風姿花伝より学ぶ!秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。この分け目を知ること、肝要の花なり!

『風姿花伝』(風姿華傳、Kadensho、Flowering Spirit)は、世阿弥が記した全七編から成る能の理論書で、檜舞台で演じられる能楽の原型を築いた父、観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学、果ては人生論まで、世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっております。
「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現の典拠が著された日本の美学の古典であると共に、日本最古の能楽論の書にして演劇論、能の芸道論と言えるもので、明治後期までは一族の「秘伝書」として存在すら知られていませんでした。
※)能楽に関わるものは、”「能」と「狂言」、「歌舞伎」は何がどう違う?”でも整理してありますので、参考にしてください。

そもそも能に興味がない人でも、結婚式などで耳にしたこともある『高砂』という謡曲も世阿弥が創ったもの。
元々は大衆芸能から出発した能楽が、やがて豊臣秀吉に賞賛され、江戸時代に入っても大名に召し抱えられ、格式の高い芸術であり、日本文化の象徴のひとつとして生き延びてきました。

世阿弥が生きていた時、能は猿楽と呼ばれ、様々な一座が得意技を生かして演じていました。
激しい競争に打ち勝つため、世阿弥は子孫のために自分のノウハウを数多くの「伝書」として書き残します。
その中で最も有名なのが、30代後半の時に初めて記した「風姿花伝」という訳です。

特に『風姿花伝』第一章は年齢に応じた稽古の仕方を示すものですが、教育者や親として、どのように若い人達や子供対応していけば良いのかという世阿弥の教育論、人生論の示唆に富んだ内容となっています。
人生には7段階のプロセスがあり、それぞれに何らかを失う、衰えの7つの段階がある。
少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。
こうして何かを失いながら人は、人は人生を辿っていきます。
しかし、失うだけでなく、これは同時に新しいものを得る試練の時、初心に帰る時。
「初心忘るべからず」とは、一生を通じて前向きにチャレンジし続けろ、という後継者に向けた世阿弥の願いともいえるものではないでしょうか。

「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。この分け目を知ること、肝要の花なり」

この『風姿花伝』を象徴する一句は、男女の性別や貴賤を問うこともなく、あらゆる世代を超えて、自分を前面に打ち出しすぎたら、伝えたい内容を伝えられないことを伝えています。
かといって、形だけを模すような人真似だけでは、誰も振り向いてくれず、ひとり取り残されるだけであると説く世阿弥の精神は、現代にも通じる本質に違いありません。
信ずる道を全うするには、自分自身と向き合うことが肝要で、時流に乗って認められたことを実力だと勘違いしてしまう気持ちは、結果的には人としての本質に達する道を遠ざける。
だからこそ、常に初心に戻りなさい、と世阿弥は説くのです。

いかがですか。
単なる能の理論書としだけでなく、人生の示唆に溢れた『風姿花伝』。
専門外だという偏見を持たず、一度は触れてみることをお勧めします。
ご一読ください。

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以下、参考までに一部抜粋です。

【花伝書「風姿花伝」世阿弥】

 第一 年来稽古条々 (年代に応じた稽古のあり方と、役者自身の修行法・心構え)
 第二 物学条々 (各役に扮する演技の方法)
 第三 問答条々 (実際の上演について起きがちな問題の一問一答)
 第四 神儀云 (神事としての能の歴史・神話)
 第五 奥義云 (芸能人の生き方)
 第六 花修云 (能の創作と本質、芸術心)
 第七 別紙口伝 (芸の魅力・舞台効果の本質についての考察)

(序)
 それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移 り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖 徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号 せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この 芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。
 されば、古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
 ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
 およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。

 一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
 一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。

第一  年来稽古条々
七 歳
 一、この芸において、大方七歳をもて初めとす。このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得 たる風体あるべし。舞・はたらきの間、音曲、もしは、怒れることなどにてもあれ、ふとしいださんかかりを、う ちまかせて心のままにせさすべし。さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、童は気 を失いて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり。ただ、音曲・はたらき・舞などならではせさす べからず。さのみのものまねはたといすべくとも、教ふまじきなり。大場などの脇の申楽には立つべからず。三番 ・四番の、時分のよからんずるに、得たらん風体をせさすべし。

十二三より
 この年のころよりは、はや漸々声も調子にかかり、能も心づくころなれば、次第次第に物数も教ふべし。まづ童 形なれば、なにをしたるも幽玄なり。声も立つころなり。二つの便りあれば、悪きことは隠れ、よきことはいよい よ花めけり。おほかた、児の申楽に、さのみにこまかなるまねなどは、せさすべからず。当座も似あはず、能もあ がらぬ相なり。ただし、堪能になりぬれば、なにとしたるもよかるべし。児といひ、声といひ、しかも上手ならば、 なにかは悪かるべき。さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。去れば、この時分の稽古、す べてすべちやすきなり。さるほどに、一期の能のさだめにはなるまじきなり。このころの稽古、やすきところを花 にあてて、わざをば大事にすべし。はたらきをも確やかに、音曲をも、文字にさわさわとあたり、舞をも、手をさ だめて、大事にして稽古すべし。

十七八より
 このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、 かかり失せて、過ぎしころの、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りにて、てだてはたと変わりぬれば、 気を失ふ。結句、見物衆もをかしげなる気色みえぬれば、はづかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。 このころの稽古には、指をさして人に笑わるるとも、それをばかへりみず、内にて、声の届かんずる調子にて、宵 暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期のさかひここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬよりほかは、稽古 あるべからず。総じて、調子は声よりといへども、黄鐘・盤渉をもて用ふべし。調子にさのみにかかれば、身形に くせ出くるものなり。また、声も年よりて損ずる相なり。

二十四五
 このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる 時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向か ふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人 などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初む るなり。これ、かへすがへす主のため仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍し き花なり。真の目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、極めたる様に主の思いて、は や申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに 勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん 人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。
 されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花にお きて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。一公案して思ふべし。わが位のほどほ どよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するな り。よくよく心得べし。

三十四五
 このころの能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究めさとりて、堪能になれば、さだめて天下に許され、 名望を得べし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、いま だ真の花を究めぬしてと知るべし。もし究めずば、四十より能は下るべし。これ後の証拠となるべし。さるほどに、 上るは三十四五までのころ、下るは四十以来なり。かへすがへす、このころ天下の許されを得ずば、能を究めたる とは思ふべからず。ここにてなほつつしむべし。このころは、過ぎし方をもおぼえ、また、行く先のてだてをもお ぼゆる時分なり。このころ究めずば、こののち天下の許されを得んこと、かへすがへすかたかるべし。

四十四五
 このころよりは、能のてだて、おほかた変わるべし。たとひ、天下に許され、能に徳法したりとも、それにつき ても、よきわきのしてを持つべし。能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそめの花も、 失するなり。まづ、すぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りてはみられぬものなり。 さるほどに、このひとむきは欠けたり。このころよりは、さのみに、こまかなるものまねをばすまじきなり。おほ かた似合たる風体を、やすやすと、骨を折らで、わきにしてに花を持たせて、あひしらひの様に、すくなすくなと すべし。たとひわきのしてなからんにしても、いよいよこまかにみをくだく能をばすまじきなり。なにとしても、 よそめ花なし。もし、このころまで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。それは、五十近くまで失せざら む花を持ちたるしてならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ天下の許されを得たるしてなりとも、さ様 の上手は、ことにわが身を知るべければ、なほなほわきのしてを嗜み、さのみに身をくだきて、難のみゆべき能を ばすまじきなり。か様にわが身を知る心、得たる人の心なるべし。

五十有余
 このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。

年来稽古条々 以上

第二 物学条々
(総説)
 ものまねの品々、筆につくしがたし。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべ し。およそなにごとをも残さずよく似せんが本意なり。しかれども、またことによりて、濃き薄きを知るべし。ま づ国王・大臣よりはじめたてまつりて、公家のおんたたずまゐ武家の御進退は、およぶべきところにあらざれば、 十分ならんことかたし。さりながら、よくよくことばを尋ね、しなを求めて、見所の御意見を待つべきをや。その ほか、上職の品々、花鳥風月のことわざ、いかにもいかにもこまかに似すべし。田夫野人のことにいたりては、さ のみにこまごま賤しげなるわざをば似すべからず。仮令、木樵・草刈・炭焼・汐汲などの、風情にもなるべきわざ をば、こまかにも似すべきか。それよりなほいやしからん下職をば、さのみに似すまじきなり。これ上方の御目に 見ゆべからず。もしみえば、あまりにいやしくて、おもしろきところあるべからず。このあてがひをよくよく心得 べし。


