錬金術といってもアニメの話しではありません。
ちょっとマジメに錬金術と錬金術師とは何かを整理してみたいと思います。
錬金術とは、他の金属を精錬して金に変えてしまおうというものですが、実際は金だけではなく、広く貴金属を卑金属から作り出す研究を錬金術といい、その研究家を錬金術師と呼んでいました。
無から金を創り上げる事は不可能でも、他の金属を変性させれば金にできるのでは?というのが錬金術の原点です。
歴史を見る限り、金を作り出すことは出来ませんでしたが、その途中で考案された製法や副産物は現代科学の礎となっていきます。
錬金術というと、中世ヨーロッパ時代をイメージされるかもしれませんが、実際最初に錬金術を始めたのはギリシアで、ここでは治金術と呼ばれていました。
その後イスラム錬金術時代を経て中世ヨーロッパの錬金術にたどり着くのですが、それ以外にも中国などでは錬丹術、丹田術といった錬金術と似た研究がなされていました。
錬金術の目的は「賢者の石(lapidis physici)の探求」です。
賢者の石の性質は2つあり、 1つは狭義の「錬金作業」クリュソペイア黄金変成、アルギュロペイア銀への変成などの金属変成といったもので、要は他の金属を変性させて金にするというものです。
そしてもう1つは、万能薬パナケイア、 錬金薬エリクサー(Elixir、エリクシャーやエリクシールとも呼ぶ)といったもので、賢者の石を人体に使えばより頑健な身体、不老長寿になるとされたものでした。
こうした錬金術が中世ヨーロッパで爆発的に広まった背景には魔女狩りがあったそうで、得体の知れない魔術や儀式をしているのではなく、錬金術という学問や研究を行っている、という隠れ蓑としての役割も果たしていた背景があるようです。
こうした錬金術は、結果として賢者の石やエリクサーを創り出すことはできませんでしたが、そこで行われた実験や知識を基にして科学が生み出されていきました。
そして、科学が進歩すればする程、皮肉にも錬金術の目指すものが非現実的であるという証明が次々と立てられ、錬金術が廃れていきます。
近年その科学によって、錬金術とは全く違うアプローチで人類は不死への挑戦に改めて挑もうとしています。
これを良しとするか否かは賛否両論ありますが、それでも人類とは見果てぬ夢をいつまでも追いかけざるを得ない生き物であることは間違いなさそうです。
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ということで。
さてここからは、錬金術という非現実的な夢に挑んだ軌跡を整理して参ります。
【賢者の石とは】
賢者の”石”というくらいなので、その形は石かそれ相応のもののように思われがちですが、実際には粉末、液体、薬と解釈される類のもののようです。
賢者の石はその製造過程で必ず、黒→白→赤という3つの色を経て完成すると考えられており、黒(死と腐敗)を経たあとで、白(再生、復活)が起こり、最後に赤(完成)に至るというプロセスで精錬されるものという捉え方であったようです。
これが本物の「悪魔召喚の方法」について書かれた錬金術と神秘主義の本だ
【錬金術の背景】
錬金術は占星術と関係が深く、錬金術師たちは作業を行うのに星座や惑星の位置に気をつけていたようです。
といっても、占星術が確立されるより以前から、錬金術において金属はその色合いによって天体と関係付けられていました。
・金はその黄色い輝きから太陽
・銀はその白い輝きから月
・水銀は水星
・錫は木星
・鉛は土星
・銅は金星
・鉄は火星
と結び付くようになっていたようです。
やがて占星術が発展すると、各惑星は様々な星座と関係付けられ、金が成長するのは太陽の影響が強いときであり、銀が成長するのは月の影響が強いときだと考えられていたようです。
【著名な錬金術師達】
ではここからは、歴史にも名を残している著名な錬金術師達を並べてみます。
[ヘルメス・トリスメギストス]
ヘルメス・トリスメギストスは実在の錬金術師ではなく、最初は人間でさえなく、神だったといわれている人物。
