私達が日常の中で何気なく使ってる言葉にも、仏教に由来したものは数多あります。
いきなりですが、往生と涅槃という言葉、これらの区別ってつきますか?
実はどちらも死ぬ、亡くなるということを意味してますが、”これらの区別って何?”と考えてもなんとなくはっきりしませんよね。
そこで今回は、そんななんとなくぼんやりしている仏教の言葉を題材にしてみましょう。
往生、涅槃、解脱って何?って考える前に、まずは仏教における命の考え方を整理しておかねばなりません。
仏教においては、人の命は死んでなくなるのでなく、生まれ変わるということが前提になっています。
ひとことでいうと”輪廻転生”というやつですね。
ヒンドゥー教や仏教、古代のエジプトやギリシャなどで見られるもので、人は肉体が滅びても永遠には死なず、何度も生まれ変わる不滅の存在だという考え方です。
六道という形で以下に体系化されています。
天道(天上界)
↓
人道(人間界、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界)
↓
修羅道(苦しみは自らに帰結するところが大きい世界)
↓
畜生道(救いの少ない世界)
↓
餓鬼道(餓鬼の世界)
↓
地獄道(罪を償わせるための世界)
人は、この6つの道をぐるぐると巡っている(何度も死んで何度も生まれ変わっている)ということです。
例えばキリスト教などだと、人は死んだら無くなる恐れがあるので、キリストを信じていれば、最後の審判が訪れるまでは無くならずに眠りについていられ(最終的な運命が決まるのを待っていられ)、審判により永遠の命が保証される、といった形になっています。
最初から不滅の存在を保証されている仏教と比べると、随分不安が前提となった考え方ですね。
でも仏教において永遠の命を保証されているということは、逆に考えれば苦しみも永遠に続くということです。
人は永遠に輪廻転生の輪の中に居る訳ですので、これを抜け出さない限りは苦しみも終わらないということですね。
要は、罪あるものは何度も生まれ変わって苦しみを味わうが、罪のない人は死んで終わりになるといってるのです。
それでお釈迦様は、この世のすべてが無常であるという悟りを開き、罪無きもの(=人を超えた優れた人)になれれば、その輪廻から抜け出すことができる(=解脱)と考えたわけです。
この悟りに至ったものということを示すのが”如来””仏陀”といいます。
※)日本の仏像に魅せられてにクラス分けした最上位に位置する、その如来です。
”解脱”というと悟りを開くことという意味で捉えがちですが、実は輪廻転生の輪から抜け出すことを指しているんです。
そこでその悟りを得た状態のことを、無常を悟り燃え盛る煩悩の炎を消した状態ということで”涅槃”といいます。
”涅槃”はサンスクリット語で”ニルヴァーナ”。洋楽ファンだと直ぐに反応してしまうあのバンドと同じ用語です。
で、”涅槃”にはもうひとつ、死ぬという意味があります。
死んでしまうと煩悩に執着することが無くなるので、悟りを得た状態と死が同義語となってしまった訳です。
じゃあ、”往生”も死ぬという意味を指しますが、どう違うのでしょう?
実は仏教においては、人が輪廻転生の輪から抜け出す方法として、解脱以外にも別の方法があると考えました。
その方法というのが、”如来”が支配している”浄土”の世界に生まれ変わることだったのです。
ちなみに、浄土の世界と六道で挙げた天上界とは全く異なります。
天上界は六道の中にあるので、未だ輪廻転生の輪の中にある状態ですよね。
それに比べて”浄土”の世界は如来が支配する仏国土※ですので、輪廻転生の輪に戻ることがないという訳です。
※)参考までに、仏のそれぞれの仏国土は以下になります。
阿弥陀如来 西方極楽浄土
大日如来 密厳国土
毘盧舎那如来 蓮華蔵世界
阿しゅく如来 東方妙喜世界
薬師如来 東方浄瑠璃世界
釈迦如来 無勝荘厳国、霊山浄土
この浄土に生まれ変わることを”往生”と言います。
人が安らかに亡くなることを”極楽往生”といいますが、こうしたことから来ている訳です。
で、仏国土は6つもあるのに、なぜ極楽往生だけなのかと思いますよね。
実は、人は極楽浄土以外の仏国土には生まれ変わることが出来ないからです。
阿弥陀如来は、”こうすれば極楽浄土に来れますよ”という方法が提示されているんですが、それ以外の仏国土には生き方が一切明示されていないんですよね。
こうしたことから、”往生”を浄土に往って生まれることを示すようになり、そのために一旦死ぬことになるので、阿弥陀如来と全く関係なく亡くなっても、往生(高齢だと大往生)というようになった、という訳です。
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