 およそ女かかり、若きしての嗜みに似合うことなり。さりながら、これ一大事なり。まづ、したて見苦しければ、 さらにみどころなし。女御・更衣などのにせごとは、たやすくその御振舞ひをみることなければ、よくよくうかが ふべし。衣・袴の着様、すべて私ならず、たづぬべし。
 ただ世のつねの女かかりは、つねにみなるることなれば、げにはたやすかるべし。ただ、衣・小袖のいでたちは、 おほかたの体、よしよしとあるまでなり。舞・白拍子、または物狂ひなどの女がかり、扇にてもあれ、かざしにて もあれ、いかにもいかにも弱々と、持ちさだめずして持つべし。衣・袴などをもながながと踏みくくみて、こしひ ざは直に、身はたをやかなるべし。顔の持ち様、あをのけば、みめ悪く見ゆ。うつぶけば、後姿わろし。さて、首 持ちを強くもてば、女に似ず。いかにもいかにも、袖の長きものを着て、手先をもみすべからず。帯などをも弱々 とすべし。されば、したてを嗜めとは、かかりをよくみせんとなり。いづれのものまねなりとも、したて悪くては、 よかるべきかなれども、ことさら、女かかり、したてをもて本とす。

老人
 老人のものまね、この道の奥義なり。能の位、やがてよそめにあらはるることなれば、これ第一の大事なり。お よそ、能をよきほどきはめたるしても、老いたる姿は得ぬ人おほし。たとへば、木樵・汐汲の業物などの翁形をし よせぬれば、やがて上手と申すこと、これ誤りたる批判なり。冠・直衣・烏帽子・狩衣の老人の姿、得たらむ人な らでは似合ふべからず。稽古の劫入りて、位上らでは、似合ふべからず。
 また、花なくば、おもしろきところあるまじ。およそ老人のたちふるまひ、老いぬればとて、こしひざをかがめ、 身をつむれば、花失せて古様にみゆるなり。さるほどに、おもしろきところ稀なり。ただおほかた、いかにもいか にもそぞろかで、しとやかにたちふるまふべし。ことさら老人のまひかかり、無上の大事なり。花はありて、年寄 と見ゆる公案、くはしく習うべし。ただ老木に花の咲かんがごとし。

ひためん
 これまた、大事なり。およそ、もとより俗の身なれば、やすかりぬべきことなれども、不思議に能の位上らねば、 直面はみられぬものなり。まづこれは、仮令、そのものそのものによりて学ばんこと、是非なし。面色をば、似す べき道理もなきを、つねの顔に変へて、顔気色をつくろふことあり。さらに見られぬものなり。ふるまひ・風情を ば、そのものに似すべし。顔気色をば、いかにもいかにもおのれなりにつくろはで持つべし。

物 狂
 この道の第一のおもしろづくの芸能なり。ものぐるひの品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へわた るべし。くりかへしくりかへし公案のいるべき嗜みなり。仮令、つきものの品々、神仏・生霊・死霊のとがめなど は、そのつきものの体を学べば、やすく便りあるべし。親に別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に後るる、か様の 思ひに狂乱するものぐるひ、一大事なり。よきほどのしても、ここを心に分けずして、ただ一遍に狂ひはたらくほ どに、みる人の感もなし。思いゆゑのものぐるひをば、いかにももの思ふ気色を本意にあてて、心をいれて狂へば、 感も、おもしろきみどころも、さだめてあるべし。か様なるてがらにて、人を泣かすところあらば、無上の上手と しるべし。これを心の底によくよく思ひ分くべし。
 およそ、ものぐるひのいでたち、似合ひたる様にいでたつべきこと、是非なし。さりながら、とてもものぐるひ にことよせて、時によりて、なにとも花やかにいでたつべし。時の花をかざしに挿すべし。
 またいふ、ものまねなれども、心えつべきことあり。ものぐるひは、つきものの本意を狂ふといへども、女物狂 などに、あるは修羅・闘諍・鬼神などのつくこと、これなにも悪きことなり。つきものの本意をせんとて、女すが たにて怒りぬれば、見所にあはず。女がかりを本意にすれば、つきものの道理なし。また、男ものぐるひに女など のよらんことも、同じ料簡なるべし。所詮、これ体なる能をばせぬが秘事なり。能つくる人の料簡なきゆゑなり。 さりながら、この道に長じたらん書き手の、さ様に似合はぬことを、さのみに書くことはあるまじ。この公案を持 つこと、秘事なり。
 また、直面のものぐるひ、能をきはめてならでは、十分にはあるまじきなり。顔気色をそれになさねば、ものぐるひに似ず。得たるところなくて、顔気色を変ゆれば、見られぬところあり。ものまねの奥義とも申すべし。大事の申楽などには、初心の人斟酌すべし。直面の一大事、ものぐるひの一大事、二色を一心になして、おもしろきところを花にあてんこと、いかほどの大事ぞや。よくよく稽古あるべし。

法 師
 これは、この道にありながら、まれなれば、さのみに稽古いらず。仮令、荘厳の僧正、ならびに僧綱などは、い かにも威儀を本として、気高きところを学ぶべし。それ以下の法体、遁世・修行の身にいたりては、抖そうを本と すれば、いかにも思ひたる姿がかり、肝要たるべし。ただし、賦物によりて、思ひのほかのてかずのいることもあ るべし。

修 羅
 これまた、一体のものなり。よくすれども、おもしろきところ稀なり。さのみにはすまじきなり。ただし、源平 などの名のある人のことを、花鳥風月に作りよせて、能よければ、なによりもまたおもしろし。これ、ことに花や かなるところありたし。これ体なる修羅の狂ひ、ややもすれば、鬼のふるまひになるなり。または舞の手にもなる なり。それも曲舞かかりあらば、すこし舞かかりのてづかひよろしかるべし。弓・胡ぐひをたずさへて、打物をも てかざりとす。その持ち様使ひ様を、よくよくうかがひて、その本意をはたらくべし。あひかまへて、鬼のはたら き、また、舞の手になるところを用心すべし。


 およそ、このものまねは、鬼がかりなり。なにとなく怒れるよそほひあれば、神体によりて、鬼がかりにならん も苦しかるまじ。ただし、はたと変はれる本意あり。神は舞かかりの風情によろし。鬼はさらに舞かかりの便りあ るまじ。神をば、いかにも、神体によろしき様にいでたちて、気高く、ことさら出物にならでは、かみといふこと はあるまじければ、衣裳を飾りて、衣文をつくろひてすべし。


 これことさら、大和のものなり。一大事なり。およそ怨霊・憑物などの鬼は、おもしろきたよりあれば、やすし。 応対者をめがけて、こまかに足手を使ひて、物頭を本にしてはたらけば、おもしろき便りあり。まことの冥途の鬼、 よく学べば、恐ろしき間、おもしろきところさらになし。まことは、あまりの大事のわざなれば、これをおもしろ くするもの稀なるか。まづ本意は、強く恐しかるべし。強きと、恐しきは、おもしろき心には変われり。
 そもそも鬼のものまね、大いなる大事あり。よくせんにつけて、おもしろかるまじき道理あり。恐しきところ、 本意なり。恐しき心と、おもしろきとは、黒白の違ひなり。されば、鬼のおもしろきところあらんしては、究めた る上手とも申すべきか。さりながら、それも、鬼ばかりよくせんものは、ことさら花を知らぬしてまるべし。され ば、若きしての鬼は、よくしたりとは見ゆれども、さらにおもしろからず。鬼ばかりをよくせんものは、鬼もおも しろかるまじき道理あるべきか。くはしく習ふべし。ただ鬼のおのしろからむ嗜み、巌に花の咲かんがごとし。

唐 事
 これは、およそ格別のことなれば、さだめて稽古すべき形木もなし。ただ肝要、いでたちなるべし。また、面を も、同じ人と申しながら、模様の変わりたらんを着て、一体異様したる様に、風体を持つべし。劫入りたるしてに 似合うものなり。ただしたてを唐様にするならでは、てだてなし。なにとしても、音曲も、はたらきも、唐様とい うこと、まことに似せたりとも、おもしろくもあるまじき風体なれば、ただ一模様心得んまでなり。この異様した ると申すことなど、かりそめながら、諸事にわたる公案なり。なにごとか異様してよかるべきなれども、およそ唐 様をば、なにとか似すべきなれば、つねのふるまひに、風体変れば、なにとなく唐びたる様に、よそめに見なせば、 やがてそれになるなり。

(結語)

 おほかた、ものまねの条々、以上。
 このほか、こまかなること、紙筆にのせがたし。さりながら、おおよそこの条々を、よくよく究めたらん人は、 おのづからこまかなることをも心得べし。

