国体の本義!日本の国体についての再考 その1

今回は、日本の国体に関する正統的解釈書として文部省より1937年(昭和12)に初版刊行され、戦後GHQによって禁書とされた書物『国体の本義』を元に、そこで明らかにしようとしたものを整理してみたいと思います。
当時禁書扱いとなった上に、そもそも本のタイトルに”国体”と刷り込まれているので、一見すると誰もが右傾化した国粋主義者のテキストなのでは、と思われてしまうかもしれませんが、それは全くの誤りです。

そのために、まず”国体”とは何かということをきちんと理解しておかなければなりません。

”国体”とは、国家を成り立たせる根本原理のことで、歴史と伝統によって培われた「国柄」「国のかたち」「日本らしさ」「日本という国の核心」といった意であり、文字だけでは表しきれない「目に見えない憲法」としての、国家の軸やあり方、精神性といったものです。
これは別に日本に限った話しではなく、憲法(国体、国柄、国のかたち)というのは、その国民が培われた歴史の中で脈々と受け継がれ、無意識に感じて共有している慣習ともいえるもので、それを培う歴史なしには成り立たないものです。
こうした”国体”を培う歴史がなかったり、国家や社会が危機的状況に陥ったときには、必要なことを文字に記して「成文憲法」として表明せねばなりませんが、日本でも過去に聖徳太子の十七条の憲法、五箇条の御誓文、大日本国憲法、教育勅語、そして日本国憲法がその役目を負っていた訳です。
しかし、日本という国は、あえて文字でこうしたことを記さずともしっかりと”国体”を為して成立してきたことは、歴史が証明しています。
※)ちなみに慣習法の伝統が定着してきたイギリスや帰還法と同朋意識の規定で維持してきたイスラエルには「成文憲法」自体がありませんが、それでも長い歴史を経て国家として成立しています。
ですので、まずは”国体”というものを改めて再認識する時期に来ていると感じるのです。

近年、憲法改正がさかんに唱えられていますが、国家を成り立たせる根本原理としての”国体”というものをきちんと理解できていないまま、目前の国防の危険性だけを振りかざして憲法を改正しても、それは日本の国としての魂を入れないままの場当たり的な対処にしかならず、時を経て瓦解することは自明です。
日本人とは何であり、日本の国家と社会の特質とは何であるのかということを十分理解し、歴史からの学びを図りながら論議をしっかりと重ね、その上で国民の信任合意を得る手順を踏んでいくことを、私達ひとりひとりが理解する必要があるのだと考えるのです。

そもそも『国体の本義』の目的は、1930年代当時(第一次大戦後~第二次大戦前)の不安定な世界情勢の中で、ファシズムや共産主義が日本に流入することを防ぐと共に、日本の国力を強化して世界で生き残っていく方策を探ることにありました。
当時の日本は、明治維新以来急激な西洋文明の流入に伴って、日本本来の文化や国のあり方、方向性を見失ってしまったために国の力が弱まっていたことから、「日本とは、そもそもどのような国か」を明らかにしようとしたものです。
かといって、極端な右翼思想に傾倒するのではなく、どうやって欧米の歴史を踏まえて日本は近代化していくのか、日本に欧米の民主主義とか科学的な思考法といった考え方をどうやって土着化させるか(=習合、調和させるか)を必死に考えているのです。
そうした意味では、『国体の本義』は哲学としてのレベルが高く、戦後忘れられてきた精神史として、日本という国はこれほどまでの思想のバックボーンに裏打ちされていたのだ、ということに改めて気付かせてくれます。

日本は、寛容と多元性に基づいて生産(むす、産すこと)を機軸にした思想から成ってきましたし、そこに日本拠り所があります。
なぜなら、日本の成り立ちは高天原と天照大御神の神勅に基づいた祭祀共同体であり、その根本原理にあるのは高天原のムスビの思想、稲作を中心とした農業生産を原点とし、それは現在のあらゆるものづくりに結実しているからです。
しかし、”国体”が見失われてきた現代の日本は、自由と言いながらも見えない精神的な枷のために思想・思索を思うように展開する力を失い、日本社会としての「国柄」「国のかたち」「日本らしさ」「日本という国の核心」がどんどん崩されています。
なぜ、このような状況に陥ってしまっているのでしょうか。

アメリカは戦後占領時に日本を徹底的に研究し、弱体化させ解体するために、GHQの方針に反する(=日本を保守しようとした)政治家、官僚、言論人、教職者、財界人ら20万人以上を公職追放しただけでなく、徹底した言論統制を敷いて日本人を洗脳していきました。
その一環として7000冊以上の歴史書などの書物が焚書・禁書とし、日本人の記憶と精神性を消し去ろうとしたのです。
その中で、日本の精神的機軸として存在していた『国体の本義』に見られる「まこと」を取り去ることにも腐心してきたのですが、こうした大事な拠り所をひとつふたつと失っていった結果、現代の日本仁は精神的な漂流状態に至っていると思われるのです。

では『国体の本義』が目指したのはどういったものでしょうか。

明治維新後の日本は、西洋に学べ!とばかりに外来のあらゆる知識を受け入れていきました。
しかし、急激に西洋思想を飲み込んでいったために、うまく消化できなかったり、体質に合わなかったりで、徐々に日本の国体、国柄が歪んでいきました。
そこで、和魂漢才、和魂洋才を為すためには、和魂の基軸となる”国体”を今一度ここで再確認しておきましょう、と説いた訳です。

