日本の神話時代から伝わるとされる剣の中で、特に重要とされる剣を『神代三剣・日本三霊剣』といいます。
今回はその『神代三剣』を、その物語と共にまとめていきたいと思います。
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【天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)、草薙剣】
三種の神器の一つで天皇の持つ武力の象徴であるとされており、熱田神宮の神体であり、草薙剣・都牟刈の大刀・八重垣剣とも称される。
スサノオ(素戔嗚尊)が、出雲国において十拳剣でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた剣が草薙剣である。
日本書紀の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気が掛かっていたため、かく名づけたか」とある。
スサノオは「これは不思議な剣だ。どうして自分の物にできようか」(紀)と言って、高天原の天照大神(アマテラス)に献上した。
剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され、再び葦原中国へと降りた。
ニニギが所有して以降、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外で祀られるようになった。
『古語拾遺』によるとこの時、形代の剣(もう一つの草薙剣)が作られ宮中に残された。
垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた。
景行天皇の時代、草薙剣は伊勢国のヤマトヒメから、東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に渡された。
相模国(記)・駿河国(紀)で、駿河に差し掛かった際に敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、自身が火打石を持っていたこと思い出し、伊勢神宮で授かった天叢雲剣で周囲の草を薙ぎ、迎え火を起こして難を退けたという。
日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。
東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神を討伐しに行く。
尾張国風土記においては宮酢媛の屋敷の桑の木に、ヤマトタケルが剣を掛けたところ剣が神々しく光輝いて手にする事ができずに残したとされている。
しかし山の神によって病を得、大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)と草薙剣を呼んで亡くなってしまった。
その後、ミヤズヒメは剣を祀るために熱田神宮を建てた。
天智天皇の時代(668年)、新羅の僧侶により盗難されるが、その際には無事戻り、宮中に置かれていた。
天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された。
なおその剣の形代(この剣が日本武尊に渡される以前に作成されていたもの)は源平合戦において平家滅亡の際、水中に没し、発見されることは無かったとされる。
今現在皇居に祀られているのはそれよりも前、伊勢神宮より献上されたものであり、レプリカの代用品といえるものである。
ただし三種の神器としての価値は天皇家が所持することが条件であるため、天皇家が所持する剣は三種の神器となるため、伝説にある性能はともかく、役割の上では代用品でも問題ない。
【布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)、平国横刀】
「ふつ」は物を断ち切る音を表し、荒ぶる神を退けるちからを持つといわれており、記紀神話に現れる霊剣で、韴霊剣、佐士布都神、甕布都神とも言う。
建御雷神はこれを用い、葦原中国を平定した。
神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。
この高倉下は、この剣を次のような経緯で入手したと述べる。
「天照大神と高木神が、葦原中国が騒がしいので建御雷命を遣わそうとしたところ、建御雷神は「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい」と述べ、高倉下に「この剣を高倉下の倉に落とし入れることにしよう。お前は朝目覚めたら、天つ神の御子(神武天皇)に献上しろ」といったという」
夢から覚めた高倉下は、夢の通りこの剣を見つけだし、早速神武天皇に献上したところ、大和征服に大いなる力を発揮したという。
神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。
同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。
【天羽々斬(あめのはばきり)、蛇之麁正】
日本神話に登場する刀剣で、布都斯魂剣、十握剣、十拳剣、十掬剣など様々に表記される。
十握剣については様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる。
凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来る。折れる事や刃毀れする事も無い。
尚、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選び、刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ないといわれている。
最初の所有者は伊奘諾命、素戔鳴尊とされる。
伊奘諾命と妻の伊邪那美が、最後の子供軻遇突智を産んだことが原因で秘所が焼けて死んでしまう。
伊奘諾命は怒り、軻遇突智をこの天十握剣で斬り殺してしまう。
十束剣の前方についた血が岩に飛び散って生まれたのが、石拆の神、根拆の神、そして石筒之男の三神という。
さらに十束剣の根元についた血から生まれたのが、甕速日神、樋速日神、そして建御雷之男神(建布都神)だという。
伊邪那美の遺体の各部位から様々な神々が生まれ、この「十拳劒」は「天之尾羽張」または「伊都之尾羽張」であるともいう。
イザナギがスサノオに対して海原の支配を命じたところ、スサノオはイザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えたため、スサノオを追放することを決める。
仕方なくスサノオは姉の天照大神に会ってから黄泉の国へ行こうと決め、天照大神が治める高天原へ昇る。
すると山川が響動し国土が皆震動したので、天照大神はスサノオが高天原を奪いに来たと思い武具を携えて彼を迎えた。
スサノオは天照大神の疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようと提案する。
まず、天照大神が建速須佐之男命の持っている十拳剣を受け取って噛み砕くと、吹き出した息の霧から多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命が現れた。
続いてスサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕くと、吹き出した息の霧から正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命が現れた。
これにより、スサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言する。
素戔鳴尊は、この剣で酒に酔って寝てしまった「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」を輪切りにしたことから「天(尊称)羽々(大蛇の意)斬」、つまり「天羽々斬」と称されるようになった。
八岐大蛇の尾を斬ったときに剣の刃が欠けたので、尾を裂いてみると剣が出てきた。これは不思議なものだと思い、天照御大神にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣のちの草薙剣とされる。
この「天羽々斬」は、石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に遷されたという。
現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに本殿内陣に奉安され祭られている。
スサノオの息子、大国主は少名毘古那とともに国づくりをすすめ、葦原中国を完成させる。
そこへ現れたのが高天原からの使者であり、建御雷之男神である。
建御雷之男神は、古事記では伊都之尾羽張の子であり、日本書紀ではカグツチ殺しの際に生まれた甕速日神の子孫、または建御雷之男神そのものが生まれたとする。
出雲の伊耶佐小浜に降り立ったタケミカヅチは、十握の剣を波の上に逆しまに突き立て、その切っ先の上に胡坐をかき、大国主に対して国譲りの談判をおこなう。
大国主は息子たちに相談するが、結局は自分を祀ることを条件に国を譲ることになる。
こうして造られたのが「天之御舎(天日栖宮)」であり、現在の出雲大社である。