風姿花伝上

第三  問答条々
(一)
 問ふ。そもそも申楽を始むるに、当日にのぞんでまづ座敷をみて、吉凶をかねて知ることはいかなることをぞや。

 答ふ。このこと、一大事なり。その道に得たらん人ならでは、心得べからず。まづ、その日、庭をみるに、今日 は、能よくいでくべき、あしくいでくべき、瑞相あるべし。これ申しがたし。しかれども、およそ料簡をもてるみ るに、神事・貴人の御前などの申楽に、人群集して、座敷いまだしづまらず。さるほどに、いかにもいかにもしづ めて、見物衆、申楽を待ちかねて、数万人の心一同に、おそしと、楽屋をみるところに、時を得ていでて、一声を もあぐれば、やがて、座敷も時の調子に移りて、万人の心、してのふるまひに和合して、しみじみとなれば、なに とするも、その日の申楽は、はやよし。
 さりながら、申楽は、貴人の御出でを本とすれば、もし早く御出であるときは、やがて初めずしてはかなはず。 さるほどに、見物衆の座敷、いまださだまらず。あるは遅ればせなどにて、人の立居しどろにして、万人の心、い まだ能にならず。されば、左右なくしみじみとなることなし。さ様ならむ時の脇の能には、ものになりていづると も、ひごろより色々とふりをもつくろひ、声をも強々と使ひ、足踏をもすこし高く踏み、たちふるまふ風情をも、 人の目にたつ様に、いきいきとすべし。これ、座敷をしづめんためなり。さ様ならんにつけても、ことさら、その 貴人の御心に合ひたらん風体をすべし。されば、か様なる時のわきの能、十分によからんこと、かへすがへすある まじきなり。しかれども、貴人の御意にかなへるまでなれば、これ肝要なり。なにとしても、座敷のはやしづまり て、おのづからしみたるには、悪きことなし。されば、座敷の勢、後を考へてみること、その道に長ぜざらん人は、 左右なく知るまじきなり。
 またいふ。夜の申楽は、はたと変るなり。夜は、おそく初まれば、さだまりて湿めるなり。されば、昼二番目に よき能の体を、夜のわきにすべし。わきの申楽湿りたちぬれば、そのまま能はなほらず。いかにもいかにもよき能 を利くすべし。夜は人音騒々なれども、一声にてやがてしづまるなり。昼の申楽は後がよく、夜の申楽はさしより よし。さしよりしめりたちぬれば、なほる時分左右なくなし。秘義にいふ。
 「そもそも一切は、陰陽の和するところのさがひを、成就とは知るべし。」昼の気は陽気なり。されば、いかに もしづめて能をせんと思ふたくみは、陰気なり。陽気の時分に、陰気を生ずること、陰陽和する心なり。これ能の よくいでくる成就の初めなり。これおもしろしと見る心なり。
 夜はまた、陰なれば、いかにも浮き浮きと、やがてよき能をして、人の心花めくは陽なり。これ夜の陰に、陽気 を和する成就なり。されば、陽の気に陽とし、陰の気に陰とせば、和するところあるまじければ、成就もあるまじ。 成就なくば、なにかおもしろからん。また、昼のうちにても、時によりて、なにとやらん、座敷も湿りて、さびし き様ならば、これ陰のときと心得て、しづまぬ様に、心をいれてすべし。昼は、か様に、時によりて、陰気になる こともありとも、夜の気の陽にならんこと、左右なくあるまじきなり。座敷をかねてみるとは、これなるべし。

(二)
 問ふ。能に序・破・急をば、なにとか定むべきや。

 答ふ。これやすき定めなり。一切のことに、序・破・急あれば、申楽もこれ同じ。能の風情をもて定むべし。ま づ、わきの申楽には、いかにも、本説正しきことのしとやかなるが、さのみにこまかになく、音曲・はたらきも、 おほかたの風情にて、するするとやすくすべし。第一、祝言なるべし。いかによきわきの申楽なりとも、祝言かけ てはかなふべからず。たとひ、能はすこし次なりとも、祝言ならば苦しかるまじ。これ序なるがゆゑなり。二番・ 三番になりては、得たる風体のよき能をすべし。ことさら、挙句急なれば、もみよせて、手数をいれて、すべし。 また、後日のわきの申楽には、昨日のわきに変れる風体をすべし。泣き申楽をば、後日のなかほどに、よき時分を 考えてすべし。

(三)
 問ふ。申楽の勝負の立の手立はいかに。

 答ふ。これ肝要なり。まづ、能数を持ちて、敵人の能に変わりたる風体を、違へてすべし。序にいふ。歌道をす こし嗜めとはこれなり。この芸能の作者別なれば、いかなる上手も、心のままならず。自作なれば、ことば・ふる まひ、案のうちなり。されば、能をせんほどの者の、和才あらば、申楽を作らんこと、やすかるべし。これ、この 道の命なり。されば、いかなる上手も、能を持たざらんしては、一騎当千の兵なりとも、軍陣にて兵具のなからん、 これ同じ。されば、てがらの精糲、立会に見ゆべし。敵方色めきたる能をすれば、しづかに模様変りて、詰めどこ ろのある能をすべし。か様に、敵人の申楽に変へてすれば、いかに敵方の申楽よけれども、さのみには負くること なし。もし、能よくいでくれば、勝つことは治定あるべし。しかれば、申楽の当座においても、能に、上・中・下 の差別あるべし。本説正しく、珍しきが、幽玄にて、おもしろきところあらんを、よき能とは申すべし。よき能を、 よくしたらんが、しかもいできたらんを、第一とすべし。能はそれほどになけれども、本意のままに、咎もなく、 よくしたらんが、いできたらむを、第二とすべし。能はえせ能なれども、本説の悪きところを、なかなか便りにし て、骨を折りて、よくしたるを、第三とすべし。

(四)
 問ふ。これに大いなる不審あり。はや劫入りたるしての、しかも名人なるに、ただいまの若じての、立会に勝つ ことあり、これ不審なり。

 答ふ。これこそ、さきに申しつる、三十以前の時分の花なれ。古きしては、はや花失せて、古様なる時分に、珍 しき花にて勝つことあり。真実の目利きは、見分くべし。さあらば、目利・目不利の、批判の勝負になるべきか。 さりながら様あり。五十以来まで、花の失せざらんほどのしてには、いかなる若き花なりとも、勝つことはあるま じ。ただこれ、よきほどの上手の、花失せたるゆゑに、負くることあり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬとき の木をや見ん。か様のたとへを思ふときは、一旦の花なりとも、立会に勝つは理なり。
 されば、肝要、このみちは、ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず。もとの名望許りをたのまんこと、 古きしてのかへすがへす誤りなり。物数をも似せたりとも、はなのある様を知らざらんは、花咲かぬときの草木を 集めて見んがごとし。万木千草において、花の色もみなみな異なれども、おもしろしと見る心は同じ花なり。物数 はすくなくとも、ひとむきの花をとり究めたらんしては、一体の名望は久しかるべし。されば、主の心には、随分 花ありと思へども、人の目に見ゆる公案なからんば、田舎の花、藪梅などの、いたづらに咲き匂はんがごとし。
 また、同じ上手なりとも、そのうちにて重々あるべし。たとひ、随分究めたる上手・名人なりとも、この花の公 案なからんしては、上手にては通るとも、花は後まではあるまじきなり。公案を究めたらん上手は、たとへ、能は 下がるとも、花は残るべし。花だに残らば、おもしろきところは、一期あるべし。されば、真の花の残りたるして には、いかなる若きしてなりとも勝つことはあるまじきなり。

(五)
 問ふ。能に得手々々とて、ことのほかに劣るしても、一向上手に勝りたるところあり。これを、上手のせねば、 かなはぬやらん。また、すまじきことにてせぬやらん。

