【参考】『春秋経』年号毎の春秋経のあらすじ

『春秋経』『春秋左氏伝』は、魯の君主ごとに時代を順に降っていく構成になっていますので年号毎の簡単な内容を抜粋しておきます。

【年号毎の春秋経のあらすじ】

[B.C.722隠公元年]
鄭伯 段に鄢に克つ 鄭の公子段は母の愛をもって増長した。鄭伯(荘公)はそれを知りながら討伐せず、反乱を起こす直前までなにもしなかった。
[B.C.721隠公2年]
無駭、師を帥ゐて極に入る 司空展無駭は軍を率いて極に入り、費キン父はこれに乗じて極を滅ぼした。
[B.C.720隠公3年]
宋穆公、大司馬孔父嘉を召して
殤公を屬す 宋穆公は自分の死後、子の馮ではなく、先君の子与夷(殤公)を立てるよう遺言した。
[B.C.719隠公4年]
衛人、州吁を濮に殺す 州吁は桓公を弑して即位したが、民がなつかなかった。石碏は陳に求めて天子に認めてもらうよう進言し、一方で陳に州吁を殺すよう依頼した。
[B.C.718隠公5年]
曲沃、周王に叛く 曲沃の荘伯は周桓王に叛いて、翼を討った。そこで桓王は虢公に命じて曲沃を討たせて、光(哀侯)を立てた。
[B.C.717隠公6年]
鄭伯、周に如き、
始めて桓王に朝するなり 鄭荘公は周に出かけて、はじめて桓王に見えたが、桓王は礼遇しなかった。周桓公は鄭が周室から離れるであろうと言った。
[B.C.716隠公7年]
泄伯、良佐、
陳の将に乱れんとするを知る 鄭の泄伯と良佐は陳に使いしたとき、公子五父の礼儀のなさと陳の政治を見て、やがて陳は乱れるであろうと思った。
[B.C.715隠公8年]
鄭伯、泰山の祊を以て
許の田に易へんと請ふ 鄭荘公は魯に祊と許の地を交換して、泰山の祭りを放棄して周公を祭らせてもらいたいと申し出た。
[B.C.714隠公9年]
鄭伯、王命を以て宋を討つ 宋殤公が周室に対する職責を怠ったので、鄭荘公はこれを討った。
[B.C.713隠公10年]
鄭伯、宋・衛・蔡を討つ 鄭が宋を攻めているときに、衛・宋の軍が鄭の与国戴をうった。鄭荘公は戴を救って、宋・衛・蔡の軍を破った。
[B.C.712隠公11年]
斉侯、許をもって公に譲る 斉・魯・鄭は許を討伐した。斉は魯にこれを与えようとしたが、魯隠公はこれを断った。
[B.C.711桓公元年]
鄭人復た周公を祀り、
卒に祊の田を易へんことを請う 鄭はまた祊の田を許と交換しようと申し出て、魯桓公はこれを許した。
[B.C.710桓公2年]
宋の督其の君與夷を弑し、
其の大夫孔父に及ぶ 宋の華父督は孔父を殺してその妻を奪った。宋殤公がそれを諌めたので、華父督は殤公も弑した。
[B.C.709桓公3年]
曲沃の武公、
翼を伐たんとして陘廷に次る 曲沃の武公は翼を討ち、翼侯を捕え、欒共叔をも捕えて殺した。
[B.C.708桓公4年]
王の師・秦の師、魏を囲み、
芮伯を執へて以て帰る 周と秦は魏を攻め囲み、芮伯を捕らえてつれ帰った。
[B.C.707桓公5年]
王の卒大いに敗る 鄭伯は政権を奪われたので、周に参朝しなくなった。そのため周・蔡・衛・陳の連合軍に攻められたが、鄭はこれを撃退した。
[B.C.706桓公6年]
随侯懼れて政を脩む。
楚敢へて伐たず 随侯は季梁の諌めをうけて政治にいそしんだ。楚は随を恐れてこれを討とうとはしなかった。
[B.C.705桓公7年]
曲沃の伯、晋の小子侯を誘ひて
