぬ以上は、すべからく剛毅でなければならぬ。

 自分の所信を貫徹するためには、一たび固めた決心を枉げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を貸さずに猛進するくらいの強いところが必要である。
 さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽くすわけに行かぬから、常に不幸を感ずる。

 剛柔が能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。」

【人生の真味】

「たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡し舟のごときものである。
 人とともにこの世を渡るには、おだやかなに意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。
 僕のしばしば引用する『菜根譚』には、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰り返してあるが、実にその通り、自分の権利を最大限に要求することははなはだ卑劣に陥る所以と思う。

 不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。
 沙翁〔シェークスピア〕の言にも、
 「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
 と、昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。
 やわらかく握るほうがかえって多く握れる。

 これはむろん掴む工合にもよりけりであるが、ここに述べたのは粟とか米とかの例に用いたものである。
 鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世における幸福なるものは粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に掴み得るものであるまいか。
 権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度で、なるべく人に譲るをもって、人生の真味を味わい得るものと思う。」

他にも、
・真の男には、蛮勇ではなく、思慮し実行する力と弱者への優しさが必要。
・本当に強い人間とは、己に厳しく、本当に譲れない所以外には寛容なもの。
・自分にやましい点がなく人を信じられれば、怖じけることはない。
・真の独立とは、世間のただ中にあって、精神的に果たすものである。
・成功は、見えやすい周囲の評価ではなく、自らの意志が決めるものである。
・好き嫌いで判断せず、寧ろ反対意見に耳を傾けるべきである。
・言葉はその人となりが現れ、人を深く傷つけることもあるので注意すべきである。
・人からの忠告は、大きな心で容れ、具体性を持って身に付けること。
・人への忠告は、まず褒めて、間接的にすることが肝要である。
・物事には全力を尽くし、その中でも自省する余力は残しておくべきである。
・教訓は人を責める道具ではなく、内省する為の基準である。
などといった言葉の散りばめられた『自警録』は、まさに新渡戸流の心のもちかた術ともいえるものです。

こうした様々な処世の指針を、 改めて賢人から学び取ってみてはいかがでしょうか。

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以下、参考までに『自警録』から一部抜粋です。

【自警録 新渡戸稲造】

 とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。
もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。
しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。
古の賢人も道はここにありと教えた。
なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。
守ること約にして施すこと博きものは善道なり。
君子の言は帯より下らずして道存す」と。

 これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。

 わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。
仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。
これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。
これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。
また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。
薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。

 なるほど、なにごとにしても、理を究めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易ならざる専門的研究となるが、吾人の平常踏むべき道は藪の中にあるでなし、絶壁断巌を沿うでもない。
数千年来、数億の人々が踏み固めてくれた、坦々たる平かな道である。
吾人が母の胎内においてすでに幾分か聞いて来た道である。
孟子の、「慮らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、慮らずして、ほとんど無意識に会得してある教訓に従うを道徳と称するものでなかろうか。

 わが輩は決して道徳問題は、みなみな無造作に解するものと言うのではない。
一生の間には一回二回もしくは数回腸を断ち、胸を焦すような争が心の中に起こることもある。
しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指で数えつくせるくらいなものである。
これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心掛は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。
平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶の襲い来る時にあたっても解決が案外容易に出来る。
ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。

大正五年五月九日
南洋旅行の途上、信濃丸船中にて 新渡戸稲造

第一章 男一匹

神と獣類の間に立つ人
 外国語では人という名詞をただちに男に代用するが、わが国において人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。
しかしてこの人なる語はあるいは高尚な意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑なる意味を含ませることもある。
たとえば、
「人と生まれてかかる事をするのは恥である」
 という場合に用いられた人は、万物の霊長であり、したがって廉恥心も自然に備わっているものなれば、よろしく自ら重んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重すべきを示したものである。
しかるにこれに反し、
「どうせ人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」
 という口調を放つときは、神ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業をするのは免れぬと、半獣性の欠点に富めることをいいあらわすに用いられる。
かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類のあいだに介在するものであるから、両者の性質を兼備し、自分の勝手で都合よきほうに較べ、ある時はみずから尊者の敬称を甘んじて受け、またある時はみずから野卑と称するほど謙遜る。
信玄の歌に、
人多き人の中にぞ人ぞなき、人となれ人、人となせ人
 とあるは、ある人の歌に、
人はたゞ人とならねば人ならず、人となれ人、人となせ人
 とあると同じく「人」なる観念を二つにしていることが明らかである。
すなわち「人」なる字が善悪の二様に用いられている。

女なる言葉に含まれた道徳的意味
 この人間のうちには男もあれば女もある。
しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。
むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。

 たとえば、
「女子と小人は養い難し」
 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。
ちょっと普通行わるる諺を見ても、
「どうせ女の事だもの」
「家の乱は女から」
「七人の子は生すとも女に心を許すな」
「大蛇を見るとも女人を見るべからず」
 などと女に関する悪口がたくさんある。
畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。
ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。

 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。
その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。
わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。
しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。
西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。

 かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとは爾の名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。
もしそれかかる例証を文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。
されば女という言葉だけで、いわゆる外面如菩薩、内心如夜叉という思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。

 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。
たとえば、
「某はさすがに女だけありて」
 といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔和で従順で廉潔なるの意を含ませて使わるることもある。
漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。
西洋の文学にも女といえばただちに天使と同一視する例も少なしとせぬ。
かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を異にする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道徳的評価で判断さるるものである。
しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相場が一定しない。

男一匹とは何を意味するか
 しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態に悪意に用うることがほとんどない。
単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅とか、あるいは大胆不敵、あるいは果断勇猛、あるいは任侠というような一種の印象を惹起す。

「天川屋儀兵衛は男でござる」
 と一喝すれば捕手の者も閉息する。

 男一匹なる句は一種爽快なる感想を人に与える。
わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。
普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱せるかの疑惑を促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。
すなわち前に述べた勇猛とか任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。
いわば動物として最も微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補い、豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。

 右のごとく考え来たれば一匹なる言葉には、やはり幾分か侮辱の意が含まれているごとく思われる。
けだし聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣の勇気に類したもので、孟子のいうところの匹夫の勇に過ぎぬ。
わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇と称し、深く尊敬しなかったものである。
しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕するばかりである。
今でも一朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為に出る。
沙翁の言に、
「ラッパの音のわが耳に響く時は吾人のまさに騎虎の行動を倣うの時なり」
 と。
暴虎馮河の徒には孔子は与せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服する。
昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。
勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていた。
かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫の勇以上に昇らずとも、それが尊かった。
しかして男子として褒むべきはこの種の勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直を判別する時代にいたっても、依然としてなお匹夫の勇が尊ばれ、男を褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。

尚武思想
 ヨーロッパでは耶蘇教が普及して以来、人生観が一変した。
したがって人間の評価もまた変わってきた。
柔和なる者は幸いなりとは、基督の教訓であるが、汝に敵する者を愛せよとか、あるいは汝を迫害する者に復仇するなかれとか、汝に一里の道を強うる者あらば二里を歩めとか、右の頬を打つ者あらば左をも叩かせよというがごとき、柔順温和の道を説き、道徳上の理想としてこれが一般社会に説かれたのである。
しかしこれを実行する者はほとんど皆無であった。
わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深く庵を結び、あるいは市街にありても僧となりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。

 普通一般の人はみずから耶蘇教徒なりと称しながら、この柔和の道を守らなかった。
すなわちニーチェが耶蘇教を奴隷の道徳と悪口したのも無理ならぬことで、現時の戦争にも現れているとおり、基督の言葉が決してそのままに行われておらぬ、むしろその反対の勇猛なる教旨が、耶蘇教以前より一貫して欧州に盛行している。
これこそ実にニーチェのいわゆる治者の道徳である。
これは前に述べた女らしく柔順なれという基督教に対し、男らしかれという教訓である。
こんにちの世界はこの両者相俟って始めて円満なるを得るものであるが、外に対して常にわれわれの眼を喜ばせるものは、男々しき男性的道徳である。

男一匹の活動
 しかしこの柔和なれと訓うるは独り耶蘇教に限ったことでない。
道徳とさえいえば、マホメットの回々教を除き、たいてい柔和の徳を主として教えざるものはない。
孔子の教えのごときは、よほど俗界に縁の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。
もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。
またこの宗教の旨をそのままに遵奉すれば、とかく柔弱に流れ、かえって開祖の主旨に反する虞もある。
現に基督のごときは前にも述べたごとく柔和主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤り、綱をもって神殿を汚した商人を放逐したことがある。

 この事実に徴すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々、これに盲従せよとの意ではなかったことがわかる。
ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨にも適わなくなる。
人は軟骨動物ではない。
愛とは単に老牛が犢を舐むるの類に止まらぬ。
しかしてこれは啻に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。

 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教の柔弱に流るるを憤慨して、いわゆる腕力的基督教を主張したものがあった。
この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。
もちろんこれら一派の紳士は腕力を縦にしたのでなく、基督の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。
そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。
ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩があると、職務柄の礼状を発することなく、みずからその渦中に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨を知らぬか」と名乗り、もってしばしば喧嘩を仲裁したという。
彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。
わが国にていえば、まず男伊達の趣を備えた人である。

男伊達の行為よりもその精神を酌め
 わが輩はつねに男伊達の制度を景慕する者である。
なかでも幡随院長兵衛のごときは、これを談話に聞いても、書籍に読んでも、じつに我が意を得たものとして尊崇せざるを得ぬ。
任侠の標榜するところには、些細なる点においてまことに児戯に似たることも少なくない。
たとえば手拭はどう持つものとか、尺八はどう※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すとか、帯はいかに結ぶとか、語尾はいかに発音するかというがごとき、愚なことではあるが、その子分として用いた者が多くは無学の熊公八公の類であったから、かくのごとき紋切形を設け、これによりて統御の便を計ったのも、あるいは止むを得なかったことであろう。
これらの些細の事柄は笑うべきではあったが、まただいたいにおいて彼らのなすところ、物騒の傾向なきにあらざりしも、その動機においてはいかにも男性的で、子分の顔を立てるためには自分に不利益なる喧嘩を買ったこともあろう。

 自分の命を投げ出したこともあり、強きを挫き弱きを扶くるを主義とし、義を見ればいかなることにも躊躇しなかった。
この任侠な勇猛な性質は、勘定高き現今の社会においておおいに珍重すべきものと思う。
されとてわが輩は、法律もろくろく備わらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治のもとにそのままに実行することは、断じて非なりと信ずるゆえに、たとえ当年の男伊達の意気を思慕するとはいえ、こんにちの男一匹は長兵衛そのままを写して可なりとは思わぬ。
争議起これば、今日はこれを治むるために相応の法定機関がある。
これによりて是非曲直を判断すべく、みだりに腕力を用うることを許さぬ。
ゆえにわが輩は外部に表れた男伊達の行為よりも、むしろこの行為を生み出した任侠の心持が欲しいのである。
すなわち、
「男は気で食え」「男前よりは気前」
 などいうところの男性的気象が欲しいのである。

勇は男一匹たるの要素
人にまけ己れにかちて我を立てず義理を立つるが男伊達なり
 の一首まことに深重の味がある。
ことに上の句の「人にまけ」のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右の頬を打たるれば左の頬を出すがごとき意を含んでいる。
またそのつぎの「己れにかちて」などは勇の最も洗練されたるものである。
勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、匹夫の勇でもない。
孟子のいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ(道徳的勇気)である。

 男一匹たるの資格は第一に勇を揮うて己れに克つにありと思う。
己れに克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。
己れに克つものは世界に勝つことを得と古人の言えるのはこのことである。
なお古い漢書に曰く、
「善く身を処する者は、必らず世に処す。
善く世に処せざるは、身を賊する者なり。
善く世に処する者は、必らず厳に身を修む。
厳に身を修めざるは世に媚ぶる者なり」
 と。
決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは耐忍にありとせば、男子の特長は猛進的なる奮闘の力にある。
このことを論ずるには多言を要せぬ。
動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやは察しられる。

 孔子の弟子なる子路は勇ましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。
ある日孔子にたずねた、
「君子は勇を尚ぶか」
 と、孔子は答えて、
「君子は義をもって上とす。
君子勇ありて義なければ乱を為す。
小人勇ありて義なければ盗をなす」と。

 じつにそのとおりで、古人の語に、
「深沈厚重は是れ第一等の資質、磊落雄豪は是れ第二等の資質、聡明才弁は是れ第三等の資質なり」と。

男一匹になるには推理の力が要る
 しからば男一匹たるの資格は、勇気の有無のみをもって定むるかというにそうは行かぬ。
勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。
なんのために勇を揮うかといえば、義のためにするのである。
義を見てなせばこそ勇と称すれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは怯たるを免れぬ。
ここにおいて男性として欠くべからざる要素は事の本末物の軽重を分別する力である。
テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。

 わが輩は脳髄において女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。
女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳髄の作用が種類を異にするとは思わぬ。
今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に与るの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。
しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。
もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕力の差違を含めることはいうまでもないが、思慮において男子の女子に優越なることを述べたのである。

「女賢うして牛売り損なう」「女の鼻の先思案」
 などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮辱の言に聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。
否、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの謗りを免れないものもある。
わが輩のいう思慮とはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力の謂である。
かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも測りやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き慮を凝らす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも無思慮の者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一匹と誇るものはものごとの利害、曲直について篤と思慮する要素を備えねばならぬ。

男一匹には判断実力の力が要る
 思慮のただ胸中にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮したとは言い難い。
なんとなれば男性の特性は活動にある。
働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。
また男子の働きは外部に現るるを誉とするも、女子の働きは内助にある。
しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。

 ゆえに一家に事あり、これに処するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。

 キングスレーの詩に、
Men must work and women must weep.
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
 という一句がある。
詮じつめれば男子の力は思慮に止まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。
女子の力は判断するについてははなはだ弱い。
しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣るものでない。

 かつてある学者の言に男子の脳髄は帰納的なるも、女子は演繹的なりとあったが、女子は感情が勝っているから冷静に事物に接することが難い。
しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。
昔の男一匹は動物的に猛勇を揮うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮と判断の力が優れていたであろう。

 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時のごとき蛮勇の必要はいちじるしく減少したけれども、思慮と判断力とにおいて多々ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優るの理由を失うにいたる。

男女両性の接近し競争する傾向
 近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。
知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。

 ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず蒲柳の美人がなくなるだろうというている。
思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までも相類似してくる。
かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。
昔時の得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。

 ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。
もちろんこれは腕力の戦いでなく、経済的の戦いである。
この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。
この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。
これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。
この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる平和をもって解決さるるか、それは未来の事とし、吾人の目下の務めは、男子は男子だけの性質を忌憚なく発揮することにある。

 競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害を異にするように聞こゆるし、また現に経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。

弱者の保護は男一匹の要素
 従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快とした。
がこの点についても今後両性が相類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。
すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤である。

 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。
この一時に鑑みても男子は女子を保護するの義務が天然に備わっていると思われる。
ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。
女性の弱きに乗じて彼らを弄び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用するのはなはだしきもの。
力ある者が力なきものを養いかつ護るこそ、生物界における永遠不易の法則である。

 むかしの任侠と称する者を見ても、彼らは外見上放蕩三昧に身を持ち崩すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里に踏み込んでも、女子を弄ぶがごときことは少なかったようである。
この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。

男は強かるべし強がるべからず
 女子の保護者たる役目を全うするには猛勇では叶わぬ。
やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。
血も涙もあってこそ真の男と称すべし。
今後の男伊達は決して威張り一方では用をなさぬ。
内心剛くして外部に柔らかくなくてはならぬ。
むかしの賢者も教えて曰く、
「人剛を好めば我柔をもってこれに勝つ」
 と、また曰く、
「柔能く剛を制す、赤子に遇うて賁育その勇を失う」と。

 男子は須らく強かるべし、しかし強がるべからず。
外弱きがごとくして内強かるべし。

負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり
 とは、真の男子の態度であろう。
男もこの点まで思慮が進むと、先きに述べたる宗教の訓うる趣旨に叶うてきて、深沈重厚の資と磊落雄豪の質との撞着が消えてくる。
かくなると羊のようにおとなしい性と虎のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。
漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮」というのがあって、外面虎皮をかぶりて虚勢を張り、内心卑怯きわまる偽物を指す成語としてあり、楊雄(前五八―後一八)の文に、
「羊質にして虎皮、草を見て悦び、豺を見て戦く、其の皮の虎なるを忘るるなり」
 とあるが、草を見て悦ぶになんの悪きことがない。
悪きことは豺を見て戦く臆病心にあるのだから、その温順寡慾なる羊質をもちながら、なお虎の驍悍勁※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)なる質を修めたら、すなわち廉毅忠果の性格となりてこれに超ゆる人格はなかろう。
政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰く、
The bravest are the tenderest, ――
The loving are the daring.
(勇深なる者は温柔なる者、愛情深き者は大胆なる者なり)

第二章 一人前の人と一人前の仕事

一人前とは何を標準とした言葉か
 永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。
まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。
ゆえにこれは老若を問わず誰しも経験あることと信ずる。
凡人の習いと言わんか、僕もこの例に違わず四十歳前後のころよりしばしば、
「己れは一人前の仕事を為したであろうか」
 を自問した。
しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる量を指すかということである。

 一人前、一人分、一と通り、人並、十人並、男一匹の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。
なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。
反物一反あれば一人前の衣服が出来る。
五合の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。

 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。

 料理屋で飯を注文すれば一合二、三勺を一人前という。

 牛肉屋に肉を注文すれば二十五匁より三十五匁までをもって一人前とする。

 一人前に対してかくのごとき標準を設けたのは何より起こったのであるか。

 四尺に足らぬ小男にも、六尺ちかい大兵にも、一反の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。
もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。
特別の理由あるにあらざれば、丈の長短を斟酌せず一人前は一反と定めてある。

 また小食の人も健啖家も、肉を注文すれば同じ分量を授けられる。
ほとんど個性を無視して男一匹の食物は何合、衣類は何尺と、一人前なる分量が定まっている。
して、この分量は数学的に割り出したのではない。

 日本には何尺の反物が出来る。
これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚要るかから割り出したものでもない。

 それと同じく人の容貌を評するにも、よく十人並という言葉を使う。
これはすなわち美醜の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻や顔形の寸法を計って出来得るものでない。
まして芸などについては算盤にかけることは絶対的に不可能のことである。

 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人分と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ趣を異にしているように思う。

一人前と統計学者のいうノルム
 大槻先生はその著『言海』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の列なること、尋常と説いている。
これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。
統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。
通常これを標準、規範、型などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する虞があるから、僕は原語のままにノルムという字を用いたいと思う。
ノルムはその語原を調べると大工の使用する物指すなわち定規である。
この定規に適ったものがノルム的すなわち英語にいうノーマル(normal)である。
一人前の人というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備わっているものを指していうのであろう。
未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。

 これすなわちその国のノルムに適うというべきものである。
もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に陥る。
ゆえに同じ国人のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに適わぬ。

 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、誰れいうとなく、十目が見、十指が指して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると思う。
老子の有名なる語に、
「道の道とすべきは常の道にあらず」と。

 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一法となし得はせぬか。
人が普通に道というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。
さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来ようか。
僕はかくのごとき問題で長く頭脳を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。
しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。

一人前の人と一人前の業
 この問題を提出したならば、何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。
五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当つることは出来ぬというであろう。
一人前の業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺にあるごとく、
「田舎の一升は江戸でも一升」
 というわけにはゆくまい。
僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の職にあるものならば丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。
こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。
しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。
ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。

 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。
今しばらく仕事について愚説を述べてみよう。

 一人前の仕事という分量は何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。
商売人であればその日の取引を残らず結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為すべき掃除なり料理なりその他夫に対する義務、子供に対する世話をも首尾よく為しとげることであろう。
右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。
古人の言のごとく、
「世に在ること一日ならば、一日の好人と做るを要す」
 との心掛けを連日実行して、一生を貫けば、その人は実に好人である。

測る標準は内にあるか外にあるか
 しかるにこの例について起こる疑問は、定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。
学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。
商売人ならば他より起こる取引を完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。
ノルムは定規なりといったが、この定規は自己以外に、世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為しつつある分量であって、甲も乙も丙も丁もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。
俗にいう世間の勤めとはこのことをいうらしい。

 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。
果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。
またどこにありや。

 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手にならぬことは確実である。
たとえば牛肉屋に行き、俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁である。
己れは碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業をすれば世間は斟酌せぬ。
私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。
学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否やはおのずから別問題である。

職業上の一人前と全人としての一人前
 故に人を測るについて、目方をもって某は何貫ときめることは出来る。
丈をもってして某は何尺何寸と定むることも出来る。
そしてこの人の貫目、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。
それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み優れて高いとか低いとか、かく別々に測ることは出来る。
こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。
たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。
この点より推測すると学問の出来るものは脳髄もよい。
脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附もよく大きいという関係があるかも知れぬ。

 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。
ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。
ことに学者中には頭脳の透明鋭利な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。
ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。
専門家が世人よりたっとばるるのもこれがためである。

 専門家というもあながち学問に限るのでない。
いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を加え優れた者は世に貢献することが多い。
その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。
前に述べた芸人などの例はもっとも能く当たることであるが、これはいわば人を幾多の片に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。

 しかるに専門家中には、その専門に熱中し、他の天稟の力を発達せしめない者がたくさんある。
その怠りたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間々ある。
すなわちかかる人は全人として見れば一人前に足らぬ人である。
己れの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。
学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。
自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。
むかし孔子は、
「君子は器ならず」
 といったが、学者はとかく器械化しやすい。
ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。
しかし実地家の中にも同じ過ちに陥るものが多い。
すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を紊すも恬として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。
かかる風あるものは人間失格者としか思われぬ。

 おそらく人間として平均の調和を失えるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。
譬えていえば、人の腕は身幹に比して何分とか、たいてい一定した割合がある。
この割合を越えても不具であり、不足しても不具である。
いわゆる世の実務家あるいは実業家などには手の長過ぎる人があるとすれば、学者間に短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの譏はまぬがれまい。

要は人は業なり
 かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。
仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。
堂に昇らばよろしく室にも入るを要する。
しかして甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣は深さ高さによりて測り、たしかに某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。
もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為したとしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたものといわねばならぬ。
しかるにこの人は果たして人として一人並みであるや否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。

 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。
人としては不具者であるも、仕事をして衆に優れたならば、それで甘んじて死すべきか。
この問題になるとおそらく人々の考えに大分の相違があるであろう。
今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果さえ挙ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。

「文は人なり」
 というが、人格を示すもの豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措いては事もなく業もない。
一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。
一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。

 これを譬えていえば、ここに数多の器があるとする。
これらの器――仮りに徳利とすればその仕事は水を入れるにある。
そしていずれもその容積は異なっている。
大きいものは一石も容るれば小さきものは一勺も容れ得ぬ。
しかしいかに小なるも玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。
ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做す。
してみれば徳利の徳利たる所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡には大差がある。
人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴でなければ、みな一人前と算えらるるであろう。

 しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや否やの問題である。
四斗樽大を備えても空なれば四升樽にも劣る。
二合徳利でもいっぱいに満つれば一斗入りの空徳利に優さる。
人もどれほど「王佐棟梁」の才であっても、これを利用もせず懶惰に日を送れば、小技小能なるいわゆる「斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)の人」で正直に努める者に比して、一人前と称しがたく、ただ大なる「行尸走肉」たるに過ぎぬ。
してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天賦の才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。
果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、己れ以外に求むべきものでなかろう。
すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。
英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
(自尊、自知、自治の三路は、一生を導いて王者の位に達せしむるなり)
 と。
太古ギリシアの神託に、
「己れを知れ」
 とありしは自己の性質能力を覚り、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を知らざるを患うる者がある。
人の己れを知らざるを患うる者はさらに多いが、己れを知らざるを患うる者ははなはだ少ない。

 冒頭にいうがごとく僕は永く自分の身に顧みて、我は果たして一人前の仕事を為し終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺憾ながらいまだ述ぶることは出来ぬ。
恐らくは何人といえども、己が身に顧みてこの問題を提出したならば、確固たる答えを為し得るものはあるまいと思う。
もし為し得る人があるとすればもって世人に示して欲しい。
僕がここに自分の迷いの径路を述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に供したいからである。

第三章 強き人

「克つ」に含まれた二種の考え
 克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。
しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。
一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。
ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。
字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。

 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。
また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。
ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。
わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。
これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。

独り相撲で強い人
 つまらぬことではあるが、今もなおわが輩の記憶に残れることがある。
十余年以前であった。
あるところに宴会が開かれ、当時議会で羽ぶりのよい有名な某政治家が招待せられ、わが輩もその末席についたことがある。
酒数行、主客ともに興酣となり、談論に花が咲き、元気とか勝気とかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。
某政治家も爛酔して前後もわきまえず女中の助けをかりて蹣跚として玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中が冠らせた帽子を、戦く手より奪いとり、玄関の柱に叩きつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。
この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、
「ハハア、かねて聞き及べる某の硬骨とはこのへんが程度かな。
この人は古シャッポを相手に克つ人だナア」
 と思い、爾来大いに尊敬の念を失ったことがある。
この前にもその後にも、他人についてこれに類した事実をしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。

 またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った手柄自慢話である。
俺はこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いにへこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういってやったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方に質してみると、一向やられたともなんとも歯牙にかけないでおることがある。
これらは独り相撲で力んでおる人である。

文明時代の強き力
 世には、かくのごとき児戯に類した示威運動により怖れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。
論より証拠、おりおり日比谷の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。
自分から進んで他を威赫したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。
もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。
しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。

 かつまた人を威して克つのは、みずから恥ずべき下劣なる勝利である。
また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。
しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。
減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。

 いわゆる強さの形が変化するというは、克の字について前の「説文」にいえるがごとく、重荷を荷うて堪えること、すなわち辛苦艱難に堪える、耐忍の力あることをもってその強さが計られる。
他人より侮辱をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見てにぎやかにおもしろく、見物としては誂え向きである。
これに反し打たれても蹴られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。
韓信が市井の間に股をくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛が長板橋上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。
進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐にあることを会得し得ぬ。

外に強き人と内に強き人
 僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛然たること、いわゆる強いことに何もかも忘れて震い上がるごとく感ずることがある。
しかるに『新約聖書』を見ると、その説くところはなはだ柔和にして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。
百万人が襲来しても、毫も動かざる心の強みを与うること、『英雄列伝』の遠く及ぶところでない。
もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することを憚るし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。
わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する匹夫的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだには大なる差違がある。

 絵草紙や講談師の筆記にある木村長門守が茶坊主のために辱を受けたとき、起ってこれを斬り捨つることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの喝采を博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。
しかるに彼の精神を酌み得るものは、彼が眉間に傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお泰然自若としていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。
かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。

よく耐うる人は強き人
 ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気に罹りて数日間病床に呻吟し、しかもその病気は苦痛の最もはげしいものであったので、かたわらに侍するもののみならず、国民全体がふかき同情をよせ、一日も早くご平癒あらんことを祈った。
あまりに苦痛のはげしいときは、呻りでもすれば、幾ぶんか苦痛の気休めにもなり、また世人はよく覚えず呻りやすきものであるが、帝は決して呻られたことなく、またかつて苦しい顔色を示されたこともなく、つねに莞爾として左右に接せられた。
ほとんど病苦のその身にあることを知られなかったようであった。
崩御の数日前、今のカイゼルを枕頭に召され、
「小言を言わずに、堪うることを学べ」(Lernen zu leiden ohne Klagen)
 と訓えられたが、フリードリヒ帝の強さは相応に解った人でなければ図り得ぬことである。
ドイツの植民地よりまっ裸の黒人を連れて来て先帝の病床に侍せしめ、あるいは子供を左右に侍せしめたならば、彼らはおそらく先帝はなんらの苦痛もなく、やわらかい布団に横臥しニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。

 桂公爵の人格もしくは政見等については人々の考えは種々に分かれているようであるが、公のただ人ならざりしことは、何人も同意であろう。
して辛抱づよい点は公の長所であった。
長日月病床に臥しながら、公の身辺に侍べる者にさえ苦しき顔を見せなかったという。
公に知られぬようにこっそり覗いて見るとさも痛そうな顔色をして痛みある局部をみずから摩っていても、誰か病室に入れば、ただちに面相を変え、痛みなき風をよそおったという。

 戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。
すなわち周囲が死を促がす、ゆえに見事に死ぬ。
しかし長らく病疾にかかりてなお帰るがごとく斃るるは容易の業ではない。
強き人はよく耐える。
よく耐える人を強者という。

いよいよという時に発する強さ
 我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を窺うと心底強いものがたくさんある。

 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。

知らざりき仏と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは
 とは光俊朝臣の述懐であるが、歌の「仏」という代りに武士なり丈夫なりの強い人格の文字を用いても同じことになる。
しかつめらしく具足をつけ威張るものは、古来猪武士と呼ばれている。

 これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。
しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。
見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。
この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰然自若として落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従容として船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。
かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ業である。
平生は威張ったこともなく、おだやかに算盤を弾ける実業家でありながら、かくのごとくなるは実に見上げた人々である。
人の強みもここまで来なければならぬ。

戦場における日露兵の比較
 かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如何を問いしに、その人の言に、
「ロシア人は死するも活くるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。
ゆえに卑怯者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が居ろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。
しかるに日本兵は煽てなければ働かない。
決死隊と称するものも、何人か彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」
 と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。
いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。
むしろ猛獣的の一見して人が己れを怖れるとか、あるいはいつでも人に噛みつかんとする気が顕われねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。
議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも吐くを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと解りかねるであろう。

