This is ” KABUKI ” ( ノ゚Д゚) もっと歌舞伎を楽しもう!(6) 「義太夫狂言」三大名作『義経千本桜』

歌舞伎は世界に誇る、日本の伝統芸能です。
しかし、元々400年前に登場したときには、大衆を喜ばせるための一大エンターテイメントだったのです。
なんとなく難しそうなので、ということで敬遠されている方も多いのかもしれませんが、そもそもは庶民の娯楽だったもの。
一度観てみれば、華やかで心ときめく驚きと感動の世界が広がっているのです。
しかも歌舞伎は、単に400年もの間、ただただ伝統を受け継いできただけではありません。
時代に呼応して常に変化し、発展・進化してきているのです。

This is ” KABUKI ” ( ノ゚Д゚) もっと歌舞伎を楽しもう!(4) 演目の分類と一覧について
前回は歌舞伎の演目をざっと整理してみましたので、ここからは具体的な演目の内容について触れてみましょう。
今回は、「義太夫狂言」の三大名作の1つとされている『義経千本桜』についてです。

『義経千本桜』は、平家滅亡後に兄頼朝と不和となった源義経を軸として、生き残った平家の人々の動向を描いた「時代物」の「義太夫狂言」です。
壇の浦で入水したと思われた平知盛が実は生きていて義経に復讐を企てる、通称「渡海屋」・「大物の浦」、平維盛親子を守るため命を落とした、いがみの権太を描く通称「すし屋」、佐藤忠信に化けた源九郎狐が、義経から両親にゆかりの初音の鼓を授かる「河連法眼館」[通称「四の切」]などの場面を中心に上演されます。
1747年(延享4年)に大坂竹本座で人形浄瑠璃の作品として初演されたものを、大人気となったため翌年江戸で歌舞伎に移されました。

【初段】
(大序・院の御所の段)
屋島の合戦で平家が滅亡した後のこと。源義経は後白河院の御所に武蔵坊弁慶を連れて参上し、合戦の様子を物語る。義経には院から合戦の恩賞に初音の鼓が下されるが、院の寵臣左大将藤原朝方は、これは義経の兄源頼朝を討てという謎をかけた院宣であるという。困惑した義経は鼓を返上しようとするが、朝方は「綸言汗の如し」という言葉を引き返上を、すなわち頼朝討伐を拒否することを許さない。弁慶は無茶を言う朝方に悪口するが義経に厳しく叱られる。ではこの鼓は打たなければ(討たなければ)よいと、義経はとりあえず初音の鼓を拝領することにした。

(北嵯峨庵室の段)
北嵯峨にひとりの尼が住む草庵があったが、そこに平維盛の正室若葉の内侍はわが子六代と共に隠れ住んでいる。内侍は夫維盛はすでにこの世には無いものと思っていた。そこへ菅笠売りに身をやつした主馬の小金吾武里が訪れる。小金吾は維盛のもと家来である。人の噂によれば、維盛は生きていて今は高野山にいるという。内侍は六代を連れ小金吾を供に、高野山へと発つことにした。だが朝方の家来猪熊大之進が手下を率い、内侍と六代を捕らえにきたので、尼は内侍と六代を戸棚の中へすばやく隠す。大之進は尼が怪しいと捕らえるが、そのすきに小金吾は笠の荷の中に内侍と六代を移し、その場を逃れる。

(堀川御所の段)
義経の京の住い堀川御所では宴が開かれ、義経の正室卿の君、家来の駿河次郎や亀井六郎も同席するなか、義経の愛妾静御前が舞を見せたりしている。弁慶は院の御所で朝方に悪口したことを義経に叱られ目通りを許されなかったが、卿の君と静のとりなしにより弁慶は許される。

そこへ鎌倉から、義経への使者として川越太郎重頼が訪れた。鎌倉に届けられた平家の武将の平知盛・平維盛・平教経の首が偽首だったこと、また頼朝を討てとの意を込めた初音の鼓を後白河院より受け取ったのは鎌倉に対する謀叛の疑いがあること、平家の平大納言時忠の娘である卿の君を娶ったことを質す。義経は、偽首を届けたのはいったん大将である知盛たちが死んだと世に知らせることで天下を静謐にしようとしたためであり、初音の鼓については院よりの賜り物なので返上できないが、兄頼朝への叛意はないことをあらわすため自ら手には触れないと心に決めている。また平家の女を妻にすることが咎められるというのなら頼朝の舅北条時政も平氏、まして卿の君は実は川越太郎の娘であり、それを時忠が養女に貰い受けたに過ぎないではないかという。だが義経の嫌疑を晴らすため卿の君は自害してしまう。義経は卿の君の最期を嘆き、川越も本心では悲しみつつも、卿の君の首を討った。

