孔門の説話集『孔子家語』より学ぶ!『論語』に漏れた孔子一門の説話を蒐集した希少本!

今回は、『論語』に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書『孔子家語』について、触れておきます。
論語より学ぶ!人としての「徳」と「命」!
『漢書』芸文志論語部に「孔子家語二十七巻」とあるのですが、その内容に関してはほとんど伝わらず、27巻本はその後程なくして散逸したと見られており、今に伝わるものは、魏の王粛が再発見したものに『春秋左氏伝』『礼記』『説苑』『史記』などから孔子に関する記事を集め注釈を加えたと称する10巻44篇のものです。
※)ちなみに『孔子家語』とは、「孔子学派の言葉」の意。

『孔子家語』は、古来から王肅が過去の文書を整理・編纂したものではなく、王肅自身が執筆した偽書・偽作であるという説があるのですが、近年に至り、考古学上の発見により知られるようになった竹簡や木簡に記された古代文献(埋蔵文献)の中に『孔子家語』と同じ内容を示す文の断片が続々と発見されていることもあって、これが偽書なのか否かの論争については未だ決着がついていない状態です。
しかし『孔子家語』には、現存する他書には見出せない文について散逸した文献から採っている可能性が高く、その内容は春秋時代末の諸侯や士大夫、孔子の七十二人の弟子たちが、孔子に諮問したり、互いに質問しあったりした言葉を集めており、孔門の説話集としては価値が高いと言われています。

『論語』は読んでいても『孔子家語』まではさすがに….と感じられていたら、一度試しに触れてみてはいかがでしょうか。

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以下、参考までに一部訳抜粋です。

『孔子家語 目次』


巻第一 相魯 第一/始誅 第二/王言解 第三/大昏解 第四/儒行解 第五/問禮 第六/五儀解 第七
巻第二 觀思(致思) 第八/三恕 第九/好生 第十
巻第三 觀周 第十一/弟子行 第十二/賢君 第十三/辯政 第十四
巻第四 六本 第十五/辯物 第十六/哀公問政 第十七
巻第五 顏囘 第十八/子路 第十九/在厄 第二十/入官 第二十一/困誓 第二十二/五帝徳 第二十三
巻第六 五帝 第二十四/執轡 第二十五/本命解 第二十六/論禮 第二十七
巻第七 觀鄕射 第二十八/郊問 第二十九/五刑解 第三十/刑政 第三十一/禮運 第三十二
巻第八 冠頌 第三十三/廟政 第三十四/辯樂解 第三十五/問玉 第三十六/屈節解 第三十七
巻第九 七十二弟子解 第三十八/本姓解 第三十九/終記解 第四十/正論解 第四十一
巻第十 曲禮子貢問 第四十二/曲禮子夏問 第四十三/曲禮公西赤問 第四十四
後序

『孔子家語 巻第二 觀思(致思) 第八』

孔子が子路、子貢、顔淵と共に北にある農山に往き、四方を眺めて嘆じて云った。
ここでその心を思索すれば何か得るところがあるであろう。
私が判断するから、各々、自らの志を述べてみよ、と。
子路が進み出て云う。
私の願いは月の如き白く輝く羽と太陽の如く赤く輝く羽を旗とし、鐘鼓の音が天に震い、旌旗が入り乱れて地に満ち、我が一隊でもって敵に当り、必ずや千里の外に払いのけ、旗を抜き敵をなぎ倒すことです。
これを成すのは私のほかおりません。
子貢と顔淵は私に従わせましょう、と。
これを聞いた孔子曰く、
なんとも勇ましいことである、と。
次に子貢が進み出て云う。
私の願いは斉・楚をして広き野に合戦し、両者が対峙してついに戦闘が始まらんとするその時に、稿衣白冠をつけて両者を説き、利害を推論して国の患いを取り除くことです。
これを成すのは私のほかにはおりません。
子路と顔淵は私に従わせましょう、と。
これを聞いた孔子曰く、
なんとも雄弁なことである、と。
残るは顔回のみとなったが、顔回は退いたままで何も発しない。
それをみた孔子が問う。
回来なさい、なぜお前は何も言わないのだ、と。
顔回が答えて云う。
文武に関して両者が既に言っております。
私に何を願うことがあるでしょうか、と。
孔子曰く、
そうだとしてもそれぞれが自らの志を言うのである。
お前も言ってみなさい、と。
すると顔回が答えて云う。
私はこう聞いております。
良香と悪臭は同じにしまっておくことはできません、明主である堯と暴君である桀は国を共に治めることはありません。
これは其の類が異なるからです。
私の願いは明主聖王を得てこれを補弼し、五教を順布し、礼楽によって導き、民を使うに城郭や溝、池の工事はさせず、剣戟を溶かして農器とし、牛馬は放牧して二度と戦争に用いず、民に離曠の悲しみを与えることなく、千年の後にまで戦いの患いを無くしてしまいたいものです。
さすれば、子路の勇も子貢の弁も用いる必要がないのです、と。
これを聞いた孔子は凛然として云う。
なんとも云い難い美なる徳よ、と。
子路が問う。
夫子、誰の志を択ばれますか、と。
孔子曰く、
国の財政を損なうことなく、民の生活を害することなく、余計な言葉を用いることもない、さすれば顔回にはこれが有る、と。

