日蓮は鎌倉時代の仏教の僧で、鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖にして、滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されています。
ここでは宗教を論じるのではなく、日蓮の生き様について整理してみたいと思います。
日蓮は、比叡山、高野山などで修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念を持ち、建長五年(1253)、政治不安や天災に苦しむ社会を救おうと、禅宗や念仏宗の信者が多かった鎌倉にやって来ます。
日蓮は鎌倉の町の辻に立ち、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じず、浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして、邪教に惑わされている世間と対立宗派、そしてそれを許している幕府を説法で強く批判します。
その上で、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した『立正安国論』を著すのです。
日蓮は、得宗(元執権)北条時頼にその『立正安国論』を提出するのですが、その内容に激昂した浄土宗の宗徒が草庵を焼き討ちする”日蓮襲撃事件”を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされ、伊豆、佐渡へと何度か流罪となります。
こうしたことに日蓮は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合うとして、更に「法華経の行者」としての自覚を深めていきました。
日蓮は何度も許されて鎌倉に戻るのですが、当時の鎌倉は元による侵略の危機が高まっており、やがて蒙古の襲来が始まると、その信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになります。
「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん」(「開目鈔」)
こうした日蓮の言葉からは、どんな弾圧にも屈せず、権力者に迎合することなく最後まで民衆の側に身を置いた、日本の宗教史上稀なる信念の人物といえるでしょう。
人々の苦しみを取り除き、社会全体が幸せになるようにと終生願った日蓮は、来世ではなく”今を生きる”ことの大切さを説き続けました。
その上で自らの幸せを願うのであれば、正しい教えのもと、社会全体の幸せを願わなくてはならないと説き続けていたのです。
内村鑑三も『代表的日本人』の中で、数多くの優れた宗教家の中から日蓮を選んでいますが、それというのも日蓮の考えや行動、足跡が、鑑三自身に強く共感するものがあったからであろうと思われます。
※)『代表的日本人』については、後日改めて整理したいと思います。
鑑三はそれまでのキリスト教会に疑問を持ち、無教会主義を日本に持ち帰った人物として知られていますが、日蓮が当時の仏教に疑問を持ち、自ら考え日本人の仏教として日蓮宗を提唱し、そのためにあらゆる迫害にも耐え、その信念・信仰を貫いたことがオーバーラップしていたためであろうと推測されるのです。
私達は、日本の文化や精神性に対してもっと誇りと尊厳を持つべきなのですが、70年前の敗戦以降、それらの伝統は見捨てられ、確たる精神性は物質主義の社会の中ですっかり色あせたものとなってしまっています。
しかし、こうした時代であるからこそ、私達は自らの頭で思考し、自身の確固たる軸を精錬し、迫害や権力を恐れず、信念に基づいて行動するという、当たり前の姿勢と生き方を取り戻すべきです。
宗教云々の先入観だけで盲目的に目を背けるのではなく、改めて日蓮を始めとした賢人達を見習い、私達ひとりひとりがいい加減目を覚ますべき時期にきているのではないでしょうか。
ご熟考を!