己れに克つものが世界に勝つ
 昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張って、勇ましくいさましくとのみ教えた。
わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。
かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。
ただあれだけではいかぬというのである。
すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。
これは今日もなお同じことである。
ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、
「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。
しかして最も早くかつ烈しく堕落するのは彼らの仲間である。
なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」
 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。
真に克つ者は己れに克つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。
しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。

外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな
 栗のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。
力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。

 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯えられ、内より溢れて外に流れるから、十分余裕がある。
ゆえに内、己れに克つものは外、世界にも勝つことが出来る。
己れに克つこと能わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。
古人の書に曰く、
「自責の外に、人に勝つの術なく、自強の外に人に上たるの術なし」
 と。
太古、禹王が、「一に能く予に勝つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。

第四章 外は柔、内は剛

英雄に現れた内外の差違
 西郷南洲が始めて橋本左内に会うたとき、こんな柔しい男が何で国事を談ずるに足るだろうかと、心ひそかに軽蔑したことを、後にいたって自白している。
さもあったろうと思う。
聞くところによれば橋本という人は、外見はまことに温和に柔順な好男子であったから、この人の心情を知らぬものは、この柔順らしい皮の下に、いかに燃ゆるがごとき熱血が流れつつあったかを悟ることが出来なかった。
また同じ西郷が藤田東湖に会った後、人に向い、
「追剥ぎみたいな人物だ」
 と評したという。
これもさもあったであろう。
氏は躯幹長大にしてたくましく、色が黒かったそうであるから、外観を見ては、その血管にいかに柔和な心があり、しかして母の危急を救うためには自分の生命までも投げ出すことを常人は察し得ぬであろう。
また南洲自身についていえば、見ようによりては外貌が怖ろしい人のようにも思われ、あるいは子供も馴染むような柔和な点もあった。
ちょっと見ても、その烱々として大きくかがやく眼は怖ろしいが、その奥底にはいうべからざる愛情がこもり、近づくものをみな惹きつけねばやまぬ趣があったという。

 こういうことは決して世に稀でない。
ちょっと会っては虫も殺さぬような柔和な、ほとんど女のごとき人でも、だんだん交際ってみるにしたがい、なかなか硬骨で、一たび言い出すと決してあとへ退かぬ人もあるし、また外部から見るといかにも凛々しく、衣は骭に至り袖腕に至り、鬼とも組打ちしそうな風采をなしていても、内心柔和な女のような人を往々見受ける。

 外貌と内実との相反することは稀でない。
この柔と剛とは善い意味にも悪い意味にも解される。
いま述べた女のごとくというのも、また同じく善悪両様に解される。
女々しいとか、意気地なしにも解れるが、僕のここに用いた女らしいというは善意に解いたので、温和柔順の意味である。

怖ろしがらせるのが偉いか
 日本従来の教訓によれば、他人に怖ろしく思わせるのを偉いとする風があった。
威風あたりを払うというを豪傑の理想とし、人の近づき得ざるところを偉いと做したから、偉がるものは、なるべく人を近づけぬ工夫をなし、あるいは傍若無人にして人を馬鹿にして独りで偉がった。
世人もまたかかる人物を褒める傾向があったゆえ、もし肩でも怒らして往来を濶歩するか、あるいは人の気にさわることでも大声にしゃべり、相手の人が、病犬が吠えるかと疑い避ければ、これは怖くて近づかぬのだと解してますますこれを行う。

 文化の進むにつれて近頃はだんだんこの豪傑気取り連が減って来たようであり、また今後もますます減るであろう。
ことに洋服でも着るようになれば、減らざるを得ない。
はなはだつまらぬことながら、洋服では衣は骭に至り袖腕に至る筆法は行われない。
シャツを着たり、靴を穿いたりすると、行儀も改っておとなしくなる。
しかし洋服を脱いで日本の浴衣にでも換えると、従来の筆法が最もあざやかに現れて来る。
汽車や電車に乗ると、胸毛を曝らし太股を現すをもって英雄の肌を現すものと心得て、かえってそれを得意とするものがある。

曲解されたる教訓
 なおこれと関連して世に誤解された教訓は、「巧言令色鮮かな仁」ということである。
言語を鄭重にしたり温和にすれば、すぐに巧言と解し、威儀をもって語れば令色と曲解し、すぐに鮮かな仁と結論をくだす。
この苛酷なる判決を避けるために、言を巧にし色を令くせんとする者も、つとめて荒あらしくする風がある。
心の内と外の風采と一致せぬことは、西洋よりも日本において最も烈しい。

 僕は今このことについて善悪を議論せんとするものでない。
事実がかくあると単純に剛柔の区別につき一言したいのである。
往事の書生が、なるべく外貌を粗暴にし、衣はなるべく短くし、髪はなるべく梳らず、足はなるべく足袋を穿かなかったような、粗暴の風采はなさぬ人が多かろう。
ゆえに外貌のことにつきここにかれこれいう必要はなかろうと思う。
僕がここに剛柔を説くにも、外貌に現れた剛柔と説かんとしない。
ことに実業に従事する者のうちにも、
「商人の、道に賢き笑い様」
 商業のごとく客を相手にする職業にある人は損得の関係上からも外貌をなるたけ柔和にし、もって人を惹きつけるにつとめるから、なおさら外貌のことを述ぶる必要はあるまいと思う。
これらの点に関してはむしろ学生に述ぶべきことゆえ、今はここにこれを見合わす。

剛柔、分を守りて人格が円満
 さて心の剛柔とは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。
剛が過ぎれば剛情となり、頑固となり、意気地となる。
柔に過ぐれば木偶となり、薄志弱行となる。
極端に失すればいずれも悪しくなるが、度に過ぎぬ以上は、すべからく剛毅でなければならぬ。

 自分の所信を貫徹するためには、一たび固めた決心を抂げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を借さずに猛進するくらいの強いところが必要である。
さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。
剛柔が能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。

心の持方は剛柔いずれとすべきか
 僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。
その言に曰く、
「あの男はまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不可ぬ。
あれにいっそう骨っぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。

 この知人は耶蘇教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。
一部あたれるというは、この知人は言葉遣いと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。
氏がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬骨漢であったが、ひとたび信者となってからは手を覆したごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。
この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。

 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう骨っぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、延いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。
しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを措き、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと思う。

身を処するには剛柔がおのおの必要
 先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも亀もあれば海月もあり、植物にも栗もあれば苺もあるがごとくである。
すでに先天的に出来ているものを、強いて俺はこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天賦の性質を矯め、束縛することはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂行することも出来ぬ。
これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。

 人間の体躯も骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂肪もある、腹や股が柔であるから、人体は柔であるといえぬ。
爪や歯牙があるから剛だともいわれぬ。
ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。
事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。
前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。

やわらかく握るところに人生の真味あり
 たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡船のごときものである。
人とともにこの世を渡るには、おだやかに意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。
僕のしばしば引用する『菜根譚』には、
「径路窄きところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋味濃かなるものは、三分を減じて人に譲りて嗜ましむ、これは是れ、世を渉る一の極安楽法なり」と。

 また、
「世に処するには一歩を譲るを高しとなす、歩を退くるは即ち歩を進むるの張本」
 といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰り返してあるが、実にその通り。
自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣に陥る所以と思う。
不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。
沙翁の言にも、
「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
 と、昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。
やわらかく握るほうがかえって多く握れる。
これはむろん攫む工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのは粟とか米とかの例に用いたものである。
鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世における幸福なるものは粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に攫み得るものではあるまいか。
権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。

 前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。
基督教のごとく、柔和を旨とする宗教にては、はでなことがはなはだ少ない、喧嘩も少なければ、議論も少ない。
ドラマチックのことがはなはだ稀なるゆえ、世の見物人より喝采を受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。

柔和の心は相手の柔和の心を抽き出す
 かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。
なんとなれば諺にも、「世は情け」という通り、人情が敦厚なれば、――もっと砕いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美わしきもの、生ける甲斐あるもののように思われる。
しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。
いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。
鐘もうちよう、人の心も触りようである。
お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、
「ありがとうございます。
まあどうぞおかけ下さいまし」
 と遠慮の心も起こる。
しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴がという気が起こりやすい。
世を渡るには、
「御免なさい御免なさい」
 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯とはいわれぬ。
あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被るとか、猫なで声で人を瞞着するとか、西洋でいう羊の毛を被る狼のごとく、偽善の最も甚だしきもののように思うものもある。
むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。
柔和を偽善と誣うるならば、それと同じく剛毅もまた偽善に供することが出来る。
決して偽ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。
悪い者なれば偽が出来るはずはない。
善ければ善いほど種々の偽も出来る。
猫被りが多いというは、取も直さず柔和は何人でも重んずる証拠である。

柔和なる者はこの世を嗣ぐ
「憎まれ子世にはびこる」という俗諺があるが、これは原因と結果とを顛倒したことである。
世にはびこるものは憎まれる、はびこらずに謙遜に柔順なるこそ真に世に処する妙法である。
かつこれが持久の基と思う。
聖書に、
「柔和なる者はこの世を嗣ぐべし」
 とある。
この世を承けて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。

 換言すれば柔順は永久の徳なり、剛いもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。
獣を見ても分かる、虎、獅子、熊などのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。
もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ迅速なることを示すであろう。
こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。

 しかるにこれらの猛獣より見れば、卑屈らしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。
すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。
人間においてもまたそうと思う。
野蛮時代には武ばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。
喧嘩して世を渡るものは喧嘩両成敗で共倒れして後がつづかぬ。

武士のけんくゎに後家が二人出来
 相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。
猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるを免れぬ。
武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。
理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳に長け、温和に柔順なものである。

 かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かと問うたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方は違う、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。

世の中には譲って差支えないことが多い
 柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に脆く服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。
柔和は意志の弱き謂でない。
もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。
僕の考えでは世には抂げてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。

 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄介者である。
たとえば衣を着るにも、縞柄から縫い方から着ようにいたるまで一々明白した意思を表示し、かつこれを貫かんとすれば、たいていの仕立屋または細君は必ず手に余すであろう。
三度食う飯さえも強い柔かいがある。
この浮世を渡るに飯の炊きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。

 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。
換言すればどちらでもよいことが多い。
物を食うにも鮭でも鰌でもよい、沢庵でも菜葉でもよく、また味噌汁の実にしても芋でも大根でもよい。
ただ特別なる場合、たとえば来客とか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行するも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。
しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。
相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。
かく思うと無頓着というは語弊もあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数多ある。
ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以である。

譲られぬところはあくまで固守せよ
 譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂げられぬこともある。
しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して抂ぐべきことでないと思う。
僕はどこまでも抂げよとはいわぬ。
出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば飽くまでもこれを固守すべきである。

 とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。
右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。
ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。
溝の縁までは譲ろう。
しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。
この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。
しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。

こういう強みを処世上に持ちたい
 これは婦人などによく見ることである。
柔和にして他のいうことを聴き容れ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。
どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで関渉せんとするときには、どっこい、それは不可と毅然としてこれを斥ける。

 むかし袈裟が遠藤盛遠に挑まれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を操持した。
この点にいたると婦人は侮るべからざる強いところがある。
日ごろは一つの柔しき飾りに過ぎぬ「簪も逆手に持てば恐ろしい」。
こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。

 僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまち脆く倒れる、松の木が風に折れると同じである。
これに反し風のまにまに動く柳は動きながらも本性を失わず、かつ折れることなくして、その一生を完うする。

第五章 心強くなる工夫

同病相憐むに出でたる余の気弱
 前章に僕は外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。
僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫はあるまいかと尋ねられることがしばしばある。

 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思っているくらいなれば、世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。
しかし同病相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来少しく工夫を凝らしている。
もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正せんと努めるものがあるかと思って、新たに工夫を運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提げたのである。

盲者蛇を怖れぬ豪胆
 僕の友人に僕と同じように気の弱い、いわば臆病の人がある。
子供のときに、その親が当時有名なりし某将軍につれて行き、
「どうかこの子の胆力を練らせていただきたい。
今のように気が弱くては、その将来が案ぜられます」
 といったとき、将軍より、
「いや臆病なるはさほど心配が要らぬ。
怜悧なる証拠である」
 といわれ、当人はかえって得意になり帰ったことがある。
臆病者は怜悧なのか、怜悧なものが臆病なのか、いずれが原因で、いずれが結果であるにしても、ともかくこの二者の間には何らかの関係があるように思われる。
といって僕もあながち自分が臆病なるゆえ怜悧なりという考えはないが、世にいわゆる盲者蛇で、周囲のことも、前後のことも、いっさい分からぬものはその行動がちょっと豪胆らしく見える。
しかしこれは豪胆にあらずして前後左右が見えぬのである。
危険あるを知って豪胆に振舞うのでなく、危険あるを知らぬゆえに豪胆らしく振舞うのである。

 そもそも人生には明らかに顕るる危険もあれば、両側あるいは地下に潜伏せる危険もまた多い。
この危険を幾分なりとも見得るものは、怖れざらんとしても怖れざるを得ない。
すなわちある意味において臆病にならざるを得ないゆえに想像力の強きものはいよいよ臆する。
したがって臆病すなわち気の弱きを矯正するには、盲者になったら、あるいはその目的を達するかも知れぬが、むろん我々が気弱を矯正せんとするのは、各自の本体を捨て消極的に改めんとするのでない、見えることならますます能く見、その危険をも見透してなお臆しないところにまで到達するが主意である。
盲者になって豪胆らしく振舞うはもとよりその主意に反する。

身体より来る気弱の原因
 気の弱いことを矯むるには、その弱い理由を考え、その理由からこれに処する方法を案出せねばならぬ。
しかしてその第一の理由は身体にありと思う。
しかし身体が大きく強健であるとも、必ずしもその人が強いとは限らぬ。
大男にしてすこぶる健全なもので、人の前に出ると、声が顫え、碌々物を言えぬものもある。
吹けば飛ぶような華奢な姿したものでも、さらに物に動ぜぬものもある。
ゆえにひろく身体といわないで、狭く神経質の人はとかく気弱勝ちであるといわれると思う。
これが前にもいった怜悧なことと気弱なこととが結びつく理由であろう。

 神経過敏にして周囲の事物に感じやすい人は、人の顔色など最も早く見分け、人のいうことの表裏をも察知する。
かく神経作用の鋭いものは、すなわち怜悧なるものは、目先きがよく利くため、とかく人負けするように思われる。
この事も一見矛盾の感なきにしもあらぬ。
すなわちそれほど物の分かるものなれば、何物も怖るるに足らぬではないかというものもあろう。
しかし、ここがすなわち智能ばかりでは事足らぬ証拠である。
いわゆる鋭敏にして頭脳の明晰なるものは、この事はこうなっているから、こんどはこういうことになろう、さてそうなれば俺はここに処するにいかにせばよきかと案じ出す。

 この解決が出来れば物が分かるだけ、それだけ多く臆病気がつく、この解決が出来なければ出来ぬで、またそれだけ多く心配の種子がふえるわけである。
しかるにいかに怜悧に物ごとに解決を下しても、未来に属することは、自分の見込み通りに行かぬゆえ、必ず危険の分子が潜んである。
すなわち心配の種子が存在する。
かくいえば怜悧なるものは必ず気弱でなければならぬという結論に達するらしく思われるが、決してそう一定せるものとは思われない。
意志さえ堅固なれば、賢愚を問わず、百難前に迫っても、これを冒して断行する。

かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂
 己れの行為の結果が容易ならぬものとは知りながら、なお、「やっつけろ」という強いところが欲しい。
この強いところがあれば、いかに怜悧なるものでも、決して臆病とならぬ。
ところが一方の意志が薄弱なるときは、頭脳が明晰なれば、先の先までも見えて心配の苦を増し、はなはだしく人を臆病ならしめる。
しかるに人はその身体、ことに神経の構造により、一方の智力がことさらに発達し、その他の力たとえば意志がこの智力と権衡がとれぬときは気弱になる。
なお身体の発育上、何歳より何歳ごろまでが智力のことさら伸張する時代であろう。
そのころは臆病風の最も強く吹く期節となろう。

身体局部の故障より来る気弱
 気弱は生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯正するには、生理的方法によらねばならぬ。
すなわち冷水浴を実行するとか、睡眠が不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの虞があれば、食物を改良するとかせねばならぬ。
一般の健康状態はさて措き、ある局部が不良なるために卑屈となり引込勝ちとなり、憂欝にに沈む傾向がありはせぬか。
これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰納したく思う。

 たとえば目の不良なる人はつねに欝陶しく感じ、したがってますます不愉快を覚え、人の前に出るのを厭うにいたる。
それが一歩を進めると、衆人の前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気弱となる。
また胃弱者のごときもまた同じく、気が始終苛々し、つねに人と交際するのを煩わしく思う。
煩わしいのが進むと、怖れを生じて気弱となる。
要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を感じ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖気とかが取去られてしまう。

 例により僕は自分の恥曝しの経験を述べて参考に供したい。
僕は少年のころ、物に怖気ない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。
両親の友人などが来ても、臆面もなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、家の人々の手にもてあまされた。
それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引込勝ちになり、人の前に出るを嫌い、人に顔見られるのを怖れた。
いまになってその理由を顧みると、身体の工合、ことに目に関係したのではないかと思う。
かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き捨つるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。
しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆戻りして、怖気がなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工合がよくなったためと思う。

弱点の自覚より起こる気弱
 自分の弱点を自覚するために怖気ることがある。
これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、憎まれはせぬか、嘲られはせぬかと、つねに心に憂うるゆえに、かかる虞ある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。
そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。
もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。
何らの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。
何人も隠すべきものをもっている。
秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。

 処女の羞かしがるは何が一番甚だしきかというに、自分の体にありて、親にも示すべからざるものあるがためである。
これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。
いな解剖上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。
ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。
この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして怖気させるのである。

 京都の人は、「晴がましい」という言葉を使う、すなわち東京のいわゆる、「きまりが悪い」の意で、目立つ所に立ち、多数の環視のもとに出ることを晴がましいといって引込むが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。
しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。

 前にも僕は子供時代の感情を自白して恥を曝したが、子供のときから顔の醜いことをつねに笑われ、顔がお盆のようだとか、鼻が低いとか、色が黒いとか、眼ばかり大きいとか、お出額がどうとか何とか、つねに人にいわれたために、人の前に出ても、またなんか言われはせぬかという気になり、怖気たのである。
公然開放的の顔のことゆえ何ぴとも見るのであるが、その見られるのが怖気を促す。
かく何か弱点があって、自分に控目になることの自覚があると怖気る。
しかし容貌のごときは腕白小僧にはさほどの感じもないから、幼少のころは平気に聞き流して意に介せなかった。
しかるにそれが年頃になると、この自覚を感じ、人の前に出ると恥かしくなり、ことに婦人の前に出ると、前に述べたる生理上の関係のみならず、容貌の醜なるを恥じて気が弱くなる。

 かくのごときは歯牙にだもかくる値のなき、まことに些々たることではあるが、世には僕と同じく気の小さなものがあり、あるいは容貌とかあるいは身体の一部に何かの欠点あることを自覚して、羞むものがあるように見受けるから、掲げて参考に供する。

容貌や秘密の暴露は恥とならぬ
 これが矯正策としては、顔が醜いとても美顔術をほどこす必要もなかろう。
蓼食う虫もある世の中にはまったく棄てる物はない。
いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。
ことに容貌は解剖的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。
そして人の顔色を読むには、骨格肉付きの如何よりも、むしろその表情によることが多い。
米国の大統領リンカーンは有名な醜男子であった。
しかるに親しくこの人に接したものは、彼の青ざめた顔、大きな口、凹んだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。

 顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。
また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象を奪われ、いたずらに卑屈に引込勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。

 また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人には明せられぬが、己れが心に明し、あるいは天に明して恥ずべきことでない秘密ならば、暴露したところでこれまた一場の笑話となるか、愛嬌談となるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるを怖るるにあたらない。

 田舎から上京した人は東京風を知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。
自分の心に尋ねて人に無礼を加うる念が毛頭なければ、動作の調わぬことなどは、人も宥すであろう、また自分の良心も必ずこれを宥すものである。

自分の心得の最善を尽せば無作法も宥される
 事の真偽は知らぬが、明治の初年ごろに西郷はじめ維新の豪傑連がはじめて御陪食を仰付けられたことがあったという。
いずれも田舎侍で、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には作法を知らぬゆえ、いかなるご無礼をせぬとも限らぬと、戦々兢々とし、むしろ御陪食の栄をご辞退申し上げんとしたものもあった。

 いよいよ当日になり、玉座に近き食卓につくと、ろくろく落着いて手を出すものも、口を開くものもなかった。
そこで西郷は起って口を開き厚くご陪食の御礼を申し上げ、かつこれに加えて、
「小臣らはいずれも田舎侍で、九重の御作法にははなはだ心得が薄いもののみでござりまする。
ただ一身をもって陛下の御ために捧げ奉ることのみを心得、他には何らの心得なきものであれば、今この席においてもあるいは御作法に背くごときことがあるかも存じませぬ。
ただ陛下に対し奉る至誠に免じてお許しを願う」
 と挨拶して席につき、スープを飲むに、両手を皿にかけて捧げグイと飲んだという。

 もしこれが知っておりながら、少しく奇人を衒い、英雄を真似たとすれば、無礼の誹をまぬかれぬが、自分の心得の最善を尽している以上は、行儀作法に多少の欠点ありとするも、人はこれを宥すものである。
自分は行儀を知らず、作法が分からぬと、自分の弱点を知ったとても、人の前に出て、決して臆することはない。
またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際する価値なきものと思う。

 後藤男爵が少年のころ、何かの折りに、岩倉公の前に召され、菓子を饗された。
地方からポット出の男は怯めず臆せず、その席上でムシャムシャと菓子を食った。
しかし決して岩倉公に無礼を加うる考えなく、ただ食えといわれたから食ったまでで、いわば至当のことをなしたに過ぎぬ。
しかるに後になって、かかる饗応の前で妄りに食うものでないと言い聞かされ、男は定めし岩倉公の御不興を受けたであろうと思いしが、翌日にいたり公より昨日来た青年は菓子が嗜だと見えるというて、かえって一箱の菓子を送られたという。
しかし僕は繰り返していう。
かくのごときことを聞き、豪傑才子を気取って、わざと礼儀作法を破るものがあれば、これすなわち自己と他人を欺くものであるが、この欺く心がなければ、たとえ自己の弱点を見られたところで、たいした恥にならぬ。
したがって一向怖るべきこともない。

「心に忌しい点あるか」と反問せよ
 またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。
「人焉ぞ※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)さんや」で、※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。
また※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。
これを※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)さんとするも、これらの機関はほとんど裏切りするかのごとく、我々の心情を現すものである。
かく考えると齷齪として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。
早晩その真相は暴露されるものである。

 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、
「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣も何も」
 といった主義に従いたいと思う。
むろんこれがために迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。
しかし常に心に戸閉まりし、つねに隠さんとする重荷がないだけ気軽で、大なる利益がある。
要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。
ゆえに人の前に出るにあたり怖気が起こったならちょっと退いて、
「己れの心に忌しい点があるか」
 と反問するが肝腎である。
臆病なる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁の Be just and fear not の一言である。

第六章 怖気の矯正

始めて試みた英語演説
 怖気は自信力のとぼしい場合に起こることが多い。
「自分はとうていこの任に堪えられぬ」と思えば、手を出すことも怖くなる。

 僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿を携えて行ったが、慣れぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも燕尾服着用で聴講料を払って入場した紳士や淑女――一目しても一片の書生たる僕以上の人と見受けられ、加之この時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず慄然と震えた。

 やがて司会者は起って五、六分間、紹介の辞を述べた。
この間は僕にとって、生涯忘れられぬ苦痛の瞬間である。
場の中央には演壇と椅子があり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつ控え、その壮厳なる光景を見ては、なおさら怖気て、手足はブルブルと戦慄した。
幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。
とにかくも、戦きを抑えられぬ。
愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して御免を蒙ろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思い煩っている時、ふと浮いた考えが二つあった。
一つは、
「ナニ此奴ら、服装こそ美わしけれ、金持ちでこそあれ、高の知れたもののみである。
ことに自分の今演べんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らに優れている。
少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、否なゼロよりもかえってマイナスであろう。
僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。
かかる人を相手として演説するに、何の怖るることかあらん、この馬鹿者奴らがッ」
 としきりに彼らを呑んでかからんとつとめたが、なかなか呑めない。
いかに心中では豪傑を衒わんとするも、真底よりの豪傑でないから、ますます怖気てガタガタ戦える。

演説の顫いを止めた経験
 すでにしてまた一つの考えが起こった。

「この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して雄弁や能弁を聴くつもりで来たのでない。
日本人が英語を操るのであれば、定めしブロークンな英語であろう。
演説の良否よりも、内容が半分も解れば、それで足るくらいに思うであろう。
また恐らくは傍聴の半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。
僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。
もし彼らが僕の演説を半ばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。
発音の訛りや、文法の誤謬などはかえって愛嬌の種子になるくらいのものだ。
なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。
しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。
ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、その笑いは冷笑でない。
また出来損ねたからとて、あながち国名を汚すことともなるまい。
ブロークンながらも怯めず臆せず元気よくやるがよい」と。

 かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までの顫いがとまった。
わずかに五、六分間であったが、その間に頭脳の考えは二回変った。
しかしていよいよ起った時には平然として何のこともなく、草稿にない戯談なども臨時に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入し、幸いに案外の喝采をうけた。

怖気に処する二種の考え
 その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。
それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。
恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。
これ消極もまたはなはだしきものである。
自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。

 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。
しかし彼らはこの力を濫用せぬ。
自分に対して善用するだろう。
我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。
双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。
何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。

信じてかかれば怖気ない
 そこで僕が自分の恥を晒らして物語り、怖気る人の参考に供したき要点は、相手を信じてかかれということである。
渡る世間に鬼はない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。
窮鳥懐に入れば猟夫もこれを殺さぬ。
怖気たり臆病な人も、他に信じてかかれば怖るることがなくなる。
僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を経たように思う。
あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。

 学術上のことはさて措き、日ごろ思っている考え、日ごろ懐ける感情を述ぶるに、何の怖れることもない。
ありのままに口を開け、「腸見せる柘榴」同然にやる。
隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。
隠さんとしても隠しきれぬ。
急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに珠をつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲弄を招くばかりである。
またその場に急に英雄豪傑を真似たとて、その腹の底に胆力がなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。
聴衆は自分よりも具眼の士であると、彼らを信じてかかれば、かえって怖しくなくなる。
同じ獅子の穴に入るにしても、相手が己れを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅子は妄りに人を食わぬことが分かれば、恐怖の念が去る。
ゆえに僕は怖気る人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、彼らもまた君に対し好意を懐くものであると。

怖気の根本的矯正は自信自重にあり
 右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。
それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。
いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念が乏しくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。
しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。
人爵的の軽重ならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。

 ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。
みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分を疎んじても、我はあくまでも自ら重んじて、所信を貫くという、みずから潔しとするところがなければならぬ。
僕がしばしば引用する Be just and fear not(正を守りて怖るることなかれ)というはすなわちここをいったのである。

 自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があっても怖れない。
したがって人の前に立っても怖気ることがない。
かの宗教改革を唱えたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その生命の安全さえもはなはだ覚束なかった。
そのころルターの友人は彼のある会合に出席せんとしたのを止め、
「今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である」
 と警めたが、ルターは昂然として、
「この町の家屋の瓦ほどに敵が多くとも、心に疚しきことなき以上は、何の怖るることかあらん」
 と言い出席したという。
おそらくは怖気の根本的矯正法は自身の正しきを自覚するにありと思う。

暗いところがあると怖気出す
 これに反し自分に最善を尽しておらぬものは、何かの時に退けを取りやすい。
恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。
かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも話頭がみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは顔色が変わり、あるいは声が顫え、あるいはその言うことに辻褄が合わなくなり、あるいは極上等に出来たとしても、話頭を漸々に曲げて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。

 これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが間々あった。
たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。
その挙動を見るとすこぶる傍若無人で、室に入るや否やいきなり趺座をかき、口角に泡を飛ばして盛んに議論する。
僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。
彼が独りで暫時議論したのち、僕にむかい、
「今日の日本の青年に対し最も注意すべきものは何か」
 と質問を発した。
僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の不行儀なることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、
「行儀を正すことが目下の一大急務なり」
 というや、今までの豪傑は急に狼狽しはじめた。
露出した膝頭を気にして、衣服で掩わんとしたり、あるいは趺座をかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。
僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの大言壮語も、その磊落の行儀も、思いつかずになした業でなく、一時の拵え気焔で人を脅かすつもりか、あるいは豪傑を衒っての業であったのだな。
彼の英邁奇行は道具立ての小細工たるを見て可笑しくなった。
彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。
むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。
自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。

 ゆえに一言でも話頭が彼の弱点に渉ると、胸中幾分か狼狽するの風情が現れ、今まで頼もしい剛胆なる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。

『失楽園』に現れた悪魔の姿勢
 英文学に異彩を放つと称せらるるかの有名なるミルトンの『失楽園』の主人公は、神を相手に謀叛の旗を翻した悪魔の雄将サタンである。
彼が戦いに敗れ地獄に堕ち、しばらく夢中に卒倒してあった後、たちまち息ふき返して、わが身辺を見廻わすと、彼の同僚および彼の率いたる軍勢は、何万となくいずれもあるいは疲れあるいは負傷して消ゆることなき地獄の青い火の中に、燃えもせず焼けもせず、苦しみながら横たわれるさまを見て、サタンは再び士気を鼓舞して、天に逆らい再挙を計ることを、詩仙ミルトンが椽大の筆を揮って描いている。