啓蒙主義がもたらした合理主義、実証主義、新自由主義は、人はバラバラな個体であり、個体(個人、企業)が市場で競争して得られた結果が、社会にとって最も好ましいという発想です。
しかし、そこには日本が古来より培ってきた個体を超える共同体という考えはなく、個体が集合してもそれは単に利益に基づくもので、他の個体に対しても競争で勝利すればよいという構えは変わらず、いつでも離散可能なものでしかありえません。
『国体の本義』では、こうした利己的個人主義に拠るのではなく、自己の能力を他者のために用いる気構えを持つことが共同体を強くすることで、結果寛容で包容力のある強い社会を作ることができると説いているのです。

”カネがすべて””個人がすべて”という発想では日本の大切な共同体社会が崩され、歴史と伝統に培われた「国柄」「国のかたち」「日本らしさ」「日本という国の核心」といった”国体”を喪失するばかりです。
こうした危機に気付くこと、その上で何を寄り所にすべきかをきちんと理解・認識することが肝要な時代に来ています。

こうした観点をもって、『国体の本義』を見直してみてはいかがでしょうか。
ご一考ください。

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以下参考までに、一部抜粋です。

【国体の本義 原文一部抜粋】

一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。
一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。
一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。

目次

緒言
第一 大日本国体
 一、肇国
 二、聖徳
 三、臣節
 四、和と「まこと」

国体の本義

緒言

我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。
併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。
現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。
我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。
抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。