そのとき、表のほうから陣太鼓やときの声がどっと上がる。鎌倉からの討手として海野太郎と土佐坊正尊が攻め寄せてきたのだった。今海野たちと敵対してはまずいと義経が思うところ、なんと弁慶が門外で海野太郎を討取ってしまったとの知らせがくる。弁慶のせいでせっかくの卿の君の犠牲が無駄になった…と義経も川越も嘆くが、義経は初音の鼓を持ち駿河次郎と亀井六郎を供にして館から脱出する。

弁慶が邸内に戻ると、もはや中には誰もおらずひっそりしている。土佐坊正尊が手勢を率いてなだれ込み襲い掛かるが、弁慶は手勢を投げ飛ばし土佐坊の首を引き抜いて討取り、義経のあとを追ってゆく。

【二段目】
(伏見稲荷の段)
義経は駿河と亀井の二人を連れて伏見稲荷までやってくる。そこへ静御前がようやく追いつき、自分もともに連れて行ってと義経に願う。義経一行は多武峰の寺に行くので女は連れてゆかぬほうがよいと駿河は進言する。弁慶も追い付いて現れる。だが義経は卿の君のことから扇でもって弁慶を散々に殴り、手討ちにしてくれると怒る。弁慶は、だからといって主君の命を狙う者をそのまま捨ておけようかと涙をはらはらと流し、静も弁慶を許すよう言葉を添えるので、義経も一人でも味方がほしい時節なので今回ばかりは許すというのだった。

しかし静については、義経との同道は許されなかった。義経一行は多武峰に向うのはやめ、摂津大物浦より船に乗って九州へ向うことにした。なればなおのこと女は供に出来ず、静は都にとどまるよう駿河たちはいう。静は泣きながら連れて行くよう義経に訴えるが、義経も心では静を哀れと思いつつも、次に会うまでの形見にせよと初音の鼓を静に与える。それでも静は義経にすがりつくので、致し方なく駿河は鼓の調べ緒でもって近くの枯れ木に静と鼓を縛りつけ、義経一行は立ち去る。

ひとり残され嘆き悲しむ静。そこに雑兵を率いて義経を捜しに来た土佐坊の家来逸見藤太が、静を見つける。藤太は思いもよらぬ幸運と喜び、鼓を奪い静を引っ立てようとするところへ、佐藤忠信が現れ藤太たちを討取った。義経一行も戻ってきて、忠信は義経と対面する。忠信は故郷出羽国にいる母親が病であると聞き、義経の許しを得て里帰りをしていたが、その病も本復したので都に戻る途中義経の危機を知り、ここへ駆けつけたのだという。義経は静を助けた功により、その褒美に「源九郎義経」の名と自分の鎧を忠信に与えた。忠信は涙を流して悦ぶ。義経一行は静と忠信を残して立ち去り、忠信は義経の命により静の身柄を預かることになる。

「鳥居前」
わずかな家臣と都落ちし伏見稲荷までたどりついた義経を追ってきたのは愛妾静御前。
いっしょに連れていってくれと懇願されても女を同道するは無理と、静を傍らの梅の木に縛りつけ、主従は去っていった。
そこへ、義経を探し回る早見藤太がやってくる。
静を見つけ、初音の鼓もろとも引っ立てようとした時、義経の忠臣佐藤忠信が勇ましい姿で駆けつけ、静の窮地を救う。
戻ってきた義経は忠信の手柄をほめ、源九郎の名と鎧を譲り、静を託していく。

(渡海屋・大物浦の段)
摂津大物浦の廻船業渡海屋に、鎌倉より義経探索に出張ってきた相模五郎という侍が手下を率いて訪れる。相模は九州に向うと噂される義経一行を追うため、先約のある船に自分たちを乗せろという。主の銀平はちょうど留守にしており、銀平の女房おりうが応対して断ろうとするが、相模は権柄づくな態度で船を譲れと迫り、ついには先約の者と直接話をつけてやると奥へ踏み込もうとする。そこへ銀平が戻り、なおも無理をいう相模を腕づくで追い払った。

先約の客とは、実は九州に落ちて行こうとする義経一行であった。義経は鎌倉より追われる己が身の上を嘆くが、銀平は義経に味方すると言い、今の相模が再び来てはいけないから、一刻も早く用意した船で出発するように勧める。義経たちはその言葉に従い、蓑笠を着て渡海屋から立っていった。

だが、銀平とは実は合戦で討死したといわれる平知盛だった。その娘のお安というのも実は入水したはずの安徳天皇、女房のおりうは実は安徳帝の乳母典侍の局(すけのつぼね)である。銀平こと知盛は安徳帝を掲げ平家の再興を狙っており、まずはその手始めに自分のところに来た義経に返報せんとしていたのである。さきほど来た鎌倉武士の相模五郎というのも実は知盛の家来で、義経一行を信用させるためにわざと仕組んだ芝居であった。知盛は義経たちの目をくらませようと白装束に白糸威しの鎧を着て姿を幽霊にやつし、さらにこれも幽霊にやつした手勢を率い、海上の嵐に乗じて義経を葬ろうと出かけていく。