『孔子家語 巻第四 六本 第十五』

孔子曰く、
「自分が死んだ後、商は日々益を得るが、賜は日々損をする」と。
曾子曰く、
「何故でしょうか」。
孔子曰く、
「商は自分よりも賢い者のいる場所を好むが、賜は自分より劣る者のいる場所を好む。
 ある子の人柄をよく知らないときは、その父を視るべし。
 ある人の人柄をよく知らないときは、その友を視るべし。
 ある君主の人柄をよく知らないときは、その使役する者を視るべし。
 ある土地の地味をよく知らないときは、そこに生える草木を視るべし。
 善き人(善人)のいる居室は芝蘭の部屋に入るようなもので、しばらく居るとその香りを感じなくなる。
 つまり、同化してしまうのだ。
 善くない人(不善人)のいる居室は臭い塩蔵魚を売る店に入るようなもので、しばらく居るとその香りを感じ
なくなる。
つまり、同化してしまうのだ。
 丹を保存する場所は赤色となり、漆を保存する場所は黒色となる。
 それゆえ、君子は、居場所を一緒にする者を慎重に選ぶものだ」と。

曾子が孔子に従って齊に行くと、齊の景公は下級の官僚として曾子を招聘しようとした。
曾子はこれを固辞した。
(曾子が)まさに(齊から)去ろうとした際、晏子が曾子を送別しながら曰く、
「私は『君子が贈物をする場合、財産は善言に及ばない』と聞いている。
 蘭本を鹿醢に漬けこんでから3年経ち、これを食べることができるまで熟成すると、馬頭と交換できるほどになる。
 これは蘭の本性によるものではなく、漬け込むものの美(味)によるものだ。
 願わくは、曾子が自分を漬け込む者をよくよく観察されたい。
 そもそも君子は居住すべきところについて必ず場所を撰ぶ。
 遊学(修学)するには必ず方向を選ぶ。出仕するには必ず主君を撰ぶ。
 主君を撰ぶのは出仕を求めるからで、方向を撰ぶのは道を究めることを求めるためだ。
 気風が変わると俗生活も変わり、嗜欲は人の本性を変えてしまう。
 慎重にならないわけにはいかない」と。
孔子がこれを聞いて曰く、
「晏子の言葉は君子なり。賢人に依拠する者はもとより困惑することがなく、富者に依拠する者はもとより貧窮することなし。
 馬蚿が足を折ってもまた歩くことができるのは、それを補う足が多数あるからだ」と。

『孔子家語 巻第五 觀在厄 第二十』

楚の昭王が孔子を招聘した。
孔子は答礼のために楚に向かい、陳と蔡の国境にさしかかった。
陳と蔡の大夫(諸侯)は互いに意見を交わした上で曰く、
「孔子は聖人・賢人だ。その指摘することは全て諸侯の病(欠点)の中にある。
 もし楚が用いることがあれば、陳と蔡は危ない」と。
そこで、孔子がその先に進むのを妨害するため歩兵を出した。
孔子はそれより先に行くことができず、食糧が絶えて日が経ち、
(囲みの)外へ抜ける道はなく、黎羹にさえ不足し、孔子に従ってついてきた者らは皆気が重くなった。
孔子は、ますます意気軒昂で、古典を読んだり弦に合わせて歌ったりしていた。
そして、子路を呼び、問いて曰く、
「『詩経』には兕でも虎でもないのにかの広野で率いるとある。
 自分の道はこれではないのか。
 どうしてこのようになってしまったのか」と。
子路は、憤り、顔を赤くして答えて曰く、
「君子は窮するところなし。
 先生(夫子)がまだ仁者ではないから他人が信用しないのでしょうか。
 先生がまだ智者ではないから他人が我々を行かせようとしないのでしょうか。
 また、以前、先生から、『善をなす者には天は福をもって善に報い、善でないことをなす者には天は禍をも
って不善に報いる』と聞きました。
 今日に至るまで、先生は、徳を積み、義を心に秘め、長く実践してきました。
 それなのに、どうして窮することになるのでしょうか」と。
孔子曰く、
「あなたはまだ十分に理解していないようなので、教えることにする。
 あなたは、仁者が他人から必ず信用されると思いますか。
 それならば、伯夷と叔齊はどうして首陽で餓死したのでしょうか。
 あなたは、智者が他人から必ず用いられると思いますか。
 それならば、王子比干は心臓を裂かれることがなかったはずです。
 あなたは、忠者は必ず報いられると思いますか。
 それならば、關龍逢は処刑されることがなかったはずです。
 あなたは、諫言する者は必ず耳を傾けてもらえると思いますか。
 それならば、伍子胥は殺されることがなかったはずです。
 そもそも遇と不遇は時勢に左右されるものです。
 賢と不肖は才能により決まります。
 君子が博学で思慮深くても、不遇の時もあるものです。
 丘のみが例外などということはあり得ません。
 また、深い林に生える芝蘭は、人がいないことのゆえに芳香を放たないわけではありません。
 君子が道を修め、徳を立てると、困窮のためにその節を曲げることはありません。
 このように実践するのは人です。
 人の生死は天命によります。
 晉の重耳に霸心が芽生えたのは曹と衛にいたときで、衛越王の句踐に霸心が起きたのは會稽にいたときです。
 それゆえ、人の下にいて憂いのない者は将来のことを思慮することがなく、常に安逸に身を処している者はその志を広げることがありません。
 これらのことから、推して全てを知るべきです」と。

『孔子家語 巻第九 七十二弟子解 第三十八』

言偃は、魯の人。字は子游。
孔子よりも35歳若い。
時に『禮記』を習い、文学で著名となり、出仕して武城の宰相となった。
かつて孔子に従い衛に行き、将軍の子蘭と親しくなり、孔子に学ばせるようにした、と。