十八史略より学ぶ!三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約した歴史入門書!

中国の歴史読本に、正史のうち『史記』から『新五代史』までの17正史に『宋史』を加えた18史を取捨選択して編纂した『十八史略』という歴史入門書があります。
もともとは元代の曾先之が編んだ2巻本から成りますが、これに明代に注釈が加えられ、7巻本となっています。

臥薪嘗胆、
鼓腹撃壌、
酒池肉林、
管鮑の交わり、
太公望、
喪家の狗、
鼎の軽重を問う、
隗より始めよ、
むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ、
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、
虎穴に入らずんば虎子を得ず、
水清ければ大魚棲まず、
国士無双、
四面楚歌、
韓信の股くぐり、
刎頚の交わり、
糟糠の妻、
背水の陣、
多々ますます弁ず、
竹林の七賢、
馬鹿の由来、
泣いて馬謖を斬る、
握髪吐哺、
先ず隗より始めよ、
危急存亡の秋、
三顧の礼、
死せる孔明、生ける仲達を走らす、
……

「略」とあるようにかなり内容が圧縮されていることから、『十八史略』の史料的価値は低いのですが、上記のように多くの故事成語・逸話を含んでいることから、中国歴史のダイジェスト版・入門書として古くから親しまれてきた中国古典のひとつです。

そもそも中国には膨大な史籍があり、正史二十四史だけでも3,300余巻、いくら専門家といえども、いちいちこれを通読することはできません。
そこで宋の司馬光は戦国時代から五代十六国までを通史としてまとめ、294巻から成る『資治通鑑』を作りました。
『十八史略』は、当時元の学者であった曽先之がこうした中国史をさらに要約し、万人に読ませようと書いたものです。

内容としては、三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約しており、日本では中国史の入門書として室町中期に伝来しました。
徳川時代に入ると各藩校・漢学塾等では、武士が親しむべき重要な書物の1つとして『十八史略』を教科書として用いるようになり、明治に入ると小学校、のちには中学校で、漢文や東洋史の教科書として広く使われていました。
しかも『十八史略』は単なる中国史の要約ではなく、儒教精神による政治哲学が盛り込まれて人間の生き様が描かれていたことから、今日まで多くの人に愛読されてきた訳です。

全体の構成としては、
・『史記』- 司馬遷
・『漢書』- 班固
・『後漢書』- 范曄
・『三国志』- 陳寿
・『晋書』- 房玄齢 他
・『宋書』- 沈約
・『南斉書』- 蕭子顕
・『梁書』- 姚思廉
・『陳書』- 姚思廉
・『魏書』- 魏収
・『北斉書』- 李百薬
・『後周書』- 崔仁師
・『隋書』- 魏徴・長孫無忌
・『南史』- 李延寿
・『北史』- 李延寿
・『新唐書』- 欧陽脩・宋祁
・『新五代史』- 欧陽脩
・「宋鑑」(『続宋編年資治通鑑』- 李熹、『続宋中興編年資治通鑑』- 劉時挙の2書をひとつと数える)
の十八史を略述して出来上がっています。

では、『十八史略』の中から、興味深い故事や逸話などを幾つかピックアップしてみましょう。

【鼓腹撃壌】
「鼓腹」は腹つづみをうつこと。「壌」は土・地面。「撃壌」は地面をたたいて拍子をとること。
太平の世の形容。太平で安楽な生活を喜び楽しむさま。善政が行われ、人々が平和な生活を送るさま。

帝尭陶唐氏は帝嚳の子である。
その仁は天のように広く、その知恵は神であるかのように、人並み外れていた。
近づいてみると、その心は太陽のように温かく。
遠くから見ると、雲が大地を覆い、恵みをもたらすかのように偉大であった。
平陽の地に都を置いた。
宮殿の屋根はかやぶきで、その端を切りそろえておらず、
宮殿へ上る階段は、土で築いた三段だけであった。

天下を治めて五十年が経ったが、
天下が平安なのか、平安でないのか、
万民が自分を天子としてあがめることを願っているのか、願っていないのか、わからなかった。
側近に聞いたが知らず、外朝に聞いたが知らず、民間人に聞いたが知らなかった。
そこで目立たない服装をして大通りを出歩いた。
童謡を聞くとこのように歌っていた、
「私たち民衆を無事に生活できるのは すべてあなたの立派な徳のおかげです
知らず知らずのうちに 帝の法に従っています」
老人がおり、食べ物を口に含み腹つづみをうち、
足で地面を踏み鳴らして拍子をとりながら、このように歌っていた、
「日が昇れば耕作し 日が沈めば休息する
水が飲みたければ井戸を掘って飲み 食べ物を食べたければ田を耕す
帝の力が、どうして私に関わりがあろうか」