安徳帝と典侍の局は装束を改め、知盛からの知らせを待っていた。夜が更けて雨風も激しく吹き、陣太鼓が鳴り響く。そこへ相模五郎が駆けつけ、戦の様子について注進する。ところが義経たちは兼ねてから用意がしてあったのか、手勢を揃えて知盛たちに反撃し、味方は劣勢となって危うく見えると言って相模はふたたび戦へと戻っていった。この知らせに気遣わしく思う局は障子を開けて沖のほうを見ると、味方の船の灯りが次々と消えてゆく。さらに一味の入江丹蔵が手を負いながら現われ、味方はひとり残らず討死、知盛は行方知れずと注進し、持っていた刀を腹に突っ込みながら海へと入水した。義経への奇襲は失敗したのである。局は涙に暮れるが、やがて安徳帝とともに自害の覚悟を極め、大物浦の浜のかたへと向う。

浜へと来た典侍の局は、源氏から逃れるためこの海に入水することを安徳帝に言い聞かせる。すると幼い安徳帝は天照大神にこの世への暇乞いにと、伊勢のほうへ向かって手を合わせ、「いまぞ知る みもすそ川の 流れには 浪のそこにも 都ありとは」と詠む。局は嘆きつつも、意を決して安徳帝をしっかと抱き上げ海に身を投げようとした。そのとき、後ろから義経が局を抱きかかえ止める。義経は帝を小脇に抱え、局の手を無理に引いて渡海屋の中に入った。

かかるところへ知盛が、髪はおおわらわ体には矢を多く受けて負傷した姿で立ち帰り、よろぼいながら帝と局を呼ぶと、一間のうちより帝を抱え局を従えた義経が現われる。この家に逗留した時からそのあるじといいまた娘といい只者ではない、平家の落人であろうと察し、裏をかいて知盛の計略を退けたのである。だが安徳帝の身柄については決して悪いようにはしないと義経はいう。それでもなお義経に立ち向おうとする知盛に、武蔵坊弁慶が悪念を断ち切れとの意をこめた数珠をひらりと知盛の首にかけ、また帝が義経のことを仇に思うなと知盛に言葉をかけた。さらに典侍の局は持っていた懐剣で自害してしまったので、さすがの知盛もしばし言葉もなかった。

知盛は、はらはらと涙を流して語る。安徳帝が帝の身にありながら西海に漂い、平家の一門とともに戦の中で苦しんだのも、実は安徳帝は姫宮であり、それを知盛たちの父平清盛が外戚になりたい望みで以って男宮と偽り、皇位に就けたので天照大神の罰があたったのだと。そして知盛は帝を義経に託し、自らは船に乗って大物浦の海に出ると碇を担ぎ、身を投げて果てたのだった。

「渡海屋」
都落ちした義経主従、摂津は大物浦にある船宿「渡海屋」に身を潜めていた。
そこへ北条時政の家来たちが義経の追手としてやってくる。
手荒なことをするふたりを店主の銀平が懲らしめ追い返し、船出を急ぐことにする。
こうした銀平の義侠心に感謝する義経だったが、銀平は実は平知盛。
同様に、娘のお安はひそかに助けていた安徳帝、女房は安徳帝の乳母の典侍の局。
世間の目をごまかし、宿敵義経を討つ機会を狙っていた。
白装束に身を固め、待ちに待った時が来たと胸を張る知盛。
自らを西海に沈んだ知盛の亡霊にしたて、沖合で義経を討つ手はずにする。

「大物浦」
衣裳を改めた典侍の局と幼帝が戦況を案じているところに、知盛苦戦の知らせ。
典侍の局は幼帝を抱き上げ身を投じようとするが、いつのまにか戻ってきた義経主従に止められる。
一方、幼帝の身を案じた知盛は、深手を負いながらも大物浦に戻ってくる。
裏をかいたつもりがバレていたことを知り悔しがるが、抵抗する余力がない。
それ聞いた典侍の局はもはやこれまでと自害、知盛は碇綱を身体に結びつけ入水する。

【三段目】
(椎の木の段)
若葉の内侍、六代、小金吾の一行は、平維盛の消息を尋ねに大和国を経由し高野山へと向かっていた。その途中、吉野下市村の茶店で荷を降ろし休憩する。内侍が六代に与える薬を切らしたと聞いた茶店の女は、では自分が買ってきてあげましょうと、内侍たちに後を頼みその場をはずした。

幼い六代は、茶店の傍らにあった栃の木から落ちた木の実を拾って遊んでいる。そこへ風呂敷を背負った旅なりの若い男がやってきてこれも茶店で休む。しばらくして栃の実を拾う様子を見たこの男は、木についているのを取るのがよかろうと、木に向かって石つぶてを投げる。それに当った栃の実がばらばらと落ち、六代は悦んで栃の実を拾う。やがて旅の男は茶店を立った。