之を殺す 曲沃の武公は晋の小子侯をおびき寄せて殺した。
[B.C.704桓公8年]
天其の疾を去れり。
随未だ克つ可からざるなり 楚は隋の少師を破って殺した。楚武王は随との和睦を拒否しようとしたが、鬭伯比は「随にあだをなす少師は除かれた。随に勝てません」と進言し、楚は随と和睦した。
[B.C.703桓公9年]
鄧の師大いに敗れ、ユウ人宵潰ゆ 楚と巴は使者を殺した鄧を討ち、これを大いに破り、その軍を潰滅させた。
[B.C.702桓公10年]
斉、衛、鄭来たりて郎に戦ふ 斉と衛と鄭が連合して魯に進撃した。
[B.C.701桓公11年]
祭仲、宋人と盟ひ、
厲公を以ゐて帰りて之を立つ 祭仲は宋におどされて厲公と共に帰国してこれを擁立した。鄭昭公は衛に亡命した。
[B.C.700桓公12年]
鄭の師と宋を伐つ 宋は魯と盟いを結んだが、これに背いたため、桓公は鄭と盟って宋を討ち、大いに破った。
[B.C.699桓公13年]
楚の屈瑕、羅を伐つ 楚の屈瑕が羅を討ったが、慢心していたため、渡河を急襲されて、楚は敗れた。
[B.C.698桓公14年]
宋人諸侯を以いて鄭を伐つ 宋は先年([B.C.700)の報復として諸侯を率いて鄭を討ち、鄭の祖廟のたるきを持ち帰って盧門のたるきとした。
[B.C.697桓公15年]
鄭伯突、蔡に出奔す 鄭厲公は祭仲を殺そうとしたが失敗した。そのため厲公は蔡に亡命し、昭公が復位した。
[B.C.696桓公16年]
衛侯朔、斉に出奔す 左公子と右公子が黔牟を擁立したので、恵公(朔)は斉に亡命した。
[B.C.695桓公17年]
斉の師と奚に戦ふ 斉人が魯の国境に侵入してきたので、魯は奚で斉軍と戦った。
[B.C.694桓公18年]
公、斉に薨ず 斉襄公と文姜の密通を知った桓公は、このことで文姜を責めた。襄公は公子彭生に命じて桓公を車中で殺させた。
[B.C.693荘公元年]
王姫の館を外に築く 斉に嫁ぐ王姫の館を城の内につくらず、城外に築いた。
[B.C.692荘公2年]
夫人姜氏、斉侯にシャクに会す 文姜は斉襄公とシャクで会合し、みだらな行いをした。
[B.C.691荘公3年]
紀季、ケイを以ゐて斉に入る 紀侯の弟紀季はケイをたずさえて斉に帰属し、紀は二分した。
[B.C.690荘公4年]
紀侯、其の国を大去す 紀侯は国を紀季に与え、紀は滅びた。
[B.C.689荘公5年]
公、斉人・宋人・陳人・蔡人に会して
衛を伐つ 荘公は斉に出奔した公子朔を衛に入れるため、諸侯と共に衛を討った。
[B.C.688荘公6年]
楚文王、申を伐ち、鄧を過ぎる 楚文王は申を討つ途中、鄧に立ち寄った。鄧の大臣らは文王を殺すよう進言したが、鄧キ侯は聴き入れなかった。
[B.C.687荘公7年]
夫人姜氏、斉侯に防に会す 斉襄公の希望で、文姜は防で襄公と会った。
[B.C.686荘公8年]
斉の無知其の君諸兒を弑す 公孫無知は叛乱を起こして斉襄公を弑し、代って立った。
[B.C.685荘公9年]
斉の小白、斉に入る 斉の公子小白は混乱した斉にいち早く戻り、即位して公子糾を撃退した。
[B.C.684荘公10年]
斉の師、譚を滅ぼす 斉桓公は、譚が無礼であったという理由で、これを攻め滅ぼした。
[B.C.683荘公11年]
公、宋の師をシに敗る 宋は魯に攻め入ったが、魯荘公はこれを防ぎ、逆に攻撃をかけて宋軍を打ち破った。
[B.C.682荘公12年]
