紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。
そんな今回は、「横笛 」の物語の続きです。
a href=”http://shutou.jp/blog/post-1402/” target=”_blank”>【源氏物語】 (佰弐拾) 第二部 はじめ 光源氏の後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様!
第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
[第一段 夕霧、一条宮邸を訪問]
大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を、心ひそかに思い出し思い出ししては、「どういうことであったのか」と、とてもお尋ね申し上げたく、お顔色も伺いたいのだが、うすうす思い当たられる節もあるので、かえって口に出して申し上げるのも具合が悪くて、「どのような機会に、この事の詳しい事情をはっきりさせ、また、あの人の思いつめていた様子をお耳に入れようか」と、思い続けていらっしゃる。
秋の夕方の心寂しいころに、一条の宮をどうしていられるかとご心配申し上げなさって、お越しになった。くつろいで、ひっそりとお琴などを弾いていらっしゃったところなのであろう。奥へ片づけることもできず、そのままその南の廂間にお入れ申し上げなさった。端の方にいた人たちが、いざって入って行く様子がはっきり分かって、衣ずれの音や、あたりに漂う香の匂いも薫り高く、奥ゆかしい感じである。
いつものように、御息所がお相手なさって、昔話をあれこれと交わし合いなさる。ご自分の御殿は、明け暮れ人が大勢出入りして、もの騒がしく、幼い子供たちが、大勢寄って騒々しくしていらっしゃるのにお馴れになっているので、とても静かで心寂しい感じがする。ちょっと手入れも行き届いてない感じがするが、上品に気高くお暮らしになって、前栽の花々、虫の音のたくさん聞こえる野原のように咲き乱れている夕映えを、見渡しなさる。
[第二段 柏木遺愛の琴を弾く]
和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。
「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てるものだ」
などと、思い続けながら、お弾きになる。
故君がいつもお弾きになっていた琴であった。風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、
「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。お聞かせ願いたいものだ」
とおっしゃると、
「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。院の御前で、女宮たちがそれぞれ得意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼんやりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」
とお答え申し上げなさると、
「まことにごもっともなお気持ちです。せめて終わりがあれば」
と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、
「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。何やら気も晴れずに物思いに沈み込んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」
と申し上げなさるので、
「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それを伺いたいと申し上げているのです」
とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。
[第三段 夕霧、想夫恋を弾く]
月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も、列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのであろう。風が肌寒く感じられ、何となく寂しさに心動かされて、箏の琴をたいそうかすかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、ますます心を引きつけられてしまって、かえって物足りない思いがするので、琵琶を取り寄せて、とても優しい音色に「想夫恋」をお弾きになる。
「お気持ちを察してのようなのは、恐縮ですが、この曲目なら、何かおっしゃって下さるかと思いまして」
とおっしゃって、しきりに御簾の中に向かって催促申し上げなさるが、和琴を所望された以上に、気が引けるお相手なので、宮はただ悲しいとばかりお思い続けていらっしゃるので、
「言葉に出しておっしゃらないのも、おっしゃる以上に
深いお気持ちなのだと、慎み深い態度からよく分かります」
と申し上げなさると、わずかに終わりの方を少しお弾きになる。
「趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、
靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか」
もっと聞いていたいほどであるが、そのおっとりした音色によって、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、同じ調子の曲目といっても、しみじみとまたぞっとする感じで、ほんの少し弾いてお止めになったので、恨めしいほどに思われるが、
「物好きな心を、いろいろな琴を弾いてお目に掛けてしまいました。秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかとご遠慮致して、退出致さねばなりません。また改めて失礼のないよう気をつけてお伺い致そうと思いますが、このお琴の調子を変えずにお待ち下さいませんか。とかく思いもよらぬことが起こる世の中ですから、気掛かりでなりません」
などと、あらわにではないが、心の内をほのめかしてお帰りになる。
[第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る]