小金吾がふと自分の降ろした荷を見た。これは自分が背負ってきた荷物ではない。そういえばさきほどの旅の男が、似寄りの荷物を背負っていた。あの男が自分の荷物と取り違えて持っていったのに違いない、取り返そうと小金吾が駆け出そうとするところへ、男が道の向うから大慌てで戻り、小金吾に荷を取り違えた粗相を詫びる。そして荷の中身に間違いが無いかどうか、互いに改めることになった。だが男は思いもよらぬことを言い出す。自分の荷の中には二十両という大金が入っていた。それが今荷を改めるとその金が見当たらない。おまえが二十両の金をくすねたのだろうと、言いがかりをつけはじめたのである。

小金吾はお尋ね者である内侍と六代の身の上を思い、なんとか穏便に済まそうとするが、男はなおも悪態をつき金を出せと騒ぐので、小金吾はついにこらえきれず刀を抜いた。だが内侍はそれを止め、涙ながらに男の言う通りにというので、小金吾も悔しくはあったが金を地面に叩きつけ、内侍と六代を連れてその場を立ち去る。

男は「うまい仕事」といいながら金を拾い集め、さてばくち場へ行こうとすると、戻っていた茶店の女がその前に立ちはだかり、男の胸倉を取って引き据えた。男はこの近在で釣瓶鮨屋を営む弥左衛門のせがれ、いがみの権太というチンピラであった。そしてこの茶店の女とは権太の女房小せんで、そのあいだに善太という子を儲けた仲だったのである。小せんは少し前にこの場に戻り、権太が小金吾たちから金をゆすり取るのを陰で見ていた。こうしたことをするから親の弥左衛門様から勘当も同然に見限られている、子の善太のためも思って行いを改めてくれと意見するが、権太は、そもそも今のように身を持ち崩したのも、もとは御所の町の隠し売女だったお前に入れあげたのがきっかけだなどと開き直る始末。だが傍らにいた善太が、「ととさまサア内にござれ」と権太の手を引くとわが子はかわいいか、権太はその手を引いて小せんとともにわが家へとは帰るのだった。

(小金吾討死の段)
一方、若葉の内侍と六代探索の追手はついにこの大和にまで及び、内侍たちは追われていた。すでに夜、藤原朝方の家来猪熊大之進は手下を率い内侍たちを襲うが、小金吾は手下たちを切り捨て、大之進も最後には斬り殺すも深手を負わされる。小金吾は嘆く内侍と六代をその場から逃がすと息絶えた。

そこへ村の集まりからの帰り、提灯を持って夜道を歩む釣瓶鮓屋の弥左衛門は偶然小金吾の遺骸を見かける。弥左衛門はいったんは、見知らぬ若者のなきがらに念仏を唱え手を合わせて通り過ぎた。が、何を思ったのかその死骸のところへ立ち戻り、辺りを見回すと自分が差していた刀を抜いて首を切り落とし、その首を持って飛ぶように去っていく。

(鮨屋の段)
そのころ釣瓶鮓屋では、弥左衛門の女房と娘のお里が家業の鮓の商いに励んでいた。お里は上機嫌、それというのも明日の晩には下男の弥助と祝言をあげることになっていたからである。弥助は弥左衛門が連れてきた美男子で、お里はそんな弥助に惚れている。弥助が戻り、お里が早速女房気取りで話をするところ、この家の惣領いがみの権太が父弥左衛門の目を盗んでやってきた。権太は母親に話があるから奥へいけと、弥助とお里をその場から追い払った。

母親は、やくざな権太がまた金の無心にでもきたかと機嫌を悪くするが、権太の口から出たのは暇乞いの言葉であった。代官所に納める年貢の金三貫目を人に盗まれ、年貢を納めることができないからその咎で死罪になるのだという。などといいながらうそ泣きをする権太…親から金を引き出すための嘘八百である。しかしその話を甘い母親は真に受け、戸棚から三貫目の金を出し権太に与える。権太はしてやったりと思いながら、それを空の鮓桶に入れて持っていこうとすると、けたたましく戸を叩く音。父親の弥左衛門が帰ってきたのである。権太は慌て、とりあえずそこに並んだ鮓桶の中に金を入れた桶を紛れ込ませ、母親は奥へ、権太は戸口のあたりに身を隠した。

弥左衛門の声に気づいた弥助が奥より出て戸をあけた。弥左衛門は最前道から持ってきた小金吾の首を空の鮓桶に隠し、お里たちを呼ぼうとする弥助を留め、下男の弥助を上座に座らせる。