第一 大日本国体

一、肇国

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかま)ノ原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)ノ神、次に高御産巣日(たかみむすび)ノ神、次に神産巣日(かみむすび)ノ神、この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)成りまして、身(みみ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
天(あめ)先づ成りて地(つち)後に定まる。然して後、神聖(かみ)其の中(なか)に生(あ)れます。故(か)れ曰く、開闢之初(あめつちのわかるゝはじめ)、洲壌(くにつち)浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。便ち化為(な)りませる神を国常立(くにのとこたち)ノ尊と号(まを)す。
とある。かゝる語事(かたりごと)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
而して国常立(くにのとこたち)ノ尊を初とする神代七代の終に、伊弉諾(いざなぎ)ノ尊・伊弉冉(いざなみ)ノ尊二柱の神が成りましたのである。古事記によれば、二尊は天ッ神諸々の命(みこと)もちて、漂へる国の修理固成の大業を成就し給うた。即ち、是に天ッ神諸(もろ/\)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐ノ命・伊邪那美ノ命二柱の神に、この漂へる国を修理(つく)り固(かため)成(な)せと詔(の)りごちて、天(あま)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひてことよさしたまひき。
とある。かくて伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二奪は、先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、更にこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた。即ち古事記には、
此の時伊邪那岐ノ命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまはく、吾(あれ)は子(みこ)生み生みて、生みの終(はて)に、三貴子(みはしらのうつのみこ)得たりと詔りたまひて、即ち其の御頚珠(みくびたま)の玉の緒(を)もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、汝(な)が命は高天原を知らせと、ことよさして賜ひき。
とあり、又日本書紀には、
伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊共に議(はか)りて曰(のたまは)く、吾(あ)れ已に大八洲国及び山川草木を生めり、何(いか)にぞ天下(あめのした)の主(きみ)たるべき者を生まざらめやと。是に共に日神(ひのかみ)を生みまつります。大日●(「櫺」の右側の下に「女」)貴(おほひるめのむち)と号(まを)す。(一書に云く、天照大神、一書に云く、天照大日●ノ尊。)此の子(みこ)光華(ひかり)明彩(うるは)しくして六合(あめつち)の内に照徹(てりとほ)らせり。
とある。
天照大神は日神又は大日●貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。即ち天照大神は高天ノ原の神々を始め、二尊の生ませられた国土を愛護し、群品を撫育し、生成発展せしめ給ふのである。
天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、
豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし。
と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。
更に神鏡奉斎の神勅には、
此れの鏡は、専(もは)ら我が御魂(みたま)として、吾が前(みまへ)を拝(いつ)くが如(ごと)、いつきまつれ。
と仰せられてある。即ち御鏡は、天照大神の崇高なる御霊代(みたましろ)として皇孫に授けられ、歴代天皇はこれを承け継ぎ、いつきまつり給ふのである。歴代天皇がこの御鏡を承けさせ給ふことは、常に天照大神と共にあらせられる大御心であつて、即ち天照大神は御鏡と共に今にましますのである。天皇は、常に御鏡をいつきまつり給ひ、大神の御心をもつて御心とし、大神と御一体とならせ給ふのである。而してこれが我が国の敬神崇祖の根本である。
又この神勅に次いで、
思金(おもひかね)ノ神は、前(みまへ)の事を取り持ちて政(まつりごと)せよ。と仰せられてある。この詔は、思金ノ神が大神の詔のまに/\、常に御前の事を取り持ちて行ふべきことを明示し給うたものであつて、これは大神の御子孫として現御神(あまつみかみ)であらせられる天皇と、天皇の命によつて政に当るものとの関係を、儼として御示し遊ばされたものである。即ち我が国の政治は、上は皇祖皇宗の神霊を祀り、現御神(あまつみかみ)として下万民を率ゐ給ふ天皇の統べ治らし給ふところであつて、事に当るものは大御心を奉戴して輔翼の至誠を尽くすのである。されば我が国の政治は、神聖なる事業であつて、決して私のはからひ事ではない。
こゝに天皇の御本質を明らかにし、我が国体を一層明徴にするために、神勅の中にうかゞはれる天壌無窮・万世一系の皇位・三種の神器等についてその意義を闡明しなければならぬ。
天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。
「教育ニ関スル勅語」に「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と仰せられてあるが、これは臣民各々が、皇祖皇宗の御遺訓を紹述し給ふ天皇に奉仕し、大和心を奉戴し、よくその道を行ずるところに実現せられる。これによつて君民体を一にして無窮に生成発展し、皇位は弥々栄え給ふのである。まことに天壌無窮の宝祚は我が国体の根本であつて、これを肇国の初に当つて永久に確定し給うたのが天壌無窮の神勅である。
皇位は、万世一系の天皇の御位であり、たゞ一すぢの天ッ日嗣である。皇位は、皇祖の神裔にましまし、皇祖皇宗の肇め給うた国を承け継ぎ、これを安国と平らけくしろしめすことを大御業とせさせ給ふ「すめらぎ」の御位であり、皇祖と御一体となつてその大御心を今に顕し、国を栄えしめ民を慈しみ給ふ天皇の御地位である。臣民は、現御神にまします天皇を仰ぐことに於て同時に皇祖皇宗を拝し、その御恵の下に我が国の臣民となるのである。かくの如く皇位は尊厳極まりなき高御座であり、永遠に揺ぎなき国の大本である。
高御座に即き給ふ天皇が、万世一系の皇統より出でさせ給ふことは肇国の大本であり、神勅に明示し給ふところである。即ち天照大神の御子孫が代々この御位に即かせ給ふことは、永久に渝ることのない大義である。個人の集団を以て国家とする外国に於ては、君主は智・徳・力を標準にして、徳あるはその位に即き、徳なきはその位を去り、或は権力によつて支配者の位置に上り、権力を失つてその位を逐はれ、或は又主権者たる民衆の意のまゝに、その選挙によつて決定せられる等、専ら人の仕業、人の力のみによつてこれを定める結果となるのは、蓋し止むを得ないところであらう。而もこの徳や力の如きは相対的のものであるから、いきほひ権勢や利害に動かされて争闘を生じ、自ら革命の国柄をなすに至る。然るに我が国に於ては、皇位は万世一系の皇統に出でさせられる御方によつて継承せられ、絶対に動くことがない。さればかゝる皇位にまします天皇は、自然にゆかしき御徳をそなへさせられ、従って御位は益々鞏く又神聖にましますのである。臣民が天皇に仕へ奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、止み難き自然の心の現れであり、至尊に対し奉る自らなる渇仰随順である。我等国民は、この皇統の弥々栄えます所以と、その外国に類例を見ない尊厳とを、深く感銘し奉るのである。
皇位の御しるしとして三種の神器が存する。日本書紀には、
天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵ノ尊に、八坂瓊ノ曲玉及び八咫ノ鏡・草薙ノ剣、三種の宝物を賜ふ。
とある。この三種の神器は、天の岩屋の前に於て捧げられた八坂瓊ノ曲玉・八咫ノ鏡及び素戔鳴ノ尊の奉られた天ノ叢雲ノ剣(草薙ノ剣)の三種である。皇祖は、皇孫の降臨に際して特にこれを授け給ひ、爾来、神器は連綿として代々相伝へ給ふ皇位の御しるしとなつた。従つて歴代の天皇は、皇位継承の際これを承けさせ給ひ、天照大神の大御心をそのまゝに伝へさせられ、就中、神鏡を以て皇祖の御霊代として奉斎し給ふのである。
畏くも、今上天皇陛下御即位式の勅語には、
朕祖宗ノ威霊ニ頼リ敬ミテ大統ヲ承ケ恭シク神器ヲ奉シ茲ニ即位ノ礼ヲ行ヒ昭ニ爾有衆ニ誥ク
と仰せられてある。
而してこの三種の神器については、或は政治の要諦を示されたものと解するものもあり、或は道徳の基本を示されたものと拝するものもあるが、かゝることは、国民が神器の尊厳をいやが上にも仰ぎ奉る心から自ら流れ出たものと見るべきであらう。