そして錬金術師たちの伝承によれば、彼こそが錬金術そのものの始祖、つまり生みの親とされている。
更に、後のヨーロッパのルネサンス時代の錬金術を支えた、実に壮大な魔術的思想を語ったといわれている。
古代アレクサンドリアで始まった錬金術は、アラビアを経由して12世紀ころにヨーロッパにもたらされると、17世紀ころまでヨーロッパで大流行し、特に15世紀のルネサンスの時代は、錬金術にとっても特別な時代となっていた。
古い時代の様々な信仰や宗教を取り込んで誕生した錬金術は、かなり霊的で魔術的な部分を持っていたが、こうしたものがルネサンスの時代に、たんなる錬金術師の信仰というレベルを超えて、ヨーロッパ全体を巻き込む流行となっていた。
こうしたことからも、当時の錬金術師はルネサンス時代の魔術的世界において、極めて重要な存在であったことが伺われる。
そしてヘルメスが出てきたことで、錬金術自体も大きく変化した。
ヨーロッパに入った当初は、錬金術の中でも黄金変成を中心とした実用的な部分が注目されていたが、ルネサンスの時代には錬金術の中でも特に霊的な部分がクローズアップされることになった。
つまり、錬金術はたんに金属を金に変成させる術ではなく、人間の霊性を高め、人間に神のようなすぐれた霊性を与える術と考えられていた。
ルネサンス時代のヨーロッパでヘルメスが脚光を浴びたことで、錬金術師自身も錬金術にまつわるヘルメス的な伝説を盛んに議論するようになった。
なかでも、錬金術師にとって最も重要視されたのは、ヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド板』に関する伝説。
この『エメラルド板』は、いうなれば錬金術師の聖書である。
錬金術の伝承によれば、すべての錬金術の起源はエジプトにあり、古代エジプトの知恵の神トートがその知識を人間に授けたとある。
その後、ギリシアからエジプトのアレクサンドリアにやってきた植民者たちが、このトート神を古代ギリシアの冥界の神ヘルメスと同一視し、ここからヘルメス・トリスメギストスという偉大な錬金術の祖の伝承が生まれた。
トリスメギストスとは「三重に最も偉大な者」という意味で、トート=ヘルメス神がそれほど偉大な神だということを表している。
つまりヘルメス・トリスメギストスは元々神だったが、やがて人間化され神話的な王だったと考えられるようになった。
彼は3226年間も地上に君臨し、3万6525冊の本を書いたなどともいわれる。
こうした中で、ヘルメス・トリスメギストスは自らが編み出した錬金術の奥義をわずか数十行の寓意に満ちた文章に表し、エメラルドの小片に書き記した。
これがヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド板』と呼ばれる文書である。
一説によると『エメラルド板』はヘルメスのミイラの手におさめられ、ギゼーの大ピラミッド内部の深い穴の中に埋葬された。それを誰かが発見し、正確な複写を取った。
その後、『エメラルド板』の実物は失われてしまったといわれているが、その内容は繰り返し複写され、錬金術師たちに愛読された。
そして、錬金術師たちはそこに書かれた短く寓意に満ちた文章に独自の解釈を施し、以後、錬金術の奥義を手に入れようと必死の努力を続けることとなった。
『エメラルド板』は錬金術に関する最も古く短い文書であるものの、そこには錬金術の秘密のすべてが隠されていると信じられていた。
『エメラルド板』には以下のような文章が書かれている。
「これは偽りの事実ではなく、確実にして真実である。
一なるものの奇跡をなしとげるにあたっては、下の世界にあるものは上の世界にあるものに似ており、上の世界にあるものは下の世界にあるものに似ている。
すべては一つのものの和解によって、一つのものから生まれたように、すべては順応によって、この一つのものから生まれた。
このものの父は太陽であり、母は月である。
風はこのものをその胎内に持ち、乳母は大地である。