弥助とは実は、平重盛の子息三位中将維盛であった。源平の合戦の後、熊野詣をしていた弥左衛門は維盛と偶然出会い、この大和下市に連れてきて弥助と名乗らせ匿っていたのだった。平重盛はその昔、後生を頼むために唐土の育王山に黄金三千両を納めようとし、そのとき瀬戸内で船頭をしていた弥左衛門は、この三千両を運ぶ役目を仰せつかった。だが弥左衛門とその仲間の船頭たちは、三千両を盗み仲間内で分け合った。このことは重盛に露見した。しかし重盛は、日本の金を唐土に送ろうとした自らこそ盗賊であると悔い、弥左衛門たちのしたことを不問にしたのだった。弥左衛門はこの昔の恩義に感じてその息子の維盛を助けたのだったが、いま自分の息子がいがみなどと呼ばれて盗み騙りを働くのも、むかし重盛公より金を盗んだ親の因果が子に報いているのだろうと嘆く。

そこへお里が出てきたので、弥左衛門は維盛を残して奥へと入った。お里はひとつ布団に枕をふたつ並べてうきうきしているが、維盛は若葉の内侍や六代のことを思うと気も晴れない。そんな様子にお里はさきに布団で横になり寝てしまう。

自分には本当は妻子がある…と維盛が思い悩んでいると、表から一夜の宿を乞う女の声がする。維盛は、ここは鮓屋で宿屋ではないと家の中から断ったが、幼子を連れているのでどうか一夜…となおも頼むので、直接断ろうと戸を開けた。見れば若葉の内侍と六代。思わぬ再会に三人は驚き涙しつつも、維盛はひそかに内侍と六代を内に招き入れ、互いに積る話をするのだった。

だがその話を、お里は聞いていた。思わずわっと泣き声を上げるお里。逃げようとする内侍と六代をお里はとどめ上座に直し、維盛のことは思い切ると涙ながらに語るので、内侍もその心根に涙する。ところがそこへ村役人が来て、ここに鎌倉の武士梶原景時が来ると告げて去る。維盛たちは驚くが、お里は上市村にある弥左衛門の隠居所に行くよう勧め、維盛たちはその場を立ち退く。だがさらに、物陰に隠れていた権太が飛び出した。それまでの様子を聞いていた権太は維盛たちを捕まえて褒美にしようと、それを止めようとするお里を蹴飛ばし、三貫目の入ったはずの鮓桶を持ちあとを追ってゆく。

お里は弥左衛門と母親を呼ぶ。お里から話を聞いた弥左衛門は刀を差して表を飛び出した。だかその道の向うから、提灯をともした大勢の者がやってくる。「ヤア老いぼれめどこへ行く」そういって現われたのは手勢を率いた梶原景時。

弥左衛門が出ていた村の集まりとは、鎌倉から来た景時が維盛詮議のために村人を集めていたものであった。維盛のことを景時から聞かれた弥左衛門は、当然知らぬ存ぜぬで通したが、景時は、維盛がこの家にいることはすでに露見しており、逃げられないようわざと泳がせていた。維盛の首を討って渡せと弥左衛門に迫る。

すると弥左衛門は、維盛はもう首にしてあるという。弥左衛門は、最前道で拾った若者(小金吾)の首を維盛の身替りにするつもりだった。そして鮓桶に隠した偽首を出そうとする。ところが弥左衛門の女房は、その桶に自分が内緒で権太に与えた三貫目が入っていると思い、景時がいるのも構わずに弥左衛門が桶を開けることを阻む。景時は「さてはこいつら云い合わせ、縛れ括れ」と手下たちにいうまさにそのとき。権太が維盛たちを捕らえたと言ってやってきたのである。

権太は縛りあげた内侍と六代を引き出し、維盛の首を景時の前に出した。維盛を捕らえようとしたが手ひどく抗ったので、殺して首にしたのだという。景時はその働きを誉め、親弥左衛門が維盛をかくまった罪は許してやるというと、親の命はいらぬからほかの褒美がほしいという権太。ではこれをやろうと、景時は着ていた陣羽織を脱いで権太に与えた。これはもと頼朝公が着ていたのを拝領したもので、これを持って鎌倉に来れば、引き換えに金を渡してやる。そう言い残し景時は首を収め、縄付きの内侍と六代も引っ立て手下とともに立ち去った。

弥左衛門の怒りが爆発した。弥左衛門は隙を見て、権太の体に刀を突っ込む。苦しむ権太。母親は悲しむが、怒りの収まらぬ弥左衛門は「こんなやつを生けて置くは世界の人の大きな難儀」と、なおも権太を刀でえぐる。

しかし苦しみながら権太は弥左衛門に言う、「こなたの力で維盛を助けることは叶わぬ」と。そして弥左衛門が偽首を入れたはずの鮓桶をあけると、そこからは三貫目が出てきたのである。権太は自分が持っていった鮓桶の中身が生首(小金吾)と取り違えたことに気付き、これを維盛の身替りとして景時に差し出した。そして縛って渡した内侍六代とは、自分の女房子供の小せんと善太だったのである。権太が笛を吹くと、それを合図に維盛たちが駆けつけた。権太は最前家の中に身を隠すうち、維盛と弥左衛門の身の上を聞き改心することにしたのだという。そして偽首を持って出た途中小せんと善太に出会い、小せんは自分たちを内侍六代の身替りとするよう自ら願い出たのだと語る。弥左衛門はこれを聞き、まともに嫁よ孫よと呼べなかったことを女房とともに悔い嘆くのであった。