二、聖徳

伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固成は、その大御心を承け給うた天照大神の神勅によつて肇国となり、更に神武天皇の御創業となり、歴代天皇の大御業となつて栄えゆくのである。二尊によつて大八洲は生まれ、天照大神の神勅によつて国は肇った。天照大神の御徳を日本書紀には「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」と申し上げてゐる。天皇はこの六合の内を普く照り徹らせ給ふ皇祖の御徳を具現し、皇祖皇宗の御遺訓を継承せられて、無窮に我が国を統治し給ふ。而して臣民は、天皇の大御心を奉体して惟神の天業を翼賛し奉る。こゝに皇国の確立とその限りなき隆昌とがある。
孝徳天皇は、大化三年新政断行後の詔に、
惟神も我が子治さむと故寄させき。是を以て天地の初より君と臨す国なり。
と宣はせられてゐる。
又、今上天皇陛下御即位位式の勅語には、
朕惟フニ我カ皇祖皇宗惟神ノ大道ニ遵ヒ天業ヲ経綸シ万世不易ノ丕基ヲ肇メ一系無窮ノ永祚ヲ伝ヘ以テ朕カ躬ニ逮ヘリ
と仰せられてある。以て歴代の天皇が万世一系の皇位を承け継がせられ、惟神の大道に遵ひ、弥々天業を経綸し給ふ大御心を拝することが出来る。
神武天皇が高千穂の宮にて皇兄五瀬ノ命と譲り給うた時「何れの地にまさばか、天の下の政をば平けく聞しめさむ」と仰せられたのは、国を念ひ、民を慈しみ給ふ大御心の現れであり、而してこれは、歴代の天皇の御精神でもあらせられる。天皇が御奠都に際して、我東に征きしより茲に六年になりぬ、皇天の威を頼りて、凶徒就戮されぬ。辺土未だ清まらず余妖尚梗しと雖も、中洲之地復風塵なし。誠に宜しく皇都を恢廓め大壮を規●(「暮」の「日」の代りに「手」)るべし。……然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて字と為むこと、亦可からずや。
と仰せられた詔は、まことに禍を払ひ、道を布き、弥々広く開けゆく我が国の輝かしい発展の道を示し給うたものである。而してこれ実に歴代天皇がいや継ぎ継ぎに継ぎ給ふ宏謨である。
かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまに/\我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の
生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。
天皇は天照大神の御子孫であり、皇祖皇宗の神裔であらせられる。天皇の御位はいかしく重いのであるが、それは天ッ神の御子孫として、この重き位に即き給ふが故である。文武天皇御即位の宣命に、
高天原に事始めて遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれまさむ弥継ぎ継ぎに大八島国知らさむ次と、天ッ神の御子ながらも天に坐す神の依さし奉りしまにまに、
と仰せられた如く、歴代の天皇は、天ッ神の御子孫として皇祖皇宗を敬ひまつり、皇祖皇宗と御一体になつて御位にましますのである。されば古くは、神武天皇が鳥見の山中に霊畤を立て、皇祖天神を祀つて大孝を申べさせられたのを始め、歴代の天皇皆皇祖皇宗の神霊を崇敬し、親しく祭祀を執り行はせ給ふのである。
天皇は恒例及び臨時の祭祀を最も厳粛に執り行はせられる。この祭祀は天皇が御親ら皇祖皇宗の神霊をまつり、弥々皇祖皇宗と御一体とならせ給ふためであつて、これによつて民人の慶福、国家の繁栄を祈らせ給ふのである。又古来農事に関する祭を重んじ、特に御一代一度の大嘗祭並びに年毎の新嘗祭には、夜を徹して御親祭遊ばされる。これは皇孫降臨の際、天照大神が天壊無窮の神勅と神器とを下し給ふと同時に、斎庭の稲穂を授けさせられたことに基づくのである。その時の神勅には、
吾が高天ノ原に御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつる。
と仰せられてある。即ち大嘗祭並びに新嘗祭には、皇祖の親授し給ひし稲穂を尊み、瑞穂の国の民を慈しみ給ふ神代ながらの御精神がよく葬祭せられる。
天皇は祭祀によつて、皇祖皇宗と御一体とならせ給ひ、皇祖皇宗の御精神に応へさせられ、そのしろしめされた蒼生を弥々撫育し栄えしめ給はんとせられる。ここに天皇の国をしろしめす御精神が拝せられる。故に神を祭り給ふことと政をみそなはせ給ふこととは、その根本に於て一致する。又天皇は皇祖皇宗の御遺訓を紹述し、以て肇国の大義と国民の履践すべき大道とを明らかにし給ふ。こゝに我が教育の大本が存する。従つて教育も、その根本に於ては、祭祀及び政治と一致するのであつて、即ち祭祀と政治と教育とは、夫々の働をなしながら、その帰するところは全く一となる。