このものは世界にあるすべてを完成する父である。その力は、もしも大地に向けられるなら、完全無欠である。
なんじは、用心深くすみやかに、火から土の元素を、霊妙なものを粗雑なものから分離せよ。
それは、すばやく大地から天空へ上昇し、再び大地へ下降して、上にあるものの力は下にあるものの力を受け取る。
かくして、なんじは全世界の栄光を手に入れ、一切の不明瞭は消え去るだろう。
このものは、すべての力あるものの中でも最も力あるものである。
それはすべての霊妙なものに打ち勝ち、すべての固体に浸透するからである。
かくして大地は創造された。
それゆえに、このものを手段として、驚嘆すべき順応がなされるであろう。
そのため、わたしは全世界の哲学の三部分に通じるヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。
わたしが太陽の働きについていうべきことは、以上ですべてである。」
[ニコラ・フラメル]
錬金術に関係なく、小説『ハリー・ポッターと賢者の石』の中で、ホグワーツ魔法学院に保管されていた賢者の石を作ったとされている錬金術師として、ニコラ・フラメルの名は有名になっている。
ニコラ・フラメルは1330年生まれで1418年に死んだとされているが、その死から300年以上も後の18世紀になっても、フラメルがパリで住んでいた家は錬金術師たちの巡礼地のようになっていた。
フラメルは後世の錬金術師たちに崇敬されいたのだが、それは彼が賢者の石の創造に成功し、黄金と不老不死を手に入れたからだけでなく、その後も数百年に渡り(もしかしたら)現在までも、幸せな生活を続けているといわれているからである。
当時、写字生兼書籍販売人であったニコラ・フラメルは、金箔塗りの非常に古い大型本を手に入れる。
それぞれのページは当時一般的だった紙や羊皮紙ではなく、柔らかな若木の樹皮を薄く打ち延ばしたものでできており、その表紙は薄い銅板で、彼がまだ見たこともないような文字のような図像のようなものが彫ってあった。
この書物こそ〝賢者の石〟の製造方法を伝える貴重な錬金術論文だったわけだが、フラメルはヘブライ語と寓意図で記された内容を読み解くと、それに従って〝賢者の石〟の製造を開始し、1382年1月17日の昼頃完成する。
自身の告白によれば、彼は全部で三度〝賢者の石〟を使って水銀を黄金に変え、フラメルはあっという間に大金持ちになった。
現実に、彼はパリに14の病院と3つの礼拝堂と7つの教会を設立したうえ、基金に寄付するという慈善事業まで行ったことで知られているが、この金は錬金術によって得られたものだといわれている。
賢者の石を手に入れたフラメル夫妻は、それによって黄金のほかに不老不死も手に入れ、国から国へと渡り歩きながら、信じられないほど長い生涯を幸せに暮らしたと言われている。
後世、フラメルが生前に住んでいた家が錬金術師の巡礼地のようになっていたが、賢者の石の秘密を探しにこの家にやってきた錬金術師たちの誰も、片隅にあった1つの小瓶にだけは気がつかなかったと伝えられている。
そんなある日、1人の無知な女がこの家にやってきてそれを見つけ、家に持ち帰った。
表面は土やほこりで汚れ、内側にはクモの巣がはっていたが、よく見るとその中に何かの赤い粉末があった。
だが、彼女はそれが何であり、どんなに価値のあるものか知らなかったため、彼女はクモの巣を払い、小瓶を磨くと、中身の粉末を水で洗い流してしまった。
こうして、この世の初めから人類が探し求めていた魔法の薬が、水とともに完全に失われてしまったのだという。
[アレクサンダー・セトン]
アレクサンダー・セトンという錬金術師は人々の前で黄金変成を成功させることによって、錬金術を信じない人々に、錬金術の真の力を教えることを、この上ない喜びとしていたようなところがあった。
そして彼はヨーロッパ中を飛び回り、人々の前で堂々と黄金変成を成功させ、その活躍ぶりはまさに華々しいという言葉がふさわしい。