維盛と内侍も涙し、維盛は弥左衛門が持ち帰った首というのは自分の家来だった主馬の小金吾であると語る。権太が貰った陣羽織が頼朝の使った品だと聞き、維盛はせめてもの返報にと、刀で陣羽織を裂こうとした。ところがその裏地には、思わせぶりな小野小町の詠んだ和歌が記されている。維盛は不審に思いなおも陣羽織を改めると、そのなかには袈裟衣と数珠が縫いこまれていた。頼朝はその昔、平治の乱で平家に捕まり殺されるはずだったのを、清盛の継母池の禅尼が命を助けた。その恩を思い、今度は維盛の命を助けたのだった。つまり権太が用意した身替りは、すべて最初から見破られていたのである。謀ったと思ったが、あっちがみな合点…と権太は苦しみつつも悔やむ。

維盛は出家を決意し、髻を切ってこの場を立とうとする。内侍とお里は自分たちもともにと維盛にすがるが、維盛はふたりを退け、内侍は高雄の文覚のところに行き六代のことを頼み、お里は兄に代わって親に孝行せよという。弥左衛門は内侍と六代の供をしようと、これも旅支度をして立とうとする。母親はせめて最期の近い息子を看取ってくれと弥左衛門に泣きながら頼むが、「死んだを見ては一足も歩かるる物かいの」と弥左衛門は嘆く。そんな一家の様子を不憫に思いながらも維盛は高野山へと、内侍と六代、弥左衛門は高雄へとそれぞれ向う。権太は、最期を迎えようとしていた。

「木の実」
大和は下市村の村外れの茶屋で旅の疲れを癒すのは平維盛の御台所若葉の内侍と若君の六代の君、そして旧臣の小金吾。
若君のなぐさみに椎の実を拾っているところに男があらわれ金を強請ろうとする。
いがみの権太とあだ名されるならず者。
騒ぎを起こしたくない小金吾は、仕方なく金を出して去っていく。
この様子を物陰から見ていた茶屋の女房、実は権太の女房小せんは夫をいさめる。
女房の言うことには聞く耳を持たぬ権太だったが、息子にせがまれて家に帰る。

「小金吾討死」
追手に行く手をはばまれ、若葉の内侍たちと離れ離れになってしまった小金吾。
大勢の追手を相手に派手な大立ち回りをするが、多勢に無勢、ついに息絶えてしまう。

「鮨屋」
下市村にある釣瓶鮨屋。ここにいる下働きの弥助こそが、実は平維盛。
店主弥左衛門がかくまっていたのだ。その弥左衛門は娘のお里は維盛とも知らず、弥助にぞっこん。
夜も更けたころ、一夜の宿を乞いやってきたのは、なんと若葉の内侍と六代の君。
初恋が破れて泣きぬれるお里だったが、追手の手から親子三人を逃がそうとする。
それを見ていたのがいがみの権太。
三人を売って金にすると言い捨て駆け出していく。
入れ違いに、追手の梶原景時があらわれ、維盛の首を討って出せと迫るところに権太が若葉の内侍と六代を縛り上げ、維盛の首を鮨桶に入れて持ってくる。
梶原が帰った後、弥左衛門は怒りの余り、我が子権太をブスリと刃で刺す。
が、実はすべて権太が仕組んだ身代り劇であったことが判明する。
権太の女房が若葉の内侍に、権太の息子が六代に化けていたのだ。

【四段目】
(道行初音旅)
静御前は都に留まっていたが、やはり義経のことが恋しくてたまらず、ついに都を後にして義経のもとへと行くことにした。その義経が吉野にいるらしいとの噂を聞き、まだ木々の芽がほころぶ初春の時分、吉野に向い女ひとりで道を歩む。義経より預かった初音の鼓を打っていると、佐藤忠信が遅れてあらわれた。

忠信が義経より賜った鎧を出して敬うと、静はその上に義経の顔によそえて鼓を置いた。この鎧を賜ったのも、兄継信の忠勤であると忠信は言い、話のついでに兄佐藤継信が屋島の戦いで能登守教経と戦って討死したことを物語り、思わず涙する。ふたたび歩む静と忠信主従は芦原峠を越え、吉野山の麓へと辿りついた。