天皇の国土経営の大御心は、我が国史の上に常に明らかに拝察せられる。この国土は、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊が天ッ神諸々の命もちて修理固成し給うたものである。而して皇孫瓊瓊杵ノ尊は天照大神の神勅を奉じ、諸神を率ゐて降臨し、我が国永遠不動の礎を定め給うた。爾来日向に於て彦波●(「瀲」の右側が「欠」)武●(「顱」の右側が「鳥」)●(「滋」の右側+「鳥」)草葺不合ノ尊まで代々養正の御心を篤くせられたのであるが、神武天皇に至つて都を大和に奠めて、元元を鎮め、上は乾霊授国の御徳に応へ、下は皇孫養正の御心を弘め給うた、されば歴代天皇の国土経営の御精神は、一に皇祖の皇孫を降臨せしめ給うた大和心に基づき、この国土を安泰ならしめ、教化啓導の御徳を洽からしめられるところにある。崇神天皇の御代に四道将軍を発遣せられた際にも、この御精神は明らかに拝せられる。即ちその詔には、
民を導くの本は、教化くるに在り。今既に神祇を礼ひて、災害皆耗きぬ然れども遠荒の人等、猶正朔を受けず、是れ未だ王化に習はざればか。其れ群卿を選びて、四方に遣して、朕が憲を知らしめよ。
と仰せられてある。
景行天皇の御代に、日本武ノ尊をして熊襲・蝦夷を平定せしめられた場合も亦全く同様である。更に神功皇后が新羅に出兵し給ひ、桓武天皇が坂上ノ田村麻呂をして奥羽の地を鎮めさせ給うたのも、近くは日清・日露の戦役も、韓国の併合も、又満州国の建国に力を尽くさせられたのも、皆これ、上は乾霊授国の御徳に応へ、下は国土の安寧と愛民の大業をすゝめ、四海に御稜威を輝かし給はんとの大御心の現れに外ならぬ。明治天皇は、おごそかにたもたざらめや神代よりうけつぎ来たるうらやすの国
かみつよの聖のみよのあととめてわが葦原の国はをさめむ
と詠み給うた。以て天皇の尊き大御心を拝察すべきである。
天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を「おほみたから」とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。この大御心を以て歴代の天皇は、臣民の慶福のために御心を注がせ給ひ、ひとり正しきを勧め給ふのみならず、悪しく枉れるものをも慈しみ改めしめられるのである。
天照大神が、皇孫を御降しになるに先立つて、出雲の神々の恭順を勧め給ふ際にも、平和的手段を旨とし、大国主ノ神の恭順せられるに及んで、宮居を建てて優遇し給うた。これ、今日まで出雲大社の重んぜられる所以である。かゝる御仁愛は、皇祖以来、常にこの国土をしろしめす天皇の御精神であらせられる。
歴代の天皇が蒼生を愛養して、その衣食を豊かにし、その災害を除き、ひたすら民を安んずるを以て、天業恢弘の要務となし給うたことは更めて説くまでもない。垂仁天皇は多くの地溝を開き、農事を勧め、以て百姓を富寛ならしめ給うた。又百姓の安養を御軫念遊ばされた仁徳天皇の御仁慈は、国民の普く語り伝へて頌
へ奉るところである。雄略天皇の御遺詔には、
筋力精神、一時に労竭きぬ。此の如きの事、本より身の為のみに非ず。たゞ百姓を安養せむと欲するのみ。
と仰せられ、又醍醐天皇が寒夜に御衣をぬがせられて民の身の上を想はせ給うた御事蹟の如き、後醍醐天皇が天下の饑饉を聞召して、「朕不徳あらば天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか此災に遭ふ」と仰せられて、朝餉の供御を止められて飢人窮民に施行し給ひ、後奈良天皇が疫病流行のため民の死するもの多きをいたく御軫念あらせられた御事蹟の如き、我等臣民の斉しく感泣し奉るところである。
天皇は億兆臣民を御一人の臣民とせられず、皇祖皇宗の臣民の子孫と思召させ給ふのである。憲法発布勅語にも、
朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ
と仰せられ、又、明治天皇は明治元年維新の宸翰に、
朝政一新ノ時ニ膺リ天下億兆一人モ其処ヲ得サル時ハ皆脱カ罪ナレハ今日ノ事朕自身骨ヲ労シ心志ヲ苦メ艱難ノ先ニ立古列祖ノ尽サセ給ヒシ蹤ヲ履ミ治蹟ヲ勤メテコソ始テ天職ヲ奉シテ億兆ノ君タル所ニ背カサルヘシ
と仰せ給ひ、御製に、
みち/\につとめいそしむ国民の身をすくよかにあらせてしがな
とあるを拝誦する時、親の子を慈しむにいやまさる天皇の御仁慈を明らかに拝し奉るのである。維新前後より国事にたふれた忠誠なる臣民を、身分職業の別なく、その勲功を賞して、靖国神社に神として祀らせられ、又天災地変の際、畏くも御救恤に大和心を注がせ給うた御事蹟は一々挙げて数へ難き程である。更に民にして行を誤つた者に対してすらも、罪を憐む深き御仁徳をもつてこれを容し給ふのである。
尚、歴代の天皇は臣民の守るべき道を懇ろに示し給うてゐる。即ち推古天皇の御代には憲法十七条の御制定があり、近く明治二十三年には「教育ニ関スル勅語」を御下賜遊ばされた。まことに聖徳の宏大無辺なる、誰か感佩せざるものがあらうか。