 答ふ。一切のことに、得手々々とて、生得得たるところあるものなり。位は勝りたれども、これはかなはぬこと あり。さりながら、これもただ、よきほどの上手のことにての料簡なり。まことに、能と工夫との究まりたらん上 手は、などかいづれの向をもせざらん。
 されば、能と工夫とを究めたるして、万人がうちにも一人もなきゆゑなり。なきとは、工夫はなくて、慢心ある ゆゑなり。そもそも、上手にも悪きところあり、下手にもよきところかならずあるものなり。これを見る人もなし。 主も知らず。上手は名をたのみ、達者に隠されて、悪きところを知らず。下手は、もとより工夫なければ、悪きと ころをも知らねば、よきところの、たまたまあるをも、わきまへず。されば、上手も下手も、たがひに人にたづぬ べし。さりながら、能と工夫を究めたらんは、これを知るべし。
 いかなるをかしきしてなりともよきところありと見ば、上手もこれを学ぶべし。これ第一のてだてなり。もし、 よきところを見たりとも、われより下手をば似すまじきと思ふ情識あらば、その心に繋縛せられて、わが悪きとこ ろをも、いかさま知るまじきなり。これ則ち、究めぬ心なるべし。また、下手も、上手の悪きところもし見えば、 上手だにも悪きところあり。いはんや初心のわれなれば、さこそ悪きところ多かるらめと思ひて、これを恐れて、 人にもたづね、工夫をいたさば、いよいよ稽古になりて、能ははやく上がるべし。もし、さはなくて、われは、あ れ体に悪きところをばすまじきものをと、慢心あらば、わがよきところをも、真実知らずしてなるべし。よきとこ ろを知らねば、悪きところをもよしと思ふなり。さるほどに、年はゆけども、能は上がらぬなり。これ則ち、下手 の心なり。
 されば、上手にだにも情慢あれば、能は下がるべし。いはんや、かなはぬ情慢をや。よくよく公案して思へ。上 手は下手の手本、下手は上手の手本なりと、工夫すべし。下手のよきところをとりて、上手の物数に入るること、 無情至極の理なり。人の悪きところをみるだにも、わが手本なり。いはんやよきところをや。「稽古は強かれ、情 識はなかれ。」とは、これなるべし。

(六)
 問ふ。能に位の差別を知ることはいかむ。

 答ふ。これ、目利きの眼には、やすく見ゆるなり。およそ、位の上がるとは、能の重々のことなれども、不思議 に、十ばかりの能者にも、この位、おのれと上がれる風体あり。ただし、稽古なからんは、おのれと位ありとも、 いたづらごとなり。まづ、稽古の劫入りて、位のあらんは、つねのことなり。また、生得の位とは、長なり。嵩と 申すは別のものなり。多く、人、たけとかさとを、同じように思ふなり。かさと申すものは、ものものしく、勢い のある貎なり。またいふ。かさは、一切にわたる儀なり。位・長は、別のものなり。たとへば、生得幽玄なるとこ ろあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなきしての、長のあるもあり。これは、幽玄ならぬ、長なり。
 また、初心の人思ふべし。稽古に位を心がけんは、かへすがへすかなふまじ。位はいよいよかなはで、あまつさ へ稽古しつる分も下がるべし。所詮、位・長とは、生得のことにて得ずしては、おほかたかなふまじ。また、稽古 の胡入りて、垢落ちぬれば、この位、おのれといでくることあり。稽古とは、音曲・舞・はたらき・ものまね、か 様の品々を究むる形木なり。よくよく公案して思ふに、幽玄の位は、生得のものか。たけたる位は、劫入りたると ころか。心中に案を巡らすべし。

(七)
 問ふ。文字にあたる風情とはなにごとぞや。

 答ふ。これこまかなる稽古なり。能にもろもろのはたらきとはこれなり。帯はい・みづかひと申すもこれなり。 たとへば、言ひごとの文字にまかせて、心をやるべし。見るといふことには、ものを見、指す・引くなどといふに は、手を差し引き、聞く・音するなどには、耳を寄せ、あらゆることにまかせて、身をつかへる、おのづからはた らきになるなり。第一、身をつかふこと、第二、手をつかふこと、第三、足をつかふことなり。節とかかりにより て、身のふるまひを料簡すべし。これは筆にみえがたし。その時にいたりて、見るまま習ふべし。この文字名にた ることを、稽古し究めぬれば、音曲・はたらき、一心になるべし。所詮、音曲・はたらき一心と申すこと、これま た、得たるところなり。堪能と申さんも、これなるべし。秘事なり。音曲とはたらきとは、二つの心なるを、一心 になるほど達者に究めたらんは、無情第一の上手なるべし。これまことに強き能なるべし。
 また、強き・弱きこと、多く人まぎらかすものなり。能の科のなきをば強きと心得、弱きをば幽玄なりと批判す ること、をかしきことなり。なにと見るも、見弱りのせぬしてあるべし。これ強きなり。なにと見るも花やかなる して、これ幽玄なり。されば、この文字にあたる道理を、し究めたらん、音曲・はたらき一心になり、強き・幽玄 のさかひ、いづれもいづれも、おのづから究めたるしてなるべし。

(八)
 問ふ。常の批判にも、しほれたると申すことあり。いか様なるぞや。

 答ふ。これは、ことにしるすにおよばず。その風情あらはれまじ。さりながら、正しく、しほれたる風情はある ものなり。これもただ、花によりての風情なり。よくよく案じてみるに、稽古にも、ふるまひにも、およびがたし。 花を究めたらば、知るべきなり。されば、あまねくものまねごとになしとも、ひとむきの花を究めたらん人は、し ほれたるところをも知ることあるまじ。しかれば、このしほれたると申すこと、花よりもなほ上のことにも申しつ べし。花なくては、しほれどころ無益なり。それは湿りたるになるべし。花のしほれたらんこそおもしろけれ。花 咲かぬ草木のしほれたらん、なにかおもしろかるべき。されば、花を究めんこと、一大事なるに、その上とも申す べきことなれば、しほれたる風体、かへすがへす大事なり。さるほどに、たとへにも申しがたし。
 古歌にいふ。
 薄霧のまがきの花の朝じめり秋は夕べとたれかいひけん。
 まだいふ。
 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける。か様なる風体にてやあるべき。心中にあてて公案すべ し。

(九)
 問ふ。能に花を知ること、この条々をみるに、無情第一なり。肝要なり。または不審なり。これいかにとして心 得べきや。

 答ふ。このみちの奥義を究むるなるべし。一大事とも、秘事とも、ただこの一道なり。まづ、おほかた、稽古・ ものまねの条々にくはしくみえたり。時分の花・声の花・幽玄の花、か様の条々は、人の目にもみえたれども、そ の業よりいでくる花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば、久からねば、天下の名望 すくなし。ただ真の花は、咲く道理も、散る道理も、人のままなるべし。されば久かるべし。この理を知らむこと、 いかがすべき。もし別紙の口伝にあるべきか。ただわづらはしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年 来の稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中にあてて、分かちおぼえて、能をつくし、工夫を究めて後、この 花を失せぬところを知るべし。この物数を究むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種 を知るべし。花は心、種はわざなるべし。

古人言ふ。
心地含諸種普雨悉皆萌
頓悟花情己菩提果自成

み諸(もろもろ)の種を心地(しんち)に含(ふく)み 普雨(ふう)悉(にしつ)皆萌ゆ
頓悟(とんご)の花情(かせい)は己(すで)に菩提の果自(おのづ)から生ず
およそ 、家を守り、芸を重んずるによて、亡父の申しおきしことごとをも、心の底にさしはさみて、大概を録す るところ、世のそしりを忘れて、道のすたれんことを思ふによりて、全く他人の才学におよぼさんとにはあらず。 ただ、子孫の庭訓を残すのみなり。

風姿華伝条々  以上

干時応永七年、卯月十三日 従五位下左衛門大夫秦元清 書

第四 神儀に云う
 一、申楽、神代の初まりといふは、天照大神、天の岩戸にこもりたまひし時、天下とこやみになりしに、八百万 の神達、天香具山に集まり、大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男をはじめたまふ。なかにも、天鈿女のみ こすすみい出たまひて、榊の枝に幣をつけて、声をあげ、火処焼踏みとどろかし、神がかりとす、うたひ舞ひかな でたまふ。その御声、ひそかに聞こえければ、大神、岩戸をすこし開きたまふ。国土また明白たり。神達の御面、 白かりけり。その時の御遊び、申楽の初めと云々。くはしくは、口伝にあるべし。

 一、仏在所には、須達長者、祇園精舎を建てて供養のとき、釈迦如来御説法ありしに、堤婆、一万人の外道をと もなひ、木の枝・篠の葉に幣をつけて、踊りさけめば、御供養のべがたかりしに、仏、舎利弗に御目を加へたまへ ば、佛力を受け、御後戸にて、鼓・唱歌をととのへ、阿難の才覚、舎利弗の知恵、富楼那の弁舌にて、六十六番の ものまねをしたまへば、外道、笛、鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。そのひまに、如来、 供養をのべたまへり。それより天竺にこの道は初まるなり。

 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。
 かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。この芸をば子孫に伝へて、化人跡を 止めぬによりて、摂津国浪速の浦より、うつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。 浦人船をあげて見れば、形人間に変われり。諸人につきたたりて奇瑞をなす。すなはち神と崇めて国豊かなり。大 きに荒るると書きて、大荒大明神と名附く。今の代に霊験あらたなり。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、 守谷の逆臣をたいらげたまひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守谷は失せぬと云々。