アレクサンダー・セトンは貴族出身で、1600年頃にスコットランドの片田舎に住んでいたが、そんなある嵐の日、セトンの住む村のはずれにある海岸で1隻のオランダ船が難破した。
セトンは村人たちを招集して水先案内人ヤコブ・ハウセンと乗組員たちを救助したが、これが縁でセトンはハウセンと親しくなる。
翌年、セトンは大陸旅行に出発すると、オランダのアムステルダム近郊の小さな町に住むハウセンの家に数週間滞在し、暖かい持て成しを受ける。
セトンは心から感激し、ハウセンの家を立ち去るときに一片の鉛を黄金に変えてハウセンに贈ったとも、賢者の石の秘密を教えたともいわれている。
これが、セトンを有名にした最初の出来事。
以後セトンは華々しい活躍を続けていくが、ヨーロッパ各地で金属変成の実演を行い見事に成功したため、いつの間にか「コスモポリタン(世界市民)」というあだ名で呼ばれるようになっていた。
だが、賢者の石の秘密を知ろうとするザクセン選帝侯クリスチャン2世に捕えられ、牢獄に閉じ込められ、恐ろしい拷問を受けた。
セトンは幸いにも脱獄することができたが、間もなくその傷がもとで死んだ。
この死の直前、彼は所有していた賢者の石のすべてを、脱獄に協力してくれたミカエル・センディヴォギウスに譲り渡したという。
この粉末のおかげで、センディヴォギウスもまた、有名な錬金術師として名を上げることになるのである。
[パラケルスス]
パレケルスス(本名:テオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイム)は錬金術を医学の分野に応用し、革新的な業績を残した錬金術師であり、後の賢者の石の伝承の元となった人物。
パラケルススは錬金術によって、鉱物から病気の治療に役立つ優れた医薬品“医療化学”を始めている。
彼は、アリストテレスの火、空気、地、水の理論に、すべてのものは水銀、塩、硫黄の三原質で構成されていて、さまざまな病気はこれらの均衡の異常に帰結されるという彼自身の理論を加えた。
また彼は、新しい病気に対する新しい治療法を発見するための手段となりつつあった、正真正銘の化学に接近することで、医師=錬金術師の新しいヴィジョンに本質的な貢献を行った。
このため医化学の始祖のうちに数えられている。
ヨーロッパ各地に残されたパラケルスス伝説をいくつか紹介しておこう。
パラケルススが放浪していた時代のある日曜日、インスブルク郊外の森を散歩していると、どこからか彼の名を呼ぶ声がした。
「誰だ?」と問うと、その声が答えた。
「私だ。このモミの木の実の中に閉じ込められているのだ。頼むから出してくれ」
見ると、すぐそばの大きなモミの木に、3つの十字架で封印された実があった。
パラケルススはすぐに、そこに悪魔が閉じ込められていることを理解すると、いくつか条件を出した。
「そうだな。どんな病気も治せる万能薬と、すべてのものを黄金に変えられる秘薬をもらえるなら、出してやろう」
悪魔はもちろんこの条件を飲んだ。そこで、パラケルススがメスでモミの実を裂くと、そこから一匹のクモが這い出してきた。そして、地面の上にぽとりと落ちたと思った瞬間、目の前に悪魔が立っていたのである。
こうして、パラケルススは悪魔から万能薬と黄金製造薬を手に入れたのだが、知恵のあるパラケルススはそのまま悪魔を解放したりはしなかった。
このとき悪魔は自分を封じ込めた悪魔祓い師に復讐しようと考え、このたくらみにパラケルススを誘ったのだが、これを聞いた彼はすぐにもこういった。
「悪魔祓い師はおまえを小さな穴の中に押し込んでしまうほどの力のある男だ。しかし、おまえは自分の力では小さなクモに変身して、この小さな穴の中にもぐりこむことなどできないだろう」
すると、悪魔は小さなクモに変身し、再びモミの実の穴の中にもぐりこんだ。そこでパラケルススはさっさとその穴にふたをし、十字架を刻んで封印した。
こうして、パラケルススは悪魔をだまし、万能薬と黄金製造薬だけをうまうまと手に入れることができたのだという。
もうひとつ、こんな話もある。