 しかして書中に現れた悪魔の態度の実に凛々しく、彼の野心の実に偉大なる、彼の度量の広闊なる、読む者をして知らず知らず神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。
ゆえに英文学を論ずるものは、『失楽園』を批評するにあたり、ミルトンの神をけなし、ミルトンの悪魔を崇めぬものはない。
またこの悪魔の姿は実に堂々たる風采で、吾人の崇拝に値するように写してある。
ことに彼が天帝に反かんとする豪胆のこと、また大敗を受けても再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよ彼に尊敬を払わしめる。

 しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。
彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身躯があるいは蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは蛇となり、種々なる形に変化している。
しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落する順序が現れている。

 僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落の階段が秩序的に現れているがごとく感ずる。
すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。

 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含蓄されているものが、漸々に働くことを称すると同じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子が含まれているある一種の病原が存し、この種子が年とともに蔓延するものである。
ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴菌が胸中に萠したのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑劣な手段も辞せず、だんだんに堕落し、ついに虫類同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。
この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。

顧みて疚しからずば怖気は起こらぬ
 話頭は岐路に入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる種子が潜伏する以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年を経るにしたがい、その金箔がだんだんに剥げると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ卑怯になる。
ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、怖気を覚ゆればすぐに自分を呼び出し、
「これ稲造、汝は近ごろ、何かバクテリアに罹りはせぬか、どこかで病いの種子を宿しはせぬか」
 と自問を発し、あるいは、
「汝は人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に看板をかけたい了簡なるか、相手の人に褒められたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお世辞を述べるか、あるいは妄りに自分を卑下して、なさずともよいお辞儀をなし、みずから五尺四寸の体躯を四尺三尺に縮め、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なり蛇なり蛙なりの程度まで一身を引下げておりはせぬか」。

 かく発問すると、なるほどもっともだ、自分は予ての心がけよりも、この点において大いに堕落したと思いあたり、心を取り直し、己れに帰る心地する。
して己れの心をそのまま存する者は怖がりもせぬ。
怖気は自己の心を離るるより起こる。
漢字で立心扁に去る(怯)布く(怖)芒ふ(※[#「りっしんべん+くさかんむり/氓のへん」、U+607E、99-7])をつけてこわがるの意を現すも故ありというべし。

第七章 譏謗に対する態度

人に最大不快を与うるは何か
 人間社会で不愉快なる感を与うるものは数多あるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかを尋ぬるに、貧困よりも疾病よりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。

 ある人が人間の行為として最下等なる職業を営む数多の醜業婦について、
「お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か」
と訊したら、お茶をひいて仲間に笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一睡もせぬことしばしばなるに、身体の苦しきよりは、やはり四囲の批評のほうがつらきものと見ゆる。

 こういうと、あるいはそんな些細なことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。
中にはそんなことは構わぬと称する人も数多あるが、なにかかにか言われると、まったく無頓着に聞き流す人はほとんどない。
誰しも必ず心に不愉快を感ずる。
ことに少しく神経過敏なものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。
無頓着と称される豪傑肌の者でさえも、その実なかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。
またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。

英雄も聖人も悪口を気にかける
 かつて故児玉大将が生存中、僕は一夕大将をその邸に訪ねたことがある。
折から外出より帰った大将は、
「大層お待たせした」
 と挨拶し、
「イヤハヤ、どうも元老の爺連がお互いに悪口言い合うを調和するは、一方ならぬ骨折りだ。
今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た」
 と歎ぜられた。
僕は、
「悪口って、どんなことを言われるのです」
「どんなことって、まるで裏長屋の婆が井戸端でグズるのと異なったことはないさ」
「しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい」
「英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、俺のことをこんなこと言った、怪しからぬ奴だ、あんなことをいったが不都合だと互いに陰口きいたのを、怨むようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、毫も裏長屋の婆と異うことはない」
 と言われたが、磊落にして世評などに無頓着を衒う豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。
いわんや普通の凡人においてはなおさらである。

 また僕はかつて次のごときことを読んだことである。
ソクラテスは容貌の醜い人で、世人が彼を誹謗するときは、必ずこの点を指摘した。
しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、己れの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人の嗅げないものを嗅ぐためであると磊落に笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックの杯を取りながら、
「いよいよ俺が死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい」
 と一言した。
してみると、他人が彼の醜きを譏るのを気にしていたと思われると説いた人の論を聞いた。
この論がはたして当を得たるや否やは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。
まして凡人においてをや。

世評は修養の補助
 かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。
むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。
いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。
いかなる怪しからぬ行為あるものも、これを発いて反省を促さねば、ますますその暴行を逞しゅうしやすくなる。

 世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかも羊の群れを監督するために羊犬を付けるがごとくである。
おろかなる羊は草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。
このとき羊犬が迷った羊に吠えつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは岐路に迷わんとするとき、これを抑えて軌道に惹き着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。
すなわち毀謗は社会の要求の声ともいうべきものならん。

 それについてはこれを濫用せぬよう心がけることが最も必要である。
してその濫用とは、
一にはその悪口をいった人を怨むこと、
二には自分の悪口されたのを聞き怒ること、
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し萎縮すること、
 等が、その主要なるものである。
これらの弊に陥らぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。

 悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。
僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一言したい。

悪口は一時的のものが多い
 多くの悪口には一時的流言に過ぎずして、ほとんど一顧の値いなきものがある。
俗諺にいう、「人の噂も七十五日」。
その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。
これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。
すなわち新聞雑誌に掲げられる月旦とか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、某はかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を食っても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)たらぬとか、倶に天を戴くを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始末を細々と記してある。

 これを読む者が真面目に考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。
国のためにかかる人は一刀の下に刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく褒め立てることがある。
いわゆる輿論なるものは実に軽薄なものである。
また我々の友人中にも甲が乙の噂をして、はなはだ怪しからぬ奴だと罵る。
その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)たらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵詈の言は、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。
誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。

譏謗の大部分は介意の価なし
 しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起つ能わざる窮地に陥るごとく歎く。
かくのごとき時には、少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言の葉の、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為に一種のおかし味を感ずるものである。
自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者はいかなる人かと聞けば、怒ったり怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。

 あの男が一ぱい機嫌で悪口するはアルコールの蒸発が喉を過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。
我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。
彼の男にしてそういう言を弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。
またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えぐらいに聞こえる。
ちょっとは耳に障っても、あとに残らない。

 しかるにこれを一々真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。
ただその場合々々に好き勝手な熱を吐くほうが多いから、為に人を怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。
ゆえに世に処するものは悪口の六、七分は聞流しにすべきもの、意に介する価値なきものと僕は信ずる。

折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん

知らぬ人の批評には弁解が要らぬ
 もっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。
ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠をかけ、あちらに垣を結び、もって他を陥れんとする、手配り広き悪口もある。

 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免れられぬものである。
しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵を絞り出して吐く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。
しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。

 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。
しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々しく弁解する労を取るだけの価値がない。
加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。
ことに自分をよく知らぬものが、彼是批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。

 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境に陥り衣服にも窮している、どうか助力を乞いたいと訴えたが、彼がその窮境に陥ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談を遮り、世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければよいではないか。

 世間とは君を知らぬ人の謂いである。
君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介するに及ばぬ。
失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎の念も何もない。
すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。

かかる悪口は自然に消える
 世間だの世評だのということは、はなはだ漠としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。
しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々しき大事といわねばならぬ。

 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。
また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐き、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。
あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。
ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。

 西郷南洲翁が慶応年間、京都に集まった薩摩の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫に取りかかったとき、日ごろ西郷に快からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫に藉るが、実はこれを煽動するものであると、島津久光公に告口した。
公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人でも差支えなきゆえ、手討にせよとの命令を下した。
これを聞いた大久保はそもそも西郷を久光公に推薦したのは自分である。
彼が不埒を働いたとすれば、自分もまたその責任を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否や、ただちに彼を兵庫に引連れ、明日君が君公の前に侍すれば、生命はないぞ。
到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互えて死する積りだといった時、西郷は、
「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。
二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。
一人残るがよい。
俺は罪を得たから死ぬが、汝は生き残って俺の代りに君公に仕え、二人前を働いてくれ」
 といって出仕した。
幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走したが、世には随分念の入った讒言悪口がある。
しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。
ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。

言語よりも実行をもって弁解せよ
 かくいったならば、あるいは正直の人は、
「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。
汝は軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。

 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を憎む人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を汚した。
また我が国にても石田三成は徳川家の御用史家により、成るべく悪しざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。
教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。
ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤謬を改めしむべきが本分である。
汝の言のごとくどうでもよい、放任せよというは怪しからぬ」
 という人もある。
歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。
円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。
しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。
はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真偽の問題である。
道徳の問題でなく、歴史上の問題である。

 歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。
もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。
もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。

 白隠和尚はその檀家の娘が妊娠して和尚の種子を宿したと白状したとき、世人から生ぐさ坊主と非難されても、平然として、
「ああそうかい」
 と言い、生まれた後は、自分でその子を懐きなどしていたが、後、和尚の種子でなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚したことが明らかになった時も、また、
「ああそうかい」
 といって世間の毀誉褒貶[#「毀誉褒貶」は底本では「毀誉貶褒」]に無頓着であったという。
僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。

 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。

「何をもって謗を熄むる、曰く無弁。
何をもって怨を止むる、曰く争わず」
 と、また、
「人の我を謗るやその能く弁ぜんよりは、能く容るるに如かず。
人の我を侮るや、その能く防がんよりは、能く化するに如かず」と。

 実に尽せる言である。

悪口に対する理想的態度
 しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。
すなわち白隠和尚の態度のごときは日ごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。
かく言えば、前に説いたことと矛盾するらしく思われるがそうでない。
日ごろこれらの修養を欠く人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨励するに傾きがちである。
白隠なりしゆえ、後日に至り疑いも解け、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白隠以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き取り、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真似る虞が多い。

 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。
法に従って彼らを罰せんか、惜むらくは彼らの中には有名の士君子が多く、かつこれらの人は日ごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。
法に従い罰するに忍びぬ。
ゆえに止むを得ず一時の権宜として、彼らには軍法を応用せず、兵役も免じ、納税の義務も免じた。

 これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日ごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、日ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、日ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都合よき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。
白隠和尚は日ごろ修養を積み、平生の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。

 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日ごろの修養如何によりてその価値が著しく違う。
白隠の談は美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを憚かる。
しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、日ごろの行状を謹み、日常の信用を厚うするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。
この点に謹慎し、修養していれば、一時いかなる非難非譏を受けたとても、何らの弁解を試みずして能く晴天白日の身となり得ると思う。
悪口に対する吾人の理想的態度は無言実行の弁解をもってすべきであると思う。
いかに人はかれこれいうとも己れさえ道を蹈むことを怠らずば、何の策を弄せずとも、いつの間にか黒白判然するものである。
要は「本来清浄」を守るにある。
さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。
かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。

人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ

第八章 世に蔓延る者は憎まる

世に蔓延る者は憎まる
「憎まれ児世にはびこる」という諺があるが、わが輩はこれを顛倒して、世にはびこる者は憎まれるということも、また真実であると思う。
いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海』を見ると横行、強梁などいう漢字を充用し、這いひろがる意とある。
一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延びひろがり繁る意味である。
米麦を蒔いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。
一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔になるゆえにこれを嫌う。
喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。
また豆を植えかつ豆を穫んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。
すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。

 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解るか解らぬかは、これを用うる人の意によりて異うので、豆を穫んとする人には、麦が悪しき意味にはびこるのであり、麦を穫んとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪しき意味にはびこるのである。
我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。
しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完うし、伸びるのである。
ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。
現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否むしろすこぶる感服することがたくさんある。

古今の事例はこれを示す
 これ我が天職なり、これ我々がまさに履むべき道なりとの確信の下に働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人かの進路を妨げ、人から邪魔視される。
聖人君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人からか邪魔視される。

 孔子の言えることまたは為せることは、盗跖より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。

 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力めたから、時の官憲僧侶から邪魔視され、耶蘇ほどにはびこる、嫌なものはないと思われたればこそ、十字架の上にその一生を終わったのである。

 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩浮華なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。

 ゆえに、「憎まれもの世にはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。
何人にも可愛がられるものは世にないと思う。
もしかかる人がありとすれば、そは自己の意志なきものである。
何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。
実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。
敵ある以上必ず憎まれる。

 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。
米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑の意を含んでいる。
これに反して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。
しかるにいかなる政治家にてもその生ける間は敵より政治屋と罵詈讒謗せられる。
ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。
すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。

意志の遂行と社交の遠慮はいかに調和するか
 人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何人も嫌である。
嫌だからとて「瓢箪の川流れ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことは志ある者の快しとせざるところ、むしろ愧ずるところである。
ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに力めねばならぬ。
もちろんかくいったからとて何事につけても無遠慮に勝手放題に傍若無人に行えというにあらぬ。
独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。

 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近道であるが、実際山より山に遷るには、一度麓の渓間に降りてまたまた嶮しき峰をよじ登らねばならぬ。
一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂廻して行くだけの遠慮がなくてはならぬ。
しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑怯である。
かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑怯である。

 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。
この程度は概括的に定むることは出来ぬ。
周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠牲として払うべき意志は我々が衣服を買うときの代価のごときものである。
いったい衣服はなんぼするものかという質問に対しては何人も一口に答えかねる。
なぜなれば衣服にも単衣あり綿衣あり、木綿物もあれば絹織物もある。
和服もあれば洋服もある。
具体的に個々の衣服について始めて価がきまるのである。
単に衣服というただけでは何とも決することが出来ぬ。
それと同じく遠慮と遂行の程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。

 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は己れの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が容れてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。
わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門外漢の解決し得るところでないと。

所信の貫徹に潜める大苦心
 元来、義務と義務との衝突は根底においてあり得べきものでない。
義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば軽重、本末、主従、大小、遠近等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。
したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。

 孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずと歎くものは、独り平重盛に限らない。
些細なることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。
朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。
右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は平坦だが左道は清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。
そしてその判断には少なからず苦しむものである。

 むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、「裁決流るるがごとし」とかぞうさもなく出来るように書いてある。
彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る明晰の頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の窺知し得ざる苦労を経るのである。
光圀卿の、
見れば只何の苦もなき水鳥の足にひまなき我思ひかな
 である。

 シーザーがその留守中にローマに乱の起これるを聞き、出征先より大軍を率いて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン河畔に立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。
外部より見れば、さほどに苦心もなく一蹴してルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の分岐点として謡われているほど彼の苦心の跡が世界の人心に印してある。

 また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂を痛め、あるいは跪いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往き来したという。
こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆されて南軍についた。
その決心を固くするまでの苦心はいかに辛かったであろう。

 また信長が寡兵を督して桶狭間に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。
また西郷南洲が廟堂より薩南に引退した時の決心、また多数に擁せられ新政厚徳の旗を揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。
かくいう僕などにはその十分一だも想像し能わぬ。

 また某碩学がかつて那須与一の琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷をたたいて賞賛したこの勲を聞き、泣くとはその意を得ぬと詰ったとき、某は暗然として答えて言った。
数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏軍の名誉をただ一身に荷って弓を引いたときの心はいかであったろう。
命中したればこそ敵も味方も賞歎したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪えぬと。
実に見る人が見れば、何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

善事の背後にも敵がある
 ついでに加えて述べたきことは、与一の場合にも彼が扇を覗うあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。
しかもそれは平家方のみでなかったであろう。
また奥州より出て来たあの田舎武士が、御大将の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果報者だと羨んだものもあったろう。
また彼の技倆を疑える者は、彼が遣り損えばよい、自分が代って見事に遣って見ようというものもあったであろう。
あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。
彼が成功したと同時に、大喝采を受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を怨み嫉んだ者から見れば、彼が人目を惹き世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。

 わが輩は話にまぎれてとかく昔時のことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些細なことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝突しているものがあると覚悟する必要がある。
僕は性来臆病なるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万遍なく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数多聞かねばならぬと思わぬことはない。
またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを企て、この善事を覆さんとするものがあろうと、恐れを懐かぬことはない。

 こういう考えが善いというのではない。
聖人ならこんな考えなく、何の憚るところなく善事を行るであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷心より世のためだと思うことをすると、一方に臆病の考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。
僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。
しかしてまた世上聖人君子が少なき以上、同じ経験を履めるものが多いであろう。

読者中にも必ずかかる経験あらん
 仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。
自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。
あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。

 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。

 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。

 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。

 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。

 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むことのなきものはない。
これが世の中である。

 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。
世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。
しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。
世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。
今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。
ゆえに気の弱い者は、
笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ
 で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。
僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。
ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。

咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり
 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。
いわゆる人から邪魔に思われるものである。

 佐藤一斎先生の語に、
「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。
罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。
古の天定まりて人に勝つとは是れなり」

第九章 心の独立と体の独立

友人を擲った少年時代の追懐
 この問題は永く僕の心に蟠っているもので、今日もまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考を述べて世人の教えを乞いたい。

 話の順序として自己の恥曝しから始めたい。
僕が十三、四のころであった。
まだ東京英語学校に、下宿から通学していたとき、友人某が九州の親許より来る学資金が後れたために寄宿料、食料、月謝の支払いに滞りが起こり大いに当惑せるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。
かくいうといかにも義侠心ありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。

 それはある夜同室に枕をならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠正成との比較論が始まり、僕が楠公を愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠公は愛国者でなく忠臣だといった。
彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素養も、より多くあったので、文字の遣い方も正しく、また彼の議論も今より顧みれば正当であったが、なに思いけん僕は突然床よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳を食わし、
「俺の飯を食ってるくせに、なぜ反対するか」
 と怒鳴ったことがある。
彼は僕より躯幹長大にして、活発にかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手向かいだもせず、擲られたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下宿に移ったことがある。

心の独立と体の独立とは密着
 今ここにかくのごとき愚かな子供談をし、しかも自己の恥を曝すのは、この経験が永く僕の頭に留まり、四十年後の今日もこれを追懐すれば、自分が生来短慮なりしことを明らかにすると同時に、種々の教訓を受くるのである。

 表題の心の独立と体の独立ということもその一つである。
僕が友人に対して俺の飯を食いながら反対するのはけしからんという一喝は、たしかに僕の根性の曲を曝露する。
しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏する考えではあるまいか。
また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。
換言すれば俸禄をもって他人の身体を抑える者は、心そのものをも制し得る考えをもってする者が多くありはせぬか。
俸禄を受ける者は知らず知らずのうちに心まで自分の主人のために奪われることはありはせぬか。

 さらに具体的にいえば知人の恩恵によりて位地を得、俸給を受くる者は、その知人あるいはその上官・社長・重役らの説に心ならずも服従し、反対説あるもこれを述ぶることを憚り、また彼らの行動をいさぎよしとせざることあるもこれを黙認し、あるいはかえって進んでこれを弁護することありはせぬか。

 先般ある会社の重役が検挙せられたときの談を聞くに、部下の者は始めて日ごろよりいだいていた重役に対する不満を述べたという。
日ごろそれほどその人の人格手腕に対し疑いを有したならば、何ゆえに予め警戒しなかったかと思えば、非難する人の人格そのものも疑わしくなる。
また役所などで上官が代れば部下の者が後任者を迎うるに前任者の棚卸しをもってするは常にあることで、それほど宜くなければ交替前に何ゆえに前任者に注意しなかったかと思えば、陰口をいう者の人格の下劣にして、些の俸禄のために心の独立を失い、口に言わんと欲することを得言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず、機械的に否奴隷的に使われていたと思わざるを得ぬ。
体の独立はなくとも、心にさえ独立していればよい、たとえ体は束縛せられていても、精神が自主的観念をいだいていればよいなどというが、心の自由と体の自由とは関係がすこぶる密着して離し得ぬ場合が多い。

動機は立派でも年とともに堕落
 僕は子供心に、維新のころ世に名高き遊女の談を敬服して聞いたことがある。
それは品川の遊女某が外人に落籍せられんとしたことで、当時は邦人にして外人の妾となれるをラシャメンと呼び、すこぶる卑下したものである。
某は遊女ながらもひと廉の気象があったが、如何せん、商売がら外人に落籍されたので、
仮令身はふるあめりかに触るゝとも心一つは汚さゞらまし
 と詠んだと聞く。
心と体とを別に考うることはすでに身を売る時より行わるる議論で、良家の子女が泥水に入る時も、たとえ体は畜生同然になるも、心は親のため、主人のため、夫のためあるいは家のためなりと称し犠牲となった。

 しかるに、身を売る時の動機はいかに正しくとも、一度身の独立と自由とを失った以上は、心もまた堕落することが多数の事実である。
恐らく我が国の娼妓となりし人の動機と理由とを統計上より数えなば、自己の淫奔よりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲となったのであろう。
身を売る時はじつに憐むべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥の差あるを発見するであろう。

 僕の友人が洋行した時、ハンブルグに行ったことがある。
ハンブルグは西洋に例の少ない公娼制度の行わるる所である。
ゆえに友人はその道に通なる人の案内でその制度を視に行った。
その時この通人は数多の婦人を呼び出し、友人のためにその経歴を紹介したが、かくするあいだについ三、四ヵ月前に来た新しき女があったが、あれはどうしたかと、通人は頻りに新参者を求めたりしに、豈計らんや新参者は数多の列座中にあったので、それが分った時の通人の驚きは一方ならなかった。
わずかに百日も経たぬ間にこれほどに処女と商売人とは変わるものかと、開いた口がしばらく閉じなかった。

 僕は多く不浄の談をならべるようではあるが、身を縛られた例は奴隷制度の廃止された今日、娼妓をもって例うるのほかなしと思い、ここに引例したのである。
がしかしその実泥水に居らなくとも泥水よりいっそう深き穢れに心の染まれるものが世には多くありはせぬか。
身は一見独立のごとくして、心は娼妓よりもなお独立なく他人に依頼し、しかも他人の愛憎によりその日を送れるものが多々ありはせぬか。

独立とは何を意味するか
 かつてある青年が僕の友人を訪うて、どうぞ書生として寄寓させてくれと頼んだ。
友人はすでに家には書生もおり新たに入れる余地がないと断り、かつまた上京するときの目的がはなはだ明らかならぬゆえ、この青年に帰国を勧告したが、彼は旅費がないから帰国されぬという。
友人も、
「君とこうして談するのも他生の縁であろう。
君が親もとに帰る考えがあるなら失敬ながら旅費は僕が手伝おう」
 というや、青年は毅然として、
「私は独立を重んじます。
旅費などは貰いたくありません」
 と立派にいいきった。
これを聞いた友人は奇異の思いをなし、青年に、
「君は独立をたいそう重んずるようで、まことに結構であるが、果たして独立の意味が分かっているか。
一時旅費を立替えてもらうのが独立を失うと思うはあながち咎むべきでない。
それくらいの考えはむしろ持ってもらいたい。
しかるにそれほど独立を重んずる君が、すでに二、三日前より毎日二、三時間を費して僕に求むることは、決して独立を重んずる精神とは受取りがたい。
君が僕の家に置いてくれと要求する意味は、雨露を防ぐの方法を与え、三度の食事を今後一年二年ないし五年十年とも寄食させよというのではないか。
仮りに一年としてもこれを金銭に換算したら君に提供した旅費の何倍かに当たる。
少額を受取れば独立を害し、多額を受ければ独立自重の心を害さぬ理由は解しがたい」
 と説いたそうである。

使わるる者必ずしも独立を失わぬ
 僕は決して先輩の家庭に寄食するをもって独立を失えるものとは言わぬ。
僕の家にも書生はいる。
この人をもって独立なきものとは思わぬ。
なんとなれば書生が家にいることは僕の便利であり楽しみであり、否必要であるゆえ頼んでも家に居らしむる。
書生もまた同じく思うゆえ、互いに申合せて同居するのである。
動物学者の symbiosis と称する生活を同じゅうする共棲的現象である。
ゆえに置く人も独立を失わず、置かるる人も独立を失う訳はない。
そこで役所に使わるる者も会社に働く者も、俸給を受けるからとて、必ずしもそれだけで身の独立を失うものでない。
また実際の手続きとしては被傭者は志願し会社に入る。
しかして志願すといえば一方よりのみ頼み、会社の恩恵のみを受けているように聞こゆるも、実は会社は世の有為なる青年に向かって入ってくれと頼むようにも思われる、いわゆる需要と供給との相互に応じ合ったことである。

 かくのごとき場合には契約の両者が依然として独立の心を失わぬのである。
また身は一見縛られているようであるが、一方の嫌というのを縛るのでなく、自由の契約である。
自分の心に面白くなしとあればその契約を解くことも出来る。
役人も国家の命令により身を縛られるとは論ずるものの、あくまでも心の盲従を要求されない。
いかに国家の命令とはいえ、役人にして国家の為す所に腑に落ちぬことがあれば、その命令を拒むことは出来なくとも、自分より進んで職を辞することは出来る。

身は縛られても心は独立
 凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞がある。
先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲らるるままに恥を忍んで去った。
今にしてこれを顧みれば気の毒だと思う。
さりとてまったく余の奴隷にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿を代えたからである。
彼に転宿する余裕ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性が卑屈となる。
折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固なりと思うあいだは随分勝手な口をきき、いつ辞めても天下を濶歩する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。

 かくいったからとて人間の心の中に唯物的拝金的卑屈なる根性があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。
五斗米のために身を屈しても身を枉げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。
むかし耶蘇教の弟子パウロは新しき宗教を奉じた咎をもって捕縛せられ笞うたれ、獄に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷だらけの体を縛られたまま、
「我は実にみずから幸福なものと思う。
願わくは殿下もこの繩を除いてはまったく我の如くあられんことを」
 といった。
この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。

 またむかし武田勝頼が三河の長篠城を囲み、城中食尽きもはや旬日を支え得なかった時、鳥居強右衛門が万苦を冒して重囲を潜り、徳川家康に見えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒えられ、城に向かい、援軍来らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公の大軍すでに出発したれば来援三日を出でぬであろう、諸君努力せよと叫んだ。
ために、身は乱刀雨下に寸断せられたが、心の独立はついに侵されなかった。
一指だも動かされぬほど縛られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞ぐごとはできぬ。
いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

心の独立と誤解しやすき考え
 ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持をくれる人に背き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。
世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。

 孔子も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠すことが国家に危害を与うるならいざ知らず、会社の内幕を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。
身は一定の国籍の下にありて、法律の保護を受け、もって生命財産の安固を保ちながら、その国の不為を謀るごときは、決して国民たる個人の独立行為といわれぬ。
こんなことは売国奴の所為として誰も卑む。
それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述すべきである。

 周の武王が殷の紂王を伐たんと出征したとき、民みな武王の意を迎えたが、伯夷叔斉のみは独立行動に出でて、武王の馬を叩いて諫めた。
左右の者ども両人を兵せんとした。
すなわち輿論は伯夷叔斉を罪せんとした。
このとき太公望は独特の意見を述べて、
「此義人なり」
 といって扶けて去らしめた。
伯夷叔斉も太公も群衆に逆らった心の独立は好みすべきであるが、もし二人の兄弟が武王に反対して、密かに出版物を播き散らしたり、あるいは隠に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲げて武王や太公の政策やら人身を攻撃したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子と呼ぶであろう。
なぜなれば、彼らの考えは輿論とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判かる。
しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶わぬ周の粟を食わずとて首陽山に隠れ、歌を詠じて餓死したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。

風俗習慣に逆らうは独立にあらず
 なお心の独立と思い違いやすきことは風俗習慣に逆らいさえすれば心の独立を現すもののごとく思う一条である。
通常の服より違った衣を着れば、独特の人才にでもあるかのように思う人も少なくない。
髪を長くしてみたり、赤い着物で外出したり、一本歯の下駄を履いたりすることは、馬鹿でもやり得ることで、心の独立を崇める値いはない。
人が社会に住んでいるあいだは法律のほかに世俗の制裁を受けねばならぬ。
もっとも世の要求することなら何でもこれに従えというではない。
みずから反りみて縮からば千万人といえども、吾れ往かんとの独立自重の心は誰人にもなくてはならぬけれども、いわばどちらでも好いことに角立てて世俗に反抗するほどの要なきものが多い。
風俗習慣の中には主義として争うに足らぬものがたくさんある。

 佐藤一斎の『言志四録』に曰く、
「寛懐俗情に忤らざるは和なり、立脚俗情に墜ちざるは介なり」
 と。
この簡単なる一言をもってよく吾人の世に対する関係を尽している。

 心の独立を計るに身を世俗より去る必要はない。
むしろ世に入り込んで独立の実を揚ぐべきこそ吾人も務めであれ。
味わうべきは左の歌である。

山深く何かいほりを結ぶべき心の中に身はかくれけり
座禅せば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山木と見て

第十章 人生の成敗

米国南北戦争における名将
 かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる南部地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟に交わって旧事を聞き、またなお今日戦争の傷の癒えない情態を見て、種々なる感想を起こした。
経済学者や社会学者・政治家・経世家の眼をもって見たならば、学ぶべき廉が多々あろうと思う。
しかし凡庸の眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらく措いて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄を談したいと思う。

 なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー(R. E. Lee)将軍の人格である。
僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。
正直にいうと、僕はこの敗軍の将に対する同情と敬愛の念は、彼の軍を敗り、彼をして軍門に降らしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。

 彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍に降ったのち、ほとんど名も無き田舎中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ追慕の念が深くなった。
しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。
僕は彼のいわゆる失敗せるに鑑みて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。