 一、平の都にしては、村上天皇の御宇に、昔の上宮太子の御筆の申楽延年の記を叡覧なるに、まづ、神代・仏在 所の初まり、月氏・震旦・日域に伝はる狂言綺語をもて、賛仏・転法輪の因縁を守り、魔縁をしりぞけ、福祐をま ねく。申楽舞を奏すれば、国おだやかに、民しづかに、寿命長遠なり。太子の御筆あらたなるに因て、村上天皇、 申楽をもて、天下の御祈祷たるべきとして、そのころ、かの河勝、この申楽の芸を伝ふる子孫、秦氏安なり。六十 六番の申楽を紫宸殿にてつかまつる。そのころ、紀の権の守と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が、 妹聟なり。これをもあひともなひて申楽をす。
 その後、六十六番までは、一日に勤めがたしとて、そのうちを選びて、稲積の翁 翁面・代継翁 三番申楽 ・ 父尉、これ三つをさだむ。今の代の式三番、これなり。すなはち、法・報・応の三身の如来をかたどりたてまつる ところなり。式三番の口伝、別紙にあるべし。秦氏安より光太郎今春まで、二十九代の縁孫なり。大和国円満井の 座なり。同じく氏安より相伝ふる、聖徳太子の御作の鬼面・春日の御神影・仏舎利、この三つ、この家に伝ふると ころなり。

 一、当代において、南都興福寺の維摩会に、講堂にて法味を行ひたまふをりふし、食堂にて舞延年あり。外道を 和らげ、魔縁をしづむ。すなはち、祇園精舎の吉例なり。しかれば、大和国春日興福寺神事行ひとは、二月二日、 同五日、宮寺において、四座の申楽、一年中の御神事初めなり。天下太平の御祈祷なり。

 一、大和国春日御神事にあひしたがふ申楽四座。
外山 結崎 坂戸 円満井

 一、江州日吉御神事にあひしたがふ申楽三座。
山科 下坂 比叡

 一、伊勢 咒師 二座

 一、法勝寺御修正参勤申楽三座。
河内住 新座 丹波 本座 摂津 法成寺

この三座の内、賀茂・住吉御神事にもあひしたがふ。

第五 奥儀に云う
 そもそも、風姿家伝の条々、おほかた外見のはばかり、子孫の庭訓のため注すといへども、ただ望むところの本 意とは、当世この道のともがらを見るに、芸の嗜みはおろそかにて、非道のみ行じ、たまたま当芸にいたる時も、 ただ一夕の顕証、一旦の名利に染みて、源を忘れて流れを失ふこと、道すでに廃る時節かと、これを嘆くのみなり。
 しかれば、道を嗜み芸を重んずるところ、私なくば、などかその得を得ざらん。ことさら、この芸、その風を続 ぐといへども、自力より出ずるふるまひあれば、語にもおよびがたし。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、 風姿家伝と名附く。
 およそこの道、和州・江州において、風体変れり。江州には、幽玄の境をとりたてて、ものまねを次にして、か かりを本とす。和州には、まづものまねをとりたてて、物数をつくして、しかも、幽玄の風体ならんとなり。しか れども、漏れたるところあるまじきなり。一向の風体ばかりをせん者は、まこと得ぬ人の技なるべし。されば、和 州の風体、ものまね・儀理を本として、あるは長のあるよそほひ、あるは怒れるふるまひ、かくのごとくの物数を 得たるところを、人も心得、嗜みもこれもつぱらなれども、亡父の名を得しさかり、静が舞の能、嵯峨の大念仏の 女物狂のものまね、ことに得たりし風体なれば、天下の褒美、名望を得しこと、世もて隠れなし。これ幽玄無上の 風体なり。
 また、田楽の風体、ことにかくべちのことにて、見所も、申楽の風体には批判にもおよばぬと、みなみな思いな れたれども、近代に、この道の聖とも聞えし本座の一忠、ことにことに物数をつくしけるなかにも、鬼神のものま ね、怒れるよそほひ、もれたる風体なかりけるとこそうけたまはりしか。しかれば、亡父は、つねに、一忠がこと を、わが風体の師なりと、正しく申ししなり。
 されば、ただひとごとに、あるは情識、あるは得ぬゆゑに、一向きの風体ばかりを得て、十体にわたるところを 知らで、他所の風体をきらふなり。これは、きらふにはあらず、ただかなはぬ情識なり。されば、かなはぬゆゑに、 一体得たるほどの名望を、一旦は得たれども、久しき花なければ、天下に許されず。堪能にて、天下の許されを得 んほどの者は、いづれの風体をするとも、おもしろかるべし。風体・形木は面々各々なれども、おもしろきところ は、いづれにもわたるべし。このおもしろと見るは、花なるべし。これ、和州・江州、また、田楽の能にも、漏れ ぬところなり。されば、漏れぬところを持ちたるしてならでは、天下の許されを得んことあるべからず。
 またいふ、ことごとく物数をきはめずとも、仮令、十分に七八分きはめたらん上手の、そのなかにことに得たる 風体を、わが門弟の形木にしきはめたらんが、しかも工夫あらば、これまた、天下の名望を得つべし。さりながら、 実には、十分に足らぬところあらば、都鄙・上下において、見所の褒貶の沙汰あるべし。
 およそ、能の名望を得ること、品々多し。上手は、目不利の心にあひかなふこと難し。下手は、目利の眼にあふ ことなし。下手にて目利の眼にかなはぬは、不審あるべからず。上手、目不利の心に合はぬこと、これは目不利の 眼のおよばぬところなれども、得たる上手にて、工夫あらんしてならば、また目不利の眼にも、おもしろしと見ゆ ように能をすべし。この工夫と達者を極めたらんしてをば、花を究めたるとや申すべき。されば、この位にいたら んしては、いかに年寄たりとも、若き花に劣ることあるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも 許され、また、遠国・田舎の人までも、あまねくおもしろしとは見るべけれ。この工夫を得たらんしては、和州へ も、江州へも、もしくは、田楽の風体までも、人の好み・望みによりて、いづれにもわたる上手なるべし。この嗜 みの本意をあらはさんがため、風姿家伝を作するなり。
 か様に申せばとて、わが風体の形木のおろそかならむは、ことにことに能の命あるべからず。これ弱きしてなる べし。わが風体の形木をきはめてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ。あまねき風体を心にかけん とて、我が形木に入らざらんしては、わが風体を知らぬのみならず、よその風体をも、たしかには、まして知るま じきなり。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風体をも知らぬに同じ かるべし。しかれば、家伝の花の段に、物数をつくし、工夫を極めて後、花の失せぬところをば知るべしと言へり。
 私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法 なるべし。きはめきはめては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり。ことさら、この芸、位をきはめて、家名を 残すこと、これ天下の許されなり。これ寿福増長なり。しかれども、ことに故実あり。上根・上智の眼に見ゆるる ところ、長・位の究まりたるしてにおきては、相応至極なれば、是非なし。およそおろかなるともがら、遠国・田 舎のいやしき眼には、この長・位のあがれる風体、およびがたし。これをいかがすべき。
 この芸とは、衆人愛嬌をもて一座建立の寿福とせり。ゆゑに、あまりにおよばぬ風体のみなれば、また諸人の褒 美かけたり。このため、能に初心を忘れずして、ときに応じところによりて、おろかなる眼にも、実にもと思う様 に、能をせむこと、これ寿福なり。よくよくこの風俗のきはめを見るに、貴所・山寺・田舎・遠国・諸社の祭礼に いたるまで、おしなべてそしりを得ざらんを、寿福達人のしてとは申すべきや。されば、いかなる上手なりとも、 衆人愛嬌かけたるところあらむをば、寿福増長のしてとは申しがたし。しかれば、亡父は、いかなる田舎・山里の かたほとりにても、その心を受けて、ところの風儀を一大事にかけて、芸をせしなり。
 か様に申せばとて、初心の人、それほどはなにとて左右なくきはむべきとて、退屈の儀はあるべからず。この条 々を心底にあてて、そのことわりをちちととりて、料簡をもて、わが分力にひきあはせて、工夫をいたすべし。
 およそ、いまの条々工夫は、初心の人よりは、なほ上手におきて、故実・工夫なり。たまたま得たる上手になり たるしても、身をたのみ、名に化かされて、この故実なくて、いたづらに、名望ほどは寿福かけたる人おきゆゑに、 これを嘆くなり。得たるところあれども、工夫なくてはかなはず。得て工夫をきはめたらんは、花に種を添へたら んがごとし。たとひ、天下に許されを得たるほどのしても、力なき因果にて、万一少し廃るる時分ありとも、田舎・ 遠国の褒美の花失せずば、ぷつと道の絶ふることはあるべからず。道絶えずば、また天下の時にあふことあるべし。