ウィーンに「黒鷲亭」という旅籠があった。
ある夜のこと、その主人の息子が若い女中といちゃついていると、それを見つけた主人が女中を追い出そうとした。
偶然にもその場にやってきたパラケルススは、若い2人を弁護した。
これに主人が腹を立てた。パラケルススはその旅籠の常連だったが、これまで一度も代金を払ったことがなかったからだ。主人はいった。
「そんなことをいうなら、これまでのツケをすべて払ってもらいたいものだ」
仕方なく、パラケルススは懐から銅の小銭を取り出して、主人に渡した。すると、主人は小銭を床にたたきつけ、「この小銭が金貨に変わったら、この小娘を息子の嫁にしてやろう」とのたまわった。
「では、小銭を拾ってみろ」とパラケルススは応じた。
すると驚くことに、主人が拾い上げた小銭は本物の金貨に変わっていたのだ。
この噂はすぐに広まり、それからというもの旅籠は大繁盛となった。
そして、「黒鷲亭」は「小銭接吻亭」と呼ばれるようになったという。
[アレッサンドロ・カリオストロ伯爵]
偉大な錬金術師なのか、はたまた希代のペテン師なのか?
サン・ジェルマン伯爵の弟子だともいわれているが、カリオストロ伯爵はそんな疑わしい錬金術師の代表である。
カリオストロ伯爵はサン・ジェルマン伯爵と同様に、錬金術と魔術によってフランス革命前夜のヨーロッパで人気を集め、一世を風靡した。
1780年、アルザスの地方都市ストラスブールにいかにも人目を引く人物が現われた。
妻と一緒に町で最高級のホテルに滞在し、何人もの使用人に囲まれて暮らし、自分専用の馬車を持ち、宝石や金をちりばめた派手な衣装を着た人物である。
彼は自分は医者だと名乗ったが、ただの医者ではなかった。患者から料金を取らない奇跡医なのである。
すぐにも貧乏な病人たちが彼のところに救いを求めて集まったが、彼はそんな患者たちに食事を与えたうえ、薬まで処方した。
そのうち病人たちは彼の姿を見ただけで彼の周りに集まり、跪き、救い主とか神様とか叫ぶようになったのである。
この人物こそカリオストロ伯爵だった。
やがてカリオストロの治療で実際に病気が治ってしまったという実例も増え、彼はたちまちのうちに町中の評判を勝ち得た。
こうして貧乏人だけでなく、上流階級の人々までが彼に尊敬の念を抱くようになったのだが、彼はヨーロッパ各地で同じやり方で人々の評判を勝ち得たのである。
それ以外にも、カリオストロは霊見術で人々の関心を集め、霊媒をつかって遠方の出来事などを透視することも行っていた。
また、彼が人々の興味を集めるために用いたのが錬金術であり、水銀を黄金に変えてみせたり、賢者の石から作ったという美顔水や若返りの薬の販売を行っていたといわれている。
こうして、医師、錬金術師、オカルト専門家、など様々な肩書きを持って一世を風靡していたものの、実体はほぼ詐欺師と思われており、それはヨーロッパ中を転々としていたことからも伺える。
1777年、フランマソヌリ(フリーメイソンリー)に参入し、フランマソン(フリーメイソン)になる。
後にフランマソンのエジプト起源説を唱え、自ら分派「エジプト・メイソンリー」を設立した。
その後も胡散臭い商売を繰り返していたが、ロシア宮廷でのスキャンダルや、マリー・アントワネットを巻き込んだ有名な詐欺事件「首飾り事件」によって失脚。
「首飾り事件」とは、1785年革命前夜のフランスで起きた詐欺事件で、ヴァロワ家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブル(今の日本円で約30億円)の首飾りをロアン枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った典型的なかたり詐欺。
ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされるカリオストロを事件の首謀者として告発しバスチーユに投獄、1年後カリオストロは無罪釈放となったがフランスから追放されている。