宋の万其の君捷を殺し、
其の大夫仇牧に及ぶ 南宮万は宋湣公を弑し、事変を聞いて駆けつけた大夫の仇牧を手打ちにして殺した。
[B.C.681荘公13年]
斉侯・宋人・陳人・蔡人・邾人、
北杏に会す 諸侯は宋の乱を治めるため北杏で会合した。
[B.C.680荘公14年]
鄭の厲公、櫟より鄭を侵す 鄭厲公は櫟から鄭に攻め入り、甫瑕を利用して、鄭君を殺させて、都に入った。
[B.C.679荘公15年]
斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯、
鄄に会す 斉桓公は諸侯と鄄で会合し、はじめて覇者となった。
[B.C.678荘公16年]
楚、鄭を伐ちて櫟に及ぶ 鄭厲公は復位したが、時がたってから楚に知らせたため、楚はその無礼を責めて鄭を討った。
[B.C.677荘公17年]
斉人、鄭の詹を執ふ 鄭厲公が斉に聘せず、詹を遣わしたので、斉はその無礼を責めて詹を捕えた。
[B.C.676荘公18年]
公、戎を済の西に追ふ 魯荘公は済水の西で戎の兵を追い払った。
[B.C.675荘公19年]
蔿国・辺伯・石速・詹父、子禽・祝跪、乱を作す 蔿国・辺伯・石速・詹父、子禽・祝跪は叛乱を起こし、大夫の蘇氏を中心とし、公子頽を擁立した。
[B.C.674荘公20年]
鄭伯、王室を和せんとして尅はず 鄭厲公は周室の乱を治めようとしたが成功せず、周室を攻めた南燕の仲父を捕らえた。
[B.C.673荘公21年]
鄭伯、虢公、同に王城を伐つ 鄭厲公と虢公は約束して王城を攻め、公子頽と叛乱した大夫らを殺し、恵王を復位させた。
[B.C.672荘公22年]
陳人其の公子御寇を殺す 陳人は太子御寇を殺した。太子の一味であった公子完は斉に亡命した。
[B.C.671荘公23年]
公、斉に如き社を観る 魯荘公は斉に出かけて社祭を見物した。曹沫がこれを諌めたが、荘公は聴き入れなかった。
[B.C.670荘公24年]
桓宮の桷に刻む 魯荘公は桓宮の桷に彫刻を施し、冬に柱を朱塗りにした。これらは礼にそむくとして批難された。
[B.C.669荘公25年]
晋侯、聚を圍み、盡く群公子を殺す 晋献公は士蔿に命じて公子たちを聚を攻めて公子たちをみな殺しにした。
[B.C.668荘公26年]
公、宋人・斉人に会して徐を伐つ 魯荘公は宋と斉とともに徐を討った。
[B.C.667荘公27年]
公、斉侯・宋公・陳侯・鄭伯に会して
幽に同盟す 斉桓公・魯荘公・宋桓公・陳宣公・鄭文公は幽で会盟し、陳と鄭は斉に服従した。
[B.C.666荘公28年]
子元、文夫人を蠱はさんと欲し、
萬を振はす 令尹子元は息嬀を誘惑しようとしたが、息嬀にたしなめられたため、自ら戒めて鄭を討った。
[B.C.665荘公29年]
樊皮、王に叛く 樊皮が周王室に対し謀反を起こした。
[B.C.664荘公30年]
闘穀於菟、令尹と為り、自ら其の家を毀ちて、以て楚国の難を縁す 闘穀於菟が令尹の官につき、みずから家財を投じて楚の財政を救った。
[B.C.663荘公31年]
斉侯来たりて戎の捷を献ず 斉桓公が魯にやって来て、戎の戦利品を献上した。
[B.C.662荘公32年]
共仲、圉人犖をして子般を黨氏に
賊せしむ 魯荘公が没すると、慶父は犖に命じて公子般を殺して、公子啓方(湣公)を立てた。
[B.C.661湣公元年]