彼は成敗よりも任務の遂行に力めた
 歴史は彼をして失敗の人と命名する。
みずからも敗軍の将たることを承認している。
彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を譴責する折があった。
その節彼はこの青年に向かって、
「君はもっと勉強しないと、やりそこなう(fail)から、大いに奮発せんといかんぞ」
 と言ったときに、この青年が、
「将軍、あなたは、やりそこなった(failure)方ではありませんか」
 と答えた。
これを聞いた将軍は、
「君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない」
 と述べたという。
この青年ははなはだ無礼な過言を述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と敬畏の念を顕す考えであったという。
すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗は免れないではありませんかと言う意味であったという。
どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったか判らんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、免れ難きものであるという観念は、彼の言葉の裏に顕れている。
リー将軍がこれしきの事が判らぬではない。

 ちかごろ出版になった有名なる文豪ページ(W. H. Page)氏のリーの伝記を見ると、幾度となく戦場から、あるいは南方のときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、
「今まではとにかくに敗も取らずに来たが、次の戦いはどうであるか、数より推せば、我が軍はとうてい北軍に比し難い。
また兵站を考えれば、二日以後の食糧は、どこに求むべきか当てもつかず、冬が近づくが、兵士に靴のなき者が数千人、この秋風を凌ぐに毛布なき者が数万人である。
しかし軍の成敗は天に在る。
かくのごとく我々が苦しむのは、己れの求めて成す事にあらざる以上は、何事か天意のある事ならん。
天父の慈愛に頼って、各自の任務に忠実なるより為すべき事はない」
 と言う口調を洩らすことがしばしばであった。
彼の考えには成と敗の区別が明らかでなかったように思われる。
彼の心には勝負の考えがはなはだ弱かったごとくに思われる。
ただ己れの義務と思うことを為した以上は、勝とうが負けようが、己れの関するところでないとの考えが充ちていたように思われる。

 我が南洲翁もややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を吐露した。
翁が田原坂の戦いのころ、大山県令に寄せた書翰に曰く、
「もはや時勢も此に至り候てはさらに言語口舌をもって是非曲直を争い難ければ、腕力のほかこれなかるべし。
しかし天下の事は成敗利鈍をもって相判じ候訳にはこれなく、小生は正をもって起こり、正をもって斃るること始めよりの目的に候。
ワシントン、那波翁云々は中々小生輩の事にあらず、万一不幸相破れ屍を原野に曝し藤原広嗣等とその品評を同じゅうするも足利尊氏と成るを望まざるなり」

義務を完うするところに成功あり
 この思想はただ戦のみに関わることではない。
平生も持ちたい思想である。
世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。
して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免れるためには、いかなる事をも憚らない人が多い。
すなわち成功熱に浮かされている人が多い。
しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利である。
この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、人格を測るにさえ名利を標準とする者が多い。
たとえて言うと、
「あの人は近ごろたいそう成功しました」
 という。

「どう成功しましたか」
 と押し返すと、
「大分金が出来ました」
 とか、
「近ごろ大分名が聞こえて来ました」
 という。

 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測る標準は、事業にあると言われた。
この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、
「うまくやった奴が偉い奴」
 ということになり了る。
僕は決して名利が悪いとは言わない。
名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。
しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。
といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。
真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。
ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。
リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。
古人の教えたことにも富貴名誉を必ずしも避けない、その代りことさら迎えもしない。

「富貴名誉、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐繁衍、功業より来たるものは盆※(「木+盍」、第4水準2-15-27)中の花の如く、便ち遷徙廃興あり。
若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中の花の如く、その根植えず、その萎むこと立って待つべし」

ギリシアのソクラテスを見よ
 むかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある兇漢が来て、さんざん悪口を言って帰った。
かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、
「先生あいつ奴、いかにも憎い奴でございます」
 といったときに、哲学者は泰然として、
「なぜにくい」といったら、
「あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい」
 といった。
彼は笑いながら、
「お前は少し考え違いをしている。
彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、俺はちっとも恥ずかしめられたとは思わない。
自分が恥でも受けたような顔をしとったかね」
 と答えたという。
失敗もその通り、世の中で何某が大いに失敗したと四面楚歌の声が聞こえても、本の当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。
二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に召喚せられ、有罪の宣告を受けて、獄屋に投ぜられたときには、アテネの者が皆々嘲り笑って、とうとうあのおしゃべり爺も、あの年になって、本性露見して畳の上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら雑報に忙しく彼の罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく偽善であったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人を欺くの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる捏造説を書き立てたであろう。

 基督がゴルゴタの山上で、かの非命の最期を遂げたごときも、世人は、あの男もとうとう尻尾を現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには君子顔をしておっても、蔭ではだいぶ不仕末の事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、謀叛の目論見さえしたそうだ、始終下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして愚民を驚かしたそうだ、始終猫撫声をして女子供を手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。
いずくんぞ知らん敗けたと思った人が最後の勝利者たることを。

負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり

成敗は世人の眼に見えぬ
 その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。
成敗は実に世の眼には見えないものである。
如何となれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。
たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一奮発して十里先へ遠足する、とこう心の内に十里塚を目的として出発する。
夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。
自分の心に期しただけの事を遂げたのである。

 しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。
世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功と褒むる人もある。
しかして褒める人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、平易にいわばあたり前に考える人は少なかろう。
如何となれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということは考えの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。

 しかるに時には十里歩いたことをもって、非常なる成功と思って、僕は何か世に偉い奴であったごとくに賞賛する人もあろう。
かくのごとき人は日ごろ僕が歩き不精であるから、一里行くのも珍らしいのに十里歩いたのはエライとほめる。
しからざれば自分らが足が弱くてなかなか十里の道を遠しとしている連中ならば、これまたわが輩を誉めるであろう。
そうでなければ、わが輩が歩いた道のことを詳しく知らぬ人が、よその人から聞いて、この道は非常に悪路である、嶮岨だとか、危険の多い道だとか信じている人は、わずか十里ながらもえらいところを行ったと思って、わが輩は非常なる成功をしたごとく思う人がある。
しかるに実際は平坦な道を、荷物もなく折々休みながら、鼻唄うたって通ったに過ぎぬ。

 しかるに世人の多くは十里歩いた人の話を聞いて成功とはなかなか言わない。
まず第一に十里ぐらいはなんだと嘲りを心に催す。
この種類の人も僕が出立するときに、今日は十里の散歩をしようと、心に定めたことを度外視してわが輩の遠足を測る。
して十里の道ならば子供でもゆける、車引などは一日に三十里もゆく、普通の人間でもせめて二十里も歩かなければ、健脚を誇る権利はないなどという。
わが輩は車引でもなく、また健脚を誇る考えのないことなどは心のうちにおかない。

 古人の言に、
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
 とて、小人が英雄の心事を解し得ぬに譬えたが、この句は独り人物の大小の差を示すのみにあらで、小人と小人の間にも、大人と大人との間にも当たる言である。

輿論を標準として成敗は測られぬ
 リー将軍の治績を顧みても、これに変わったことはない。
彼に私淑する者は、彼の寡をもって北方の衆に敵し得たとか、南軍の貧をもって北軍の富に当たった、某戦場においては某将軍を破った、某月某日には某所において漲る流れを冒して川越えをなしたとか、その他かくのごとき逸事がある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を称揚する。
これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。

 またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地において衝かなかったか、なにゆえに彼は某所の包囲の時に、かくかくの作戦をしなかったかと、岡目八目や、あとから出る下司知恵を振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、彼の心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。

 世を渡るにはまったく輿論を無視するわけにはいかぬけれども、世人の考えをのみ標準として成敗を測ることは、はなはだはかなき業である。
勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、その基は各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。
成敗を慮るには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。
これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきを悟れば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。
自己の心の据えどころこそ成敗を測る尺度であって、この尺度が曲がらぬ以上は、いかなる失敗に遭遇しても心に憂うることがない、これ霊丹一粒、鉄を点じて金と成すものか。

第十一章 人生の決勝点

負けた時の用心
 昔の、経験ある武士の言葉に、
「勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身にいたる」
 とある。
戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背く事あるときはかくかくすると予め覚悟なくてはならぬ。
連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ない。
そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。
孫子も、
「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」
 と繰り返し教えている。
しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。
みずから手を下して自己の生命を短うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。
何人も生命の長きを望む。
しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。
ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予め負けた時の考えを用意して置かねばならぬ。
この考えある者は勝った時はなお慎みて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情に陥らぬ。

勝った時には精神上に保険をつけよ
 分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍子に身代をふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。
よいほどに儲けてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何人も知るところである。
艱難なしに成功した例はない。
艱難とはある意味においては失敗である。
もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき謂である。
ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を慮りてあるいは貯蓄するなり、あるいは新事業に手を出すことを慎むなり、あるいは繁昌に乗じて驕奢を極むることを矯めたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹慎を加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。
これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴に徴しても、必ずその例に乏しからざるを感ずる。

 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩を控えることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。

勝つとは何を意味するか
 勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。
勝つとはなにかと尋ぬると、おそらく世人は奇怪なる質問と思うであろう。
勝負ほど明瞭なものはないと思う人が世に多い。
しかし相撲を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。
数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。
また多年審判の任に当たれる行司さえも判定を下すに苦しむことがある。
まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。
また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。
世人が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々ある。

 中には為にするところあって、人為的形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。
たとえば相撲のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。
すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然に定まれる一定不易の圏でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。
「鳳」と「朝潮」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地を換えることもあるであろう。

 むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下を匍伏せしめたことがある。
市の人は皆韓信の怯懦にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。
しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。
しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。

負けて勝つ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信
 わが輩はしばしば思う、頸引きという遊戯は前に倒れるものが負けと定まっている。
しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。
もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。
ある狂歌師の作に曰く、
負けて勝つ心を知れや首引きのかちたる人の仆るゝを見よ
 ジャンケンで勝負を決するのも同様である。
石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固いから、石が紙に勝つというであろう。

 して見れば、勝つという語の定義を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優る、相手より超絶るの意であろう。
さらばただただ人より偉いと嬉しがるために勝つかと問わば、決して偉がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。
ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。
さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。
しからば勝つとは吾が意を遂げるなりと定義したい。

人生の勝利者
 こんなもので世の中でいわゆる勝負を測る標準は、人の実力や努力の標準とはちがう。
ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘のありさまを見れば、定めて可笑しきことがたくさんあろう。
世間で得意を極める人も、高き標準から測ったならば、最も卑むべきものとなりはせぬか。
耶蘇がその弟子に説いた言葉に、
「地上にありて最大たりしものも、天国にありては恐らくは最小なるものならん」
 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗を定める標準が追々違って来るかと思われる。

 この前にも述べたごとく野蛮の社会においては腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。
社会が一定の秩序の下に治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。
すなわち法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図るものが勝利者となるに至った。
しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。

 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。
あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。
して競争あれば必ず勝者と敗者がある。
一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉い勝者である。
また同じく敵と称する者の中にも種類が数多ある。
強きもあれば弱きもある。
赤鬼もいれば青鬼もおろう。
してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉い勝者である。
時には敵とは称せずとも吾人の勝つべき相手もある。
それは親兄弟、妻子、朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服さぬことがあれば、その不服の範囲において敵のごときものである。
ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。
楠正成の歌に、
我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ
 とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。

一時の勝利と永久の勝利
 こういう礼治的社会は、まだまだ前途遼遠なる今日の社会においては、勝利を得れば足れりと思う人も、単にいわゆる現代的なるをもって足れりとせば、これ一時の勝利者にして、ながき奮闘には負けるものと言わねばならぬ。
なんとなれば世の中の思想は、我々一生涯中にも次第に変わるものである。
ことに我が国のごときは十年を一期とし、おそらくは七、八年中には、思想が一変しつつあるかと思わるるほどに変化が多い。
昨日の非は今日の是となり、昨年の是は今年の非となることは、内閣の更迭ごとに起こる事実に照らしても分かるくらいである。

 またいわゆる思想に用いらるる用語を調べてみても、五年後には字書に現れなかったことが、こんにち日々の新聞に見ることを考えれば、今後五年にはいかなる新熟字、新思想が世に行わるるかは想像出来ぬ。
よし新熟語が必ずしも新思想を表さなくとも、旧思想が復活することであるとするも、一たび死んだ思想が再び蘇生し来たりて人心を動かすのであることは明らかである。

勝敗は長年月を経て始めて決定す
 僕はつねに失望する人を慰めんとするとき、あるいは自ら失望し落胆せんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。
ついこの間もしばらく会わなかった友人が来訪し、こういうことをいった。

「僕の友人で一時世にもて囃され、名望一時に高まったものがある。
僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を褒める声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。
二、三ヵ月経てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯罪者のごとき批評を受けるであろう。
しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。
そのサイクル(循環期)は十年は出ない。
七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾向が現れんとしつつある」
 と。
これは尋常の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。
もし非常の人物であるならば、彼に対する誤解も五年七年では済むまい。
あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。
富士山の測量はいまだ綿密に出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容易に凡人の見分け得るものでない。

 普通の人についてもその真価は即座に決することは出来ぬ。
まずは七、八年はかかる。
むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。
しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。
真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。
真の力がより以上の真の力のために圧迫されて始めて負けたということになる。
その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠者が韓信に勝ったといって得々たると同じである。

標準高き勝利
 かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。
ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。
いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。
これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。
しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。

 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。
たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。
この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。

 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。
少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。
僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。
世の中にはかかる人を重んじている。
しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。
ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。
しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。
世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。
すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。

 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。

勝敗の決勝点を高きに置け
 わが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。
ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。
しかしてこれを高きに置け。
すなわち金を儲けるのも儲ける道を純白にし、卑怯な方法にて儲くれば、これ奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を占めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北なりと心得、よし名を挙げるにしても、卑劣な賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚友人が潔からざる手段を弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声を海外に轟かすとも、さらに恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下して小さくなる必要もない。

 物質的利益に超脱し、名誉、地位、得喪の上に優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯に等しきものとなる。
真の勝利者は第一己れなる者を全然破り、己れに克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。
この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北のために歎かず、心つねに平々坦々として、定めし幸福なることであろう。

 孔子のいわゆる、
「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」
 とはこの心をいうならん。
これで基督は磔になりながら、
「われ世に勝てり」
 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。

第十二章 人生表裏の判断

表と裏とは物の存立条件
 人生の言葉はとかく相対的になる。
たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、表も裏も、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。
それゆえに口外に放つ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間々ある。
私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印象を受けるものもあり、はなはだしきは物いう花と早合点する人さえある。
言葉尻を捉えたり揚足を取る人ならば、花を好むというは、「戊申詔書」の華を去り実に就くというご趣旨に反く、違勅の逆臣なりなどいうこともあろう。
世の中には実際この筆法をもって人を罪せんとするものがたくさんある。

 また普通に甘党といえばいわゆる下戸を指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀遣いする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上戸下戸を兼ぬる人は決して少なくない。
こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。

 およそいかなる物でも物として表裏なきものはあるまい。
いかに薄き平面にても苟くも実物である以上は必ず表と裏とがある。
表裏なき表面は、ただ幾何学上に現れた理想的の形たるにとどまる。
幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の尖でさえも一分一厘の何分の一というように必ず量り得る大きさを有するものである。
線にしてもまた長さのみありて巾なしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。
ましてある面積を有する平面を備うるものは必ず両面がある。
雁皮紙のごとき薄い紙でも表裏はある。
綿衣、袷はいうまでもなく、単衣さえも表裏がある。
独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。
人体においても表と裏とがあって脊と胸とになっている。
ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。

表裏に善悪の区別を付する誤解
 しかるに表裏という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。
しかも裏といえばきっとなにか穢い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。
また陽といえばよかれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。

 実際世間の慣わしとしてはいかにも表門をりっぱにし裏門を粗末にする。
表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子なりと判断するは酷に過ぎたる批評である。
表門と裏門とに区別を設くるは世の風俗である。
ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。
かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。

 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。
否区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。
日々得意先を回る魚屋、八百屋、豆腐屋の人々の中に裏門を通用する際、かく粗末なる木戸をくぐらすは我々を侮辱するなりと憤る民主主義の人もあるまい。
またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末もない。
むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。
板台を担い笊を携えて出入する者が一々門番に誰何され、あるいは門を出入するごとに鄭重に挨拶されるようになれば、商売は煩くなりはせぬか。
むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便なる裏門を設け、面倒な礼を省くのが相互の便利とするのではあるまいか。

人生に表裏あるはむしろ当然
 人間の生計あるいは生活あるいは品行においていわゆる表裏(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。
僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難する中には、往々にして非難に値せぬものがある。
むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。
たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物と香の物ぐらいで済まされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身とか茶碗蒸しとかを注文する。
これは生計上の表裏ではないか。

 また家庭にありて一家団欒している際は、寒ければ綿袍を着ても用が足り、主人も気楽なれば細君も衣服の節倹なりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付に取替える。
これも生活上における表裏の一つではないか。
かく時に応じてその態度を改むることは、強いて偽君子の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。
表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍を着て行き、夏の日に真裸で行くものはあるまい。
かくのごときは物に表裏あることを弁えぬので、かえって世の秩序を紊すものである。

 世にはとかく、天真爛漫などと称し、世に行わるる作法に反するをもって快しとするものがある。
かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉われたるより起こる誤解であって、幽明の区別を論ずる者が、幽とか暗とか称すれば、それだけで悪感をいだき、明といえばそれだけで善良と信ずるに等しい。
しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子のいわゆる「夜気」は暗黒の賜である。
古の学者の言に、「好悪の良は夜気に萠す」と。

人の性質上の表裏
 しからば表は礼儀、裏は礼を省いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。
聖賢と言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟くもせず、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の娘でも同座せず、しかして早朝より裃をつけて四角四面に端座しているか。
かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫なものであり、また父たるその人もゆるりと寛ぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷を荷う人生において、かかる態度は重荷の上にがらくた荷を一層積むようなものである。
礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼不儀なりとは言われぬ。
裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。

 人の性質においてもまた同じような表裏がある。
しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄と異って、一も二もなく卑しきもののように思われる。
あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子なりと解せられる。
これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。

 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。
たとえば無骨一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分を唄う、これも一つの表裏ではあるまいか。
また髯もやもやの鹿爪らしき爺が娘の結婚の席上で舞を舞いて祝うことがある。
無骨一偏の者が測らぬ時に優しき歌を詠うとか、石部金吉と思われた者に艶聞があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。
しかしこれあるは決して矛盾でない、あるこそ当然である。
またこれあるところに人生の興味が深いのである。
すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励したいくらいなものである。

悪い意味における表裏
 我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。
表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。
反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益を異にするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質が悪ざまになりて、表向きでは一滴の酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。
外では勉強に見せて内では怠ける。
表向きではすこぶる謹厳の風を装いながら、裏面ではすこぶる放蕩する。
あるいはまた表面節倹で裏面濫費する。

 こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆる狼が羊の皮を被るがごときもの、俗にいう猫を被るのである。
これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情を異にしている。
つまり身分不相応に力を表門に注ぎて美麗宏壮に築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸が朽ち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも危険ならしむるがごときものである。
これでは裏門においてかえって人に迷惑を与うるものである。
表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。

 近ごろ我が国民全体が激昂したことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などは毫も眼中にない、否むしろ名利を犠牲に供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりて窃に私腹を肥すことがあったからである。
かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。

 またある党派のために一身を捧げるようなことを外部に標榜しながら、内部においてはひそかに※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)を反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。
こういうような実際矛盾している表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて正鵠を失し、混乱を免れぬ。

表裏の善悪を判断する標準
 しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。
僕はこれは表裏を備うる人の意志によるものであると思う。
僕のここにいう意志とは天性というにあい対して用いたのである。
ただ堅い一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは天性両面を備うるのである。
もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人を欺かんがために隠し、すなわち悪意をもって硬骨を衒ったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。

 しかしもしこの人が己れの弱点を制せんとする意志に基づいて、これを隠しあるいは包むとすれば、さほどに咎むべきことではないと思う。
むしろ場合によりては褒むべきで、消極的修養の努力であると思う。
元来普通の人はすべて幾分かの弱点を備うるものである。
この弱点に打ち克たんか、あるいはこれを包まんとするは、むしろ褒むべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかく己れの弱点を意識し、ために過失に陥らざらんと心づくことは諒とすべきことである。
こういう目的であれば、表裏があっても、たいして咎むべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手を欺くの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。

 しかしその当人が果たして欺く意志であるかどうかは容易に判断の出来るものでない。
とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外の驚きに打たれて、その人が故意に我を欺けりと判断することがある。
しかるに冷静にこれを考えると、欺かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度で、彼はことさらに隠しもせねば包んでもいなかったが、吾人がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。
人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。
着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴することもなく、また他人にそう思わせようとも力めず、自分の着物の裏は間に合せものである。
おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。
しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優る裏をつけているだろうと推量し、ことさら尋ねもせずに独り合点している間に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺いた、表裏のはなはだしい奴だと詈る者を多く見る。
先方が欺いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。
ゆえに一口にいえば悪い意味における裏面の有無を判断する者は当事者一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。

 近ごろ世間に海軍とやら本願寺とやら何々党とやらに関して、種々面白からざる表裏ばなしを聞くが、罪は悪むべきも、その関係者の人については、慈悲の心をもって当たりたい。
いわんや吾人は平素交わる人々について、図らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。
そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表と裏と、外と内と、皮と肉との別あるを心得ておきたい。

第十三章 広く世を渡る心がけ

好き嫌いと善悪とは違う
 子供が事柄について判断を下すを見るに、事の曲直、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌いという立場から判断する。
また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。
「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果でありますか、これが私の嗜みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮斟酌する言葉に過ぎぬのである。

「何の因果で」とか、「前世の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己れの嫌うものこそ善である、またその順序を顛倒して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用と事物の客観的価値と一致しないゆえである。
この傾向は決して独り婦人子供のみに限らない。
大人にもあり、しかも学者または識者にもあることである。
自然といえばそれだけで済むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己れをも傷つける危険がはなはだ多い。

 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来す憂いはない。
ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経たり、あるいは若い者でも少し思慮を深く用うる者であれば、この過ちに陥ることは少ない。
必ずしも、世間通りに従う理由はない。
もしなにもかも唯々諾々と、世の風潮によるならば、進歩することはなくなる。
しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷るのが、自分のためかつ世間のためであろう。
すなわち社会の安寧はそれで持って行く。

世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても
 しかるに何事についても消極的に世に処すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦しくなるのみで、
世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからだ置き所なし
 と嘆くにいたるであろう。

好き嫌いで人を判断する過誤
 刺身の嫌いな者は医師よりいかに刺身の消化よきこと、滋養分の多きことを説かれても、何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。
これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬の長なりと頑張って聴かぬものが多い。
心の好き嫌いと物の善悪を混同する者は実際を見る明を失う。

「凝っては思案に及ばず」というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみが映って短所は目に入らぬ。
この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく曲直の分別ができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。
はなはだしきは政治の問題についても有力なる某政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれを誤れるがごとくに批評し、たまたまこれを攻撃する理論が発見されなければ、説そのものは善きも、その説を来す動機がはなはだ卑しいとか何とかいって、説そのものをも卑むようになる。
ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。

測る物体と測る標準とが違う
 わが輩はつねにこう信ずる。
この世の中を渡るに嗜好はなるたけ人々により別なるが面白けれども、善悪の標準は一様でなくてはならぬと。
この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。
好き嫌いを測るものは道徳的物差しでない。
しかるに好きなものは善い、嫌いなものは悪いというように、愛憎をもって曲直を決することは、ちょうど物の軽重を計るに差金を用うるがごとくである。
長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。
測る道具と測る品物が往々にして異るので、この二者を混同するとつまらぬことに争いが起こり、互いに不愉快の念を生ずるにいたる。
ことに人に対して愛憎の念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを慎まねばならぬ。

 僕のごときも今日まで幾度となくこの過ちを繰り返し来ったもので、今にしてこれを顧ると済まぬことをしたと思うことがたびたびある。
ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い做した。
しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始終不正のように見ゆる。
また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを悪ざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。
これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、矯むべき人情、怪しからぬ人情である。
人は宜しくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超然たる人情に達せねばなるまい。

 甲が乙を評するにいろいろの悪しき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の過てることを一々指摘し説明しても甲の偏見はなかなかになおるものでない。
なにゆえかといえば、批評が客観的であるものならば矯正される望みもあるが、多くは主観的で批評する人が始めより曲解する精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。

 たとえば某の衣服はよくないという。
もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。
しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。
赤は派手すぎると悪くいう。
白くすれば幽霊のようだと非難する。
黄色にすれば坊主に似たりとか、紺色にすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が矯められぬ間は非難が尽きないものである。

反対説にも耳を傾ける度量を養え
 衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれを是とし、自分が承引しかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとく咎むるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。

 願わくは説が違ったときは、はてな、己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪の判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。
少しく自分の説と異なればただちに曲学阿世だとか、俗論だとか売国的説だとか異端だとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、度量の狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。

 前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。
今日まで学問の進歩は種々の異なった説から、互いに討議し批評して得た結果にほかならぬ。
昔は異説あると宗教の教えに背くとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。
その時代は人知の最も進まぬときである。
ちょっと聞いて自分の心にはなはだ嫌に思う説でも、一応は聞くだけの度量を養うことを力めたい。
さらに力めたきことは自分の嫌いと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。

 昔より私なしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、無私というは狭い量見のない、己ればかりが正しいのでない、また己れの利益のためでないという意味である。
たとえば孔子が『春秋』を書くに私心をはさまなかったとは、『春秋』に出る人物を批評するに好きだから褒める、癪にさわるから悪く書くというのでなく、好悪は論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。

狭き己れの好き嫌いで世に処するは危険
 僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、
「甲君、君は丙君と仲がよいか」
 と聞く。
甲は、
「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」
 といえば、乙はやや驚いた顔して、
「何のためだろう、丙はあちこちで君の悪口を言い歩くよ」
 と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を懐かぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合点がゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二心あるもので、僕に向かってはよい顔しながら、蔭にまわると悪口する、はなはだ卑むべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨拶しなくなった。
ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻然として悟るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。
しかし己れを嫌っている。
己れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。
やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。

 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。
よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。
かく思えば世の中は広くなる。
嫌いな者でも正しく見えたり、嫌な者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。
到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。

 せまき己れの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに憂き世の中がいっそう憂くなって、人を恨み己れを恨み、天を怨み、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一生を送るようなものである。

第十四章 報酬以上の務め

愉快なる台湾旅行中の不快
 しばしば台湾を旅行するに、その進歩の顕著なるに驚く。
昨年は宿屋もなく、道路も悪く、旅行に不便であったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという風で、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。
俗諺にもある、
「可愛い子には旅をさせよ」
 というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を甞めさせ、鍛錬させよとの意味である。
英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。

 台湾の旅行も愉快であるが、その趣は他の旅行とちがっている。
従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡台するものは、行く度ごとにその進歩が著しいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。
しかし強いて何か不愉快はなきやと尋ねらるれば、やはり往昔、東海道を旅行した人が、雲助のために迷惑を受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎夫が分からぬことをいって賃銭を強請ったり、この旦那は重いとか、荷が多いとか、轎の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免とか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。
言語が通ぜぬから、手真似や顔色やにて不快の念を表すが多い。
これが一番不愉快に感ずることである。

余のために轎を担いだ壮丁の好意
 中国式の轎は不潔ではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も都合よいが、轎夫のがやがや騒ぐために大いに楽しみの程度を低められる。
ことに天気が不良の場合に、轎夫が絶対に働かないで、途中に轎を置き去りすることがある。
これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と心細さといったらない。

 しかるに数年前、僕は台湾旅行の際同じ場合に逢って、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。
警官に依頼し轎夫の雇入を命令的に誘導的に周旋してもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、雨曝しになって進退谷まった。
この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、
「私どもが担ぎましょう。
もっとも轎夫としては御免ですが、壮丁としてなら参りましょう」
 といった。
というは、轎夫として担げば、相当の賃銭を受ける一つの商売である。
しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。
職業として轎を担うのでなく、また賃銭を要求するためでもない。
したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。
ただ官職を帯びて巡廻するものが、轎夫なきために一歩も進めなくては公務のために憂うべきことである。
ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。

 かかることはどこでも稀なることである。
台湾においてもまた稀であるから、ことに強く僕の感激を惹起こさしめた。

物の真価の誤れる計算法
 ローエルの有名なる詩中に、
「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。
生まるるときは産婆に手数料を払い、死すときは葬儀屋に桶代を払い、死後遺産を譲れば租税を払う、何ものか払わで済まさるべきものかある。
ただ自然の美のみは価なしに得らるる恩恵である。
三春の長閑なる、咲く花に囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者も貧者も共に享けて共に喜ぶ権利は異らない」
 と説き、さらにまた、
「この世の悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の価があって売買されるが、価なしに得らるるものは独り神のみ」
 と叫んでいる。
実にその通りである。
しかし情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄に深く染み込んでいる。
ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐くようになった。
ちょうど我々骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤の程度はさらに分別つかぬが、道具屋に欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。
僕が前年フランスに滞留して、教師を雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件の教師に、
「貴方はスペイン語が読めるか」
 と質したとき、
「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古するに何百フランを費した」
 と答えた。
どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。
その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。
これは一場の笑話であるが、活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤を採るものがたくさんある。
折々老人などが悴の教育のために何千円費したというを聞くことがある。
かく何事も金で計算する。
人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。

 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕人格を含むような印象を与うる。
この事は何人にもあることであるが、だれもまた快く思わぬであろう。
快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。

報酬以上に務むる教育者
 金銭を標準として人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。
ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世人はややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。
もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差支えないというのでない。
他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。
我が国の小学教師の俸給は非常に低廉で、平均十五円内外である。