三、臣節

我等は既に宏大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。
我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。各々独立した個々の人間の集合である人民が、君主と対立し君主を擁立する如き場合に於ては、君主と人民との間には、これを一体ならしめる深い根源は存在しない。然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。
我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。
忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。天皇と臣民との関係は、固より権力服従の人為的関係ではなく、また封建道徳に於ける主従の関係の如きものでもない。それは分を通じて本源に立ち、分を全うして本源を顕すのである。天皇と臣民との関係を、単に支配服従・権利義務の如き相対的関係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを対等な人格関係と見る合理主義的考へ方である。個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。
我が国にあつては、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係であつて、こゝに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国の君臣の関係は、没人格的の関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした考、個人的抽象意識より生ずる誤に外ならぬ。我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一の関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。我が国に於ては、肇国以来この大道が自ら発展してゐるのであつて、その臣民に於て現れた最も根源的なものが即ち忠の道である。こゝに忠の深遠な意義と尊き価値とが存する。近時、西洋の個人主義的思想の影響を受け、個人を本位とする考へ方が旺盛となつた。従つてこれとその本質を異にする我が忠の道の本旨は必ずしも徹底してゐない。即ち現時我が国に於て忠を説き、愛国を説くものも、西洋の個人主義・合理主義に累せられ、動もすれば真の意味を逸してゐる。私を立て、我に執し、個人に執著するがために生ずる精神の汚濁、知識の陰翳を祓ひ去つて、よく我等臣民本来の清明な心境に立ち帰り、以て忠の大義を体認しなければならぬ。
天皇は、常に皇祖皇宗を祀り給ひ、万民に率先して祖孫一体の実を示し、敬神崇祖の範を垂れ給ふのである。又我等臣民は、皇祖皇宗に仕へ奉つた臣民の子孫として、その祖先を崇敬し、その忠誠の志を継ぎ、これを現代に生かし、後代に伝へる。かくて敬神崇祖と忠の道とは全くその本を一にし、本来相離れぬ道である。かゝる一致は独り我が国に於てのみ見られるのであつて、こゝにも我が国体の尊き所以がある。
敬神崇祖と忠の道との完全な一致は、又それらのものと愛国とが一となる所以である。抑々我が国は皇室を宗家とし奉り、天皇を古今に亙る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。故に国家の繁栄に尽くすことは、即ち天皇の御栄えに奉仕することであり、天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し国の隆昌を図ることに外ならぬ。忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない。あらゆる愛国は、常に忠君の至情によつて貫かれ、すべての忠君は常に愛国の熱誠を件つてゐる。固より外国に於ても愛国の精神は存する、然るにこの愛国は、我が国の如き忠君と根柢より一となり、又敬神崇祖と完全に一致するが如きものではない。
実に忠は我が臣民の根本の道であり、我が国民道徳の基本である。我等は、忠によつて日本臣民となり、忠に於て生命を得、こゝにすべての道徳の根源を見出す。これを我が国史に徴するに、忠君の精神は常に国民の心を一貫してゐる。戦国時代に於ける皇室の式微は、真に畏れ多い極みであるが、併しこの時代に於ても、なほ英雄が事をなすに当つては、その尊皇の精神の認められない限り、人心を得ることは出来なかつた。織田信長・豊臣秀吉等がよく事功を奏するを得たことは、この間の消息を物語つてゐる。即ち如何なる場合にも、尊皇の精神は国民を動かす最も力強いものである。
万業集に見える大伴家持の歌には、
大件の遠つ神祖のその名をば大来目主とおひもちて仕へし官海行かば水漬くかばね山行かば草むすかばね大皇の辺にこそ死なめかへりみはせじと言立て
とある。この歌は、古より我が国民胸奥の琴線に触れ、今に伝誦せられてゐる。
橘諸兄の
ふる雪の白髪までに大皇につかへまつれば貴くもあるか
の歌には、白髪に至るまで大君に仕へ奉つた忠臣の面目が躍如として現れてゐる。又楠木正成の七生報国の精神は、今も国民を感奮興起せしめてゐる。又我が国には古より、或は激越に或は沈痛に忠君の心を歌に託して披瀝したものが少くない。
即ち源実朝の
山はさけ海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも
僧月照の
大君の為には何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも
平野国臣の
数ならぬ身にはあれども希はくは鏑の旗のもとに死にてむ
梅田雲浜の
君が代を思ふ心の一すぢに我が身ありとも思はざりけり
等の如きそれである。
忠は、国民各自が常時その分を竭くし、忠実にその職務を励むことによつて実現せられる。畏くも「教育ニ関スル勅語」に示し給うた如く、独り一旦緩急ある場合に義勇公に奉ずるのみならず、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぽし、学を修め、業を習ひ、智能を啓発し、徳器を成就し、更に公益を広め、世務を開き、国憲を重んじ、国法に遵ふ等のことは、皆これ、大和心に応へ奉り、天業の恢弘を扶翼し奉る所以であり、悉く忠の道である。橘守部は待問雑記に、
世人、直に大宮に事ふるのみを奉公といへども、此照す日月の下に、天皇に不事人やはある。武士の官司を将ます、かけまくも畏き御あたりをはじめ、下がしもに至るまで、只高き卑き差等こそあれ、咸く君に仕る身にしあれば、物を書くも君のため、疾を治すも君のため、田を佃るも君のため、商ひするももとより君の御為なれど、卑賎身は、遥に下に遠離れれば、只近く世人のために労くほどの、天皇への事はなきなり。
