「奇想の絵師」と呼ばれ、自由な発想、ユーモア、デッサン力、デザイン性の高さなどから、内外を問わず多くのファンを持ち、国際的にも高く評価されている歌川国芳をご存じですか。
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蛸・猿・蛙・金魚など様々な動物を擬人化した戯画、迫力のドクロ絵に、躍動感あふれる捕鯨の図など、他に例を見ない斬新さに満ちた浮世絵師・国芳の作画は、他方洋風表現を駆使した風景画など、多才にして多彩な画風に溢れています。
今回は、そんな江戸時代に活躍した国芳を取り上げてみたいと思います。
葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期にあって、同時代に活動したのが歌川国芳です。
そもそも師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』の錦絵シリーズ「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」が評判となり、武者絵で一躍名を馳せた国芳ですが、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえず、彼が注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことです。
「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」「相馬の古内裏」などを発表し、“武者絵の国芳”とまで称され人気を博した国芳ですが、ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表し、その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた浮世絵師です。
老中水野忠邦による「天保の改革」が断行され、質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止となった折には、幕府の理不尽な弾圧に浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけ、1843年(天保14年)『源頼光公館土蜘作妖怪図』を発表します。
これは、一見平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものですが、実は妖術に苦しめられている頼光を十二代将軍家慶に見立て、国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判を込めたばかりか、絵の至るところに悪政に対する風刺を仕込んだのです。
国芳がこの作品に込めた風刺を、江戸の人々はひとつひとつ謎を解いては、溜飲を下げて大喜びしたといわれている程。
その後も、幕府に再三尋問を受けるものの、国芳は禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けたといわれています。
老中水野忠邦が失脚すれば、国芳は『宮本武蔵と巨鯨』を発表。
武蔵の強さを表現するのに、ケタ違いの鯨と戦わせた浮世絵3枚分に描かれた大スペクタクル絵画は、多くの江戸っ子の心を掴んだのです。
ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪放淡泊で頑固な国芳に江戸中が夢中になったもの当然といえば当然でしょう。
一方では猫をこよなく愛するなど、人間的な魅力に富んだ人物であったらしく、風景画、美人画、役者絵、花鳥画、武者絵、風刺画、戯画、版本の挿絵、肉筆画など幅広く活躍し、天保(1830~44)前期に「東都名所」「東都○○之図」などの風景版画シリーズで近代的な感覚を見せ、同後期の「金魚づくし」、弘化(1844~48)末ごろの「荷宝蔵壁のむだ書」などの遊び心に満ちた戯画も注目されます。
一方で西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の作風を学ぶなど旺盛な吸収力を見せ、清新な洋風陰影法を駆使した風景画に彼の力量と高い芸術性を示す優品が多く、観る者を驚かせ喜ばせるサービス精神にも富んでいた人物です。
そんな反骨あふれる国芳の多才な作品に触れてみてはいかがでしょうか。