 お互いの子弟を依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。
いわば霊魂の教育をお頼みするのである。
かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。
つい乳母や子守を頼むような気になる。
しからば教師たるものは何を標準として自己を律するか。
自分は実に薄給でありながらよく働く、俥夫さえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。
低いものである。
したがって自分は子守か乳母の真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の預れるものは日本国を負うて立つ後日の国民である。
中には貴族の子もあり富豪の愛嬢もあり、また学者の後裔もある。
これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向顧みないでやるべきか。

 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌憚なく吐いた。
また教師の中には悪口に値するものも数多ある。
しかしだんだん彼らと交あってみると、実に村夫子の中に高い人格を備えた人が、到る所にいるのを見て、心窃に喜んでいる。
おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。
僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報酬以上の務めをなすからである。

職業に当たる人の三段の区別
 元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。
報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。
次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。
第三は報酬以上のことを為す人である。
しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。
すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。

 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。
この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。
なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。
経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。

 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。
ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。

「僕は彼と同じく見られて困る」
 とか、
「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」
 とかいうことはしばしば聞くところである。

 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。
自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。

報瓊の志
『詩経』に、
「我に投ずるに木瓜を以てせば、之に報ゆるに瓊※(「王+居」、第3水準1-88-3)を以てせん」と。

 瓊も※(「王+居」、第3水準1-88-3)も、玉の名である。
人が我に贈るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品をもってすべしとの意で、かえって出来難きことながら、この句は世を渡るに常に心得べきことである。

 折々新聞に伝えられる某学者は何千円の俸給を取るが、毎日教場に臨み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引を引いてもちょっと分かるまい、俺が解いてやってもよいが、しかしそれは俺の月給では勿体ない問題である。
俺以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。
俺の月給が三千円となれば答えるという。

 これは一場の戯談に過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人にもある。
もちろん今述べたごとく、露骨なる形式に現れなくとも、如何ほど地位ある人にも起こり得る思想である。
しかし何事を為すにも報酬だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等なる一部なる欲が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。
よく世間でいうことに、「欲と二人で※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)ぐのでなく、いわば欲のみ※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)いで自分は何もせぬようなものである。

 極く冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛嬌または好意を持つと持たぬので自らその務めの捗りも違う。
まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温味があって、始めて完美するものである。
してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊魂の一部であって、金銭で酬いるわけに行かぬ。
すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に値するものと思う。

 とかく献身とか犠牲とかいうと、いかにも高尚に聞こえ、とても我々凡人の及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。
してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。
五十円取る人が七十円の仕事を遂ぐれば、二十円は俸給以上の働きである。
これを換言して説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠牲にし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。

 ただ、「己れを捨つるには、その疑いを処するなかれ。
その疑いを処すればすなわち捨を用うるの志多く愧ず。
人に施すにはその報を責むるなかれ。
その報を責むれば、施すところの心を併せて、ともに非なり」。

報酬的思想なき夫婦の関係
 人と人との交際に趣味のあるのとないのとは、金銭や物件で差引勘定の出来ないところにある。
いわゆる商売以外のところにある。
しばしばいうことだが、世の中は法治国である、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。
法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。

 英国の一紳士にしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本贔屓で、種々の著述もして日本を世界に紹介した。
さて数年前、有力なる某外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を論難し、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の監理権あるいは遺産に関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。

 その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、「他の人はいざ知らず、余が日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が如何とか、こういう水臭い関係より偕老の契りを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。
法律関係をまっとうするために同棲するものは真の夫婦にあらず」と。

 この言を味わうと夫婦間の親密とか貞操なるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。
その間の務めは報酬なしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわち温かき愛情より溢れ出たもので、朝夕この間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法に触れる、ああすれば「民法」何条に差支えないかといっていれば、一家存在の基礎がどうなるであろう。
またよしかくのごとく冷淡に法律的制裁のみによりて動くほどに堕落しなくとも、夫婦間に報酬的思想をもって交あったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。

報酬を求むる手段としての務
 僕の知れる某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑をもって称せられているが、あるとき僕に、
「世間の人は芸妓をたいそう卑しみ、悪く言いますが、私は芸妓よりも卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。
芸妓はお世辞を売品とし、彼方此方に振りまき、柔しいことをいうて、その報酬にポチを貰おうとするが、彼らは明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。
欺される人は、招牌見ないで店に飛び込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。
貴夫人などは貞操を招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ろうと思い、衣服を買って貰いたいがために、心にもないことを夫に述べて目的を遂げる人があります。
この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺くもので、神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣ったものと思われましょう」
 といわれたが、なになにの報酬を得るがために、事を為すくらい卑しいことはない。
貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏でも、月給を得んがために、礼を貰わんがために、ボーナスに与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。
世の中は聖人君子の集会でない、否、十人中九人までは小人である。
与うるに利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互いにその積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。

報酬以上の務めの真義
 各自の職務には分限があって、その範囲を脱するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。
ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕を揮わんとしても職権以外に出られぬ。
ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。

 職務の分量に止まらずして職務の品性をよくせよというのである。
十貫目の荷物を荷うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。
もっとも荷っても身体に差支えなく、またために全体に悪影響の及ぶ憂いがなければ、それも差支えあるまいけれども、なんらかの事由のために各自の重荷は十貫目を超えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷えとは勧めぬ。
しかし十貫目を荷うに苦い顔せず、喜んで荷いたい。
荷うさまを綺麗にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担げといえば、なるべく品よいものを担げというのである。

 かく比喩をもってしては、あるいは意味が解らぬか知らぬが、譬を変えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦い顔せず、また叱ったり不愉快な風に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。
また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。
出勤簿には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦い顔して教えても嬉しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。

 この事は決して教員に限ることでない。
役所や会社においても執務時間に、机の前に腰かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌くについても、ぶつぶつ囁きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異いはなくとも、その品質と、同僚に及ぼす感情には雲泥の差を起こす。
仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。

「施して必ず報ある者は、天地の定理なり。
仁人之を述べて以て人に勧む。
施して報を望まざる者は、聖賢の盛心なり。
君子之を存して以て世を済う」。

かかる心がけがあって人生の旅は幸福
 建物を建築するに、出来方は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工にいたるまで面白く快く仕事すると、他の一方には軋轢を生じ同僚を擲れとか、某がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。
「細工は流々、仕上を御覧」というが、物件ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。
細工する間の心持ちが大切である。
左甚五郎は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工しているあいだも精神を籠めたればこそ、その霊魂が彫刻物にも移ったのであろう。

 人世のことは何事にかかわらず微妙なる精神的作用があって、始めて自分の目的が達せられる。
かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞り、単に物質的方法のみによって目的が遂げられるというのでは足らぬ。
個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。
価値なき仕事に目をつけねばならぬ。
英語に value という字がある。
近ごろの経済学者はこれを価値と訳し、これに less を加うれば価なきもの、二束三文の価もない、つまらぬものという意になる。
しかるに物の価は price と称し、学者の価格と訳するものである。
これは less を加えれば前例によれば価なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実意味は正反対でとても金銭に換算の出来ぬもの、あまり貴くして金銭に見積もれぬものとの意である。

 最初に掲げたローエルの神のみ価なしに得られるというは、神は金銭で買うことが出来ぬというのである。
前にいった轎夫の賃銭は金銭で計算されるが、壮丁の僕に対する好意は金銭をもって換算できぬものである。
しかしてこれが一番貴重なる務めである。
こういう価なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝しの難を免れる。
こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路は真の快楽幸福を増すものである。

第十五章 逆上を警む

世界の耳目を集中さした共和党の大会
 大正元年の夏のころ、僕は米国に滞留していたが、そのころ日本の新聞通信にも顕れたことで、シカゴ市における共和党の大会は近年にない大騒ぎで、独り米国の一大出来事たるのみならず、世界の視聴もことごとくシカゴ市に集中した。
僕はシカゴまでは行かなかったが、直接または間接に関係ある人の話を聞いたり、新聞の報道を読んだりして、いかに人心が荒やいでほとんど狂するごときさまなるかを見て、これが日本であったならば抜刀騒ぎになるであろう。

 米国においてもせめて、拳骨ぐらいの喧嘩があるであろうと、大会の閉会になるまで、好奇心をもって種々の新聞に眼をくばっておった。
さなきだに犯罪や自殺多き夏の季節に、一万四千の腕白者が大都会の一堂に会合したことであり、群集心理の特徴として逆上しやすき時、出席者のうちの大多数は、自称政治家、自ら天下に我一人の気前の連中だからなおさらの事、一芝居の起こることを期待しておった。
しかるになんぞ図らん、開会の始めにあたり上院にその人ありと聞こえたルート氏が座長に選ばれた。
この人の手腕でも出席者の昂奮を撫め得ないであろう。
なにしろ会場における不満連の総大将兼黒幕としてはルーズヴェルト氏自ら采配を取っているという始末であるから、我々の考えでは珍事なしには終らぬと気遣ったのも、今思えば杞憂に過ぎなかった。

 開会中ルート氏が座長となって人波を撫めた手腕は凄まじいもので、当時の記事を読んで僕がつくづく感服したのは、かねがね聞いているアングロサクソン人種の秩序的なる一点である。
同氏の冷静にして、雷のごとく騒ぎ立つ数千の反対者を眼前に列べて、平然と構えて、いかに罵詈讒謗を浴せても、どこの空を風が吹く底の顔付きで落着き払って議事を進行せしめたその態度と、彼に正反対の論者が発言権を求めたとき、場内において発言を妨害せんとした彼の同志に向かって、
「我が党の歴史を顧みるに、反対者の発言を圧服して勝利を獲たる例しなし」
 との一言を放ち、却って反対者の喝采を獲たところなどは、その公平無私かつ度量の寛大なるところは、ほとんどドラマチックであった。
しかしルート氏には一度しか面会したことはないけれども、一目して判ることはその性格においてドラマチックの節のなきことで、この点が同じ米国人でありながら、ルーズヴェルトとは大いに性格を異にしている。
氏の演説であれ、氏の会話であれ、役人が平素執務の際にとる態度で、いわゆるビジネス・ライクである。
これがフランス人の会合であったならば、雄弁能弁ジェスチュアその他ドラマチックの動作がさだめしみごとなものであったろうと想像さる。

ボストン公園に見た言論の自由
 同じころボストン市に逗留中、日曜日の夕方、かの有名なる歴史的の公園地「コンモンス」にぶらぶら散歩したところが、道傍に二、三十人の労働者あるいは店の手代番頭めかしい者が一群をなしていた。
わが輩好奇心に駆られて近づいて見た。
喧嘩であろうか怪我人でもあろうか、手品師であるか物売りであるか、近づいて見ると年齢五十ぐらいの男が中心となって、地球は円形じゃない平面であるという新説を吐いていた。
しかも演説口調をもってあるいは高々に説明するにあらずして、平生の個人と個人との会話のごとき調子で、
「ネー、そうだろう、今まで僕の言ったことは君らも学理的だと認めるじゃろう云々」
 と言いかけると、傍聴者の一人で職工と思わしい若い男が、
「そりゃ君の説は勘定が少し違うぜ、地球の曲線の度は一マイルについて幾らいくらだぜ。
君の先の例に取った何マイル以上にある船の帆柱は云々」
 と、僕は最後まで聞き取れなかったが、数字をもってこれを駁撃すると、先の男が手帖を出して何か計算する。
その間にまた一方から、
「君の説はちょっと面白いが、学理より実験に戻るじゃないか」
 とやり込める奴があった。
僕はしばらく立って見ていたが、もの静かに思想を交換するさまは、昔ソクラテスがアテネの市場で道を説いたときは、かくもあったろうかと想像が浮かんだ。
このときも我が同胞であったならば、すぐに野次馬が乗り込んで来て、
「貴様の説はコロンブス以前の陳腐論だい。
ヤイ黙れ!」
 とか、
「小学校の二年級をやりなおせ」
 とか、
「ジジイ、おいぼれやがったナ」
 くらいの罵詈は必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこう側に二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、
「あれですか、あれは社会党の人たちです。
今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです」
 とはなはだ尋常茶飯事のごとき口調で答えた。
これが日本ならいろいろな嫌疑も受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。
すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々に群っている。
いずれも先の地理学新説の鼓吹者と同じように、談話的に互いの説を交換し合っている。

 いずれの群集を見ても少しも激しているものはない。
大言する者もなく、哂り嗤う者もない。
すこぶる真面目でさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。
僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群から丁群と彷徨して、その様子を窺ったが、かたわらに巡査がいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。
この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、容易に逆上せぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享有すべきものと思った。

前二例より帰納する感情の危険
 もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もなく、自治の精神が完全無欠に発達しているというは僕の意ではない。
実際かの大会においても、拳骨の撲り合いが会場の戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。
あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗に終ったかも知れない。
あらゆる犯罪の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁はあり得ることである。
して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。
しかるにたびたび言うとおり僕は他山の瓦礫を捕え来たって、自国の璞玉に比してみずから快とするの愚なることを信ずるから、常に他山の石を藉りて自分の玉を磨くの用に供したいと思う。

 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞とともに顧みたいことは、一時の激昂に駆られて事をなすを慎むべき一点である。
なに事をなすにも感情を交えることは危険である。
むろん感情と一口に言っても高尚な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気である。
とかくこの客気血気があれば考えに誤りを生じやすい。
一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。
ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象がさかんだとか、あるいは勇敢だとか、痛快だなどと称する。
しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御する人があればこそその方向に進んで行くが、御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。
発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑える力がないのである。
古人の曰く、
「この心を敬守すれば則ち心定まる、その気を斂抑すれば則ち気平かなり」と。

つまらぬ事に逆上する国民的弱点
 先を見ずにその場にて一時の快を貪る極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁を揮ってみたり、あるいは大声一喝、相手の人には痛くもない讒謗や冷評を浴せかけて、ドラマチックに喝采を受けて嬉しがるは我が国民性の一弱点である。
言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。
ゆえに何か大きな響のよい言葉を用いれば、己れを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。
たとえば仁義のために死するとか、国家の責任を双肩に担って立つとか、邦家のためには一身を顧みず、知遇のためには命を堕すとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実に詰まらぬことに逆上する傾向が多いことを目撃もし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。

 たとえば永く浪人しておった人が、仕官の途につき久しぶりに金を手にすると、金満家になったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。
来月分も来々月分も飲んでしまって、招待したお客の追従言葉を聞いてますます得意になって、しばらくたつうちにかえって一身およびその位置に対して不名誉を来たしてしまうことは、わが輩知人のうちにも折々見た。
あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を頂戴するか、役人であれば上官から重大な秘密を洩らされでもすると、俺より信用厚き者はないような気がして、すぐにその態度が変わり昨日まで同僚交際であった者を急に見下したり、にわかに傲慢尊大になる場合も僕はしばしば見た。
あるいは学問をしている者でも、はじめのうちは謙遜に、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究三昧に暇ない時は最も尊敬すべきときであるが、あの学位を得たとか、その学位を授けられたとかいうと、自分がいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、傍観しても見苦しいものであるし、かつ近づく者にも、学問とはこんな厭な臭気のするものかと思わしむる場合もしばしばある。

 あるいは道徳を語る人でも同じことである。
あの人は品行方正の人だとか、まことに正しい曲った事のない人だとか言われると、すぐさま君子顔になって、他人を見るに小人をもってして、世ことごとく濁れり我独り澄めり底の考えに逆上する。
かく言う僕も他人より賛辞を受けたことはないが、上に挙げた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺が筆を止めるところであろうか。
僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさらに鞏ければ、もっと大胆に論じたいが、自分で顧みて折々は逆上そうになったこともあった。
終りに述べる僕の実験談は普通に言う逆上るのとは違うけれども、その性質においては同じであるし、かつ僕に取っては逆上の訓戒としてしばしば記憶にのぼる経験であるから、恥を晒してここに述べよう。

一円の小遣いを一円の財布に投じた経験
 僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。
その節の土産として大枚金一円貰ったことがある。
そのころ僕の小遣銭は一週間に二十銭と定まっていたからして、一円紙幣を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。
そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大金を入るべき相当な財布を得ることであった。
ただちに袋物屋に走って種々の財布や紙入れを見た。
中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値段を糺すと一円ということであった。
すなわち懐中に持参の一円紙幣を払って空の紙入れを家に持って帰ったことがある。

 笑うにも及ばぬほどの愚なる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。
一身を顧てもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を儲けたからとて、無駄の浪費をしている人を見ると、彼奴め一円取って一円の財布を買っているわいと思う。
大いに勢力のある位置を獲たと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼奴一円の勢力を得て一円だけ威張って、あとは空になっているわいと思う。
学問なりその他の名誉を得て傲る者を見ると、彼奴も近ごろ一円貰ったばっかりだな、ああいう風にやっては明日の日の登る前に形無しになるであろうと思う。
とかく金に限らず、位置でも名誉でも己れに帰するときは、油断をすれば逆上してこれを利用するを忘れてただ濫用に陥りやすい。
逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ慎むべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお慎むべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから件の如し。

第十六章 富貴の精神化

弁士の富論
 アメリカの習慣で羨ましく思うものは、かの大学卒業式を熾にすることである。
いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概七月の初旬に行われる。
卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代の答辞とか、あるいは卒業生の演説とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。
その演説は翌日新聞に掲載され、某が如何なる問題について如何なる説を吐いたかが全国に行き渡る。
ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。
これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。
政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。
歴史を説く者もあれば、未来を卜する者もある。
自国の名誉を誇る者あれば、自国の短所を剔く者あり、実に勝手な説を吐いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。

 またこの式場に臨む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲ぶために出席し、地方の紳士淑女はいうまでもなく、遠方からもわざわざ集い来たる数ははなはだ少なくない。
僕は先年の初夏、親しく久しぶりで二、三の卒業式に臨み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言であるまいと思う。
いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓になっている以上は、招かれる弁士はただ能弁だとか悧口だとかいうだけの資格では足りない。
自らその人と為り、その品性を斟酌して招待するからして、演説に自ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕れるのはこの時であろう。

物質的米国人と思想的米国人
 例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。

 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。
ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。
してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。
如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。
「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。
君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。
折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。

 ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕れる。
ゆえに実業を重んずる、否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富を為す者も許多ある。
少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏めに纏めて攻撃の的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産を破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔なる紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。
しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。
また不正なる方法によって富を為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯するものではない。
不正なる行為は富の外にも行われる。
不正なる行為をもって名誉を得る者もある。
その代りには律義一色で金を拵える者もある。

 ゆえに富貴必ずしも不正ならず、子夏が「富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪と言えず、むしろ天の賜物という意に取れる。
袈裟と坊主が必ずしも伴うものじゃない。
いわゆる僧にあらざる僧も世には許多ある。
またその代りには袈裟を着た俗人もまた多い。
「貯めるほど穢ないものは塵と金なり」という諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥とても貯蔵法よろしきを得たなら、清くする工夫もあろう。
黄白に至りては精励克己の報いとして来たるものは決して少なくなかろう。
古人の言にあるごとく、
「祖宗の富貴は詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。

 人の立身や家の興るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨む心に曳かされて判断を誤りやすい。

富貴は方法なり目的にあらず
 また本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。

 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。
富む者必ず不仁ではない。
また不仁のみ富むわけでもない。

 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。

 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。
これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。
してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。
しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。

富者の権利と義務
 話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階を授けらるるとか、あるいは叙勲せらるべしという議論がさかんに行われる。
詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。
花も採り実も取る者はついに幹も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安寧も危くするものであろうと思う。

 今日いずれの国においても財産の安固を保障しない法律はない。
法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に嵩まるとも富を蓄積占有することを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。
この富む者はややもすれば己れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに載っている。
かつ偉大なものである。

 しかるに財産の義務なるものは、わずかにその負担する税額ぐらいに止まって、その額も重い重いと言いながら権利に較ぶれば、案外に軽いものと思われる。
ことに法文の読みようによっては、義務を忌避する道も随分ある。
ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口実をもって財産の義務をことごとく負担しないものがある。
現に我々が仮りに所得税の負担額を較べて見ればただちに判るであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々大臣、あるいは何々爵にして市内市外に許多の高甍宏閣を構えている人よりも以上の租税を払っている例すらある。
そんなら、彼ら大尽は地租の目の下に多額の負担ありやと尋ぬれば、彼らの園邸は宅地にあらずして、山林と登録してあるから、税率もはなはだ少ない。
かくのごときは財産の権利を享有しながら、その義務を負担しないというものである。
富が跋扈するというと、いつも米国を例にとるが、焉んぞ知らん日本にもその例に乏しからぬを。

 僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし何某なる個人を攻撃する考えは毛頭ない。
法文の曲解を難ずる意であって、僕は君子ではないが、人の罪を憎んで、その人を憎まないように心がける積りである。
ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお蓄財することがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに輿論がまだ未熟にして、富者といわんよりは富貴の義務を自覚しないことを難じたい。

経済状態と道徳的態度の変化
 昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済現象さえなかなか複雑になって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で如何ともできぬことがままある。
したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。

 たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に出会って、相談のうえに物々交換を行った。
こういう場合には値段を定むるに両者間の承諾の上に成るから、互いの満足のもとに終わる。
こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。
両者の間に仲買いあり卸売あり小売あり数人の媒介を経て、我々の最も簡単なる需用も供給せられる。
なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。

 なお進んでトラスト組織の下に製作せらるる物品は買い手の相談などは毫も省みらるるものではない。
この一例をもってみても諸色が上がるの下がるの、米価が騰貴したために貧民が困しむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と同筆法で解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の現象に対する道徳的態度も新たにすることは免れないと思う。

ストライキの動機でも英人と米人とは違う
 世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる観念を除いて、これらの問題は解決出来まい。
しかして人たる観念の内からは道義観念を排除することが出来ない。

 たとえば近来(第一次大戦以前)英国でしきりにストライキが流行る。
アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。
しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。
米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。
この差の起こる所以は、アメリカ人はもっと金を欲しい、自ら貯蓄して後日安楽に暮らそうというのである。
イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。
また人間としての娯楽を求めることも不可能である、金は要らんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。
両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという観念から来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は覚束ない。

 しからばとていわゆる社会党(わが輩は敢ていわゆるという文字を使う)の主張するように、現今の社会を目茶々々に破壊しようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。
今後は富貴の義務、労働の権利をば、法律以上に研究解釈して、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の安寧もまた真の進歩も望むべからざるものと思う。

黄金は土芥か宝珠か
 いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々に行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔っておることは誰しも感ずることである。
その根本的理由は経済的現象を人なる立脚点から見ないからである。

 かく長たらしく書いたことを回顧すると、僕の平生の筆法とは大分調子が異っておる。
国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。
国家も社会もイニシアチブがあるものではない。
人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。

 我々も、よし富豪者にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少であっても、その用法については大いに思慮を要することで、金を路傍の土芥のごとくみなすのはいかにも欲がなく潔よく聞こえるが、また丁寧に考えると金は決して己れの物ではない。
社会共有のもので、自分の懐に入っている間とても、なお一時社会から預ったようなものである。
いわば依託金のごときものであるからして、これを無意味に浪費しすなわち土芥同然に取り扱うことははなはだ怪しからんこととも言える。
あえて言葉咎めをするの意ではないが、金を土芥視するのも宝珠視するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。
すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧進歩は覚束ない。
昭憲皇太后の御歌に、
持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり

第十七章 実業を精神化せよ

米国実業家の人生観
 かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる拝金国の米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、否一歩進めてこの国の実業家の中に少しく品のよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。
その談話の要領は彼の言葉のままに挙げれば、
「二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。
その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を涵養することもなく、すこぶる乾燥無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。
その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。
今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、配当もこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。

 しかし僕は学問や技芸に不案内であると同様に、金銭についても正直お話するとはなはだ無頓着で、毎日金勘定をしながら金持になってなんになるだろうと常に思わないことはない。
子供の時から慣れた職業であるから今さら転職するのも好まぬし、よしまた金が要らぬというてわが輩が辞したならば、実際のところ社長にあたる人がない。
して君の知らるる通り僕には妻もあり子供の二人もあることゆえ、自分は金がつまらないといって、山に引っ込んで妻子の苦労も顧みぬというほど、僕はいわゆる神聖な人にはなりかねる。
また妻子を苦しめて自分のみ潔よいということがほんとの神聖とも思わない。
天が我に子供を与えた以上は、彼らをして僕以上の者にするだけの義務は僕にある。
また自分の妻についても、自分が世を去ったあとで寡婦として暮らすばかりも気の毒であるに、衣食に不足のことがあるようでは、なんとも天に対し妻に対し妻の家族に対して申し訳がないと思えばこそ、金の貴いこともいくらか知るが、今日のところでは幸い後顧の憂いがないだけになったから、なんだこの金はと思う気が常に僕の頭を去らない。

 もっとも君の見らるる通り、僕の家には、装飾品もなければ骨董品もないし、また僕の着る着物は、家内のも子供のも同然、流行には添わない。
友だちにもたびたび、せめて時計だけは金のに代えよなどともいわれるけれども、この銀時計は子供のときから持った慕しい記念物だから、これを離すわけにはゆかぬ、もっとも二、三ヵ月前に自動車を買ったので、やはり流行にかかわると笑った人もあったが、笑う者に説明する必要はないけれども、僕の真情を明かしていうと、僕の息子にだけは時勢に遅れさせたくない。
して自動車はもはや贅沢品ではない。
今後ますます発達するものと思えば、将来世に出て働く者はこれしきのことは心得ておらなければならぬし、かつ子供に器械だの物理だのの観念を養成さすには、何か彼が興味をもって当たる物を与えなければ、書物の学問だけでは実際に迂くなると思うから、僕が要るような顔をして実は子供に運転と使用とを馴らさせるために買った云々」
 と長時間、真情を打ち開けて話した。

個人的利益と国家社会の利益
 僕はこの男とかねてより親しくしている。
彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨殖に関する態度を初めて聞き知った。
僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。

 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、己れの身を犠牲にして、社会に貢献するところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。
その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。
己れを捨てて社会の利益を図るの望ましきことはいうまでもない。
事を為すに国家観念より打算するもはなはだ嘉すべきことである。

 その宣言を非難するわけではないが、その実際は如何と尋ねられれば、ややもすると国家社会は言うまでもなく、己れの友人親戚にさえも迷惑をかけて自分のみ得々として金を作ったり、あるいは自分一個の快楽のみに金を費している者もすこぶる多きに驚かざるを得ない。
ゆえに僕は実業に志す人に、社会国家を忘れろとは決して言わないけれども、口に出すことだけは遠慮するほうがよかろうと勧めたいくらいに思っている。
いかなる事業でもおそらく社会に必要なる事業であれば、宣言もせずしても社会に貢献するのである。
かつまたこの事業に関係する人も直接犠牲を払うの必要はない。
仮りに何か事業を起こすとする。
この事業にして果たして社会に必要あるものならば、それ相応の需要が顕れて、この会社も相応に繁昌し、その結果相応の利益を得る。
もし会社にして利益を得ないとすれば、その仕事を社会が要求しない証拠で、要求しないものを押売りしようと思えばこそ、国家事業であるから世間の人に私の品物を買えと叫んで押売りするようなことになりはせぬか。

 社会の需要よりはるか進歩した事業でも、あるいは社会の指導者または模範ともなるような事業であっても、珠盤となればいかに勘定しても間に合わぬというごときものならば、かくのごときことは私人のなすよりは直接あるいは間接に国家そのものがなすのが至当であろう。
もっともこの問題については経済学者、財政学者の起点より見れば、解決をするに許多の考慮をせねばならぬことであるから、ここで論ずる範囲でないけれども、だいたいにおいて個人なりあるいは私設会社がなすべき経済行動は、国家社会のためといわんよりは、その個人その会社の利益のためだと公言しても恥ずることはないし、また実際に当たっているのである。
英米独仏いずれの先進国にしても、経済上発展を遂げたのは個人の利益を主としたからである。

個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益
 かく言ったからとて僕は憎むべき意味における個人主義を唱えるものではない。
西洋にいわゆる個人主義なるものには必ずしも悪い意味が入っておらぬ。
すこぶる高尚なる意味をふくましむることの出来るのは、ちょうど社会主義なる言葉の内にも必ずしもおそるべく憎むべき破壊的なる思想をふくますべきものでなく、穏な高尚な建設的なる内容を、含蓄せしむることが出来ると同じである。
実業家がその業につくに、個人の利益を旨として差支えないと断言するについても、読者の曲解なきことを切に望む。

 国民が各※(二の字点、1-2-22)個人的の最良なる利益を図ったならば、その結果はおそらく社会と国家との利益になることであろう。
僕はことさら最良なる利益なる文字に力をいれて言う。
我利々々亡者連が他の者の事業を妨害したり、競争者を中傷したり、人身攻撃をしたり、捏造説をはいたり、その他卑劣な方法によりて得る利益は、僕のいう最良の利益とはあい反するものである。

 最良の利益とは正々堂々と人の前でいって恥ずかしくないことをいうのである。
この冒頭に話した米人の己れの一家のよろしきを図るごときは、人に対して何の恥ずるところもない。
もしこの男にして一家の驕奢を図り、その妻には流行の先駆者たらしめ、あるいは子女をしてだらしのない娯楽に耽けらしむることをもって、己れの利益とみなしたならば、これはまさしく恥ずべきことである。
しかるに己れよりは一歩進んだ人に育てあげようという目的ならば、これまさしく国家のため善良なる市民を捧げるのであるから、国家のためといわないで、確かに国家の利益を図っておる。
かつまた己れの事業にして繁昌すれば、営業税も余計に収め、もって国家に対する負担も喜んで増し、また海外に輸出額がふえればこれまた国産に貢献することであるからなおまた国のためになる。