この事件の際、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人は王妃と愛人(レズビアン)関係にあると事実無根の噂が広まったことから、事実に反して事件が王妃の陰謀によるものとしてマリー・アントワネットを嫌う世論が強まり、結果としてその評判を決定的に貶めたこととなる。
カリオストロは、その後もヨーロッパ中を転々とすることとなるが、1789年にローマで異端の嫌疑をかけられ逮捕。
宗教裁判にかけられ、1791年に終身刑を言い渡された。1795年、獄死。
しかし、その死後も生きて地上を漂泊しているという噂が根強く、ロシアにまで流布した。
[サン・ジェルマン伯爵]
サン・ジェルマンは、18世紀のヨーロッパで、人々から〝wonderman(驚異の男)〟と呼ばれた怪人物である。
サン・ジェルマンにはさまざまな噂がつきまとったが、生まれも育ちもはっきりせず、怪しげなエピソードだけが無数にあり、生前に敢えてそれを否定しなかった為もあり、稀に見る特異な人物として歴史に名を残すことになった。
彼が人類普遍の夢である不死の象徴として語られることも、こうした伝説の流布を助長したと考えられる。
その怪しさの中心にあるのが錬金術だった。
事実、当時の多くの人々が、彼は賢者の石を所有しており、それによって不老不死を得ていると考えていた。
彼は宝石を散りばめた衣装をまとい、丸薬とパンと麦しか口にせず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語に加えて仏・独・英・伊・葡・西の各国語を話したといわれる。
身なりに気を使い、クラヴサンとヴァイオリンの名手であり、作曲もこなし、化学と錬金術に精通しており、不死を可能にする著作をものしたともいわれる。
カリオストロが所有していたとされる実在の18世紀の秘伝書『La Très Sante Trinosophie』の著者であるといわれ、貴石・宝石の類いにも非常な関心を持って多くを所有し、ダイヤモンドの傷を消す秘法を身につけていたとされる。
常軌を逸した長寿をもたらす秘薬を持ち、その結果2000年とも4000年ともいう驚異的な記憶を有していたといわれ、カナの婚礼やバビロンの宮廷を巡る陰謀などを語ることができた。
哲学者ヴォルテールはサン・ジェルマンについて「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」であると書き、フリードリヒ2世も彼を「死ぬことのできない人間」と称し、ニコラ・シャンフォールがサン・ジェルマンの使用人に「あなたの主人は本当に2000歳なのですか」と問うたところ、彼は「それはお教えすることができません。わたしはたった300年しかお仕えしていないのですから」と答えたという。
自分の年齢を2000歳とも4000歳であるともし、ソロモン王やシバの女王と面識があったとも語っており、十字軍ではパレスチナにおいてイングランド王リチャード1世とも会話したともいう。
また「自分は不老不死なので、霊薬を口にする他は食事は必要としない」と言って、実際に人前では全く食事をしなかったとされる。
作曲家のジャン=フィリップ・ラモーは「自分は人生で何度かサン・ジェルマンに会ったことがあるが、数十年たっても、どれも同じ年齢のサン・ジェルマンだった。彼の存在は神秘そのものだとしかいいようがない」と記し、またセルジ伯爵夫人は同年ヴェニスで彼に会ったが、約40年後に再び会った際に全く年を取ったように見えなかったという。
こうした証言は非常に多く、サン・ジェルマンは自由自在に姿を消すことができ、また催眠術を身につけていたとされたり、謎の失踪事件を解決したり、18世紀にはまだ存在しなかった汽車と蒸気船について話したという記録もある。
1760年に謀略によってフランスを離れることを余儀なくされ、その後プロイセン、ロシア、イタリア、イギリス、オーストリアを点々とし、最終的に錬金術に関心を持っていたシュレースヴィヒ=ホルシュタインの領主のもとに辿り着くが、この直後に使用人の女2人の腕の中で亡くなり、大革命の最中の亡霊としてパリに現れたともいわれる。
