蒙求は、唐の李瀚が経史から歴史人物の逸話行跡を集約抜粋して著した、伝統的な中国の初学者向け教科書です。
日本には平安時代に伝えられ、鎌倉時代から江戸時代にかけて、武家・僧侶・町人にいたるまで勉学の第一歩としてこれを暗誦されたようです。
内容は、数多くの偉人たちの故事来歴を詳しく調べ、その業績の内容を適切な「四字成句」にし、韻を踏んで暗誦しやすいように配列してあります。
本文は四字句押韻の対語で596句2384字からなり、偶数句の句末で押韻し結語にあたる最後の4句以外は8句ごとに韻を変えている形式をとっています。
なお、『源氏物語』『徒然草』『平家物語』などや歌舞伎の筋立てや川柳俳諧の世界に至るまで、この蒙求の説話をヒントにした作品は数多あり、日本においてはまさに百科事典のごとき佳書だったことが伺えます。
中でも最も有名な故事成語としては「蛍の光 窓の雪」と卒業式でなじみの『孫康映雪 車胤聚蛍』(蛍雪の功)であり、「天知り 神知り 我知り 子知る」のことわざで名高い『震畏四知』、また「漱石枕流」などがあります。
以下参考までに、簡単に目次と典拠などを一部整理しておきます。
巻上 典拠 登場人物 故事等
1.王戎簡要 晋書 王戎 視日不眩
2.裵楷清通 晋書 裵楷 武帝策得一
3.孔明臥龍 蜀志 諸葛亮 三顧
4.呂望非熊 六韜 太公望呂尚、文王
5.楊震関西 後漢書 楊震 鸛進三魚
6.丁寛易東 漢書 丁寛、田何
7.謝安高潔 晋書 謝安、高崧 蒼生を如何
8.王導公忠 晋書 王導、元帝 蒼生何由、吾蕭何
9.匡衡鑿壁 漢書・西京雑記 匡衡、文不識 無説詩、客作
10.孫敬閉戸 楚国先賢伝 縄を以て頚に懸く
11.郅都蒼鷹 漢書 郅都、竇太后 匈奴偶人を作る
12.寗成乳虎 漢書 寗成、公孫弘 束湿薪、狼牧羊
13.周嵩狼抗 晋書 周嵩、三子、王敦
14.梁キ跋扈 後漢書 桓帝、質帝 鳶肩犲目、朝廷為に空し
15.郗超髯参 晋書 桓温 能令公喜、能令公怒
16.王珣短簿 晋書 桓温、謝玄 大手筆の事、肥水の戦、風声鶴唳
17.伏波標柱 後漢書・広州記 馬援、徴側 老益、矍鑠
18.博望尋河 漢書・史記 張ケン 持節、支機石
19.李陵初詩 漢書・史記 李陵、蘇武 降匈奴
20.田横感歌 史記 田横、高祖、二客、五百人 自剄、李周翰「挽歌論」
21.武仲不休 後漢書 傅毅 魏文帝「典論」(文人相軽)
22.子衡患多 晋書・述異記 陸機、張華 獲二俊、じゅんさい、筆硯を焼く、華亭の鶴唳、黄耳
23.桓譚非讖 後漢書 桓譚、光武帝
24.王商止訛 漢書 王商、成帝、王鳳 真漢相
25.ケイ呂命駕 晋書 ケイ康、呂安 ケイ康好鍛
26.程孔傾蓋 孔子家語 孔子、程子、子路
27.劇孟一敵 漢書 劇孟、周亜夫
28.周処三害 晋書 周処、孫秀 忠孝不得両全、大臣殉国
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日本ではすっかり忘れ去られてしまった蒙求ですが、日本文学や文化芸能に多くの影響を与えているこの書物を改めて見直してみる機会になればと思います。
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以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
【1.王戎簡要】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
「王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍は王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
(王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝(司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。
【2.裵楷清通】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
「王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍は王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
(王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝(司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。
【3.孔明臥龍】
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
「諸葛孔明は臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮は南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。
【4.呂望非熊】
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
「諸葛孔明は臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮は南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。
【5.楊震関西】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。
【6.丁寛易東】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。
【7.謝安高潔】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。
【8.王導公忠】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。
【9.匡衡鑿壁】
前漢の匡衡(きょうこう)またの名は稚圭(ちけい)。
東海承(とうかいしょう=地名)の人である。
先祖代々農夫だ。衡(こう)に至って学問を好む。
家は貧しい。アルバイトをして生活していた。とりわけ元気は人にまさっていた。
そのため学者達は次のように言った。
「詩経について話すなよ。匡(きょう)が来るよ。匡は詩を語るときに人のあごをはずすくらい面白い。」と。
官吏登用試験に一番の成績で合格した。元帝の時宰相となった。