国家のためという誤解の危険
 これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業は己れには不利であるが国家的事業であるから、身を犠牲にしてこれに当たるなどいうことは、言葉を換えていうと、国家が個人に要求することのあまりに多きことを意味することになる。
もちろん一旦事ある時は個人の利益や個人の財産生命も投げ出さねばならぬが、平生何事についても国民より重い犠牲を要求するような国家は、国家の一大目的に背いているもので、はたしてそういう国家が今日世界にあるならば、永続の覚束ない国家といわねばなるまい。

 幸いにして我が国では相当に税は重いとはいいながら、まだまだ個人の営業について、しばしば犠牲を要求するほどに弱いものでないのはお互いに慶すべきことである。
僕の友人が地方に巡回して農民に勧めるときに、お前たちの仕事は実に国家的の事業であって、昔から農は国の本というたくらいであるから、いかに苦しくも、いかに利益が薄くとも、国家のために奮励せよと説いて歩いた。
かの意味は、多分農民みずからが奮励して、農業を利益あるようにせよという意味であったろうけれども、普通農民の耳に入ったときは、やはり昔のごとく強制的に労働をして、ただお上に運上を収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。

 晨に星をいただいて出で、夕に月を踏んで帰るその辛苦も国家のためなりと思って甘んずればよいが、なかなか普通人情として甘んじてのみいるものでない。
しかして甘んじないときは国家が己れを苦しめることのはなはだしいものである。
こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。

「国家」というよりも健全なる個人思想が大切
 僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の観念は貴ぶべきものにして、独り教育のみならず実業においても涵養すべきものであると思う。
この観念の涵養は漫りにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。
これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。
ちょうど欧米において宗教の力の最もさかんな時には、何事についても上帝やキリストを担ぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。
たとえば療法にも信仰だの加持祈祷だのを混合する。
もちろん病気によってはいわゆる気の病いもあるから、心の持ちようで癒る病気もあろう。
してこの類の病気には信仰が著しく功を奏したろうけれども、黴菌から起こる病いのごときに至っては、宗教が入り込んではかえって療治の邪魔になることが多い。

 教育においてもそうである。
僕自身は宗教なき教育は人の心髄を動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を阻害するものと思う。
と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、(僕は非常の時を言うのではない)かえって実業の邪魔にもなり、また国家愛国の観念にも疵をつける憂いがある。

 かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。
さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。
すなわちその妻子を思うの感情、一口にいうと自家の感情である。
これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。
もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。
我が国の誉として我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を殺すまでして出陣した例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野蛮に聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆賞を買うものである。
ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。
ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶叫しない。
しかし西洋の人は戦いに出る時も炉辺と家庭と for hearth and home を揚言する。
ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が仆れても自分の炉辺に差支えなければ平気でいるかというとそうでない。

 学者は社会の進歩の秩序として、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧州の進歩は果たしてそういう形跡を現している。
日本の歴史にして果たして西洋史と轍を同じゅうするものならば、我々も近ごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に堪えないと同時に、健全なる個人的思想に伸びて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。

人生を甘からしむる心がけ
 今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭に掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合いに基づいて)己れの日々の事務を怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己れの預っている職務に忠実にして、なおかつ思想は高く俗界を超越して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料を施しても収穫以上に目的を置き、教師が教場に出ても志を遠きに着け、役人が執務するに、俗務のために没却されない、すなわち一言に縮めると、吾人が人格としてまったく世を隔れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的関係と平面的関係との調和を始終図って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。

「軒冕(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。
林泉(田舎の意)の下に処りては、須らく廊廟(朝廷)の経綸を懐くを要すべし」と。

 吾人は、いかなる低き、いわゆる卑しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。

第十八章 知らぬ恩人に対する感謝

英国碩学の観たる神道の要旨
 先年交換教授として渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、神道に関する書物を読んでみた。
そのうちに英国の碩学、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、神道は知恩と愛情の宗教なりという一句があった。
これが僕の眼に大いにとまった。
また同氏の説明を見てますますこの一句の味わいが理解せられた。

 その後ある友人が、日本の神道を研究するには、必ず黒住宗忠の説を窺わねばならぬと注意してくれて、懇にもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。
これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、否、誤らざるどころでない、実によく穿っていることを感じて、その後ますます恩誼を知るの感を深めることについて、心のうちに努めている。

知恩は日本民族の特長
 古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固有な思想が一つでもありはせぬかと、鵜の目鷹の目で、本邦の制度やら歴史やらを調べると、神道だけは純粋なる大和民族の思想であることがわかる。

 もっともこれとても、儒教が入って以来、その説くところやら、その儀式がたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教理さえも変化し、おそらくこんにち神道の名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神道に固有なものであるまいと疑う理由も確かにある。
僕はさきのアストンの言および黒住氏の所説を読んで、これを現に我が周囲に行わるるいわゆる神道に比すると、ちょうど『新約聖書』の福音書を見た目で、天主教の儀式を見たときに起こる感よりもさらに不愉快なる思いを起こす。
ゆえに僕は神道の純粋なる教えを重んずると同時に、その名を冠っていろいろなる迷信を説いたり、あるいは頑冥な排他的主張を恣にする神道の宗派をいうのではない。
アストンにしても、黒住にしても、その説くところ間違いなきを保し難いが、我が固有の教えは知恩の念に満てるものなりとの一条は過ちなしと信ずる。

 しかして神道が日本民族固有の観念を代表するものならば、恩誼を知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。

恩の観念は固有か輸入か
 しかしここに奇態に思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の無学のために知らぬのかは測られぬが、恩という字に和訓のないことである。
こういったなら、和学者のお叱りを受けて、こういう訓がある、ああいう訓があるという反証が出るかも知れぬが、それにしても、これほどな大和民族の特長が、普通一般に漢音で流通していることは情ない。

 恩の漢音はすこぶる発音に便利で、耳障りもよいから、ながたらしい大和言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは簡単であるからとて用いる。
単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあっても稀である。

 マッチという詞は今どんな田舎でも用いている。
しかるに僕の子供のときは早附木といったものだ。
今はそんなことをいうものはほとんどない。
早附木というよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。
さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たった詞なら早附木をマッチと替えることはない。
従来は附木だけはあったが「早」なる形容詞を冠せて通用させようとしても通用しなかった。
「ランプ」を行燈とも手燭とも翻訳しない。
ペンのごときは僕らが始めて洋学を修めるころには筆または金の筆と訳したものだ。
しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。
金の筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。
さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。
そこで恩という言葉も発音の易きからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。
恩なる観念はやはり儒教、仏教から入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。

 僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ漢音なれ、思想は大和民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を明瞭にする一条である。

日本人ははたして恩知らずか
 単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは黒住の教えが黒住という個人より起こったもので、大和民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでも恩を知ることは神道の基礎、大和民族の美風なることを信じたいのである。

 西洋人はともすると、東洋人は恩を知らないという。
また我々とても相互に、彼奴は恩を知らぬ奴だといって悪口する。
恩を知るをもって大和民族の特長などと誇っても、しばしば自分に顧みないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。
否、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。
また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ鑑別しにくいものである。
このへんの弁えを誤ると、とかく他人の眼には、恩知らずの感を与える。

 ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。
すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。
すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむる惧がある。
そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずの譏りあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここには省こう。
ここではもっと手近い、お互いの間の交際上、恩誼の観念について注意すべきことを述べたい。

思わぬところに恩人が潜んでいる
 恩を説くに当たって、いわば恩の部類について一言したい。
四恩なるものはなにかとか、あるいは中には五恩六恩と数える人もある。
けれどもこれは我々によきことをしてくれた相手によって分けたことで、たとえば向こうの人が君だとか親であるとか、天であるとか地であるとか、友だちであるとか、あるいは従僕であるとか、それぞれ恩を施してくれた相手によりて区別したるに過ぎぬ。

 受身の立場からいうたら、目上の人から受けた恩よりも、目下の者から受けた恩のほうが大きいこともある。
自分の君公からお古の裃を頂戴するのは、昔では非常の恩誼とみなした。
しかし自分の従僕が一命を捨て自分の難を救うほうの恩誼ははるかに重いと僕は思う。

 あるいは君なるものは自分に対して常に衣食を給していて日ごろ生命の基である。
ゆえにこれに報ゆるに常に生命をもってすべきものを、自分の生命を取らずにかえって裃の一組でもくれるというは、その物は僅であっても、その心は我々の期待するよりはるかに以上であるから、その重きことは日ごろ給料を与えて、自分のために忠勤を擢ずべき義務をもっている従僕が、たまたま難に遇って自分を救ったよりは、ものそのものはいかに軽くとも、君公の賜物のほうをはるかに重しとすべき議論も一通り立つから、僕とてもあながち絶対的に君公の拝領物は家来の命より軽いと一般にいう訳ではないけれども、君公だとか従僕だとか、社会的の区別をすればこそ、些細のことが大きく思えたり、重いことが軽く見えるが、自分のために宜きを計り、自分に尽す親切の行為を計れば、思わぬところに僕の恩人が潜んでいて、その人の恩誼をさらに感知しないで、見当違いの方に無闇に有難がっていることもあり得ると思う。

 であるから、僕は如何なる人が、如何なるほどに、僕のために心や身を労してくれたか、つぶさに考えて、これを常に心に銘じておきたいと思うのである。

人も知らず自身も知らずに受ける恩
 ただこの事について心に記憶したきことは、明らかに我の耳に達したこと、あるいは我が目に映った行為のほかに、人も知らず、我れ自身も知らないでいる恩がたくさんあることである。
かくのごとき恵みが人生の中に数限りなくあることを常に記憶に存しておきたい。
たまには誰が告げるとはなしに、ふと心に有難味を覚えて、ほとんど相手知らずに帽を脱し、跪いて、有難さに、涙に咽ぶこともある。
誰しも必ずこの経験があるだろう。
もしこの経験のない人あらば、そは不幸な人である。
天の恩はいうまでもなく、朋友や親などのすることに、とかく秘密にわたって、受ける本人は夢にも知らぬことがしばしばある。
なにか面倒な事件があって、これを処理しに出かけると、案外にもすでに半分以上解決されておったなどということがある。

 これは不思議と思って、だんだんその理由を質すと、前日友人が来て半以上悶着を解決しておいてくれたなどということが、数日あるいは時によっては数年経って初めて発見されることを自らも経験したし、世には必ず同じことを感じた人が数多あろう。

今もなお不明なる僕の受くる恩
 はなはだ事が私事にわたるようで、ことに小なことで、人に語るに価もないか知らぬが、かほどな些細なことも、好意をもってすれば、かほどに人の心を感動せしむるものであるという証拠に、ここにこれを述べる。

 僕が札幌の郊外に一個の墓をもっている。
札幌の天地は僕の青年時代に学問したところで、さなきだに第二の故郷として慕わしいが、この慕わしき念をいっそう深からしむるものは、この小さき墓地である。
ゆえに折々かの石碑の周囲に雑草がはびこって、見すぼらしくなりはせぬか、石が倒れて見る甲斐なきようになっておるまいか、悪戯の子供らが石の上に落書でもして不作法になってはおらぬかと、折々心を痛めることがある。
それゆえ友人に頼み、ついでの時に見巡ってもらったが、彼が墓所へ行ったつど、報告してくれるに、いつでもいつでも草はきれいに刈られ、周囲がすこぶる整然していると。
ここにおいてあまりの不思議さに、同じ友人に依頼して誰が掃除してくれたるか、もし判ったならば礼もしたいから、住職なり番人なりに質してくれと、いって送るけれども、友人の穿鑿ではなかなかかくも墓地に対して好意を示す人を探し得ない。

 今もなお僕にはその人が知れない。
しかるにこの事たる、事態は茶話の話題にもならぬくらいなるが、僕にとっては人情のまことに柔かきところと深きところとを窺わしめて、感謝と喜びの念を深からしむることが少なくないのである。

 それにこの行為をなす人はおそらく唯一人であろう。
しかるに誰ということの判らぬ間に、僕の心には果たして一人であるか二人であるか三人か、加之一人であるにしても、あの人であろうか、この人であろうかと推量を運らすのが大勢の人に関するから、つまり大勢の人が僕には恩人のごとき感を与えている。
渡る世間に鬼はない。
かれこれ僕は大勢の人に非難を受けるけれども、また世には心からしての友があるという自覚を強からしめて、折々不愉快なことのあるあいだにも、かくのごとき小な事が、燈明のごとく輝いて、人生の味を甘からしめる。

惨憺たる一高の入学試験
 僕が第一高等学校に在職中ことさらに僕の感じたことがある。
それはある夏学校の入学試験の際であったが、今は名も知れているけれども、これを明かすの必要もなし、あかしたならかえって迷惑の種子ともなろうから、姓名を省いて話そう。
あるいは偶然にも話題の主の人の眼にこの書が触れたならば、あの時の男は彼であったかと思わるるであろうが、僕はこれを美談と思うから隠さずに話する。

 七月の初め、一週間ばかり続いた暑さの強い日がちょうど全国の高等学校入学の試験の定日であった。
中学を卒業した四月から、以来は三度の食事も省略するほどに時を惜み、夜も眠らず、眠気がさせば眼に薄荷までさして、試験の準備に余念ない三千ちかくの青年が、第一高等学校の試験場に群り来たり、いよいよ教室に入るその刹那まで、準備を怠らぬくらいであるからして、試験以前の十日間の勉強は実に兵士の戦闘準備どころか、実戦にとりかかっていると同じ感がする。
すなわち試験以前の一旬間の惨憺たるさまは父兄友人はいうまでもなく、少しく今日の日本の教育並びに試験の制度を知るものは、察するにあまりありというくらいである。
ゆえに中には試験の始まる前に、すでに根気がつきたり、病に罹ったり神経衰弱あるいは脳貧血あるいは不消化不眠症等に罹るものは、おそらく百をもって数えるであろう。

入学試験中、俥を待たした不思議の婦人
 さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。
僕が各教場を通って廊下に出て、玄関の側を歩んで来ると、ちらりと眼に映ったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車挽と、これを隔つること一間ばかり傍に、袋を手にしている四十ちかくの婦人であった。
試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見張り監督していても、ただ水を打ったように静寂を極めて、廊下の板をふむ巡視の靴音さえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき様であるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小使に代って、この婦人に向い、その用を質して、
「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄宿寮に御用ならば、そちらの玄関でお尋ねなさい。
ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」
 と心附けたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、妙な顔をして、
「ハイ、ここで待っております」
 というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、
「貴女のお尋ねになる方は、ここにいる人ですか」
「ハイ、いま試験しております」
「そんなら、先生ですか、生徒ですか」
「生徒でございます」
「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。
試験は十一時までですから、もう二時間もあります」
「ハイ、それも承知しております」
「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非道ですから、あちらに休む所があります。
それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。
そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら宜うございましょう」
 と心附けたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、
「ただこちらで待っております」
 というだけなので、僕はますます奇態に思って、かつ側に俥のあることゆえ、何か容易ならぬ仔細もあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を質したところが、
「今試験をしておりますが、昨日自宅で眩がしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。
まさかの時には連れて帰るつもりで、俥を頼んで参りました。
それに今朝飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」
 といいながらしきりに懐の中に手を入れて、薬を出しそうにするから、
「私がその薬を飲ましてあげましょう」
 というたが、
「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」
「それじゃ、名はなんといいますか」
「…………」
「何番ですか」
「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」
「ここの試験では、毎年三、四名ぐらい眩する者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始終気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫でしょう。
しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」
「…………」
「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監督の先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」
 といったので、始めて何部の何番ということを告げたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも件の婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判然した。
彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない態であった。
僕は係員の先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄関に来たときは、母なる人の姿も俥の影も跡が見えなかった。

見る人毎に有難からぬ人はない
 十一時の鐘が鳴ると同時に彼も教室を出て、下駄をはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は認めた。
これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を出ずるを見送った。
彼は友人と肩をたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳髄はただ試験の答案をもってのみ満たされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。
しかるに奚ぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を経、その翌日もまたその翌日も無難に経たことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。

 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護する母の情愛があって、始めて無難な試験を経たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。

 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。
かくのごとき恩愛は人の眼を忍んで、世にあまたあると信ずる。
いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に満ちていると思う。
ただこの満ちている情愛に触れていながら、これに感ずるに鈍きわれわれの心情こそ、遺憾至極である。
感応の力にして鋭敏であるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。

 黒住教の開祖宗忠翁の歌に、
有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす人ぞ一とく
有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす身こそ安けれ
有りがたや心の雲もはれわたりうきよの雲はとにもかくにも

第十九章 言葉の心

名は命名者の心を表わす
『荘子』に「名は実の賓なり」とあるごとく、実は主にして名は客である。
言葉も同じく考えの賓、思想の客なりといいうると思う。
一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛んに流行る。
しかし名と実とが相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。

 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。
言語の用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足る。
遊ばせ言葉は暇つぶしでかつ煩わしい。
言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自ら物や思想の実を現すだけで用の足るものでない。
二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。
すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。
古人の曰く「言者身之文也」と。
日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」というが、これはただ品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。

 僕の知れる老人に滑稽趣味に饒なものがあった。
封建時代には従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。
かつて彼が使っていた若者を冷しながら、
「貴様が笑うときの顔はまるで猿のようだ。
これから姓名を改めてはどうだ」
 といい、真面目になって猿嘉という命名書を与えた。
爾来この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉氏を称している。
また老人の親戚中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳と命名したという。
これらの命名は客観的にその人々の特徴を言い現したものだといえば、名は体をあらわすといわれる、いわゆる名詮自性とやらである。
しかし若者某のごときは、ただ笑うとき猿に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。
おそらく他にも種々な特徴があったろうと推量する。
彼が怒る時は鰐のごとく、酔った時は河童のごとく、しかして睡った時は仏顔であったかも知れぬ。
また半耳君にしても然りである。
彼は耳に異状がありしとするも、口なり鼻なり業平をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。

 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘したのである。
彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。
もし好意をもってすれば、猿だとか、耳朶が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。
ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。

言葉はこれを用いる人の心を表す
 用語においてはなおさらである。
これは何人でも経験あることであろう。
同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。
優れた人を評するにつけても、
「あの男はエライ」という者あり、
「エラそうだ」というもあり、また、
「エラぶる」というもある。

「まるい鶏卵も切りようで四角」。

「物も言いようで角が立つ」。

 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。
ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。

 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、
「巧言令色の人、阿諛※(「言+稻のつくり」、第4水準2-88-72)佞の人」
 と評するし、乙は、
「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」
 という。
また丙は、
「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。

 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。
乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。
同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。
またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。
同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。

 こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。
また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。
なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。
ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。
この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。

 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。
寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。
賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。
同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。

同じ事が弁解にもなり有罪にもなる
 僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。
彼は日ならずして無罪を宣告せられたが、逮捕の理由は彼がある嫌疑者に数千の金を与えたというにあって、裁判官が、
「なにゆえに貴様はかかる大金を彼に与えたるか」
 の尋問に対し、彼は、
「彼が嫌疑がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄の身となるも悔ゆることがない、ついては若干の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片の義侠、これを否むに忍びず、彼のために出金した」
 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者なりとみなした。
すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告げた。
友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴にだも値せずと絶叫したと聞いた。
金を与えたという事実は同一なるが、これを叙するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。
してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。

かくの如き曲解も起こる
 また僕の知人にてある所で演説したことがある。
始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。
自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。

 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。

 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。
講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。
同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。
いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。

不快の感を与うる言語
 我が邦には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。
そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。
また「何々をしてやった」というも一例である。
まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「上った」というのでむしろ鄭重な言葉と思うであろう。
しかし日本人間にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。
たとえば、
「何某は死にやあがった」
「誰は結婚しやあがった」
「勉強しやあがった」
「昇進しやあがった」
 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。
これはおたがいに常に耳にすることである。
僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快に思い、また人を陥るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐く。

 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。
むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。
僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。
かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。
自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪に障ったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹んだようだったと。
僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰く、
「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。
なにぶん言葉が不完全なので、明瞭にその言うところの意味がわからなかった」
 といい、進んで滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。
つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。
かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋かつ小であって、先方を困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。

 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。
しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。
数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。
この場合においても記者がいかに某を重大視し、某は彼に対して無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終起こる。
こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。
おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。

邦人間に行わるる嘘の原因
 そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。
その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。
一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。
ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。
これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。
言う者はあえて嘘をいう考えはない。
何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。
輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。
しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。

 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。
すなわち感情が事実に混じやすい。
ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。
天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。

 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。

 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、
「貴下の柔順なる忠僕」
 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、
「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」
 の厚意を述べた語である。
いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。
少し正直な人は惑わされる。
古人の歎ける一首に曰わく、
偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし

心から湧き出たものが真の言葉
 用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。
ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。
『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。

言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ
 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。
婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。
言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。
僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。

第二十章 忠告の取捨

教訓を責道具に使うなかれ
 こういう僕もこれより言わんと欲することについて、自ら反対の例となるの恐れなきにしも非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。
読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。

 老人らが懇々と吾人に身の治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前の話をしているわいと、馬耳東風に聞き流すことが多い。
また吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底で笑いたくなることもある。

 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽の金言と称せらるる教訓に触れても、甘いことをいっている、この訓は某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地することがままある。

 ゆえに、少しく油断すると聖人君子の言葉を用いて他人を責むる道具とする懼がある。
さればこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義と罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。

 こういうふうに他人が吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯に達しない、すなわち自己の非を悟らず自己の弱点を察しないゆえである。
また一つには忠告する者が吾人の境遇を充分知らぬゆえである。

教訓を味わう力が足らない
 今しばらく第一の点について一言したい。
これをいうについては例のとおり僕は自ら経験した恥もさらさねばならぬ。

 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末であった。
不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷惑かけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。
これがために自分が知らないうちに懐が空になったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。
このことについては親戚友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇切に、いかに穿っているかを味わうことができなかった。

「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」
 と諺にいうごとく、親が存命で孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら怠るが、親無きあとで『孝経』を読みかえすと、初めてその「経書」の真意が明らかになる。
これ故人の忠告が不足なるにもあらず、『孝経』の悪いのでもない。
ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け容れる襟度のなかったためである。
くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。

 また放蕩にふけっている者も同じことで、耽溺しているあいだは『論語』をもっても『法華経』をもってもなかなか浮かびきれない。
説けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。
君が心配するほどのことはないよ」底の考えでますます深みに陥るのもわれわれはしばしば見る。
しかるにこの人にして相手方が彼を欺くか、あるいは自ら飽きてくると初めて目が覚める。
かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。

聖哲の教訓はなにゆえ凡人に入り難きか
 いったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、抽象的のものが多くて具体的でない。
いわば汎論的で、各論的でない。
万民に演べた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ凡人の頭には入っても腹の底に沁みることが薄い。

 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境遇の者にも応用できるだけに、これは俺のことだと私の意味に取ることは薄くなる。
それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を責むる道具に用いるほうがむしろ多いかと思う。
彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、俺は不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。
またたまたま己れの非を自覚しても、すぐに俺はまだ某々ほどに堕落せぬとか、あるいは俺の場合は特別であると自ら義(justify)せんとしたがる。

 実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文を草するよりは、むしろ退いて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。
これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。

余らの学校時代には徳育が無い
 決して誰彼を怨むわけではないが、……もし怨むとすれば時勢を怨むというよりほかにないが、……明治十年前後、僕が学校ざかりの時分には、日本の国は教訓については(道徳とは言わぬ)沙漠の時代であった。

 僕の十歳代の時を顧みると年長者なり、先輩なり、親切に指導する者ははなはだ少なかった。
有為なる人物を育てるようには、心がけた人がたくさんあったが、正しい人間を造ろうということには心のうちには、いずれも思っていたろうけれども、これを形に顕して自らこれを個人に及ぼすことのはなはだ少ない時代であった。
ゆえに神経質なる僕のごとき者は、(僕と同感の青年が何万とあったろう)すがりよって、教えを求めようと飢え渇いていたものである。
しかるに親切な人も正しい人も許多あったが、時代の要求は少しは悪い奴でも役に立つ人才を要する傾向があったから、教育上道徳観念を養う者はほとんどなかった。
ゆえにこれを求むる者は勢い書物に依ったのである。

 しかるに残念なことには書物にあることは前述のごとく抽象的であるから、未熟の頭脳には入りにくい。
たまたま入れば自分を省みるより他人を責むる道具となる。

訓戒の値打を知る法
 そこで僕は始終思うに、個人の訓戒を実際に施すには、その抽象的教訓を具体的に翻訳しなければならぬ。
この翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何某がどういう誤りをして、どういう結果に陥った。
そしていかなる法によって、取り返しをしたかを知るが一つ。
また一つには年輩も境遇も同じような親友とたがいに真情をうちあけて、俺はこういうことをした、あるいはこういう悪い考えが浮かんで困ると語り合い、また友人の実験を聞いて、実際の人生にいかなる誘惑のあるものか、自ら知らぬ経験を具体的に他人から聞きただすも一つの法であろうし、また自ら退いて想像して、己れがかくのごとき場合に陥ったならば、いかに身を処するかを、考えるもまた一法であると思う。

 僕がいま最後に述べたことは、子供らしい方法で、世間の物笑いになるか知らぬが、少なくとも僕のごとき平凡なる青年にはすこぶる役に立った方法である。
たとえば今に記憶に残っていることも少なくないが、十五、六のころ一人で想像して、もし俺がかくかくの困難に陥ったときは、自分はどうしよう、もし俺がかくかくの誘惑にさそわれたときには、こうしようと夢みるごとくに描いた仮定が、その後しばしば役に立った。
今後も役に立つであろうと信ずる。
事に当たって惑うときも苦しむときもちょっと一歩退いて、
「ハハアこれはいつぞや夢に見たこういう場合に当てはまる。
そのときにはこうしようと思ったが、今日その通りできぬはずがない」
 と、こう思うと大概のことには、かねての準備があるがごとき自信を抱いてくる。
ゆえにこの想像がなかったならば狼狽すべかりし場合にも、うんこれは例の夢が実現せられているんだと、思いきりがつく。
もっとも聖人君子ならざる身であれば、事に当たって一時惑うは遺憾ながらあっても、そのことをかねて期待しておったとおらぬとはたいへん違う。
彼の有名な業平の辞世を見ても、
遂に行く道とは兼て聞きしかど昨日けふとは思はざりしを
 とある。
業平という人は文芸に優秀なることは言うまでもないが、その人となりについてどれほど根底のたしかな人か知らんが、その臨終になって、「昨日けふとは思はざりしを」とのこの句はちょっと不意打ちをせられて、あわてたようにも聞こゆるけれども、もし彼にして「遂に行く道」を兼て聞いておらなかったならば、彼の狼狽は定めし見苦しかったものであろう。

抽象的の教訓も初めて具体的に会得する
 僕がさきに述べた、艱難誘惑を仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。
これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪傑らは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。
けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同僚たる凡人に対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は諒としてもらいたい。

 この仮想によって、抽象的の教えを具体的に翻訳して初めて意味が明瞭にかつ実際的になり得る。
明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの値もない。
そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑見も黄金の値を有するにいたる。
それであればこそ路傍で耳朶に触れた一言が、自分の一生の分岐点となったり、片言でいう小児の言葉が、胸中の琴線に触れて、涙の源泉を突くことがある。
老嫗の一口噺が一生涯の基を固めたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。

 釈迦が東西南北の門を出で、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは貧しき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。

忠告を納むるべき肥沃な畑
 かの英国の誇りとするシャフツベリー卿は、身は名流であり、一家は巨万の富を積み、娯楽に世を渡る資格をそなえておりながら、中学校時代乞食の葬式の途中棺から死骸のおちるのを見て、十五分間に自分の生涯の方針を定めたと称している。

 しかるにわれわれもよし乞食の葬式にあらずとも、これに類したることはしばしば見ている。
世の憂き事、人生のつらいことが毎日われわれの眼に映り耳に響きながら、われわれの胸にはなんらの影をも落とさず、なんらの共鳴をも引き起こさない。
しかるに世にいくらか仕事をなした人について質したならば、十に八、九までは、私の立志はかくかくの時に発したと、なにか具体的な、しかも他人の耳にはつまらなく聞こゆる些細な出来事を指摘するであろう。
これ蓋し、すでに腹の畑は肥しができ、掘り起こされて土壤が柔かになり、下種の時晩しと待っているところに、空飛ぶ鳥が偶然一粒墜したり、眼に見えない風が山の彼方より種を抱いて吹き来たったりして、春に萠し、夏に花咲き、秋に実るのである。

 人の心も先に言った想像なり、あるいはそれよりはるか以上の方法をもって、準備を整えていさえすればいかに卑近な教えでも、いかに些末な忠告でも、必ずこれを受け取って発芽して、花咲かせて実るものと思う。

 他人の諫言忠告をいつでも容れる心の態度を有する者は真の大人、君子、英傑である。
シナ太古の聖人が世を治むる時代には朝廷に諫鼓という太鼓のような物を備えおいて、誰人にても当局に忠告せんとする者はこれを打つと、役人が出て諫言を聴いたと伝えるが、今日は諫鼓のかわりに新聞があるけれども、耳を傾ける度量は昔にくらべてどうであろう。

正しき時に正しき言を放つは賢人
 なお他人に忠告するについては、一言したいことがある。
たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡人に訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈迦、孔子、耶蘇の訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を奏することはおぼつかなく思う。

 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。
こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。

 しかし忠告する値があることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。
友人の心の畑が耕されているや否や、英国の諺に賢人とは正しき時に、正しき言を放つ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚人の言にも劣る。
おそらく多くの人はみな経験があるだろう。

 まじめになって、友人を諫めたためにあるいは友誼を破り、あるいは他人の心に反抗心を惹き起こさせて、いっそう彼を堕落せしむるの機縁となることがある。
時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬式に祝詞を呈し、めでたき折に泣き言を述ぶるに等しきことは常識に任せて謹みたい。