と述べてゐる。まことに政治にたづさはる者も、産業に徒事する者も、将又、教育・学問に身を献げる者も、夫々ほど/\に身を尽くすことは、即ち皇運を扶翼し奉る忠の道であつて、決して私の道ではない。
このことは、明治天皇の御製に、
ほど/\にこゝろをつくす国民のちからぞやがてわが力なる
国のため身のほど/\に尽さなむ心のすゝむ道を学びて
と仰せられてあるによつて明らかである。自己の職務を尽くすことが即ち天皇の大御業を扶翼し奉る所以であるとの深い自覚に立ち、
入リテハ恭倹勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテ力ヲ公益世務ニ竭シ以テ国家ノ興隆卜民族ノ安栄社会ノ福祉トヲ図ルヘシ
と仰せられた聖旨のまに/\つとめ励むことは、即ち臣民たるものの本務であり、日本人としての尊いつとめである。
我が国に於ては、孝は極めて大切な道である。孝は家を地盤として発生するが、これを大にしては国を以てその根柢とする。孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係に於て、忠のなかに成り立つ。
我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。
我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始り、永遠に子孫によつて継続せられる。現在の家の生活は、過去と未来とをつなぐものであつて、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我が国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であつて、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在及び未来の家門の恥辱と考へられる。従つて武士が戦場に出た場合の名乗の如きは、その祖先を語り、祖先の功業を語ることによつて、名誉ある家の名を辱しめないやうに、勇敢に戦ふことを誓ふ意味のものである。
又古より家憲・家訓乃至家風の如きものがあつて、子々孫々に継承し発展せしめられ、或は家宝なるものが尊重保存せられ、家の継承の象徴とせられ、或は我が国民一般を通じて、祖先の霊牌が厳粛に承け継がれてゐる如きは、国民の生活の基本が家にあり、家が自然的情愛を本とした訓練精進の道場たることを示してゐる。かくの如く家の生活は、単に現在に止まるものでなく、祖先より子孫に通ずる不断の連続である。従つて我が国に於ては、家の継承が重んぜられ、法制上にも家督相続の制度が確立せられてゐる。現代西洋に於て遺産相続のみあつて家督相続がないのは、西洋の家と我が国の家とが、根本的に相違してゐることを示してゐる。
親子の関係は自然の関係であり、そこに親子の情愛が発生する。親子は一連の生命の連続であり、親は子の本源であるから、子に対しては自ら撫育慈愛の情が生まれる。子は親の発展であるから、親に対しては敬慕報恩の念が生まれる。古来親子の関係に於て、親の子を思ふ心、子の親を敬慕する情を示した詩歌や物語や史実は極めて多い。万葉集にも山上憶良の子に対する愛を詠んだ歌がある。
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲ばゆいづくより来りしものぞ眼交にもとなかゝりて安寝しなさぬ
反歌
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
この歌は、まことに子を思ふ情を短い中によく表してゐる。又憶良がその子古日の死を悲しんで、
稚ければ道ゆきしらじ幣はせむ冥途の使負ひてとほらせ
と詠んだ歌の中にも、我が子を思ふ惻々たる親心が見られる。而して子が親を敬慕する情は、よく防人の歌等に現れてゐる。
我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であつて、皇室は臣民の宗家にましまし、
国家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである。雄略天皇の御遺詔に「義は乃ち君臣、情は父子を兼ぬ」と仰せられてあるのは、歴代天皇の大御心である。即ち君臣の関係は公であつて、義によつて結ばれるのであるが、それが単なる義にのみ止まらず、父子と等しき情によつて結ばれてゐることを宣べさせられたのである。「わたくし」に対する「おほやけ」は大家を意味するのであつて、国即ち家の意味を現してゐる。
我等の祖先は歴代天皇の天業恢弘を翼賛し奉つたのであるから、我等が天皇に忠節の誠を致すことは、即ち祖先の遺風を顕すものであつて、これ、やがて父祖に孝なる所以である。我が国に於ては忠を離れて孝は存せず、孝は忠をその根本としてゐる。国体に基づく忠孝一本の道理がこゝに美しく輝いてゐる。吉田松陰が士規七則の中に、
人君民を養ひ、以て祖業を続ぐ、臣民君に忠に、以て父の志を継ぐ、君臣一体、忠孝一致は、唯吾国のみ然りとなす。
といつてゐるのは、忠孝一本の道を極めて適切に述べたものである。
支那の如きも孝道を重んじて、孝は百行の本といひ、又印度に於ても父母の思を説いてゐるが、その孝道は、国に連なり、国を基とするものではない。孝は東洋道徳の特色であるが、それが更に忠と一つとなるところに、我が国の道徳の特色があり、世界にその類例を見ないものとなつてゐる。従つてこの根本の要点を失つたものは、我が国の孝道ではあり得ない。武士の名乗がその家の皇室に出づることを名乗り、又家憲・家訓が皇室に対し奉る関係をその遠い源とした如きは、全く同じ道理に出づるものと見るべきである。
佐久良東雄の
すめろぎにつかへまつれと我を生みし我が垂乳根は尊くありけり
といふ歌は、孝が忠に高められて、始めてまことの孝となることを示すものである。乃木大将夫妻がその子二人までも御国のために献げて、而も家門の名誉としたのも、家国一体・忠孝一本の心の現れである。かく忠孝一本の道によつて臣民が尽くす心は、天皇の御仁慈の大御心と一となつて君民相和の実が挙げられ、我が国の無限の発展の根本の力となる。
まことに忠孝一本は、我が国体の精華であつて、国民道徳の要諦である。而して国体は独り道徳のみならず、広く政治・経済・産業等のあらゆる部門の根抵をなしてゐる。従つて忠孝一本の大道は、これらの国家生活・国民生活のあらゆる実際的方面に於て顕現しなければならぬ。我等国民はこの宏大にして無窮なる国体の体現のために、弥々忠に弥々孝に努め励まなければならぬ。