 一、この寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間のことわりにかかりて、もし、欲心に住せば、これ第一道 の廃るべき因縁なり。道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のための嗜みには、道正にすたるべし。 道すたらば、寿福おのづから滅すべし。正直円明にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと、嗜むべし。
 およそ、花伝のうち、年来の稽古より初めて、この条々を注すところ、全く自力より出づる才学ならず。幼少よ り以来、亡父の力を得て、人となりしより二十余年が間、目にふれ、耳に聞きおきしまま、その風を受けて、道の ため、家のため、これを作するところ、私にあらむものか。

第六 花修に云う
 一、能の本を書くこと、この道の命なり。きはめたる才学の力なけれども、ただ工によりて、よき能にはなるも のなり。おほかたの風体、序・破・急の段に見えたり。ことさら、脇の申楽、本説正しくて、開口より、そのいは れと、やがて人の知るごとくならんずる来歴を書くべし。さのみにこまかなる風体をつくさずとも、おほかたのか かり、直に下りたらんが、さしよりはなばなとある様に、わきの申楽をば書くべし。また、番数にいたりぬれば、 いかにもいかにも、ことば・風体をつくして、こまかに書くべし。
 仮令、名所・旧跡の題目ならば、そのところによりたらんずる詩歌のことばの、耳近からんを、能の詰めどころ によすべし。しての、ことばにも風情にもかからざらんところには、肝要のことばをばのすべからず。なにとして も、見物衆は、見るところも、聞くところも、上手ならでは心にかけず。さるほどに、棟梁のおもしろきことば・ 振り、目にさえぎり、心に浮かめば、見聞く人、すなはち感を催すなり。これ、第一能を作るてだてなり。ただ、 優しくて、ことわりのすなはちに聞ゆる様ならんずる詩歌のことばをとるべし。優しきことばを、ふりに合はすれ ば、不思議に、おのづから、人体も幽玄の風情になるものなり。強りたることばは、ふりに応ぜず。しかあれども、 強きことばの耳遠きが、またよきところあるべし。それは、本義の人体によりて、似合うべし。漢家・本朝の来歴 にしたがつて、心得分くべし。ただいやしく俗なることば、風体悪き能になるものなり。
 しかれば、よき能と申すは、本説正しく、めづらしき風体にて、詰めどころありて、かかり幽玄ならんを、第一 とすべし。風体は珍しからねども、わづらはしくもなく、直に下りたるが、おもしろきところあらんを、第二とす べし。これは、おほよその定めなり。ただ能は、一風情、上手の手にかかり、頼りだにあらば、おもしろかるべし。 番数をつくし、日を重ぬれば、たとひ悪き能も、珍しくしかへしかへ色取れば、おもしろく見ゆべし。されば、能 は、ただ時分・入れ場なり。悪き能とて捨つべからず。しての心づかひなるべし。
 ただし、ここに様あり。善悪にすまじき能あるべし。いかなるものまねなればとて、仮令、老尼・姥・老僧など の形して、さのみ狂ひ怒ることあるべからず。また、怒れる人体にて、幽玄のものまね、これ同じ。これをまこと のえせ能行粧とは申すべし。この心、二の巻きの物狂ひの段に申したり。
 また、一切のことに相応なくば、成就あるべからず。よき素材の能を、上手のしたらんが、しかもいできたらん を、相応とは申すべし。されば、よき能を上手のせんこと、などかいできざらんと、みな人思ひなれたれども、不 思議にいでこぬことあるものなり。これを、目利き見分けて、してのとがもなきことを知れども、ただおほかたの 人は、能も悪く、してもそれほどにはなしと見るなり。そもそも、よき能を上手のせんこと、なにとていでこぬや らんを工夫するに、もし、時分の陰陽の和せぬとことか、または、花の公案なきゆえか、不審なほ残れり。

 一、作者の思ひ分くべきことあり。ひたすらしづかなる素材の、音曲ばかりなると、また、舞・はたらきのみな るとは、一向きなれば、書きよきものなり。音曲にてはたらく能あるべし。これ一大事なり。真実おもしろしと感 をなすは、これなり。聞くところは耳近に、おもしろきことばにて、節のかかりよくて、文字うつりの美しき続き たらんが、ことさら、風情を持ちたる詰めを嗜みて書くべし。この数々相応するところにて、諸人一同に感をなす なり。
 さるほどに、細かに知るべきことあり。風情を博士にて音曲をするしては、初心のところなり。音曲よりはたら きの生ずるは、劫入りたるゆゑなり。音曲は聞くところ、風体は見るところなり。一切のことは、いはれを道にし てこそ、万の風情にはなるべきことなれ。いはれを現はすことばなり。さるほどに、音曲は体なり。風情は用なり。 しかれば、音曲よりはたらきの生ずるは、順なり。はたらきにて音曲をするは、逆なり。諸道・諸事において、順 ・逆とこそ下るべけれ。逆・順とはあるべからず。かへすがへす、音曲のことばの便りをもて、風体を色取りたま ふべきなり。これ音曲・はたらき、一心になる稽古なり。
 さるほどに、能を書くところにまた工夫あり。音曲よりはたらきを生ぜさせんがため書くところをば、風情を本 に書くべし。風情を本に書きて、さて、そのことばを謡ふ時には、風情おのづから生ずべし。しかれば、書くとこ ろをば、風情をさきだてて、しかも、謡ひの節かかりよき様に嗜むべし。さて、当座の芸能に入りたるときは、ま た音曲をさきとすべし。か様に嗜みて、劫入りぬれば、謡ふも風情、舞ふも音曲になりて、万曲一心たる達者とな るべし。これまた、作者の功名なり。

 一、能に、強き・幽玄・弱き・荒きを知ること、おほかたは見えたることなれば、たやすき様なれども、真実、 これを知らぬによりて、弱き荒きして多し。まづ、一切のものまねに、いつはるところにて、荒くも弱くもなると 知るべし。このさかひ、よきほどの工夫にてはまぎるべし。よくよく心底を分けて、案じをさむべきことなり。
 まづ、弱かるべきことを強くするは、いつはりなれば、これ荒きなり。強かるべきことに強きは、これ強きなり。 荒きにはあらず。もし、強かるべきことを幽玄にせんとて、ものまね似足らずば、幽玄にはなくて、これ弱きなり。 さるほどに、ただものまねにまかせて、その物になりいりて、いつはりなくば、荒くも弱くもあるまじきなり。ま た、強かるべきことわり過ぎて強きは、ことさら荒きなり。幽玄の風体よりなほやさしくせんとせば、これ、こと さら弱きなり。
 この分目をよくよく見るに、幽玄と強きと、別にあるものと心得るゆゑに、迷ふなり。この二つは、そのものの 体にあり。たとへば、人においては、女御・更衣、または、優女・好色・美男・草木には花のたぐひ。か様の数々 は、その形、幽玄のものなり。また、あるは、武士・荒夷、あるひは、鬼・神、草木にも、松・杉、か様の数々の たぐひは、強きものと申すべきか。
 か様の万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄のものまねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この 分見をばあてがはずして、ただ、幽玄にせんとばかり心得て、ものまねおろそかなれば、それに似ず。似ぬをば知 らで、幽玄にするぞと思ふ心、これ弱きなり。されば、優女・美男などのものまねを、よく似せたらば、おのづか ら幽玄なるべし。また、強きことをもよく似せたらんは、おのづから強かるべし。
 ただし、心得うべきことあり。力無く、この道は、見所を本にするわざなれば、その当世当世の風儀にて、幽玄 をもてあそぶ見物衆の前にては、強きかたをば、すこしものまねにはづるるとも、幽玄の方へはやらせたまふべし。
 この工夫をもて、作者また心得べきことあり。いかにも申楽の素材には、幽玄ならん人体、まして、心・ことば をも、やさしからんを嗜みて書くべし、それにいつはりなくば、おのづから幽玄のしてと見ゆべし。幽玄のことわ りを、知りきはめぬれば、おのれと強きところをも知るべし。されば、一切の似せごとをよく似すれば、よそめに 危うきところなし。危うしからぬは強きなり。しかれば、ちちとあることばの響きにも、なびき・ふす・返へる・ よるなどといふことばは、やはらかなれば、おのづから世情になる様なり。落つる・くづるる・破るる・まろぶな ど申すは、強き響きなれば、ふりも強かるべし。さるほどに、強き・幽玄と申すは、別にあるものにあらず。ただ、 ものまねの直ぐなるところ、弱き・荒きは、物真似にはづるるところと知るべし。
 このあてがひをもて、作者も、発端の句・一声・和歌などに、人体のものまねによりて、いかにも幽玄なる世情 ・便りを求むるところに、荒き言葉を書き入れ、思ひのほかに、いりほがなる梵語・漢音などを、のせたらんは、 作者のひがごとなり。さだめて、ことばのままに風情をせば、人体に似合はぬところあるべし。ただし、堪能の人 は、この違ひめを心得て、(興)がる故実にて、なだらかなる様にしなすべし。それは、しての功名なり。作者の ひがごとはのがるべからず。また、作者は心得て書けども、もし、しての心なからんにいたりては、沙汰のほかな るべし。これはかくのごとし。
 また、能によりて、さしてこまかに、ことば・儀理にかからで、大様にすべき能あるべし。さ様の能をば、直ぐ に舞うたひ、ふりをも、するするとなだらかにすべし。か様なる能を、また、こもかにするは、下手のわざなり。 これまた、能のさがるところと知るべし。
 しかれば、よきことば・余情を求むるも、儀理・詰めどころのなくてはかなはぬ能にいたりてのことなり。直ぐ なる能には、たとひ、幽玄の人体にて、強きことばを謡ふとも、音曲のかかりだにたしやかならば、これよかるべ し。これすなはち、能の本様と心得べきことなり。ただかへすがへす、か様の条々をきはめつくして、さて、大様 にするならでは、能の庭訓あるべからず。