「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずのことでございます。これということもない昔話にばかり紛らわせなさって、寿命が延びるまでお聞かせ下さらなかったのが、とても残念です」
と言って、御贈り物に笛を添えて差し上げなさる。
「この笛には、実に古い由緒もあるように聞いておりましたが、このような蓬生の宿に埋もれているのは残念に存じまして、御前駆の負けないほどにお吹き下さる音色を、ここからでもお伺いしたく存じます」
と申し上げなさると、
「似つかわしくない随身でございましょう」
とおっしゃって、御覧になると、この笛もなるほど肌身離さず愛玩しては、
「自分でも、まったくこの笛の音のあらん限りは、吹きこなせない。大事にしてくれる人に何とか伝えたいものだ」
と、柏木が時々愚痴をこぼしていらっしゃったのをお思い出しなさると、さらに悲しみが胸に迫って、試みに吹いてみる。盤渉調の半分ばかりでお止めになって、
「故人を偲んで和琴を独り弾きましたのは、下手でも何とか聞いて戴けました。この笛はとても分不相応です」
と言って、お出になるので、
「涙にくれていますこの荒れた家に昔の
秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました」
と、内側から申し上げなさった。
「横笛の音色は特別昔と変わりませんが
亡くなった人を悼む泣き声は尽きません」
出て行きかねていらっしゃると、夜もたいそう更けてしまった。
[第五段 帰宅して、故人を想う]
殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて、皆お寝みになっていた。
「この宮にご執心申されて、あのようにご熱心でいらっしゃるのだ」
などと、誰かがご報告したので、このように夜更けまで外出なさるのも憎らしくて、お入りになったのも知っていながら、眠ったふりをしていらっしゃるのであろう。
「いい人とわたしと一緒に入るあの山の」
と、声はとても美しく独り歌って、
「これは、またどうして、こう固く鍵を閉めているのだ。何とまあ、うっとうしいことよ。今夜の月を見ない所もあるのだなあ」
と、不満げにおっしゃる。格子を上げさせなさって、御簾を巻き上げなどなさって、端近くに横におなりになった。
「このように素晴らしい月なのに、気楽に夢を見ている人が、あるものですか。少しお出になりなさい。何と嫌な」
などと申し上げなさるが、面白くない気がして、知らぬ顔をなさっている。
若君たちが、あどけなく寝惚けている様子などが、あちらこちらにして、女房も混み合って寝ている、とてもにぎやかな感じがするので、さきほどの所の様子が、思い比べられて、多く違っている。この笛をちょっとお吹きになりながら、
「どのように、わたしが立ち去った後でも、物思いに耽っていらっしゃることだろう。お琴の合奏は、調子を変えずなさっていらっしゃるのだろう。御息所も、和琴の名手であった」
などと、思いをはせて臥せっていらっしゃった。
「どうして、故君は、ただ表向きの気配りは、大切にお扱い申し上げていながら、大して深い愛情はなかったのだろう」
と、考えるにつけても、大変いぶかしく思わずにはいらっしゃれない。
「実際会って見て器量がよくないとなると、たいそうお気の毒なことだな。世間一般の話でも、最高に素晴らしいという評判の人は、きっとそんなこともあるものだ」
などと思うにつけ、ご自分の夫婦仲が、その気持ちを顔に出して相手を疑うこともなくて、仲睦まじくなった歳月のほどを数えると、しみじみと感慨深く、とてもこう我が強くなって勝手に振る舞うようにおなりになったのも、無理もないことと思われなさった。
[第六段 夢に柏木現れ出る]
少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で、側に座って、この笛を取って見ている。夢の中にも、故人が、厄介にも、この笛の音を求めて来たのだ、と思っていると、
「この笛の音に吹き寄る風は同じことなら
わたしの子孫に伝えて欲しいものだ
その伝えたい人は違うのだった」
と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝おびえて泣きなさるお声に、目が覚めておしまいになった。
この若君がひどく泣きなさって、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も御殿油を近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話して、抱いていらっしゃった。とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。子供もとてもかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。
男君も側にお寄りになって、「どうしたのだ」などとおっしゃる。魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行ってしまうことであろう。
「苦しそうに見えますわ。若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に、格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たのでしょう」
などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、
「妙な、物の怪の案内とは。わたしが格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。大勢の子持ちの母親におなりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」
と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、
「さあ、もうお止めなさいまし。みっともない恰好ですから」
と言って、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も憎くない。ほんとうに、この若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお明かしになった。