 僕のたびたび引用する『菜根譚』に、
「人の悪を攻むるは太だ厳なるなかれ、その受くるに堪うるを思うを要す。
人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」
 とある。

功を奏する忠告と奏せぬ忠告
 人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的に汲むにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。
かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告は功を奏しない。

 管仲が戦場で遁げたからとてただちにこれを卑怯と批評し臆病者と判断し、しかして勇敢なれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。
彼を知る鮑叔が彼を目して臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。

 僕はずいぶん異なった境遇に遭遇したあまたの人に接して考える。
教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の薄きによると思う。
約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。
人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。
また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。
彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に出でたるものと思えば、これ実に天の声である。

 貝原益軒がものせる『大和俗訓』の中に、忠告に関するまことに穿った教訓があるから、左に抜萃する。

「およそ人を諫むるには、人の気質によりて直諫、諷諫の二つの法あり。
知らずんばあるべからず。
その心和順にて義理明らかなる人ならば直諫すべし。
直諫とは過ちをいいあらわし、理をすぐにのべて、是非をまげず、つよく諫むるなり。
かくのごとくなれば聞く人おそれて従う。
孔子の法語の言とのたまう是なり。
また気質和順ならず義理くらき人ならば、諷諫すべし。
諷諫とはただちにその人の過悪をさしあらわしていわず、まずその人のよきところをあげて誉め、その人を喜ばしめ、その人の心に従いてさからわず、ただその事の損なると益なるとを説きて得心せしむべし。
あるいは他事によそえて善悪得失を述ぶべし。
かくのごとくすれば聞く人、はらたたずしてよろこびて諫めを聞きしたがう。
孔子の巽与の言とのたまえる是なり。
人をいさむる法はこの二つなり。
その人の気質によりていさめの法かわるべし。
直諫するこそ本意なれども、正直に強く諫めても聞く人の耳にさからいて受け用いざれば益なし。
名君賢者ならでは直諫によろしき人は稀なり。
よのつねの人ならば諷諫すべし、諷諫をよくして人のよく聞き入れたるためし多し。
是いさめのよき手だてなり。
いさめの道を知らで辞をあらくして人にさからい、みだりにいえば人怒りて必ず聞きいれず。
人に益なくしてわが身のわざわいとなる。
ことにわが親に直諫して腹立たしめ、親よろこばざれば親子の中うとくなる。
大なる不幸なり。
親をいさむるには法あり。

 易に曰『納レ約自レ※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)』、まどは明らかなるところなり。
たとえば家の内にある人に外より物を言い入るるに、壁越にいえば聞こえず、※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)よりいえば聞こゆ。
諫めを言うも亦かくの如し。
いかなる愚なる人も、必ずいずくにぞ片はしに道理開けて明らかなる所あり、或いは好む所の欲あり。
その所をよく見つけて言い入るれば聞き入れやすし。
この諫めようのよきこと古もさるためし多し。
ふさがりたる処を知らずして、いかに忠をつくして諫むとも、聞き用いざれば益なし」。

第二十一章 潔き感情と正しき思想

偉大なる思想が何ゆえに萎縮するか
 いかなる文字でも、善き意味にも悪き意味にも用いらるるが、感情なる言葉ほど、ときには善く、ときには悪く用いらるる言葉は少なかろう。
人を讃めて言うときに、あの人は感情家であるから、言うことが活気があるとか、あるいは精神がこもっているなどという。
これに反し、あの人は感情家だから、議論が学理の軌道をはずれ、とかく横道に走るともいう。

 いったい感情は読んで字のごとく、われわれの感覚といわゆる人情との二つを含むものであるから、善くもとれるし、悪くもとれると同じく、正しきにも走り、正しからざるにも走りやすい。
感情はいわば一種の力であって、感情あればこそ思想も力を添え、感情の力なければ、人の考えはとかく冷淡にして働きに現れることは少ない。
よし現れても、その運動量が弱い。

 感情は意志や思想に力をつけるものであるゆえ、誤った思想に感情が混じると、その誤りがいっそう恐ろしくなる。
ここにおいて、僕はしばしば感情の教育ということを口にするが、人の感情をして私を去って潔からしめたならば、自ら正しき思想に結びついて、偉大なる力を惹き起こすものであるが、もし感情にして卑しい女々しいものであれば、することなすこと小さくなって、偉大なる思想さえも、小感情のために、大きなところを失って縮まってしまう。
おたがいも折々見ることで、知り合いの人のなすことを傍観しても、思慮はたいそうよく、すなわち思想においては間違いはなくとも、これを実行せんとするにあたり小さな感情から割り出すがために、とかく卑劣な穢い挙動に終ることがままある。
あるいは人の思想をまたは行動を判断するについても、小さな感情をまじえてするがために、せっかくの大きなことも善きことも充分認識せられないでしまうことが多い。

 イギリスの諺に「いかなる英傑も彼の側に侍る小姓の眼には偉大と映じない」とある。
これ英傑が偉大ならざるにあらずして、小姓が偉大ならざるがためである。
それと同じく、小さなる感情を挾む人には、いかに善きことも、いかに大なることも、けっして真の性質を会得しえない。
僕自ら古今の英雄や豪傑を批評するにつけて、小さなる感情よりすることをたびたび恥ずかしく思う。

女々しい感情皮相の感情
 僕が数年前、米国に留学していたころ僕の下宿屋の主婦とリンカーンの人物評を試みたことがある。
この主婦は、もとはその家柄は卑しからぬ者で、南北戦争のさいには南軍方であって、最もリンカーンの政策に反対した者であったためか、リンカーンの人物を評するにも、その時の感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する傾きがあった。
してこの曲解に対して、わが輩が一々弁護したところが、最後の反対論として、
「だってもリンカーンという人は非常な醜男子でしたもの」
 とあたかも彼の容貌の醜なりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。

 これほど明らかに口に出さなくとも、これに負けないほどの不合理な理由から、人の批評をしたり、歴史の事実を判断するものは許多ある。
なかんずく無学な者か、あるいは少しばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。
婦人が往々にして身を誤つなどは、これと同じ筆法より、人を判断するからである。
あるいは一席の歌を聴いて、その声が善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、ついに蓄音器の代用たるべき者のために身を誤ったりする。
一口にいういわゆる「様子がいい」人、すなわち木偶同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。

 また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもって、あるいは御追従をもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたくさんある。
一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほど大なる力はおそらく少なかろう。

 学者の説によれば人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよ鈍くなるという。
ことごとくこの議論には敬服はせられぬけれども、議論にあらずして実際において、劣等人種もしくは修養なき者は感情ことに小さな女々しい感情に左右せらるること多きを思って、僕みずから感情家たるゆえか、これこそいちばん改革すべきところであると思う。

大統領改選に現れたる米人の感情と思想
 米国においては四年ごとに大統領の改選が行われる。
一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。
したがって候補者の数も増すために、世人の議論がなかなかやかましくなる。
一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。

 しかるに彼らの論ずるところを傍で聞くと、地質学者が化石を科学的に攻究するごとき調子がある。
甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう勝るとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極端に走って、容易ならぬ結果に陥るかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において親しく談話をする様子は、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは独り政治にのみ関してしかるわけではない。
日々の事業について、実業家がその職業を営むにつけても同じこと、おのれが損したからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。
むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感謝する感情もないように見受ける。

我が商人は事業と人情とを混同する
 西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性すなわち商業道徳なるものを難じている。
われわれとてもいかに讃めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優るとはいいかねる。
否大いに劣ると言わざるをえない。
その理由は許多あるが、僕がここで言いたいことは唯一点である。

 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさむの欠点あることである。
無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚らしくも聞こえるけれども、それは慈善をなすときか、友人を祝うときか、霊前に供うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械である。
ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。
失敗すると、失敗の本たりし理由を人格視して、あの金のために祟られたとか、あの機械のために一身を亡ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨を被せ、何の某はあれほど老練であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。
某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。
ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。
また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。

 また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば注文の日限に品物ができなければ、むろん契約破棄となる。
日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、私の交際と取引上のこととは別として考える。
日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことが縺れてくる。
ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情に訴えて申し訳をすることを計る。
自分が病気であったとか、あるいは親戚に不幸があったとか、子供が怪我をしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。

 借財の返済も同じことである。
もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の都合によって返済の能不能も定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のために負ったものならば、一身上あるいは一家上の都合は言うべきものではないと思う。
かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。
せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。

感情濫用の弊を撓める必要
 普通にいう癪に触るとか、虫が好かないとか、はなはだ漠とした言葉をもって、われわれの感情的の作用をいいあらわしているが、この癪、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統計に積もると大したものであろう。

 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉快に過ごしうるだろう。
合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に触ったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生世を面白くなく渡るのは、とかく詰まらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは勉めてこの害を矯めるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま傚って彼の風に化せよとはかつても言ったこともない。
また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。

 善悪正邪はとにかく、損徳の点から打算しても、なんの必要もなきところに、感情を費すことはおろかな業である。
僕はかつて精力の貯蓄なる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような説をときたい。

 ただ読者に誤解なきよう願いたいことは、高尚または有益なる感情をも殺せという意は僕に更にない。
すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを含ましてある積りだが、ただ感情の入って邪魔になるところに、感情を入るるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引あるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。
学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。
昔のシナの学者も道心と人心と区別して説いたそうである。
道心は人心のその正を得たる心と王陽明は説いたが、正を得るとは、人欲のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。

 すなわち客観的に冷静にものの理を求むる心である。
これに反し、人心とは道心のその正を失ったところで、我田引水的に勝手しだいの理屈を案ずる心理動作で、自己の感情によりて万事を判断する心である。
自己の希望がものの理と符合すればよいが、なかなかそう甘くゆくことが少ないから、結局感情に駆られて為すことは、理に背くこととなりやすい。

 さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人身攻撃のごとき、あるいは卑怯なる言葉に陥って、自己が弁護せんとする議題をもかえって損われ、加うるにおのれの人品まで下劣にすることは往々にして見ることである。
理屈において負けたならば、一本参ったと綺麗に敗ければ男らしくもあり、かえって自分の主張に泥をつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情を含まして、みすぼらしい論法など振りまわす。
よし皮肉をもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に敗けたものである。

 ことを論ずるにあたり、悪口雑言をはさむのは、理は尽きて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。
思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。
また実行と性情はあくまでも熱烈たるべし。
ことにあたるに果断なくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものは誤りやすいから、思慮の上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。
「果断義より来たる者あり、智より来たる者あり、勇より来たる者あり。
義と智を併せて而して来たる者あるは上なり。
徒らに勇のみなる者殆し」

第二十二章 感情より出た職業選択

職業とこれに従事する者の不釣合い
 世の中を見渡すと、職業とこれを営む者とのあいだの釣合いが当を得たものと得ないものとがあることは、何人も意外としないものはあるまい。
両者の関係はちょうど夫婦のようなもので、世には、似た者夫婦もあれば、いかにしても釣合いの説明できぬような場合も少なくない。
昔の人も円きものが三角の穴に入らんとし、四角のものが円きところに箝らんとするといったが、実にそのとおりで、おそらくなんの職業にしても、これに従事せる人につきいちいちに調べたならば、もとよりその職業につく目的をもって進みきたり、かつ現在の職業に甘んずる人は百人に一人あるや否や我らは大いに疑わざるを得ない。

 自分の知れる人について考うるも、現在の地位に甘んじ、かつ得意でいる者ははなはだ少ない。
たまたまそういう人がありとするも、そは年来の予定の行動の一部をなしたのでなく、むしろ計らずその地位に箝ったという場合が多い。

 たとえば法学士にして某職にある者に質せば、中学時代よりその目的としたる位地に達したと答うる者は百人に一人もあろうか疑わしい。
まして秩序的教育を受けぬ人は、おのれが望むがままに今日の地位に進める人はほとんどあるまいとまで疑われる。

難を求むる職業選定の依頼
 少し年老った者は年若い者いわゆる後進者より職業選択について相談を受けぬ者はほとんどあるまい。
あるいはすでに一定の職業にある者よりしてなお他に活路を求めたき希望を訴えられぬ人はなかろう。

 わが輩もかくのごとき相談を、平均したら三日に一度ぐらいの割合に受けている。
はなはだしきは簡単なる手紙をもって、自分の姓名と生年月日とを認め、これに現在の職業を書き加えて、他に発展の途を講じたいが、何をなしたらよかろうかと、あたかも卜者に尋ねるがごとき信書がくる。
わが輩も返事に窮し躊躇していると、三銭切手を封入せる以上返事をうながす権利があると催促されたことも一、二度でない。

 いったい自己の職業選定に、毫も知らぬ他人に相談することがすでに大なる誤りである。
前述のごとき場合には、僕はつねに親はもちろん、その他親類、親友なりもしくは土地の先輩にしてよく当人の性質をわきまえる人に相談せよと返事する。
いかに詳しく認めても、一片の手紙におのれの性質をいい現すことは、とうていできることではない。
よし筆はいかに達者でも、書くべき材料、すなわち自己の性質を客観的に記叙することはおそらく不可能であろう。
したがって一面識だもなき人に自分の生涯を左右する職業の選定を相談しても、けっして満足な返事は得られぬと思う。

 ある具体的の問題あり、かくすればかくなり、こうすればこうなると、理詰で判断はできるが、自分はだいたいの見地よりこの問題を見る力なく、取捨去就に迷うゆえ、いわゆる先輩の判断を乞うというならば、知らぬ人に対しても相当の考えを立て判断を下すこともできようが、その性質および周囲の事情に深き関係を有する職業選定は、日ごろ交際ある人にあらざればなかなか判断のできるものでない。

 おそらく職業の選択は細君の選択よりもいっそう困難であろう。
細君の選択には往々にして媒介者の言に一任し、しかして結婚の式を挙げたのち、始めて両者の気象の合わぬことを発見し、離婚する場合がはなはだ多い。
世界の文明国中で離婚数の多きこと日本のごときはなしというも、要するに選択に注意せぬためであろう。
ましてさらに困難な職業を選ぶに、見ずしらずの他人を頼み、あるいは一時の感情にかられて決定することは危険のはなはだしきものである。

感情よりする職業選択にも有利の場合あり
 わが輩はいま感情にかられるといった。
わが輩はあえて感情そのものが悪いというのでない。
ことにあたるには熱するくらいになるがいい。
熱するというのはすなわち感情の昂奮する謂である。
しかしことにあたるか否かを判断するときは、須く感情を避け冷静に是非曲直の判断を下すを要する。

 折々青年にして時々の新聞を見て大いに憤慨し、その日の感情により自分の将来の職業を定めんとする者がある。
軍国の際のごときことに然り、将軍の凱旋を見て、おのれも軍人にならんと思い、某代議士が演説に大喝采を得たるを聞いては、おのれもただちに代議士たらんことを思い、あるいは実業家が拝謁を賜わりたりと聞き、おのれも実業家たらんと思うように、一時の現象に眩惑されて終身の方針を定むることは、必ず悪い結果をもたらすとは断言されぬが、危険が多いとはいいうる。

 いったい「三つ子の魂百までも」というがごとく、何人にも幼少の折、漠然とした職業選定の傾きが心に備われるものである。
いわゆる学者向きであれば研究的にできており、あるいは才子的のものもあれば、あるいは事務的のものもある。
人はおのおのその心の構造を異にしている。
ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに観察することはできない。
しかるに、この混沌たる有様のなかにも、おのずから輪廓だけはぼんやりと現れている。

 鶏卵にたとえていえばちょうど黄身も白身もまだ判然と分かれておらぬ程度である。
それが月日を経るに従い、黄身は黄身、白身は白身と分かれ、さらに進んでは頭もでき、手も足もそなわり、一つの雛に化するように、きわめて幼少の折から自然的に各分業的の萠あるものである。
しかるにこの観念ははなはだ漠としているゆえ、前述のごとく自己の認識にのぼらぬのである。

 しかるにある外部の刺激によってこの自覚が急に鮮明となることがしばしばある。
天性軍人になるべき資格を孕める者が一日新聞を見て始めて自己の天職のいずれに存するかを発見するがごときはそれで、かくのごとき場合においては一時的の感情と見ゆるものがけっしていわゆる一時的感情にあらずして、先天的感情の発揮である。
ゆえに職業を選ぶにつき一見一時的感情とみゆる動機によりて定むることも必ずしも誤りなりとは言えぬ。

伊藤公発憤の動機を見よ
 一日、横山健堂氏より故伊藤公に関する趣味多き談を聞いた。
公がかつて吉田松陰先生の塾にいたとき、一夜、他の塾生とともに炉を囲んで談話しているあいだに、公は時の長州藩の家老が人を得ないことを憤慨した。
これを聞いていた松陰先生は、平生は女子のごとく柔しくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を励まして、
「貴様の言うごとく自ら天下を料理する考えを真面目に有するなら、長州家老の適否のごとき歯牙にかくるに値いなきものである。
しかるにいま貴様の言を聴けば、それはやはり家老どもの力を藉らねば、天下が治まらぬというごとき卑怯の意志あることを自白するにほかならぬ。
そんなことで天下の大勢がわかるものか」
 と叱咤した。
つねになき激語を発したので弟子どもも一時はあっけにとられたという。
伊藤公は多数塾生の面前でかく叱られ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰省されたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。

 伊藤公が先生に叱られたその瞬間に起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと質せば、その時始めて「寝耳に水」のごとくこの教訓が公の耳朶を打ったとは思われぬ。
また松陰先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭撻されたとも思われぬ。
日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一針を加えたにすぎぬ。
また伊藤公にとりてはこの一言を含味しうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊蓄された熟慮を引き出させたのである。

余の友人にも同じ経験がある
 しかしこれは独り伊藤公のみでない。
ときどき凡人の間においてもまた同様である。
僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。

 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。
ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。
そののち世の中の腐敗を聞き宗教家にならんとまで考え込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。

 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。
一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一軒立ての藁家の前を通過せんとした。
ふと隙漏る光に屋内を覗うと、炉を囲める親子四、五人、一言だも交さずぼんやりとして安を貪っていた。
そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有様を見、この考えが急に一転した。
というのは親子夫婦共働し、雪を踏んで家に帰れば身体すでに疲憊し、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も失せ、わずかに拾った薪に身を暖め、安を貪るがごとき輩が、どうして教育や宗教などを考うる余地があろう。
彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食足るの道を講ぜしめねばならぬ。

 さりとて衣食の充足のみに進ましむればただ奢侈に流るるのみである。
衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌日より倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという談を聞いた。
これだけの談を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また詳しくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。
すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。

一時の感情か否かを判断する道
 以上例示したるごとく生涯を一貫する職業選定の決心は、能力の多少、位地の上下を論ぜず、一時の些細なることのために定められる場合は決して少なくないから、前述の一時の感情に迷わさるるなというに対し、この感情は果たして一時的なりや否やという問題を、自ら提供しておのれに省み、しかも冷静に自己の真意を分析するを要する。

 すなわち約言すれば熱情を冷静に考えよということになる。
なにゆえにおのれはこのことにつき、かく熱するかを篤と攻究したいのである。
凝っては思案に能わずと、古人も教えている。
凝るとは熱するの謂である。
ものを思い込むと他を顧みる余地も余裕もない、ゆえにとかく過ちを生じやすいのである。
もっとも実際にことにあたるときは他を顧みず猛進せねばならぬが、ことにあたるか否かを考うるあいだは凝ることは禁物である。
しかるに青年の一大特長はものに熱するにある。
二十代前後は感情のもっとも旺盛なとき、三十代前後は手腕のもっとも発達するとき、四十前後は知識のもっとも発達するとき、しかして五十前後は思慮のもっとも深いときである。

 青年は知識にも思慮にもまた手腕においても、まだまだ不足あるかわりに、ある命令のもとに仕事するときはもっとも熱してあたる。
これが彼らの特長なると同時に、方向を誤ることもまたこれより起こる。
彼らは思慮も熟せず判断力も固くないから、見るもの聞くものその他すべて五感に触るるものによりて心の底までも動揺されやすい。
かく動揺されるときは、さなきだに思慮分別の熟せぬ青年はいよいよ心の衡平を失い、些事をも棒大に思い、あるいは反対に大事を針小に誤る傾向がある。
これも無理ならぬことで、実際のことにあたり責任の地位を踏めることなき者は、なかなかに自己の言行のおよぼす範囲を適当に計量することはできぬ。
青年にこの弱点あることは青年自身も承知している。
承知しているゆえ、いわゆる先輩の意見を叩き、職業を選定せんとするのである。

 しかし先輩がいかに思慮あるとも、いかに判断力を備うるとも、青年がある事に熱するゆえんを容易に判断しうるものでない。
たとえば政治家たらんと熱する者ありとせよ、なにゆえに政治家たらんと熱するかと聞かば、必ずや天下人心の腐敗とか、政党宜しきを得ぬとか、ひととおり何人も首肯するような理由を述ぶるであろう。
しかるにこういう漠然としたことでは、なかなか熱心ということは起こりがたい。
ゆえにさらに深く立ち入りてその理由を質せば彼の熱心せる理由は必ずしも政治に関係するものでないようなことが出てくる。

 某が自分の村に政談演説したとき熱烈なる拍手喝采を得た。
それが彼の心を動かしたという場合には、彼の熱心は政治のためにあらずして拍手喝采のためである。
拍手は政治にあらず。
また実業家を志望する人に聞けば日本は貧乏であるときまりきった議論を述ぶる。
しからば今日急にそのことを思いつき、その方面に猛進せんとする志はなにより起こりしかと質せば、これまた実業になんの関係もなきことが導火線となれることがある。

 たとえば某令嬢を慕いたるも実業家ならねば嫁せしめぬというを聞き、実業を志望したというがごとき滑稽的動機すらも現にわが輩の耳にしたところである。
かくのごときはおそらくは自分も知らずに行えるので、滑稽な動機に動けることに気づかずにいるのであろう。

感情的誤解の根本原因
 かくのごとき誤解を生ずるのは、要するに自分の一個に関する具体的の事実をば、抽象的文字をもって説明するから、その説明がかえって真情を離れ、世間に対する聞こえはよいが、実際にはあてはまらなくなるのである。
抽象的の文字を使えば意味の範囲がひろくなり、高尚に聞こゆるかわりに、また他の意味をも含んでき、したがって自己の場合にまったくあてはまらなくなることがある。
たとえば飲みたい食いたい、それについては金を儲けたい、金を儲けるために何品を幾円で買い、これを幾円で売れば幾円を儲けるという具体的問題ありとする。
この動機は飲食の欲である。
これを満足する方法として商売し、商売の目的は何千百円を儲くるにある。
ことを始むるときは爾く具体的に細密にもくろみするが、しかしこれを人に語るときは私は実業に従事するという。

 実業といえば抽象的文字である。
したがって意味が広い。
そのなかには商売のみならず、工業農業も入る。
保険、運輸の事業も入る。
これに従事するとなると丁稚小僧となり自転車で走ることも、炎天のもと、裸足で畑に草取りするのも、自動車で会社に出勤することも含まれ、範囲が非常にひろくなる。
なにを商売して何円儲けるという具体的希望が、実業従事という抽象的言葉にいい現されると、実際から遠いものとなる。

 物理学にいう固形体のものを流動体に変じ、ガス体に変ずるがごとく、嵩は大きくなるけれども、つかみどころがなくなりがちである。
ゆえに職業を選ぶにはそもそも自分がある職業を志願し志を立てたときの具体的境遇、情実をしずかに考うると、その志望がいかに根底あることか、また一時の軽々しい動機に起こりしかわかるであろう。

 すなわち抽象的のひろい意味の言葉を用うるにいたった本にさかのぼって、しずかに考えると思い半ばに過ぐるものがありはせぬか。
大きなひろい意味の言葉を用うるときはしばしば自ら欺くことがある。
わが輩はとくに職業を選定せんとする青年に自己の動機を回顧せんことを勧む。
先人の言に曰く、
「凡そ人事を区処する、当に先ずその結局を慮り、而して後に手を下すべし、楫無きの舟を行る勿れ、的無きの箭を発する勿れ」と。

 して楫を執るとき、箭を放つときは心静かに落ちつけて、よくよくおのれの力先きの方向に留意するを要する。

第二十三章 若返りの工夫

いつも若い人
 目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。
かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象がなくなるのである。
すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊ぶべき、高朗なる性情が消えるのである。
「大人にしてなお赤児のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概を失わずにあるを要する。
「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。
かくのごとき人の心には余裕がある。
すなわち生木のようなる弾力があって、世の変遷とともに進む能力を保留している。
「老木は曲らぬ」とは邪道に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。

 およそ何事においても行きづまれるは見悪きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木に弾力なきに等しく実にみすぼらしい。
また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。
ところが誰でも少し油断すると小成に安んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。
いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自ら安心する。
これあるいは成功であるかも知れぬ。
しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当を得ないことではなかろうか。
欲心と理想とはちがう。
欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。

事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ
 という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事たる身こそ安けれ」というような、安心の時代はとうてい到来せぬであろう。

 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。
月給等の形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大なる誤りであろう。
ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。

 なんとならば月給とかその他の物質的形而下の事柄については不足を甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。
ゆえに俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服できぬ。
上がらなくとも喜んでいたい。
否下がっても喜びたい。
であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。
これすなわち彼の「精神の井戸が水枯れした」のである、遼遠なるべき前途を放棄したのである。

 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。
彼がたとえ若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命と呼ぶ、なんの不可か是れあらんやである。
老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等しく遼遠なりといわねばならぬ。
その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。
もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大なる理想をいだくべきである。

回顧反省
 世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人、あるいは凡人以下の者は、姑息かは知らんが、前途をして遼遠ならしむることを努め、われはたしてかかる大理想ありや否やを反省する必要があると思う。
すなわち賢人君子の眼よりせばあるいは児戯に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印してこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩にあててみるのである。
いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退いて予ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻りせぬかと深く省るのである。
しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。

 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧めとか、時勢の変遷とか、娯楽の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。
老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省るに如くはない。
省て退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励努力一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。
これすなわち僕の若返りの工夫である。
要するに脳髄のうちに折々大掃除を行って、煤、埃、芥、枯れ枝等をみな払うことをしたい。

心機一転
 われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂である。
よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄たくない。
よし老耄ても、愚痴だけはいいたくない。

 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香を増すを見る。
樹そのものは弱りても、その境遇を刷新すれば、甦生するの勢いを顕す。
死灰再燃、人も同様、身体が弱れば食物を変えたり、転地療治をしたり、温泉に浴みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。

山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり
 一身を物的境遇より退かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟老ゆるも駑馬に劣るに至らざる工夫。
木は根あればすなわち栄え、根壊るればすなわち枯る。
魚は水あればすなわち活き、水涸るればすなわち死す。
燈は膏あればすなわち明、膏尽くればすなわち滅す。
人は真精なり、これを保てばすなわち寿、これを※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)えばすなわち夭す。

一年二回の花盛り
 かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津々たる興味に感嘆する。
意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」
 嗚呼実に然り。
人生の起これる所以のものは終りを完うするにあらざるか、事に始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発芽するは花咲き、実を結ぶため、人の生まるるは熟して死するためなれば、幼少青年時代は準備の時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧憬するは蝶を花を楽しむに異ならない。
なるほど若年のころは花やかなるはいうまでもないが、頭の白きも、額の波も、華化することはできぬであろうか。

 俗の諺にいう「老木に花を咲かす」とは不可能なるか。
僕は『古今和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の香を放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。

色変はる秋の菊をば一年にふたゝび匂ふ花とこそ見れ

第二十四章 全力と余裕

蛙の筋肉の力を測りし学者の試験
 かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく轟いているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講釈を一度聞きにいったことがあった。
医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。
講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印象し、今日もなお忘れない。

 試験は蛙の筋肉を取ってこまやかな糸のごとき一部分を秤にかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を支えうるか。
すなわち筋肉の力を証明する主意と心得た。
この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとに支えたので、学生が大いに拍手喝采して、なおいっそう僕の印象を深めた。

 たぶんこの簡単なる、また素人にも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門外漢の僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想像する)の内に恐しき力の潜伏していることを思った。
この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発揮しえたなら、おそらく今日十五、六貫目の我々の五体をもって、米の四、五俵は朝飯前に二、三里の道を運搬することができよう。

 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃弱だのと、その他種々の故障のために、天賦の力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜伏せる力について深く考えたい。

最善をつくしても余力あるように思う
 たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。

 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。
また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。

 文章を書いても同じことである。

 ある問題について討議しても同じことである。
俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。
自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。
またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。

 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。
おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。
ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、
「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」
 と物事につけて叱るような心地がする。

潜伏せる余裕を示す幾多の実例
 たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。
かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。
余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。
はなはだ惜しく思う。

 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。
はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。
僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。

 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。
その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。

余裕を存することと全力主義
 わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞める。
すなわち余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控えているぞという態度である。

 この態度は独りわが国ばかりではない。
何国人といえども尊敬するところである。
リンカーンの年を経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味を感ずる。

 これに反し、張りきっておって、二十貫目の力を二十貫目始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人の深い尊敬に値しない。

 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。
なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。
ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。

 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。
かつまたことごとく説明することは僕の意に背く。
考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。
種までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。
つねに幾分のゆとりが欲しい。
十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。
十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕を貯えておいてこれを種として進みたいと思うのである。
もっともこれは喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。

人の力は出せば出す程ふえる
 右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。
いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。
よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。
単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。
いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。

 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。

静坐黙想は潜勢力を増加す
 昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。
嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。
おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。

 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。
しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。
いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。
努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。

一日に一回でも黙想せよ
 いかに繁劇な生涯を送る人でも、折々いわば人生より退いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。