晋侯二軍を作る 晋献公は二軍をつくり、申生を下軍の将とした。士蔿は、申生は君になることができないであろうと予言した。
[B.C.660湣公2年]
共仲、卜齮をして公に武闈に賊せしむ 慶父は卜齮に命じて湣公を宮中の小門で殺させた。
[B.C.659釐公元年]
斉の師・宋の師・曹の師、邢に城く 斉と宋と曹は邢を助けて狄を追い払い、夷儀に城壁を築いた。
[B.C.658釐公2年]
諸侯楚丘に城づきて衛を封ず 諸侯は楚丘に城壁を築いて、衛を復興させた。
[B.C.657釐公3年]
斉侯・宋公・江人・黄人、陽穀に会す 斉と宋と江と黄は斉の陽穀で会合して、楚を討つ相談をした。
[B.C.656釐公4年]
楚の屈完来たりて師に盟はんとす。
召陵に盟ふ 斉桓公は諸侯を率いて楚に攻め入った。楚成王は屈完を遣って和平を請い、召陵で会盟した。
[B.C.655釐公5年]
晋侯其の世子申生を殺す 晋献公は太子申生を殺した。
[B.C.654釐公6年]
斉侯・魯公・宋公・陳侯・衛侯・曹伯に会して鄭を討ち、新城を圉む 斉・魯・宋・陳・衛・曹は会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
[B.C.653釐公7年]
斉侯・魯侯・宋公・陳の世子款・鄭の世子華に会して甯毋に盟ふ 斉・魯・宋・陳・鄭は会合して甯毋で盟約した。
[B.C.652釐公8年]
斉侯・魯侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳の世子款に会して決に盟ふ 斉・魯・宋・衛・許・曹・陳は会合して決で盟約した。
[B.C.651釐公9年]
晋の里克、其の君の子奚斉を殺す 晋献公が没し、奚斉が即位すると、里克はこれを殺した。
[B.C.650釐公10年]
郤芮、邳鄭・キ挙・七輿大夫を殺す 郤芮は邳鄭・キ挙・七輿大夫を疑って、これらを殺す。
[B.C.649釐公11年]
諸戎、周の都を伐ち、王城に入る 諸戎は王城に入って東門を焼いた。
[B.C.648釐公12年]
斉侯、管夷吾をして
戎を王に平らげしめる 斉桓公は管仲に命じて戎を周王と和解させた。
[B.C.647釐公13年]
斉侯・魯侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯鹹に会す 斉・魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹は鹹で会盟する。
[B.C.646釐公14年]
諸侯、縁陵に城く 諸侯は杞の縁陵に城壁を築いて、そこに杞の都を移した。
[B.C.645釐公15年]
晋侯、秦伯と韓に戦う。晋侯を獲ふ 晋恵公は秦繆公と韓原で戦い、秦の捕虜となった。
[B.C.644釐公16年]
宋に隕つる石あり五 宋に隕石が5つ落ち、宋襄公はこの意味を周の内史に質問した。
[B.C.643釐公17年]
斉侯小伯卒す 斉桓公が没し、易牙は大夫らを殺して公子無詭を擁立する。
[B.C.642釐公18年]
宋公・曹伯・衛人・邾人、斉を伐つ 宋襄公は諸侯を率いて斉を討ち、孝公を斉の君に擁立する。
[B.C.641釐公19年]
宋人、曹を囲む 宋襄公は曹が宋に服従しなかったので、これを討伐した。
[B.C.640釐公20年]
楚人、随を伐つ 随が楚に背いたので、楚の闘穀於菟は軍を率いて随を討った。
[B.C.639釐公21年]