四、和と「まこと」

我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。和の精神は、万物融合の上に域り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあつて和は生じない。個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。かゝる社会に於ける社会形態・政治組織及びその理論的表現たる社会学説・政治学説・国家学説等は、和を以て根本の道とする我が国のそれとは本質的に相違する。我が国の思想・学問が西洋諸国のそれと根本的に異なる所以は、実にこゝに存する。
我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の械械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である。従つてそこには相互のものの間に敬愛随順・愛撫掬育が行ぜられる。これは単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく、各々その特性をもち、互に相違しながら、而もその特性即ち分を通じてよく本質を現じ、以て一如の世界に和するのである。即ち我が国の和は、各自その特質を発揮し、葛藤と切磋琢磨とを通じてよく一に帰するところの大和である。特性あり、葛藤あるによつて、この和は益々偉大となり、その内容は豊富となる。又これによつて個性は弥々伸長せられ、特質は美しきを致し、而も同時に全体の発展隆昌を齎すのである。実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、溌剌としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。
而してこの和は、我が国の武の精神の上にも明らかに現れてゐる。我が国は尚武の国であつて、神社には荒魂を祀る神殿のあるのもある。修理固成の大命には天の沼矛が先づ授けられ、皇孫降臨の場合にも、武神によつて平和にそれが成就し、神武天皇の御東征の場合にも武が用ゐられた。併し、この武は決して武そのもののためではなく、和のための武であつて、所謂神武である。我が武の精神は、殺人を目的とせずして活人を眼目としてゐる。その武は、万物を生かさんとする武であつて、破壊の武ではない。即ち根柢に和をもち生成発展を約束した葛藤であつて、その葛藤を通じてものを生かすのである。こゝに我が国の武の精神がある。戦争は、この意味に於て、決して他を破壊し、圧倒し、征服するためのものではなく、道に則とつて創造の働をなし、大和即ち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ。
かくの如き和によつて我が国の創造発展は実現せられる。「むすび」とは創造であるが、それは即ち和の力の現れである。伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊相和して神々・国土を生み給うた。これ即ち大いなるむすびである。むすぴは「むす」から来る。苔むすといふやうに、「むす」はものの生ずることである。露がむすぶといふのは、露の生ずることをいふ。ものが相和してそこにむすびがある。かくて君臣相和し、臣民互に親和して国家の創造発展がなされる。現下の問題たる国家諸般の刷新改善も、亦この和によるむすびでなければならぬ。それは、一に天皇の御稜威の下に国体に照らして誤れるを正し、大和によつて大いに新たなる成果を生み出すことでなければならぬ。
更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。
又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。
この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。
更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。
このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。
要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。
我が国に於ては、君臣一体と古くよりいはれ、天皇を中心として億兆一心・協心戮力、世々厥の美を済し来つた。天皇の聖徳と国民の臣節とは互に融合して、美しい和をなしてゐる。仁徳天皇は、
百姓貧しきは、則ち朕が貧しきなり。百姓富めるは、則ち朕が富めるなり。
と仰せられ、又、亀山上皇は、蒙古襲来の際、宸筆の御願文を伊勢神宮に献げて、朕が身をもつて国難にかへん。
と御祈り遊ばされ、又、今上天皇陛下御即位式の勅語に、
皇祖皇宗国ヲ建テ民ニ臨ムヤ国ヲ以テ家卜為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下二洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地卜並ヒ存スヘキ所ナリ
と仰せられてある。こゝに君民体を一にして、その苦楽を共にし給ふ尊い和の純粋顕現を仰ぐことが出来る。又「君のため世のため何か惜しからむ拾ててかひある命なりせば」といふ歌の心は、臣民が天皇に一身を捧げ奉る和の極致を示したものである。
かゝる我が国の和の精神が世界に拡充せられ、夫々の民族・国家が各々その分を守り、その特性を発揮する時、真の世界の平和とその進歩発展とが実現せられるであらう。
「まこと」の心は、人の精神の最も純粋なものである。人はまことに於て、その生命の本をもち、まことによつて万物と一体となり、又よく万物を生かし、万物と和する。
まことについては、賀茂真淵や富士谷御杖等が特にこれを重んじて説いてゐる。真言即ち真事である。言と事とはまことに於て一致してゐるのであつて、即ち言はれたことは必ず実現せられねばならぬ。この言となり、事となる根柢に、まことがある。御杖は心の偏心・一向心・真心といふが如くに分けてゐる。偏心とは主我的な心であり、一向心とは頑なに行ふ心である。これらはいづれも完全な心とはいはれない。真心とは心の欲するところに従つて矩を踰えざる心である。かゝる心は即ちわざであり、言であり、行であり、よく一事・一物に執せずして融通無礙である。即ち私を離れた純粋の心、純粋の行である。実にまことは万物を融合一体ならしめ、自由無礙ならしめる。まことは芸術に現れては美となり、道徳としては善となり、知識に於ては真となる。美と善と真とを生み出す根源にまことのあることを知るべきである。而してまことは又所謂明き浄き直き心、即ち清明心であり、それは我が国民精神の根柢となつてゐる。
まことは理性と意志と感情との根源であるが故に、智仁勇も、このまことの現れであるといひ得る。我が国の道は、決して勇のみを以て足れりとしない。勇のみに趨るは所謂匹夫の勇であつて、勇と共に仁を必要とする。而して勇と仁とを実現するためには智がなくてはならない。即ち三者は帰して一のまこととなり、まことによつて三者は真の働をなすのである。
明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜はりたる勅諭に、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳を御示し遊ばされ、これを貫くに一の誠心を以てすべきことを諭し給うて、
右の五ケ条は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ケ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ケ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし
と仰せられてゐる。
更にまことある行為こそ真の行為である。真言はよく真行となる。行となり得る言こそ真の言である。我が国の言霊の思想はこゝに根拠を有するのであつて、行たり得ざる言は、慎んでこれを発しない。これ、人の心のまことである。まことに満ちた言葉は即ち言霊であり、かゝる言葉は大いなる働をもつのであつて、即ち限りなく張き力をもち、極みなく広く通ずるのである。万萬葉集に、日本の国は「言霊の幸はふ国」とあるのは、これである。而して又一方には「神ながら言挙せぬ国」といふ言葉がある。これは、一見矛盾するが如く見えて、実は矛盾ではない。言に出せば必ず行ずべきものであり、従って行ずることの出来ない言は、みだりに言はないのである。かくて一旦言挙げする以上は、必ず行ふべきである。否、まことの言葉、言霊たる以上は、必然に行はるべきである。かく言葉が行となり得る根柢にはまことが存する。まことには、我があつてはならない。一切の私を捨てて言ひ、又行ふところにこそ、まことがあり、まことが輝く。