(蔵王堂の段)
静と忠信は吉野山の蔵王堂近くにまで来る。そこで掃除をしている百姓たちにこの山の衆徒頭である河連法眼の館について尋ね、ふたりは法眼のもとへと急ぐ。

いっぽう蔵王堂では、その河連法眼が山科の法橋坊、梅本の鬼佐渡坊、返坂の薬医坊という荒法師たちを集めて評定をしようとしていた。法眼の親類である鎌倉武士の茨左衛門から書状が届き、それによれば兄頼朝に背いた九郎義経が大和にいるとの知らせが鎌倉に聞え、もしこの吉野山にいてそれを匿うようであれば、この山にある寺院をまとめて滅ぼすとのことである。義経に味方すべきかどうか。法眼はまず法橋坊たちの意向を聞いた。法橋坊たちは口を揃え、義経に味方するという。そこに法橋坊に身を寄せる客僧、横川の覚範が遅れて現われる。これも大太刀を佩いた荒法師である。法眼が覚範に聞くと、やはり義経に味方するという。

だが、法眼は義経に弓引くつもりだと皆に答える。一山衆徒の頭として、義経を庇ってこの山を危い目に合わすわけにはいかない。それでも義経を庇おうというのなら、そのときは敵味方だと言い残し、法眼はその場を去った。

実は法橋坊たちは、本心では義経を殺すつもりだった。しかし河連法眼が義経に味方し、その身をかくまっていると聞いていたので、わざと反対のことを答えたのである。それが当てがはずれたと思う法橋坊たちを覚範は笑い、いまの返答で法眼が自分たちを信用していないことがわかった、この上は義経を逃がさぬよう、今夜の内に河連法眼の館を襲撃しようと、法橋坊たちと相談するのだった。

(河連法眼館の段)
はたして義経は河連法眼の館に身を寄せていた。蔵王堂の評定から法眼が自邸に戻る。法眼は妻の飛鳥に、変心して義経を討つつもりだと言い、さらに鎌倉からの茨左衛門の書状を飛鳥に読ませる。飛鳥は茨左衛門の妹であった。そんな夫の様子を見て飛鳥はその刀を奪い自害しようとする。法眼は義経を裏切るような人間ではない。自分が鎌倉武士の身内だから、義経のことを内通して知らせたと疑うのかと飛鳥は恨み嘆く。すると法眼は茨の書状をずたずたに引き裂き、これも義経への忠節のためである、書状は引き裂いたすなわち疑いは晴れたから、安堵して自害を留まれというので、飛鳥も恨みを解く。義経も出てきて、法眼の厚意に感謝するのだった。

そこへ佐藤忠信がやってくる。義経は忠信との再会を喜ぶが、静御前の姿が見えない。静はどうしたのかと尋ねる義経に、忠信は不審そうな顔をした。自分は故郷出羽から今戻ったばかりで、静御前の事は知らないという。義経はこれを聞き激怒する。都から逃れるとき、伏見稲荷で忠信に静の身柄を預けたはずである。それをとぼけるとはさては自分を裏切り鎌倉に静を渡したのに違いない。不忠者の人でなしめと駿河次郎と亀井六郎を呼ぶ。駿河と亀井は忠信を捕らえようとし、わけがわからないという様子の忠信は刀を投げ出して、「両人待った」というまさにそのとき、なんとまた忠信が、静御前を伴いこの館に現われたとの知らせ。この場に居た者はみな仰天した。

この場にいた忠信が、今来たという忠信こそ偽者、捕まえて疑いを晴らそうと駆け出そうとするが、駿河と亀井はその身に疑いある以上は動かさぬと行く手を阻む。やがて静御前が初音の鼓を持って義経たちの前に現われた。義経との再会に嬉し涙をこぼす静。義経は静に、同道していた忠信のことについて聞く。静の供をしていたはずの忠信はいつの間にかいなくなっている。そういえば今目の前にいる忠信は、自分の供をしていた忠信とは違うようだと静はいう。だがその忠信が初音の鼓を打つと現われると聞いた義経は、それぞ詮議のよい手立てと、静に鼓を打つことを命じ、自らは奥へと、忠信は駿河と亀井に囲まれながらこれもその場を立ち退く。

ひとり残された静が初音の鼓を打つ。するとまた忠信が現れた。鼓の音を聞いてうっとりする様子である。静は、遅かった忠信殿といいながら、隙を見て刀で切りつけようとする。この忠信は「切らるる覚えかつて無し」と抗うが、鼓をかせに静に責められ、ついにその正体を白状した。

その昔、桓武天皇の御代のこと。天下が旱魃となって雨乞いをするため、大和の国の千年生きながらえているという雌狐と雄狐を狩り出し、その生皮を剥いで作った鼓を打つとたちまち雨が降りだした。その雌狐と雄狐の皮で作った鼓とは初音の鼓、自分はその鼓にされた狐の子だというのである。

この子狐は、皮となっても親たちのことを恋い慕っていたが、初音の鼓が義経に下されたのを知り、伏見稲荷で佐藤忠信に化け静の危機を救い、今日まで鼓を持つ静に付き従っていたのだという。その心根に静は涙し、また義経も出てきてなお親を思う狐の心を憐れむが、本物の忠信にこれ以上迷惑はかけられないと、子狐は泣きながら姿を消してしまう。