楚子、宋公を執へて以て宋を伐つ 宋穣公は諸侯と会合したが、楚はこの会合で襄公を捕えて宋を討った。
[B.C.638釐公22年]
宋公、楚人と泓に戦う。
宋師敗績す 宋穣公は楚と泓水で戦ったが、敗れて負傷する。
[B.C.637釐公23年]
晋侯立ち、狐突を殺す 晋懐公は即位し、重耳に組している者を捕えようとして、狐偃の父狐突を殺した。
[B.C.636釐公24年]
天王出でて鄭に居り 叔帯が叛乱し、周を攻めたので、周襄王は都を出て鄭に逃れた。
[B.C.635釐公25年]
晋侯、王を逆ふ 晋文公は出兵して叔帯を討ち、襄王を迎え入れた。
[B.C.634釐公26年]
宋、其の晋侯に善きをもって、
楚に背き晋に即く 宋は晋文公と仲がよいことを頼みとして、楚に背いて晋についた。
[B.C.633釐公27年]
楚子、諸侯と宋を圍む
宋の公孫固、晋に如きて急を告ぐ 楚成王は諸侯とともに宋を攻め囲んだ。宋の公孫固は晋に赴いて危急を告げた。
[B.C.632釐公28年]
晋侯、斉の師、秦の師、楚人と城濮に戦ふ。楚の師敗績す 晋文公、斉・秦とともに楚と城濮で戦い、楚軍は敗れた。
[B.C.631釐公29年]
王人・晋人・宋人・斉人・陳人・蔡人・秦人に会して翟泉に盟ふ 周・晋・宋・斉・陳・蔡・秦は会同して翟泉で盟いを結んだ。
[B.C.630釐公30年]
晋侯・秦伯・鄭を圍むが、燭之武は秦伯を説得し、秦を退却させる 晋・秦は鄭を討ったが、鄭は燭之武に命じて秦繆公を説得させ、秦を退かせた。
[B.C.629釐公31年]
晋、清原に蒐し、
五軍を作りて以て狄を禦ぐ 晋は清原で蒐を行い、五軍を作り、それによって狄の侵入を防いだ。
[B.C.628釐公32年]
楚、平ぎを晋に請い、
晋楚はじめて通ず 楚は晋に和平を願い出て、ここに晋と楚が始めて友好の交わりを持った。
[B.C.627釐公33年]
晋、秦の師を殽に敗り、百里孟明視・西乞術・白乙兵を獲へて以ゐて帰る 晋は秦軍を殽で破り、孟明視、西乞術、白乙兵を捕えて帰還した。
[B.C.626文公元年]
楚の世子商臣、其の君頵を弑す 成王ははじめ公子商臣を太子に立てたが、のちに王子職を太子に立てたいと思った。それを聞いた商臣は成王を攻め囲んでこれを弑し、自ら即位した。
[B.C.625文公2年]
晋侯、秦の帥と彭衙に戦ふ 秦の孟明視が晋を討った。晋襄公はこれを防ぎ、彭衙で秦軍を大破した。
[B.C.624文公3年]
秦人、晋を伐つ 秦繆公は晋を討ち、王官を攻め取って国都の近郊まで進撃した。晋軍はあえて出て戦わなかった。ここに繆公は西方の戎の覇者となった。
[B.C.623文公4年]
楚人、江を滅ぼす 楚が江を滅ぼした。
[B.C.622文公5年]
楚人、六を滅ぼす 楚は秋に六を滅ぼし、冬に廖を滅ぼした。
[B.C.621文公6年]
晋、其の大夫陽処父を殺す 狐射姑は降格人事を恨んで、狐鞫居に命じて陽処父を殺した。
[B.C.620文公7年]
晋人、秦人と令狐で戦ふ 趙盾は晋から公子雍を迎えて君位につけようとしたが、その言に反して霊公を立てようとし、公子雍を晋に送り届けようとした秦軍を令狐で急襲した。
[B.C.619文公8年]
宋人、其の大夫司馬を殺す 宋の王姫は戴氏の一族の力をかりて昭公の一味である孔叔・公孫鐘離・公子卬を殺した。
[B.C.618文公9年]