 僕の祖父はかつて禅僧について、いったい禅学というのはどんなものですと藪から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。
すなわちただ敵を斫ろう、前に進もうという考えで齷齪するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退く余裕があれば、その突嗟に敵の隙がわかる。
そこで勝てる。
この一歩退くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。
とかく譬は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。

 僕のいわゆる折々退け、折々冥想せよということは、単に不精に寝転んでおれ、不精に構えろというのとは大いに違う。
また折々という文字が漠としたことである。
一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。
むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。
といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁せよということではない。

 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世のごとき心境がたもてると思う。
われわれにその心がけさえあればいかなる境遇にあっても平旦の気を養う機会のなきはない。
松平楽翁公の書室銘に曰く、「寧静是れ心を養う第一法」と。

第二十五章 理想と実現

幼少時代の理想の回顧
 毎春年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再び湧き出で、俺はもう幾歳になったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思い較べると、ただ恥ずかしきことばかり多い。
青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際に擦れて摩滅したこともあまたある。
しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計に抱いておるがごとくに信ずる廉もないではない。

 僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンに費やしたことがあったが、その際ある文士に会って、四方山の文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。
そのとき僕はその文士に尋ねた。

 カーライルが、かつてゲーテを賞めたなかに、青年はとかくシラーに憧憬れて、ゲーテを疎んずるの傾向があるが、三十歳に至れば、思慮もやや熟し、人生のなにものたるかもいくぶんか判明し、ここにおいてかゲーテの偉大なることを認めてシラーの若気を捨てるにいたると説いてあるが、僕は今日三十よりむしろ四十に近い年になるが、ゲーテとシラーのいずれを好んで読むかといえば、まだシラーを選ぶの心地する。
おそらく僕の精神発達のいまだ幼稚なるを証するのではあるまいかと、自ら疑うことが多いと告白したところが、かの文士は、それは君は心配するにおよばない、ドイツ人のうちにも、今日なおシラーを推して、思想においてははるかにゲーテに優るものなりと称嘆する者はけっして少なくない。
むしろシラーを好んで読む者は、精神未熟といわんより理想高き性格の高潔なるを証するものだ、といって僕を慰めてくれたことがあったが、かくいえば、あるいは新渡戸の奴めが自分の不足なるところを、態よき言葉を用いて隠蔽し、暗に自慢するごとくに聞こゆるでもあろうが、正直に自白すれば、近来になって僕もゲーテを尊崇するの念が、十年前にくらべて増してきた。

 しかしてゲーテ崇拝の念の増すのは、さきの某文士の言によれば、あるいは自ら俗化して理想の光明が追々に薄らぐの譏りを受けるかも知れぬ。
僕がここに話をすることは譏りを受ける受けないが問題ではない。
自ら君子ぶるのを厭うがため、横道ながら注解的に右のことを述べて、再び本題に立ち返って話をすれば、年を追うに従って俗化する危険あるを思うがゆえに、努めて幼少の時に描いた理想を養うことは年々歳々枯れゆく心の色香を新たむるの道であろうと信ずる。

米国で僕の深く印象された米人の理想
 過般渡米の日、数多の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に触れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。

 いわゆる黄金崇拝物質的の米国などと綽名されてあるこの国民が奢侈贅沢の弊害に陥る傾向が割合いに少ない。
換言すれば一方には巨万の富を積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前と精力は、この国民の大いに買ってやるべき気象である。

 わが同胞はだいたいにおいて貧乏であるから、富貴の誘惑なるものを知らない。
貧乏人が金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。
自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘惑もよく理解しうると思う。
しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較ぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。

最も貴ぶべき青年時代の理想
 世界を動かすものは思想である。
暴力で一時国を建てることもできるし、国を亡ぼすこともできる。
産業で国を建てることもできるし、産業で国が廃頽することもある。
学芸によって国の勃興することもある、学芸によって国が惰弱に流れることもある。
あるいは思想においても方向を誤ると、いかなる極端に落ちることがないともかぎらぬが、武力でも学力でも、芸術の力でも、健全なる思想が真先きに立って指導するにあらざれば、国家も社会も個人も、なんのために存在しておるかを解しないでしまう。

 して思想と一口にいうものの、世の中の欲もすなわち名誉も富貴も知らない清浄無垢の青年時代に起こる思想が実に貴い。
ゆえに年とともに若い思想を強めたいと思う。
あるイギリスの文豪もかつて言った、
「偉大なる人物とは成熟せる脳髄をいただいて、なお幼少の心を抱くものなり」と。

 すなわち大人にして赤子の心を失わない者の謂に外ならぬ。

今の青年会と昔の若い衆
 とかくに若い者といえば、むしろ青年の弱点を指す意味合いがある。
近ごろこそ各地方で青年会がさかんに行われて、その目的は実に嘉すべきであるが、同じく青年の会合でも、三、四十年前に行われたるものは、若い衆の寄合いと称して、若い衆といえば碌でもないことをする者、思想も理想もなく、ただ放埒に時を移す者のごとく見なして、老人もこれを許し、また青年自身もこれを許して、その言行の正しからざることがあっても、自らも世人も咎めなかった。

 普通教育のいまだ一般にいき渡らないときは、かくのごときことも無理でない。
教えてくれる設備もない時代と場所に生まれ育った者は、ただこの世に出てきたというのみで、もの言うからこそ人間に違いないが、その他の点においてはむしろ動物に近い。
ゆえに動物的の行動をとっても無理ならぬことであった。

 人の動物と違うところは思想あるがためで、この思想なるものを養わない以上は、禽獣に髣髴たるものである。
そこで人を測るに、いずれの定規をもってするか、動物的の標準をもってするか、向上的すなわち思想の上下をもって測るか、用いる量によって人に対する観念がちがってくる。
すなわち動物的の定規をもってすれば、若い衆の飲酒にふけったり夜遊びするのは、普通一般のことで賞めるほどのことでなくとも、咎めることではない。
しかるに思想の標準をもって図るときは、なにか一種の思慮を持たぬ者は、人間のごとくにみなさない。
近ごろの青年会と昔の若い衆と違うのは、高いほうの標準を使うからである。

幼年の理想は今いかに変じたか
 ただ思想の発展にはとかくに障害物があって、挫けやすいもので、譬えて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。
外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年経る間には風も吹けば霜も降り、雨もあたれば旱もある。
そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も来ぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。
すなわち種無しになってしまう。

 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に省みることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど隔ったかという廉である。
これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。

一、幼少の折、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却せずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。
年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。

一、子供のときに飲んだくれの醜態を見て、俺は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。
して年経るごとに、今日俺のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。

一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴いて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇あるごとに怠るまいと思った。
年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。

一、幼少の折、かつて、あるところで話を聞いたことによって、人を怨み悪み嫉むことは、下品なものということを大いに感じたことがあったが、年経るごとに今日ははたして俺が人を怨まないか悪まないか嫉まないかと昔にくらべてみる。

一、幼少のときにある放蕩息子が身をあやまって、自分のみならず大勢の人に迷惑やら心配をかけたのをみて、婦人関係は深く慎しむべしと決心した。
年経たる今日において、はたしてこの思想どおり身を処しておるか。

一、賭博のよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、いかなる誘惑があるとも、賭博などには手を出すまいぞという思想を抱いた。
年経た今日において、はたして幼少の思想にかなう行いをするか云々。

 というように、問題を掲げていちいち実際と、思想というか理想というか、かつておのれの心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年経るにしたがって、むしろ堕落したことを発見する者が多くなかろうか。
読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供らしい、迂遠なことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。
僕も甘んじていわゆる世渡りの道に疎きことを自信する。
僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。

主義を抱ける者の世渡りの覚悟
 一種の思想をもって世渡りを企てる者は、同じ思想を抱いている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をも抱かずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印象を与えるがために、とかく彼此の批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために迫害も凌がねばならぬことは承知せねばならない。

 普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で無定見で無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。
またこの反対の勢力の風波に会わなければ、思想も練ることはできない。

 僕がもっとも崇拝する人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時流行児となって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。

理想家に対する世論の変遷
 ルーズベルトに対する世評の動くこと、実に驚くべきものである。
かつては同氏を攻撃し、ほとんど蹴たおすばかりの語調が新聞や雑誌に表れ、また僕が直接話をした個人の言葉にもしばしば顕れたけれども、そののち誰いうともなく、同氏の名望が再び回復されつつある。
僕はまだ同氏に面会するの機会を得ないが、氏の人格と、ことに氏が思想の人であることは彼のいうことなす事々によって明らかである。
彼を嫌う人も、彼を賞むる人も、彼の人格より彼の思想について判断することを思えば、昔も今も思想家はその思想を天下に刻印するには、血をもってするの覚悟がなくてはならない。
といって誤解のなきことを欲するが、われに思想あり、この思想を世に伝えんがために早くわれを殺せといわんばかりに、めざましきを好む演劇的な挙動を恣にして、態と反動を招いて、かえってはなばなしく斃れることを望むのが宜いと言うのではない。
できるだけ穏便に平凡に、自分の思想を実行することにつとめることが肝心なので、これがわれわれ日々の務めである。

 偉大なる凡人となるは平凡なる豪傑となるよりも、はるかに上乗であると思う。
米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の多きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。
凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想乎。
思想ほど恐しき力はない。
人の動くのはみな思想の力によるのである。
すなわち世の細事大業も機械に譬うれば思想なる原動力の発現にほかならない。
これを草木に譬うれば、緑の柳、紅の花と現れる世の変化も思想なる根より起こるものであるから、なにはさておき根の培養は怠れない。
根さえ確かなれば、幹なり枝なり葉なり花なり自然の結果として栄える。

 誰人も経験あることならんが、だんだん年とるについても、若きとき思い込んだ思想が、なにごとについてもヒョコヒョコと胸底に浮かび出で、あるいは邪魔し、あるいは手伝いし、われわれの今日の仕事に関係を絶たない。

「三つ子の心は百までも」「老馬路を忘れず」という。
青年時代に植えた種子は、よかれ、悪しかれ、いつまでも身辺に纒いつく。

 古き書にもあるとおり、「汝一度水田に種子を播け、数日を経て収穫すべし」と。
われわれひとたび播ける種子の酬いは、われわれ自身が刈らねばならぬ。
若い時に植える種子は、後年植えるものよりいっそう深く根を張る。

植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらんはなこそ散らめ根さへ枯れめや
 とあるごとく、単に植えさえしておけば、秋のない年はいざ知らんが、いったい一年間に秋のなきはずはないから、必ず秋がくるに相違ない。
その秋がくれば、草木の性質として花を咲かす機会到来は必定。
けだし去年の花は縦しまったく散り了っても、根さえ枯れずに健全なれば。

第二十六章 理想の実現は何処

犬車の前に垂れ下げた肉片
 僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る犬車というものがある。
すなわち犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車である。
これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。
犬というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々で行われている。

 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を達している。
しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。
擲っても叩いても動かない。
このときに肉でも与えると動きだす。
そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。
犬はこれを食おうと思いワンといって動きだす。
いくら動いてもけっして達することはできぬ。
どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。
僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。

 われわれが一つの理想をもって進む。
一歩進むとまた一歩前に理想がある。
何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。
理想というものははたして達しえざるものであろうか。

理想はどこまで行っても達せられぬ
 カーライルはかつて、「いかなる卑しい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。
なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された暁において始めて達せられるのである。

 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。
またないはずである。
人間は一を得ると第二が欲しくなる。
第二段にのぼると第三段が欲しくなる。
どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。
いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる賤しい、路傍の乞食でも、腹が空いているときに握飯を与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく頂戴する。
も一つ与ろうとすると今度はそうありがたく思わない。

「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「香の物をつけていただきたい」
 という注文が出る。

 三つめには、「握飯ばかりではなんですから塩引でも」という。

 四つめには「塩物ばかりでは喉が乾く、刺身を」といいだす。
乞食のごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。

「八百膳」の料理を奢られても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。
帝国ホテルの御馳走でも、たび重なればいやになる。
食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒池肉林に入れても永く満足はせぬものである。

 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。
また得られぬはずのものである。
この乞食が三日も飯を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃の腑である。
握飯でも食いたいというのが彼の理想である。
彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実胃の腑の理想である。
腹がいっぱいになり刺身が食いたいというのは、腹の理想でなく、舌の理想である。
あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に褒められたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚栄心を充たす理想である。
同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを充たす物体も変ってくる。
自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に憧れて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。

理想は早晩実現せられる
 あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。
私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。
しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。

 理想という以上は、合理的にして、分度ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人の在世中実現のできるものであると思う。
この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測るものでなく、品質で測るものではなかろうか。
たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。
あるいはそれは違う、桔梗の花を見たいのでなく、花を見たいのである。
花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。
それがすなわち分量と品質の違うところである。

 僕はつねに思う、一枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。
すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。
われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。
昔から天女を見ると、羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いている。
おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。
すなわち羽根が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠には羽根をつけている。
しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。
飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。

 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。
これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。
個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神や仏に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩達せられると僕は確信する。
なかには金が欲しく天から小判の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。
それは理想でなく、欲想である。
実現せられぬのは理想でなく空想である。

理想を行為に翻訳するが人生
 理想は何人でも、活きている者は必ずもっている。
またこれがその生命である。
耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。

 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。
ただ呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯でも麦飯でもよいけれども、この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。
前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。
われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。
ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。

 理想という原語を行為に翻訳するのである。
わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。
これが人生というものではないかと思う。

誤って翻訳した実例
 この翻訳はなかなか難い。
原文を精確に会得しなければ翻訳はできない。
また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。
原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。
それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。
ここにおいてわれわれは翻訳に拙い生活を送っている。

 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸近所を通って登城するさい、外国人が乗馬でその行列の鼻を乗切った。
殿様はもとよりその従者も一方ならず憤慨し、殿はただちに通訳を召し、
「汝は言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺してその場で切り捨ててこい」
 と命じた。
通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、
「私の主人なんの守という大名が登城の途中に、貴方の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人も見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍を見せてもらうことはできまいかと申します。
途中でお止め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。
主人が駕籠をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠の前に来て見せてくださらぬか」
 という。
外人は得意になって、駕籠のそばに来たり鞍を見せんと下馬し脱帽して挨拶した。
そのとき通訳官は、
「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命だけはお許しを願いたい」
 と申し上げる。
殿様も外人が下馬して脱帽しわびることなら許してつかわせといわれた。
そこで通訳は外人に向かい、
「見事なお鞍を拝見してありがたい。
駕籠のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」
 という。
外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始めてで、名誉なことであると喜び、再三脱帽したあとで去った。
通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、
「苦しゅうない、苦しゅうない」

最大侮辱を最大敬礼とした誤訳
 翻訳というものはこうもできるものだ。
しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。
幕府時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。

 髪をチョン髷に結い、裃を着け、二本さし、オランダへ行った。
これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ生え、その毛がつっ立っているそうだ。
これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。
使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮廷に拝謁に出かけた。
何万という人々は沿道に立って異様な装した日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。
なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮辱を使節に加うるもあった。
おそらく日本の侮辱法の最大なるものは「尻をまくって叩く」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。
そのかわりに双手を開いて鼻の前にならべて人を遇する侮辱法がある。
日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と見なし、無礼の極とし、日本人が尻をまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。

 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが鼻の前へ手を当てワイワイいっている。
使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、
「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」
 といった。
そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷に達し拝謁するとき、使節は玉座の前でみな手を鼻に当てた。
陛下は大いに驚き、自分に侮辱を加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには棄ておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。
すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。
陛下もなるほどそうか、それでは朕も遠来の大使を遇するに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。

 通訳というものはこういうこともできる。
僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。
笑うとともに思いあたることがある。
すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一寸一分も違わぬことがありはせぬか。

理想の翻訳を誤るものが多い
 たとえば男女の心中のごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、不義の交際は親も許さず世間も認めぬ。
この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で蓮華の上にということになる。

 かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、勝手次第に意味をとる。
ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが間々ある。
たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。
はなはだしきは人身攻撃をする者もある。
して彼らの理由を訊せば、人間が世の中にいる以上は、優勝劣敗の原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。
なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。
敵を殪すにはいかなる手段方法をも用いる、嘘をついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。

 僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、狡猾をやる学生がある。
それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。
試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。
してみると君が試験に狡猾をしたのは、親孝行のためにしたというのか、「そうでござります」という。
こういうことは間々ある。

 愛国忠君などということを口癖にいう人にはこれが実行の翻訳を誤る人が多い。
愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。

 明治二十年ごろ、国粋主義のさかんなとき、途中で外国人の婦人に唾を吐きかけた学生があった。
なぜそんなことをなしたかと訊問されたとき、国体を発揮するためだと答えた。
愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。

 むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほど怪しげな心はない。
いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。

 明治十年ごろまでは強盗したり乱暴狼藉した者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国を憂いて大いに旗上げするつもりであるといった。
また地租改正のとき、あっちこっちで騒いだ。
このとき重税を課しては国のために憂うべき事であると、佐倉宗吾を気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって強盗強姦したものもある。
これが愛国だということはちょっとわからぬ。
とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、妄想であることを一言したい。

理想の実行は位地の有無に関係せぬ
 近時理想ということが一つの流行語になり、成功はいうにおよばず失敗をも理想に帰する傾向がある。
この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのか否かと考えたいと思う。
たとえば愛国の理想を描くならば、戦争のとき、馬背にまたがって功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。
なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂げるみちはある。

 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。
理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。

 教育家は教育をもって自分の理想とする。
しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺してみると、真に教育のためにつくしたい志よりは、他に望みがあるのが多い。
だんだんそのいうところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈に住いすることが理想なのである。
つまりそれなら馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。

 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎じつめると、実業家は美服を着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。
しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間でも俳優でもできるわざにある。
とかく理想々々と高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。

 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。
また県の教育課長、視学官になる必要もない。
真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。
教えという字はなぐるとか叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒し、下に肉月がついている。
子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。
教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。
家にいて下女下男の教育もできる。
また自分の女房子女を教育することもできる。

 むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等はみな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。
藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。
人そのものが教育である。

 人が真に教育家なら笑っても教育になる。
寝ているのも教育になる。
一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。
われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。
位地を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。
文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。
明治以来文部大臣となりし人のなかで、今日まであの人の時にこういうことをしたと記憶される人はきわめて少ない。
僕は文部省を攻撃するのでなく、ただ説明の便宜に引例したのである。
して僕のいうことは教育のみに限らない。
他の官衙においても同然である。

 また西洋でも同じである。
各国の教育史を見てもペスタロッチ、フレーベルなどは自身で鼻汁をたらした子供を集めて教えたということは残っているが、役人になったかどうか、世人は問わない。
われわれの理想を翻訳するに、どの位地、どの椅子に坐らなければできぬというものでない。
位地を得ればなお良いかも知らぬが、位地ばかりが理想を達するゆえんでない。
否々位地を得たため、かえって理想を失する輩が多い。
理想は椅子にあるものでないから、椅子を得たによってまっとうするとはいわれぬ。
もし椅子によりてなしうるなら、人でなく椅子が働き、人は椅子の道具に化するようなものである。

理想は所在に現れる
 しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。
ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。
自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。
要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。
一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。

 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。
たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。
西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。
威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。
これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。
理想もまたかくのごとくならねばならぬ。

 理想があれば手なり足なりに現れる。
かの椅子に坐らなければ理想が行われぬというは、下手な職人が道具をならべると同じである。
こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。
ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。
泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。
盗む気はなくとも欲しい気はある。
両者は行為に現れたときは大いに接近している。

 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。
人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。
彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。
ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾うということは遠くとも従兄弟同士ぐらいである。
欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。

 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。
あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。
先年もある青年が婦人の誘惑に陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱したということを手紙で通知してきた。
青年はみな理想をもっているが、卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。
これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。

ここに焚く火の烟なりけり
 昔のある皇后の御歌に、
もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚く火の烟なりけり
 われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土の山のかなたに立つ烟のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬れているという青年男女などは、日々学課をそっち退けとし、月や星を眺め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。

「ここに焚く火の烟なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。
またこれを養うに遠方にゆき塵界を去らねばならぬものでない。
われわれは山へ引っ込むもよい、塵界を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。
理想は心の作用である、実際は身体の作用である。
心と身体とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。
われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。

 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。
また真の理想なれば実際に行われぬものはない。
いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。

第二十七章 夢の実用

夢は迷信として排くべきか
 年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船を枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風を行うものが何万の数に達するであろう。
文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。

ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん
 とは古き人の歎きであるが、いまも同感なる者は少なくない。

 よく人は、「人生は夢の如し」などという。
人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。
これは学者も名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。

夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし
 と猩々庵原松の狂歌にある。
夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁が人生か。
これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。
いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。

 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。
実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。
米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡ったのも、もっとも至極の観察である。

夢もまた人生の一部
 しかし夢もまた人生の一部である。
ほとんど夢なきの人生はない。
かりに「聖人夢なし」という句が本当なりとするも、世人ことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。
もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。
しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。
明らかに夢見ているときでも
「これは本当であろうか」
「夢ではあるまいか」
 と疑うことは、普通に人のいうところである。
しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、「夢ではないか」と思う。

 かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。
たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災に罹った上に親を喪うとか、子を失うとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時に襲い来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生の蓋を除けて底に達したようなときである。
人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしと祈る。

夢とはいかなるものか
 普通にいう夢とは、自己の意識の行われぬときに心に触るる現象である。
しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠中である。
ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。
また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。

 人間普通八時間睡眠し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。
人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。
しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用あるものであるか。
僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。
この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。
もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。

 農業に休田というがある。
これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物を生育する力を増殖するために休むのである。
人間の睡眠時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。
ゆえにこの間に結ばるる夢は徒らに疲労せる身体の幻すなわち諺にいう五臓の煩いでなく、精神的営養物となるものと思う。

睡眠中の時間も向上に用いられる
 かくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。
また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。
空々寂々に過したり、または睡眠する時もまた人生にとっては重大な時である。

 長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。
通常、睡眠と死とは、同一物のように思われている。
さればこそ沙翁の悲劇『ハムレット』にも、「死ぬるは眠るなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば云々」と死と眠りとをほとんど同一視してある。
ただ時間の差異のみとみなされている。

 ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくに称えられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。
この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。
古人の言に夢の魂などと称するものがある。

君こふる夢のたましひ行かへり、夢路をだにもわれに教へよ
 といい、また、
つらさのみまさり行く幾おもひやる夢のたましひいかゞ行くらん
 などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作を指すもので、今日の学者といえども捨てがたい面白い詞章であると思う。

夢は一種の潜在識
 近ごろ心理学者が潜在識ということを説く。
僕は潜在識とは学問上、いかなるものなるやを知らぬが、僕の平凡見解でわかりやすく俗語で説けば、心の奥底に潜み隠れ、自分がいっこう気づかぬとき、不意々々と現るる感想をいうように思わるる。
たとえばわれわれが子供のとき、母の乳房につけるころに見たり聞いたり、または感じたりしたことは、われわれの心の、いわば片隅に隠れ、忘れられているらしく思われるが、必ずしも消滅し去るものでない。

 元来、人が事物を記憶するのは、たいがい四歳以上になって見聞したことにかぎる。
しかして三歳、または二歳のころ、まったく無意識的に見たり聞いたりしたことは、根底より消え失せるかと問わば、けっしてそうでない。
どこかに潜んでいて、いつかことに触れ機に接して、何人にも聞いたこともないことを想い浮かべるのは、よく各人の実験し、また他人についても見聞することである。
われわれがなにかするときに、こういうことはかつて前にもあった、いつであったか、その時を忘れたが、確かにあったと思い出すことがある。
またあるいはまったく新しい所、――たとえば外国に行って、その風景などもなんとなしにかつてどこかで見たように感ずることもある。
しかるに実際はいかに考えても、見たはずがないというがごとき類は一種の潜在識の作用であろう。
この潜在識はわれわれ個人として経験したことばかりのものにかぎらない。
われわれの祖先が経験したことまでも材料となる。

 たとえば誰でも一度か二度は経験しない人はあるまいが、寝ておって、高い所から落ちる夢を見て、冷汗をかいて目ざめることがある。
かくのごとき夢はどこの国の人でも見る夢であって、おそらく人類共通の経験に基づいたことであろう。

 さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺に違わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。
われわれの祖先にとってはこれほど怖いことはない。
悪く落ちれば絶命は必定であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。
しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。
したがってこのことは全身、全心に沁みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識に化するにいたる。
これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗をかかせる理由となる。

 これについて奇態なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。
いつも夢の浮き橋で中絶するという風である。
なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。
死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。
かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。

 一斎翁の言に曰く、
「およそ人心の裏絶えて無きのこと、夢寐に形れず、昔人謂う、男、子を生むを夢みず、女、妻を娶るを夢みず、この言良に然り」と。

 眠る時にもこの潜在識はひそかに働きつつある。
ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。

「夢は逆夢」とか、
「あたらぬものは夢とちょぼいち」
 などいう諺は、夢をもって未来を卜する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢ということもなくなって、「思うこと寝言」なう諺こそ事実に適うなれ。

 杜甫の「夢李白」の詩に「故人入二我夢一、明二我長相憶一」と詠じたのも、後二条院の、
こひしさのねてや忘ると思へどもまたなごりそふ夢のおもかげ
 と歌われたのも、詩仙にかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。

宝船以上の夢見る秘訣
 僕の素人的の考えでは、潜在識は知識を、心という土蔵の奥にある葛籠の中に入れて、しまいこんだように思われる。
ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとを蔵め入るるによって、潜在識の性質に異同を生ずることはいうまでもない。
潜在識はその本を質せば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。

 人に交わっても、その短所のみを見、ここが心に叶わぬとか、あの風が気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある葛籠に詰め込むか、あるいは善良なる観察と思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。
しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、葛籠より現れ出で、不愉快なものは不愉快な夢となって祟り、善事は善く出て、愉快なる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。
伽話にある「舌切雀」の葛籠にいかなるものが潜在してあるかは、もらう人の与かるところでないようなものの、その根本を質せばもらう人が入れ込むのである。
欲張り婆さんは、みずから化物を葛籠の中に潜在させたから、蓋を開くとともに醜怪なものが顕れだし、正直爺さんは宝物を潜在させたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。

 それと同じく宝船を枕の下に敷いて眠っても、ただ欲張り考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を帆走る光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。
これに反し、得たる宝を慈善的公共的その他の正当な使用に充つることを日ごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上の宝の夢を得るであろう。
しかしてかかる夢は普通にいう邯鄲の夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。
僕が夢を一概に迷信として排斥すべからずといったのもこれがためである。

夢と実際とは連絡することが多い
 子供が眠るときに、怖ろしい顔して叱ると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。
かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいは鬼に襲われたり、あるいは化物に逢ったり、あるいは魘されたりして可愛ゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありと顕れる。
これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔には笑をふくみ、いわゆる「子供の寝顔」となる。
かく怖ろしき夢をむすぶも、吉夢を見るのも、ともに子供にとっては(大人にしても、同じであるが)、一つの精神的経験を構成する分子となる。
目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる潜在識となって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。

 僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢に怖ろしき化物を見たことがある。
眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。
けしからぬことであると、自分ながら自分を責め、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。
かく精神は落ち着き、自覚したのちでも化物の形がハッキリと目に映じていた。
このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が髣髴として眼前に残っていた。
むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。
しかしいかに病的とはいえ、みずから明瞭に自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その現象の消え去らず、連続しておった。
あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることを考え、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずから怖ろしくなったことがある。

夢は人間の心の鏡
 右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。
これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。
ゆえに目覚めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品な、紊れたことを見ぬものである。
しかるに少し油断し、修養を怠ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。
孔子は、
「甚だしいかな、吾が衰えたるや。
久しく吾れ復た夢にだも周公を見ず」
 といっている。
孔子が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。
この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。
しからばすなわち白居易の詩に、
「平生所レ厚者 昨夜夢見レ之」
 とあるように、日ごろめざめているときに高尚な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。
はたしてそうならば、睡眠中のいわゆる夢魂によっていわゆる醒覚中の真意が何処にありしかを窺うこともできる。
昼中働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。
佐藤一斎の『言志耋録』に、
「感は是れ心の影子なり、夢は是れ心の画図なり」と、また、
「人を知るは難くして易く、自ら知るは易くして難し、但し当にこれを夢寐に徴し以て自ら知るべし、夢寐自ら欺く能わず」と。

 実にそのとおりで、良木は良果を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。
しからば夢はまた吾人の平素識らず識らずに思う心の鏡と称してもよかろう。
かく考えると、睡眠を利用して修養の用に供することができそうである。

努力すれば高い境遇に登れる
 わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然なる現象にあらず、まったく空のものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。
わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅薄なるに驚く人もあろう。

 一般人士の踏む境界を脱していっそう高き境界に達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚妄にして、すべてあるところなしと悟らるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境遇にありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘子は高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡蝶となって花の上に戯れてのち驚き覚めたるごとく言った。
形而下の世にあると、形而上の世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。
わが輩は凡人の情なさに、形而下の話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形而上の思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。
しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工夫をし、まじめにかつ永く努めたなら、必ず一段も二段も高き境遇に進入することを得るであろう。
古人の歌に、
世の中は夢か現か現とも夢とも知らずありてなければ
 などいう一首の意味も、吾人の立場の高低によってどうとも取れる。
なおさら修養が積んだならもう一段昇りて王陽明とともにかく吟ずるの日も来たらん。

人間白日醒猶睡  人間は白日に醒むるも猶睡るがごとく
老子山中睡却醒  老子は山中に睡るも却って醒めたり
醒睡両非還両是  醒睡両つながら非 還両つながら是
溪雲漠漠水冷冷  溪雲漠漠たり 水冷冷たり