『西京雑記』には次のようにある。「衡は勉強するが明かりがない。隣の家には明かりがあるがとどかない。
衡はそこで壁に穴を開けて、その光を引いて読んだ。
村の有力者は、書物があっても価値をしらない。家計は豊かで書物が多い。
衡は、そこで雇われて働き、報酬は求めなかった。
書物を全部読みたいとのぞんだ。主人は感心して書物をあたえた。
とうとう大いに学問を成し遂げた。
【10.孫敬閉戸】
中国南方の楚(そ)の国の先賢伝(せんけんでん=書名)に、次のようにある。
孫敬またの名は文宝。常に戸を閉ざして書物を読む。
ねむいときは、縄を首にかけて、天上の梁に懸けた。
ある時、人の多いところに出かけたところ、人々は彼を見て皆言った。
「閉戸先生が来た」と。君主のお召しがあっても、出て行かなかった。
【11.郅都蒼鷹】
前漢(ぜんかん)の都(しつと)。
河東(かとう=地名)大陽(たいやう=地名)の人(ひと)だ。
景帝(けいてい)の時(とき)中郎将(ちうらうしやう)と為(な)る。
果敢に思ったことをはばからずに言って大臣に官庁で面と向かって過失をいさめた。
警察庁長官に昇進した。
この時代の民衆は素朴で、罪をおそれて自重した。
なのに都(と=人名)は厳しさを優先して法律を適用した。
貴族を特別扱いせず、貴族も王族も、都を見て皆目をつりあげて視た。
蒼鷹(そうよう)と言われた。重要な関所の責任者に就任した。
隣接する敵国は以前から彼の志の強さを聞いていたので、国境から引き下がり、彼が死ぬまで関所には近づかなかった。
匈奴(きょうど=隣の敵国)は、彼の人形を作って、馬に乗って射させたが、命中させられなかった。
彼がおそれられるのは、このようであった。
匈奴は困った。そこで、彼に漢の法律を適用した。ついに退けた。
【12.寗成乳虎】
前漢(ぜんかん)の甯成(ねいせい)は、南陽(なんよう=地名)穣(じょう=地名)の人(ひと)だ。
謁見者の取次ぎ役で景帝(けいてい)に仕えた。
活気を好み、小役人の時には必ずその上司を越えようとした。
人となりは、いつもきびしく、湿った薪(たきぎ)を束ねるかのようである。
取締官になった。その取り締まりは都(しつと=人名)に学んだけれども、その節度は似ていない。
武帝(ぶてい)が即位し、宮中の記録官になった。
皇后の親戚の多くは、彼の短所を悪く言って、罪にした。
そこで皇帝は、彼を地方長官に任命しようとした。
公孫弘(こうそんこう=人名)が言うには、「私が小役人だった時、成(せい=甯成=人名)が済南(せいなん=地名)の武官になりました。彼の取り締まり方は、狼が羊を飼うかのようでした。彼に人民を統治させるべきではありません。」と。
皇帝は、そこで、彼を都の関所の武官に任命した。
数年で、関所の外の地方役人をしたがえた。
「甯成(ねいせい)の怒りに遭遇するよりは、気の荒い虎に遭遇した方が、まだましだ。」と言われた。
彼の荒々しさは、このようであった。
【13.周嵩狼抗】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。
【14.梁冀跋扈】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。
【15.郗超髯参】
晋書(しんじょ=書名)に超(ちちょう)またの名を景興(けいきょう)。
総理大臣鑑(かん)の孫だ。
若いときから非常に優れて非凡で、世にも珍しい器量があった。
しっかりと筋の通った話をした。
大将軍・桓温(かんおん=人名)は、参謀として召しかかえた。
温は才気が優れていて人を召し抱えることはめったになかった。
超と話すといつも才能は測りしれないと言った。
そうして誠意を尽くしてうやうやしくもてなした。
超もまた深く自分から心をかよわせた。
当時王珣(おうじゅん=人名)が温の秘書になった。
彼もまた温に重用された。
役所では「髯(ひげ)の参謀と背の低い秘書が大将軍を喜ばすことも怒らすこともできる。」と言われた。
超は髯があり、珣は背が低いためである。
【16.王珣短簿】
晋(しん=四世紀頃の中国の王朝)の王珣(おうじゅん=人名)またの名は元琳(げんりん)。
宰相(さいしょう)導(どう=王導=人名)の孫だ。二十歳で謝玄(しゃげん=人名)とともに温(おん=桓温=人名)の秘書になった。
温はある時こう言った。
「謝玄は四十歳できっと将軍になるだろう。
王珣は当然若くして最高の官位に就くだろう。
二人ともすばらしい才能だ。」と。
孝武帝の時に行政事務次官になった。
文官の人事をつかさどった。
皇帝は書物を好み、学問の才能で親しくされた。
人が大きな筆の椽(たるき)のようなのをくれる夢を見た。目が覚めてから人にこう語った。「これは重大な文章を書く仕事があるかもしれない。」と。
間もなく皇帝が亡くなった。弔辞・追悼文は全て王珣が原稿を作った。
玄(=謝玄)またの名は幼度(ようど)。若い時から才能が優れていた。
叔父(おじ)の謝安(しゃあん)に才能を認められて大事にされた。
安(あん)はある時子や甥を戒めて、こう言った。
「家族だからといってひとの事はどうしようもない。でも私はそれを立派にしたい。」と。
誰も何も言う者はなかった。
謝玄が答えて言うには、「たとえば立派な草木を庭に生やすように、朝廷で活躍するような立派な人物になってほしいとのことですね。」と。
謝安はよろこんだ。当時符堅(ふけん=人名)が攻め込んできた。
朝廷は北方を守る文武の良将を求めた。
謝安はそこで謝玄を推挙した。将軍に昇進した。前鋒都督(ぜんぽうととく)という役職をつとめた。
従弟(いとこ)の輔国将軍(ほこくしょうぐん=役職名)(えん=人名)とともに肥水(ひすい=中国南東部の川の名)の南で決戦をした。
符堅(ふけん)の軍勢は甲(かぶと)を棄(す)てて夜逃げした。
うわさを聞いて、皆王者の軍隊が来たと思った。
昇進して前将軍(ぜんしょうぐん)と言われた。
【17.伏波標柱】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏、大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。
【18.博望尋河】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏、大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。
【19.李陵初詩】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。
【20.田横感歌】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。