晋人、其の大夫先都を殺す 晋霊公は前年に叛乱した箕鄭・先都・士縠・梁益耳・蒯得を殺して乱を鎮圧する。
[B.C.617文公10年]
楚子・蔡侯、厥貉に次す 楚穆王は蔡荘侯と厥貉に陣を敷き、宋を討とうとした。宋の華御事は宋昭公に降服を勧めたため、宋は楚に降服した。
[B.C.616文公11年]
叔孫得臣、狄を鹹に敗る 叔孫得臣は魯に侵入した狄を討ち、その君長狄喬如を討ち取った。叔孫得臣はその功績を明らかにするため、わが子の宣伯に喬如という名をつけた。
[B.C.615文公12年]
晋人・秦人、河曲に戦ふ 秦は令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。晋はこれを迎え撃って、両軍は河曲の地で戦ったが、勝敗はつかなかった。
[B.C.614文公13年]
晋人、秦の士会を用ゐるを患ふ 晋は、秦が士会を重用して晋にあだをなしていることを気にかけ、策略で秦から士会を晋に連れ戻した。
[B.C.613文公14年]
斉の公子商人、其の君舎を弑す 斉の公子商人は君の位についた舎を弑して、自ら君の位についた。
[B.C.612文公15年]
諸侯、扈に盟ふ 11月、晋・宋・衛・蔡・陳・鄭・許・曹は扈で会盟し、斉を討伐することを相談した。しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、諸侯は斉を討たなかった。
[B.C.611文公16年]
宋人、其の君杵臼を弑す 宋人は公子鮑をかつぎ出し、王姫の権勢に頼って昭公を狩に誘い出して攻め殺した。
[B.C.610文公17年]
晋人・衛人・陳人・鄭人、宋を討つ。 晋の荀林父、衛の孔達、陳の公孫寧、鄭の石楚が宋を討ち、君の弑殺を責めただしたが、結局文公の即位を認めて引き揚げた。
[B.C.609文公18年]
斉人、其の君商人を弑す 丙戎と庸職は積年の恨みにより、斉懿公を弑し、その死体を竹薮の中に隠し、家に帰って祝杯をあげて立ち去った。
[B.C.607宣公二年]
晋の趙盾、その君霊公を弑す 晋の趙盾はたびたび晋霊公を諌めた。霊公はこれを疎んじて趙盾を殺そうとしたため、趙盾は出奔した。趙盾が国外に出ないうちに趙穿が霊公を弑したため、史官の董狐は「趙盾その君を弑す」と記録した。
[B.C.606宣公三年]
楚の荘王、鼎の大小軽重を問う 楚荘王は陸渾の戎を討ち、周王朝の鼎の軽重を問うた。王孫満は「まだ天命は周から去っていません。鼎の軽重を問うべきではありません」と答えた。
[B.C.597宣公十二年]
楚の荘王、武の七徳を論ず 楚は泌で晋を破った。楚荘王は「戈を止めて用いないというのが、武という字である。私は武の七徳を持ち合わせていない。どうしてこれ以上晋を辱めようか」と言って帰還した。
[B.C.595宣公十四年]
宋人、楚人と平ぐ 楚は宋を包囲した。晋は解揚を宋に遣わし、降服しないようにさせた。また宋は飢えて極まったので、宋の宰相華元は楚将子反に請うて、楚と和平した。
[B.C.583成公八年]
季文子、晋の二命を難ず 晋景公は韓穿に命じて、魯に斉に汶陽の田を帰すよう使者に出した。季文子は「晋は盟主であるのに、斉・魯でとりきめたことを覆そうとすると、諸侯の信を得られないでしょう」と言った。
[B.C.581成公十年]
病は肓の上、膏の下に在り 晋景公は病気になり秦から名医緩を招いた。緩は「病が肓の上、膏の下に入り込んでしまっているので、治しようがありません」と言った。
