湯川秀樹に天才と言わしめ、本居宣長とまったく同時代に生きた三浦梅園は、江戸時代の思想家、自然哲学者、医者であり、「梅園三語」といわれる、条理を理論的に体系づけて論じた『玄語』、古来からの諸説を条理によって批判検討した『贅語』、それを道徳、政治に施した実践編となる『敢語』の3つの著書で独自の学問体系を築いた人物です。
・『贅語』は『玄語』を成立させている思想の引用文を巧みに構成したもの。
・『敢語』は『玄語』を使っていくときの心得、倫理、道徳を記したもの。
とでもいえばよいでしょうか。
梅園自身は、学問においては甚だ厳格であったものの、人となりは温厚で、日常生活は質素で倹約につとめ、村人の良き相談相手であり、もめ事の調停に秀れ、よくいさかいを治め、毎年末には貧しい人々に米や塩を贈ったり、大凶作のときには村の世話人として「慈悲無尽興行旨趣」を書いて、困った人を助けるために物資を提供するように呼びかけて苦しんでいる人々を助けた等の逸話を残していることから、「豊後聖人」として多くの人々から慕われたといわれています。
価原より学ぶ!三浦梅園が唱えた六府(水・火・木・金・土・穀)と三事(正徳・利用・厚生)!
そんな梅園の『玄語』についてです。
『玄語』は梅園が30歳の時に起草し、3年の月日の中で10回の改稿を重ねる中で『玄論』→『垂綸子』→『元気論』と改名され、ようやく『玄語』と命名されています。
その後も改稿を重ねるも、24回目の改稿に取りかかったまま未完となった著書。
そんな『玄語』ですが、日本人自身が考えた東洋の合理思想が明確に浮き彫りにされており、それは欧米に比べて遜色ないばかりか、その欠落を補う可能性のあるものであることで知られています。
梅園は、天・地、気・物、円・方、性・体や動静、清濁・没露、分合・反比といった多くの概念や名辞を、それぞれ一対の情報の基本単位にし、それらをいくつも組み合わせていくこと、関係づけていくことを、「条理」と名付けました。
一対のものがいくつも組み合わさって、新たに発展していく。
梅園は、こうした一対の概念が次に一対を生み出していくような見方を「反観合一」と名付け、物事を根本で見るには物が物を観るようにしなさいと説明しました。
そうすれば、その物を見た観点が、別の物の見方を反映させる観点と対応していくという考えです。
こうした梅園の哲学や思想は「条理学」「反観合一の条理学」などと呼ばれますが、「条理」の「条」は木の枝のこと、「理」はその筋をつくっている考え方の理脈のこととして、孟子に出てくる言葉なんですね。
その上で、こうした一対の概念が次々に増殖し、相互に関連しあっていく関係を0、1の関係だけでなく、円の中に書きこんだ「玄語図」というものを梅園は示しているのですが、これらは自然・世界・社会・知覚・思索などのあらゆる概念が、百図、二百図、三百図という円相円環図となって、それぞれ照応しあっているものなのです。
対にするだけでは表示や表現には限界があり、再帰性や途中参入性を持つことが困難なのですが、それを同心円による円相的表示として表現したことでこれらの問題を一気に解決する訳です。
しかも、その同心円を対概念の情報性によって一重にも三重にも、またその中での分岐ももてるようにしたことで、「反観合一」の概念を見事に吸収してしまう。
こうした、当時としては画期的な集合論的な発想が、梅園の条理学を支えているのです。
そもそも梅園が生きた時代は日本儒学と国学と蘭学、懐徳堂の時代であったこともあり、彼の思想の根幹には、道教や老荘思想、陰陽哲学、易などがありました。
2つの概念の思想である陰陽哲学があり、3つの概念の思想である五行哲学がありますが、梅園の思想は明らかに前者です。
全ての事象や概念は二つのもので対になって存在し、それが生まれることもまた二つのものの衝突で生まれるように、世界の全てが二つのもので成り立っているということを展開していくもの。
私達日本人は、宇宙や世界には陰と陽の二気があって、これがいろいろ組み合わさって物事や現象を生んでいるという陰陽思想の考え方を、自然に知っています。
その陰陽思想に基づいて「易」の象なども決まっているのですが、実はそのあたりまで明確には理解していないもの事実です。
だからこそ梅園は、こうした道教や老荘思想、陰陽哲学、易を背景に『玄語』を出来る限り分かり易い形で構築していったのではないでしょうか。
そもそも『玄語』の「玄」というのは、若干赤みがかかった黒い色のことを示します。
老子の思想では、この「玄」をたいへん重視していました。
風水思想では、北に玄武、東方に青竜、西方に白虎、南方に朱雀が配置されていますが、これらは古代中国の天円地方という宇宙観の色として、北が黒となっています。
そして、それらの総括としての北方の黒としての「玄」は非常に重視されていたため、思想や世界観のなかで最も深まるものを「玄学」というふうに呼ぶようになったのですが、これは入唐した空海も随分深く学んだといわれています。
とすると、梅園が自分の思想の集大成としての著書を『玄語』と名付けたのには、相応の思い入れがあってのことだと伺われるのです。
江戸時代にあって、世界の森羅万象の全てを語り尽せるといわれた東洋思想の先駆的な考え方を持っていた三浦梅園。
改めて見直してみても、遅くはないと思います。
三浦梅園 語録
「金とは五金の総名なり。
分かっていえば金・銀・銅・鉛・鉄。
五金の内にては鉄を至宝とす。
如何となれば、鉄その価廉にして、その用広し。
民生一日も無くんば有るべからず」
「学問は飯と心得べし。
腹にあくが為なり。
掛け物などの様に人に見せんずる為にはあらず」
「足の皮はあつきがよし。
つらの皮はうすきがよし」
以下のサイトも参考にしてみてください。
三浦梅園:三浦梅園研究所:三浦梅園の謎を解く