義経は子狐を呼び戻そうと静に鼓を打たせたが、不思議なことにいくら打っても音が出なくなった。鼓にいまだ魂がこもり、親子の別れを悲しんでいるらしい。義経は、自分は幼少のころに父義朝とは死別れ、身寄りの無い鞍馬山で成長し、その後兄頼朝に仕えたが、これも憎まれ追われる今の身の上となった。この義経とこの狐、いずれも親兄弟との縁の薄さよと嘆く。静も嘆くとこの声を聞いたか、再び子狐こと源九郎狐が姿を現す。義経は、静を今日まで守った功により、この鼓を与えるぞと手ずから初音の鼓を源九郎狐に与えた。源九郎狐の喜びようはこの上もない。源九郎狐はそのお礼にと、今宵悪法師たちが義経を討ちにこの館を襲うことを知らせ、鼓とともに姿を消すのであった。本物の忠信が駿河亀井とともに出てきて、自らの潔白が明かされたことを喜んでいると法眼が駆けつけ、源九郎狐の言葉通り法師たちがこの館に攻め寄せてくるという。義経は自分に思う仔細ありといって静とともに奥へと入った。

やがて山科の法橋坊たちが館に来るが忠信たちや法眼に、また源九郎狐の幻術もあってみな取り押さえられてしまう。そこへ衣の下に鎧を着込み、薙刀を持った横川の覚範が来て法眼を呼ぶ。そのとき「平家の大将能登守教経待て」と義経が声を掛けた。横川の覚範とは世を忍ぶ仮の姿、実はこれも源平の戦いで入水したといわれた平教経だったのである。義経は覚範こと教経と数度刃を交えると、いきなり逃げ出し奥へと入ってしまう。のがさじと教経は、奥へと踏み込んで一間の障子を開け放つと、そこにいたのは幼い安徳帝。驚く教経に安徳帝はこれまでのいきさつを語り、この上は母である建礼門院に会いたいと泣き伏す。

教経は安徳帝を己が住処に移そうと、抱き上げて立ち去ろうとするところに駿河と亀井、法眼がその前に立ちはだかり、互いににらみ合う。そこへ「ヤア待て汝ら粗忽すな」と烏帽子狩衣の礼装で現われた義経が、この場は安徳帝を見送り、勝負は教経を兄の仇とする佐藤忠信と後日に決すべしと、改めての決戦を互いに約して別れるのであった。

「道行初音旅」
今は吉野の山中に身を隠している義経をたずねる旅に出た静御前。
その胸にしっかりと抱かれているのは初音の鼓。
義経を思って初音の鼓を打つと、いずこからともなく忠信があらわれた。
その忠信は義経からもらった鎧を背負っている。
静は夫を、忠信は主君を慕っての旅である。

「川連法眼館」
一方、義経主従は吉野の川連法眼の元にかくまわれていた。
そこへ佐藤忠信が義経を訪ねてくる。静もいっしょかと思えばさにあらず、預かった覚えもないと言う忠信に疑いをかける義経。
すると、再び静の供で忠信が来たという取り次ぎの声。
心当たりがあるという静御前に詮議が任されることになった。
ひとりになった静が初音の鼓を打つと、どこからともなくもうひとりの忠信があらわれた。
鼓の音色に聴き入っている忠信の油断をついて切りかかる静とかわす忠信。
正体を尋ねると、実は、初音の鼓の皮は親狐で、自分はその子どもだと言う。
親恋しさの一心から鼓を持つ静の供をしてきたのだ。
奥の間で仔細を聞いていた義経は、源九郎狐に初音の鼓を与えることにする。
喜びにうちふるえる源九郎狐。
そのお礼に、夜討ちを企てた悪僧どもを化かして館に引き入れ、狐の神通力で懲らしめると、初音の鼓を手にいづこかへ。

【五段目】
(吉野山の段)
雪のまだ残る吉野山で、佐藤忠信は覚範こと教経と決着をつけることになった。鎌倉勢も攻め寄せるが忠信一人でそれらを退ける。教経が現われ忠信と激しい勝負となるが、忠信は教経に組み敷かれてしまう。ところがそこへもうひとり忠信が駆けつけ、教経に取り付いた。さしもの教経も仰天し振り払おうとすると、その忠信は義経の鎧に変じ、その隙を狙って組敷かれた忠信が教経に手を負わせる。源九郎狐が幻術を以って忠信を助けたのである。

そこへ義経が現われ、安徳帝は母である健礼門院のもとで出家を遂げたと告げると、川越太郎もやってきて藤原朝方を縛って引き出し、頼朝を討てという院宣はこの朝方の謀略であると顕れたので、その処分を義経に任せるとの後白河院の言葉を伝えた。平家追討の院宣もこの朝方のしわざと聞く、こいつを殺すのが一門への言い訳と、教経は朝方の首を打ち落とす。その教経は兄継信のかたきと佐藤忠信に討たれ、平家はここにまさしく滅びたのであった。

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