[B.C.558襄公十五年]
子罕、玉を辞す 民が子罕に玉を献じた。子罕は「私は欲張らないことを宝としており、あなたは玉を宝としております。もしもあなたがその宝とする玉をわたしに与えたならば、お互いに宝を失うことになります」と言って辞退した。
[B.C.549襄公二十四年]
穆叔、不朽を論ず 范宣子は「わが家は舜の時代から続いています。これは死して朽ちずといえますか」と問うと、叔孫豹は「それは幸福が大きいということで、不朽とはいえません」と答えた。
[B.C.549襄公二十四年]
子産、范宣子を誡む 范宣子が政治を執ると諸侯に多く品物を求めた。鄭の子産は「諸侯の心が離れましょう」と誡めた。
[B.C.544襄公二十九年]
季札、周楽を観る 呉の季札は魯に来朝し、諸国の楽を聴き、感想や批判を述べた。
[B.C.542襄公三十一年]
子産、郷校を毀たず 鄭の大夫鬷蔑は「政を批判する学校を廃止しましょう」と言うと、子産は「人々の批判を聞いて政治を行います。どうして廃止したりしましょう」と答えた。
[B.C.539昭公三年]
晏子一言して、斉侯、刑を省く 斉景公は市での物の値段を晏嬰に問うた。晏嬰は「踊が高くて普通の履物は安いです」と答えた。そこで景公は刑罰を軽くした。
[B.C.538昭公四年]
女叔斉、晋の平公を諌む 楚霊王が会盟を申し入れたが、晋平公は断ろうとした。女叔斉はこれを諌めて「今や天が楚の思うままにされております。それに背いてはなりません」と言った。
[B.C.536昭公六年]
叔向、鄭の刑書を鋳るを論ず 鄭の子産が成文法を作った。晋の叔向はこれを諌めた。子産は「あなたのお言葉どおりです。しかし私は才能がなく、子孫の将来のことまで考えることができません。しかし決してご助言は忘れません」と答えた。
[B.C.535昭公七年]
日食の占 夏4月日食があった。晋の大夫士文伯は「衛の星宿である娵シと魯の星宿である降ロウにおこっているので、衛と魯が咎めをうけるでしょう」と言った。
[B.C.535昭公七年]
孟懿子と南宮敬叔、仲尼に師事す 孟釐子は遺言で子供らに孔子について礼を学ぶよう言い残した。二人は遺言どおり、孔子に師事した。
[B.C.500定公十年]
夾谷の会 魯と斉は和睦し、夾谷で会同した。孔子は礼にのっとって斉の無礼を責め、国益を傷つけなかった。
[B.C.495定公十五年]
賜や不幸にして言いて中る 邾隠公は魯に来朝したとき不礼があった。子貢はそれを見て邾と魯にわざわいが起こるだろうと予言した。はたしてそのとおりとなった。
[B.C.484哀公十一年]
孔子、田賦を誡む 季康子が田賦を割当てようとして孔子に意見を求めた。孔子はこれを否定したが季康子は聞き入れなかった。
[B.C.479哀公十六年]
孔丘卒す 孔子が没すると哀公は哀悼の意を述べた。子貢は「わが君は先生を用いることができず、死んでこのような弔辞をおくるのは礼にかなっていない」と言った。

ちなみに、『春秋経』に出てくる隠公とか桓公とかの代々の君主の名はいわゆる謚(おくりな)で、生前の徳行や事跡を基に与えられた死後の称号です。
なお、諡号の付け方には決まりがあるため、最後に『春秋経』に出てくる歴代の君主の諡号とその意味、簡単な経歴を列挙しておきます。

【春秋経における諡号】