 一、能の善き・悪しきにつけて、しての位によりて、相応のところを知るべきなり。文字・風体を求めずして、 大様なる能の、本説ことに正しくて、大きに位のあがれる能あるべし。か様なる能は、みどころさほどこまかにな きことあり。これには、善きほどの上手も、似合はぬところあり。たとひ、これに相応するほどの、無上の上手な りとも、また、目利・体所にてなくば、よくいでくることあるべからず。これ、能の位・しての位・目利・在所・ 時分、ことごとく相応せずば、いでくることは左右なくあるまじきなり。
 また、小いさき能の、さしたる本説にはなけれども、幽玄なるが、ほそぼそとした能あり。これは、初心のして にも似合ふものなり。在所も、自然、かたほとりの神事、夜などの庭に、相応すべし。よきほどの見手も、能のし ても、これに迷ひて、自然、田舎・小所の庭にて、おもしろければ、その心ならひにて、おし出したる大所・貴人 の御前などにて、あるは、ひいき興行して、思ひのほかに能悪ければ、してにも名を折らせ、われも面目なきこと あるものなり。
 しかれば、か様なる品々・所々を限られ、甲・乙なからんほどのしてならでは、無上の花をきはめたる上手とは 申すべからず。さるほどに、いかなる座敷にも相応するほどの上手にいたりては、是非なし。また、してによりて、 上手ほどは能を知らぬしてあり。能よりは能を知るもあり。貴所・太所などにて、上手なれども、能をし違へ、ち ちのあるは、能を知らぬゆゑなり。また、それほどに達者にもなく、もの少ななるしての、申さば初心なるが、大 庭にても花失せず、諸人の褒美いやましにて、さのみにむらのなからんは、してよりは能を知りたるゆゑなるべし。
 さるほどに、この両様のしてを、とりどりに申すことあり。しかれども、貴所・大庭などにてあまねく能のよか らんは、名望長久なるべし。さあらんにとりては、上手の、達者ほどはわが能を知らざらんよりは、すこし足らぬ してなりとも、能を知りたらんは、一座建立の棟梁にはまさるべきか。能を知りたるしては、わがてがらの足らぬ ところをも知るゆゑに、大事の能に、かなはぬことを斟酌して、得たる風体ばかりを先き立てて、したてよければ、 見所の褒美かならずあるべし。さて、かなはぬところをば、小所・片辺の能にしならふべし。か様に稽古すれば、 かなはぬところも、劫入れば、自然自然に、かなふ時分あるべし。さるほどに、つひには、能にかさもいでき、垢 も落ちて、いよいよ名望も一座も、繁昌する時は、さだめて、年ゆくまで、花は残るべし。これ、初心より能を知 るゆゑなり。能を知る心にて、公案をつくして見れば、花を知るべし。しかれども、この両様は、あまねく人の心 々にて、勝負をば定めたまふべし。

花修 已上

この条々こころざしの芸人よりほかは一見をも許すべからず。 世阿(花押)

第七 別紙口伝
 一、この口伝に、花を知ること。まづ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。 そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそ ぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづら しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきな り。能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。
 ただし、様あり。めづらしきといへばとて、世になき風体をしいだすにてはあるべからず。花伝にいだすところ の条々を、ことごとく稽古し終わりて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひてとりいだすべし。花と 申すも、万の草木において、いづれか四季をりふしの、時の花のほかに、めづらしき花のあるべき。そのごとくに、 習ひおぼえつる品々をきはめぬれば、時をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体をとりい だす。これ時の花の咲くを見んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと見し風体なれども、物数をき はめぬれば、その数をつくすほど久し。久しくて見れば、まためづらしきなり。その上、人の好みも色々にして、 音曲・ふるまひ・ものまね、所々に変りてとりどりなれば、いづれの風体をも残してはかなふまじきなり。しかれ ば物数をきはめつくしたらんしては、初春の梅より秋の菊の花の咲きはつるまで、一年中の花の種を持ちたらんが ごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うこ とあるべし。たとへば、春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらんし てが、夏草の花はなくて、過ぎし春の花を、また持ちていでたらんは、時の花に合ふべしや。
 これにて知るべし。ただ、花伝の花の段に、「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべ し。」とあるは、この口伝なり。されば、花とて別にはなきものなり。物数をつくして、工夫を得て、めづらしき 感を心得るが花なり。「花は心、種は態。」と書けるもこれなり。ものまねの鬼の段に、「鬼ばかりをよくせん者 は、鬼のおもしろきところをも知るまじき。」とも申したるなり。物数をつくして、まためづらしくしいだしたら んは、めづらしきところ、花なるべきほどに、おもしろかるべし。余の風体はなくて、鬼ばかりをする上手と思は ば、よくしたりとはみゆるとも、めづらしき心あるまじければ、見どころに花はあるべからず。「巌に花の咲かん がごとし。」と、申したるも、鬼をば、強く恐ろしく、肝を消す様にするならでは、およその風体なし。これ巌な り。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひなれたるところに、思ひのほかに鬼をす れば、めづらしく見ゆるところ、これ花なり。しかれば、鬼許りをせんずるしては、巌ばかりにて、花はあるべか らず。

 一、こまかなる口伝に曰く、音曲・舞・はたらき・ふり・風情、これまた同じ心なり。これ、いつもの風情・音 曲なれば、さ様にぞあらんずらんと、人の思ひなれたるところを、さのみに住せずして、心根に、同じふりながら、 もとよりは、かるがると、風体を嗜み、いつもの音曲なれども、なほ故実をめぐらして、曲を色取り、声色を嗜み て、さが心にも、いまほどに執することなしと、大事にして、このわざをすれば、見聞く人、つねよりもなほおも しろしなど、批判に合ふことあり。これは、見聞く人のため、珍しき心にあらずや。
 しかれば、同じ音曲・風情をするとも、上手のしたらんは、別におもしろかるべし。下手は、もとより習ひおぼ えつる節博士の分なれば、珍しき思ひなし。上手と申すは、同じ節かかりなれども、曲を心得たり。曲といふは、 節の上の花なり。同じ上手、同じ花のうちにても、無上の公案をきはめたらんは、なほ且つ花を知るべし。およそ、 音曲にも、節は定まれる形木、曲は上手の者なり。舞にも、手は習へる形木、しなかかりは、上手のものなり。

 一、ものまねに、似せぬ位あるべし。ものまねをきはめて、そのものに、まことになり入りぬれば、似せんと思 ふ心なし。さるほどに、おもしろきところばかりを嗜めば、などか花なかるべき。たとへば、老人のものまねなら ば、得たらん上手の心には、ただ素人の老人が、風流・延年なんどに身を飾りて、舞ひかなでんがごとし。もとよ りおのが身が年寄ならば、年寄に似せんと思ふ心はあるべからず。ただ、その時の、ものまねの人体ばかりをこそ 嗜むべけれ。
 べちにまた、老人の、花はありて、年寄と見ゆる口伝といふは、まづ、善悪、老じたる風情をば、心にかけまじ きなり。そもそも、舞・はたらきと申すは、万に、楽の拍子に合はせて、足を踏み、手を指し引き、ふり・風情を、 拍子にあててするものなり。年寄ぬれば、その拍子のあてどころ、太鼓・歌・鼓の頭よりは、ちちとおそく足を踏 み、手をも指し引き、およそのふり・風情をも、拍子にすこし遅るる様にあるものなり。この故実、なによりも、 年寄の形木なり。このあてがひばかりを心中に持ちて、そのほかをば、ただよのつねに、いかにもいかにも花やか にすべし。まづ、仮令も、年寄の心には、なにごとをも若くしたがるものなり。さりながら、力なく、五体も重く、 耳も遅ければ、心はゆけども、ふるまひのかなはぬなり。このことわりを知ること、真のものまねなり。わざをば、 年寄の望みのごとく、若き風情をすべし。これ年寄の、若きことをうらやめる心・風情を学ぶにてはなしや。年寄 は、いかに若ふるまひをするとも、この拍子に遅るることは、力なく、かなはぬことわりなり。年寄の若振舞、珍 しきことわりなり。老木に花の咲かんがごとし。

