ネイティブ・アメリカンのひとつ、ニューメキシコ州のタオス・プエブロ・インディアンとの交流を持つナンシー・ウッドが、プエブロ族の古老たちから聞き出した伝承を叙事詩の形で書き綴った詩集『今日は死ぬのにもってこいの日』(原題は “MANY WINTERS” )。
そこには、スペイン、メキシコ、そして最後にやってきたアメリカ合衆国によって略奪され続けた先祖伝来の土地に大自然とともに生き続けていくプエブロ族の、大地への深い共生感、万物は一度死ぬことで再び生命を取り戻すという死生観、人生哲学、そして単純だが意味深い生き方が散りばめられており、長きに渡って無数の名詩選や教科書に転載され、追悼式や結婚式でも朗読されてきました。
そのため、どれを読んでも、美しい言葉が静かに語りかけてくる、私達の心の糧になるベストセラーですね。
編者のナンシー・ウッドは、1936年生まれ。
詩・小説・ノンフィクション・写真など幅広い分野で活躍し、詩集のひとつがピュリッツアー賞音楽部門にノミネートされ、国営芸術基金からの文学奨励金のほか、多数の賞を授与されている女性です。
ナンシー・ウッドはもう長いこと、サンタフェから20マイルの、広野の端に孤独を共として住んでいるそうで、「孤独」は、自分の霊的生活に欠くことのできない要件だ」と語っているそう。
夏になると、コロラド州のロッキー山麓に、ヴィヴァルディやモーツァルトのテープを持ってハイキングに出かけ、音楽を風に聴かせながら、山の中でダンスをする、まさにネイティヴ・アメリカンの古老が語った死生観や哲学をそのまま体現しているような生活を送っているそうです。
元はネイティブ・アメリカンの言葉なのに、妙に日本人の感覚に近い詩篇の数々を、じっくりと味わってみてはいかがでしょうか。
【「今日は死ぬのにもってこいの日」 Today is a very good day to die.】
「今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。」
「長い間、わたしは君とともに生きてきた。
そして今、わたしたちは別々に行かなければならない、
一緒になるために。
恐らくわたしは風になって
君の静かな水面を曇らせるだろう、
君が自分の顔を、あまりしげしげと見ないように。
恐らくわたしは星になって
君の危なっかしい翼を導いてあげるだろう、
夜でも方角がわかるように。
恐らくわたしは火になって
君の思考をえり分けてあげるだろう、
君が諦めることのないように。
恐らくわたしは雨になって
大地の蓋をあけるだろう、
君の種子が落ちてゆけるように。
恐らくわたしは雪になって
君の花弁を眠らせるだろう、
春になって、花開くことができるように。
恐らくわたしは小川となって
岩の上で歌を奏でるだろう、
君独りにさせないために。
恐らくわたしは新しい山になるだろう、
君にいつでも帰る家があるように。」
「たぶん、君自身になるってことは
泣き叫ぶ嵐の中に、君独りでいるってことだ。
そのとき君が求めるすべては
人の焚き火に手をかざすことだけ。
わたしたちは重要じゃない。
わたしたちの人生とは、それでもって
永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸、
思考はそのようにして、時を貫き旅をする。
岩はわたしを強くする。
私を貫いてばく進する川は清め、言い張る、
一つの遠い明かり
一つの静かな場所に向かって進んで行けと。
そこでわたしは生き続けられるし
あなたがくれた夏の歌と
調子を合わせることもできるのだ。」
「わたしの中には、
遠く広く見るのだと教えてくれた鷲と一緒に、
東へ向かって旅をする『少年』がいる。
鷹は改まって、こう言った、
君が住んでいる小さな世界などあんまり重要ではない、と
思えてくるような『飛翔の時』というものが、この世にはある。
君の目を天空に向けるべき時間があるのだ。」
「おまえはわたしに言う、
去年という年に住むご老人よ、
昔の歌を歌うご老人よ、
目を覚まして
現実の世界を見てごらんなさいと。
わたしはお前に言う、
どこにも住んでいない若者よ、
雑音しか聞くことのない若者よ、
世界はわたしの内部で育ってきた
だからわたしは歳月とともに豊なのだ。
わたしの親父たちが
バッファローとともにいなくなってしまった今
いったい誰がわたしにいろいろ教えてくれるだろう?
知りたい時機について、誰が行ってくれるだろう?
わたしがちゃんと帰ってこられるように
いったい誰が、わたしの旅を導いてくれるのだろう?
歳月とは
わたしの先祖を、誰彼となく包んでしまう雲だ。
先祖は眠らせておくとしよう。
わたしは独りで道を見つける。」
「今知っていることすべてを
もっと以前に知っていたならば
人生を年寄りとして始めたことだろう、
若さを置き去りにすることのほか
人生に恐れることなど何もない
そう言ってくれた老人たちにだまされた年寄りとして。
そんな人生を送って
いったい何が面白かっただろうか?
わたしのあやまちが
わたしのどんな家庭をもたらしたというのだろう?
このままでいるほうがいい。
今やわたしは、若さよ帰ってこい、と願うこともできるし
若さにこう言ってやることもできるのだから、
老年とは、雨が降らなくても
緑の丘がいかに豊に見えたかを憶えていること
それ以外の何ものでもないのだと。」
「大地の皮膚は
その欠点を覆い隠す、
わたしの顔が、
その膨大な頼りなさを覆い隠しているように。
土の乾いた割れ目を見れば
それが傷を負い、血を流したことがわかる、
ちょうどわたしの精神が
人に負った傷から血を流したのと同じように。
土は自分で自分を治した、
痛めつけられたその顔を、時が横切ってゆく間に。
けれど、いったい何がわたしを治してくれるというのだろう?
わたしの土地とわたしが一体となれるよう
私の顔に皺を刻んでくれる、あの太陽以外に。」
「わたしは醜いものを眺めながら、そこに美しいものを見る。
はるかわが家を離れていながら、故郷の友たちに会う。
うるさい音を聞きながら、その中にコマドリの歌を聞く。
人込みの中にいても、感じるのは山の中の静けさだ。
悲しみの冬の中にいて、思い出すのは悦びの夏。
孤独の夜にあって、感謝の昼を生きる。
けれど悲しみが毛布のように広がり、もうそれしか見えなくなると
どこか高いところへ目をやって
胸の奥深くに宿るものの影を見つける。」