[十四代隠公(隠拂不成曰隠=理に逆らわないが成さざる事)]
 十三代恵公の庶長子として生まれ、幼い嫡子の軌(後の十五代、桓公)の摂政として魯君主となる。その間、道に外れることも無く、無難に君主代行の務めを果たした。最後は非業の死を遂げる。
[十五代桓公(辟土服遠曰桓=武力によって四夷を征する事)
 賢臣、臧孫達を用いて周辺国との外交・軍事に手腕を発揮するも、妻の不倫事件に巻き込まれて不慮の死を遂げる。
[十六代荘公(兵甲亟作曰荘=度々征戦を繰り返す事・勝敵志強曰荘=不撓不屈の精神を以て勝つ事)
 斉国との外交に尽力して功績を残すが、後継問題で一悶着する。
[十七代閔(または愍)公(禍乱方作曰愍=国が乱れ動乱が長く続く事)
 叔父、慶父の推挙で君主となるも、僅か二年でその叔父に殺されてしまう。慶父に人生を振り回された不運の君主。
[十八代僖公(小心畏忌曰僖=気が小さく大を懼れ小を侮る事)
 斉や晋などの大国との会盟では卑屈に悄然とし、小国との対応には侮って傲然とした態度を取る人物であった。その結果、小国邾の軍に大敗する事になる。
[十九代文公(経緯天地曰文=徳目を世に明らかにする事・学勤好問曰文=学問に努め知識吸収に積極的な事・愍民恵禮曰文=恵み深く礼儀正しい事、など最高の諡号)
 輔佐した三桓の助けを借りて、晋をはじめ周辺諸侯との関係をうまく保った。文公卒後、三桓が力を得て次第にのし上がっていく下地を作る事になる。
[二十代宣公(善聞周達曰宣=何事にも良く耳を傾ける事)
 魯公室の力は弱く、三桓が強勢を誇った時代で、外交も斉との友好関係を続けたり、周辺小国を併呑したりと順調に推移した。特筆すべきは田税の改革を行った事。宣公は晩年、晋の力を借りて三桓を除こうと謀ったが、成らぬまま没した。
[二十一代成公(安民立政曰成=政を安定させて民を安んずる事)
 晋の力を借りて斉と敵対するようになり、勢力を伸ばしてきた楚と和睦したりと、可成り際どい外交を行っていた。税制改革の総仕上げも行われた。
[二十二代襄公(僻地有徳曰襄=未開の土地を徳を以て服従させる事・因事有労曰襄=乱を治め平和をもたらす事)
 三桓の力が強く、ますます公室は弱体化した。楚との関係強化が図られた。孔子が生まれたのが襄公二十二年(紀元前551年)。
[二十三代昭公(容儀恭美曰昭=礼儀正しく慎み深い事、当たり障りの無い諡号)
 公室の弱体化はさらに進み、政権は三桓の手に帰す。昭公は三桓を討つも破れ、斉に逃れてその力を借りて復帰を試みるも果たせず、八年の間流亡したまま没した。
[二十四代定公(安民大慮曰定=深く思いを巡らせて民を安んずる事・安民法古曰定=初心を忘れず民を安んずる事・純行不傷曰定=ただひたすらに力を注ぐ事、など無難な諡号)
 公室と三桓との抗争が続く。斉との友好関係を復活させたり、孔子を司寇に登用するなど復権を試みるが果たせず。季氏の家臣陽虎が魯の国政を専断する事件が起きる。
[二十五代哀公(蚤孤短折曰哀=早くに父を亡くし自身も夭折する事・恭仁短折曰哀=慎み深く徳が有るも夭折する事)
 呉・斉・晋らの大国と合従連衡を繰り返しながら戦に明け暮れたり三桓に抗して反って出奔する羽目になったりと、慌ただしい一生を過ごした。孔子が亡くなったのが哀公十六年(紀元前479年)。

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