 一、能に十体を得べきこと。十体を得たらんしては、同じことを一廻々々づつするとも、その一通りの間、久か るべければ、めづらしかるべし。十体を得たらん人は、そのうちの故実・工夫にては、百色にもわたるべし。まづ、 五年・三年のうちに、一遍づつも、珍しくしかふるようならんずるあてがひを持つべし。これは大きなる安立なり。
 または、一年のうち、四季折節をも心にかくべし。また、日を重ねたる申楽、一日のうちは申すにおよばず、風 体の品品を色取るべし。か様に大行よりはじめて、ちちとあることまでも、自然々々に心かくれば、一期花は失せ まじきなり。
 またいふ、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。年々去来の花とは、たとへば、十体とはものま ねの品品なり。年来去来とは、幼かりし時のよそほい、初心の時分のわざ、手盛りのふるまひ、年寄りての風体、 この時分時分の、おのれと身にありし風体を、みな当芸に、一度に持つことなり。ある時は、児・若族の能かと見 え、ある時は、年盛りのしてかとおぼえ、または、いかほどにも、らふたけて劫入りたるように見えて、同じ主と も見えぬ様に能をすべし。これすなはち、幼少の時より老後までの芸を、一度に持つことわりなり。さるほどに、 年々去りきたる花とは言へり。
 ただし、この位にいたれるして、上代・末代に、身も聞きもおよばず。亡父の和歌盛りの能こそ、らふたけたる 風体、ことに得たりけると聞きおよびしか。四十有余の時分よりは身なれしことなれば疑ひなし。自然孤児の物真 似、高座の上にてのふるまひを、時の人、十六・七の身体に見えしなんど、沙汰ありしなり。これは正しく人も申 し、身にも見えしことなれば、この位に相応したりし達者かとおぼえしなり。か様に、若き時分には、行末の年々 去来の風体を得、年寄りては、過ぎし方の風体身に残すして、二人とも、見も聞きもおよばざりしなり。されば、 初心よりの以来の、芸能の品々を忘れずして、その時々用々に従てとりいだすべし。若くては年寄の風体、年寄り ては、盛りの風体を残すこと、めづらしきにあらずや。
 しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら、花の種を失ふなるべし。その 時々にありし花のままにて、種なければ、手折る枝の花のごとし。種あらば、年々時々のころに、などか逢はざら ん。ただかへすがへす、初心を忘るべからず。されば、つねの批判にも、若木してをば、早く上がりたる、劫入り たるなど誉め、年寄りたるをば、若やぎたるなど、批判するなり。これ、めづらしきことわりならずや。十体のう ちを色取らば、百色にもなるべし。その上に、年々去来の品々を、一心当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。

 一、能に、万用心を持つべきこと。仮令、怒れる風体にせん時は、柔かなる心を忘るべからず。これいかに怒る とも、荒かるまじきてだてなり。怒れるに、柔かなる心を持つこと、めづらしきことわりなり。また、幽玄の物真 似に、強きことわりを忘るべからず。これ、一切、舞・はたらき・ものまね、あらゆることに住せぬことわりなり。 また、身をつかふうちにも、心根あるべし。身を強く動かすときは、足踏をぬすむべし。足を強く踏むときは、身 をばしづかに持つべし。これは、筆に見えがたし。相対しての口伝なり。

 一、秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花な り。そもそも、一切のこと、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘することにおいて大用かるがゆゑなり。 しかれば、秘事といふことを現はせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人 は、いまだ秘事といふことの大用知らぬがゆゑなり。まづ、この花の口伝におきても、ただ、珍しき、花ぞと、み な人知るならば、さては、めづらしきことあるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひめづらしきこと をするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、しての花にはなるべ けれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかに、おもしろき上手とばかり見て、これは、花ぞとも知らぬが、しての 花なり。さるほどに、人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。
 たとへば、弓矢の道のてだてに、強敵にも勝つことあり。これ負くるかたの目には、めづらしきことわりに、化 されて、敗らるるにてはあらずや。これ一切の事、諸道芸において、勝負に勝つことわりなり。か様のてだても、 こと落居して、かかる謀よと知りぬれば、その後はたやすけれども、未だ知らざりつるゆゑに負くるなり。
 さるほどに、秘事とて、一つをばわが家に残すなり。ここをもて知るべし。たとへ、現さずとも、かかる秘事を 知れる人よとも、人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵人油断せずして、用心を持てば、却て敵に 心を附くる相なり。敵方用心をせぬ時は、こなたの勝つこと、なほたやすかるべし。人に油断をさせて、勝つこと を得るは、珍しきことわり大用なるにてはあらずや。さるほどに、さが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯 の主になる花とす。秘すれば花、秘せぬは花なるべからず。

 一、因果の花を知ること。極めなるべし。一切みな因果なり。初心よりの芸能の数々は因なり。能を究め、名を 得ることは果なり。しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果をはたすことも難し。これをよくよく知る べし。
 また、時分をもおそるべし。去年盛りあらば、今年の花なかるべきことを知るべし。時の間にも、男時・女時と てあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、かならず悪きこと、またあるべし。これ力なき因果なり。これ を心得て、さのみ大事になからん時の申楽には、立会勝負に、それほど我意執を起こさず、骨をも折らず、勝負に 負くるとも、心にかけず、手をたばいて、すくなすくなと能をすれば、見物衆も、これはいか様なるぞと、思ひさ めたるところに、大事の申楽の日、てだてを変へて、得手の能をして、精励をいだせば、これまら、見る人の、思 ひのほかなる心いでくれば、肝要の立会、大事の勝負に、さだめて勝つことあり。これ、めづらしき大用なり。こ のほど悪かりつる因果にまた善きなり。
 およそ、三日に三庭の申楽あらん時は、さしよりの一日なんどは、手をたばいてあひしらひて、三日のうちに、 ことに折角の日とおぼしからん時、善き能の、得手に向きたらんを、丹精をいだしてすべし。一日のうちにても、 立会なんどに、自然、女時にとりあひたらば、始めをば、手をたばいて、敵の男時、女時に下る時分、善き能をも みよせてすべし。その時分また、こなたの男時にかへる時分なり。ここにて能よくいできぬれば、その日の第一と すべし。
 この男時・女時とは、一切の勝負に、さだめて一方色めきて、よき時分になることあり。これを男時と心得べし。 勝負の物数久しければ、両方へ移り変りうつりかはりすべし。あるものに曰く、「勝負神とて、勝つ神・負つ神、 勝負の座敷を定めて、守らせたまふべし。弓矢の道に、宗と秘することなり。」敵方の申楽よくいできたらば、勝 神彼方にましますと心得て、まづおそれをなすべし。これ、時の時の因果の二神にてましませば、両方へ移り変り うつりかはりて、またわがかたの時分になると思はん時に、たのみたる能をすべし。これすなはち、座敷のうちの 因果なり。かへすがへす、おろそかに思ふべからず。信あれば、徳あるべし。

 一、そもそも、因果とて、善き悪しき時のあるも、公案をつくして見るに、ただめづらしき・めづらしからぬの 二つなり。同じ上手にて、同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくも なき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。その後、 また善き時のあるは、さきに悪かりつるものをと思ふ心、また珍しきにかへりて、おもしろくなるなり。
 されば、この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと 知るならでは、花はあるべからず。経に曰く「善悪不二、邪正一如。」とあり。本来より、善き悪しきとは、なに をもて、さだむべきや。ただ時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす。この風体の品 々も、当世の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりてとりいだす風体、これ用足るための花なるべ し。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ人々心心のはななり。いづれをまこと とせんや。ただ、時に用ゆるをもて花と知るべし。

 一、この別紙の口伝・当芸において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりといふとも、不器量の者 には伝ふべからず。「家家にあらず、続くをもて家とす。人人にあらず、知るをもて人とす。」といへり。これ、 万徳了達の妙花をきはむるところなるべし。

 一、この別紙の条々、先年弟四郎相伝するといへども、元次、芸能感人たるによて、これをまた伝ふるところな り、これを秘し伝ふ。

応永廿五年六月一日   世(花押)