しかし、19世紀になってからさえ、サン・ジェルマン伯爵を目撃したという証言は後を絶たなかったのである。
[ヨーハン・ゲオルク・ファウスト博士]
ゲーテの戯曲『ファウスト』のモデルでもあるヨーハン・ゲオルク・ファウスト博士の名声は、高名なパラケルススに匹敵したともいわれている。
しかし、優れた錬金術師として各地を放浪する中でマルティン・ルターに悪魔の力を借りていると非難され、錬金術を実験中に爆死。
彼の死後、魔術に通じていたなどという伝説ができ上がり、特に悪魔(メフィストフェレス)と契約した人物として世に広く知られるようになった不幸な錬金術師の代表である。
それほどに有名だったにもかかわらず、彼が死んだ直後から、ファウスト博士がこの世に実在していたことを示す数々の証拠が、キリスト教の聖職者たちや迫害を恐れる人たちの手で、次から次と、ほとんどすべて消し去られてしまう。
ファウスト博士自身が書いた著作や手紙は完全に、何から何まで燃やされ、彼が存在したことを示す役所や大学の書類も破棄された。
他の人物が書いた文章の中にファウスト博士の痕跡がある場合も同様で、書物の中にファウスト博士に関する記述がある場合、その部分だけ削り取るのでは不自然だから、1ページ丸ごと書き直すという作業が行われたほどだった。
こうして、ファウスト博士はついに、いまだかつてこの世に実在したことのない錬金術師ということにされてしまったのである。
優れた錬金術師であると人に知られることはしばしば恐ろしい結果を招くが、ファウスト博士の場合は、まさに、その最も極端な例といっていいのではないだろうか。
[クリスチャン・ローゼンクロイツ]
クリスチャン・ローゼンクロイツ(ローゼン=薔薇、クロイツ=十字)は、薔薇十字団を創設したとされる錬金術師であるが、あくまでも伝説中の存在で実在の人物ではないとされている。
彼の錬金術にとって最も重要な課題は、自然の神秘、宇宙の神秘を理解することであり、薔薇十字団の錬金術では、旧約聖書「創世記」で語られている神による天地創造そのものが、巨大な錬金術的過程だと考えられている。
したがって、自然の神秘を探求して理解することは神を理解することであり、神と接触することを意味していた。
そして、神との接触によって、人間は新たな存在、道徳的精神的に完成された存在へと生まれ変わる。これこそが、薔薇十字団錬金術の目的となっている。
ローゼンクロイツは106歳で死亡したが、死後120年を経た1604年、ある会員が彼の秘密の墓に通じる隠し戸を偶然発見し、中に入ると、七角形の埋葬室の天井には永遠に消えることのないランプが輝き、ローゼンクロイツの遺体は腐らずに完全なままに保たれていた上、「我は120年後に蘇るであろう」と記された碑文も発見されたという。
さらに、地下埋葬所にはパラケルススと友愛団に関する書物も収められていた。このことから、薔薇十字団にとってパラケルススが非常に重要な錬金術師と認められていたことがわかる。
また、そこにはローゼンクロイツの功績を讃える羊皮紙の巻き物があり、それによれば、彼は天界と人間界の秘術を極めつくし、莫大な財宝の守護者となり、死ぬ前には世界の完全な縮小模型を作り、過去・現在・未来のあらゆる出来事の要約を完成したという。
そして、巻き物の最後には次の言葉があった。
「我らは神により生まれ、イエスのうちに死に、聖霊によりよみがえる」
このことがあって、薔薇十字団員たちはいまこそ薔薇十字団の存在を世に示すときだと考えた。彼らはローゼンクロイツの墓を再びふさいだ後、すぐにも創設者ローゼンクロイツと薔薇十字団結成に関する記録を書き上げた。
これが、薔薇十字団の存在を初めて世に示すことになった『ファーマ』という文書である。
ローゼンクロイツは、黄金変成に夢中になるタイプの錬金術師ではなく、錬金術の中に新しい可能性を見出した新時代の錬金術師であることが伺える。