尭が帝位について七十年経ったころ、九年間洪水が続いた。
鯀にこれを治めさせようとしたが、九年経っても功績が上がらなかった。
尭は年老いて政治に疲労した。
四岳は舜を推挙して、天下の統治を代行させた。
尭の子である丹朱は親に似ず愚か者であった。
そこで、舜を天に推薦し、後継者とした。
尭が崩御して、舜が即位した。

【馬陵の戦い】
これは有名ないわゆる「魏を囲んで、趙を救う」計略である。
こうすることにより、魏の軍勢を本国に戻させ、かつ、疲れさせ、
戦いのイニシアティブ(主導権)を握ったのである。

魏は韓に攻撃した。韓は斉に援軍を求めた。
斉は、田忌を総司令官とした援軍を韓に送った。
魏将、龐涓は、 以前孫臏といっしょに兵法を学んでいた。
龐涓は魏の将軍となったが、 自分で自分が孫臏に及ばないことを知っていたため、
法に引っ掛け、両足を切断し、黥(いれずみ)を入れる刑に処させた。
斉の使者が魏に来たとき、ひそかに孫臏を載せて帰った。
こうして、彼は田忌配下の軍師となり、まっすぐ魏都大梁に進撃した。
龐涓は軍を韓から撤退させ、魏に戻った。

孫臏は魏の領地に侵攻した部隊の兵に、十万のかまどを作るよう指令し、
翌日には五万、その翌日には二万と、その数を減らし、斉軍の兵が減っているように見せかけた。
龐涓は大喜びしていった、
「私はもともと斉軍が臆病なのを知っていた。
われわれ魏の領地に入って三日で、斉軍は兵の過半数が脱走した。」
そこで、昼夜を問わず行軍し、一日に二日分の行程を行く猛追撃を行った。

孫臏はその行軍速度を推測し、 夕方には馬陵に至るに違いないと考えた。
また、馬陵の地を見てみると、道がせまく、脇には険しい場所が多かったので
彼は、伏兵を置くのが良いだろう、と考えた。
そこで、大樹を削って白くし、このように書いた、
「龐涓はこの樹下で死ぬだろう。」
斉軍の腕の立つ射手に弩を持たせた伏兵の大部隊を、道をはさんで配置し、
夕方に火が挙がるのをみたら矢を放て、と指令した。

龐涓は、案の定、夜、 削っておいた木の下にきて、白く削って書かれた文を見、火でこれを照らした。
その瞬間、無数の矢が同時に放たれ、魏軍は大混乱に陥った。
龐涓は、
「あろうことか、青二才に名を成さしめてしまった。」と言って自殺した。
斉は魏軍を大破し、太子申を捕虜にした。

【鶏口牛後】
「鶏口」はニワトリの口で、小さい組織のトップをあらわす。
「牛後」は牛の尻尾とも尻ともいわれ、いずれにせよ大きい組織の下働きをあらわす。
大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよいということ。

秦は諸侯を、武力を背景に威し、領土の割譲を求めていた。
洛陽の人に蘇秦という者がいた。
秦の恵王のところに遊説したが、用いられなかった。
そこで燕の文侯のところへ赴き、趙と南北に同盟させようとして、説いた。
燕は蘇秦に遊説資金を与え、それで趙に行かせた。
粛侯にこう説いた、
「諸侯の兵力を合わせれば、それは秦の兵力の十倍に値します。
力を合わせて、西方の秦を攻撃すれば、秦は必ず敗北するでしょう。
大王の為に愚考しますところ、六ヶ国が南北に同盟し、秦を排斥するよりよい方法はありません。」
そこで、粛侯は蘇秦に遊説資金を与えて諸侯と同盟を結ばせようとした。
蘇秦は世間によく言われていることわざを使って、このように諸侯に説いた、
「小さな組織のトップになっても、大きな組織に従属してはならない。」
かくして、南北六国の同盟が成立した。

【先づ隗より始めよ】
遠大な事業や計画を始めるときには、まずは手近なところから着手するのがいいというたとえ。
また、物事は言い出した者から始めよというたとえ。

燕の人は、太子平を即位させ君主とした。これが昭王である。
昭王は戦死者を弔い、生還者を見舞い、へりくだった言葉を使うようにし、給料を上げ、
それによって賢者を招こうとした。

昭王は郭隗にこのように聞いた、
「斉はわたくしの国、燕の混乱に乗じてこの国を襲い、破りました。
わたくしは燕が小さく、この恨みに報いるのに国力が足らないことをよくわかっています。
ぜひとも賢者を得て、その者たちと国を共同で治め、それによって先王の恥をすすぎたい、
これがわたくしの願いです。
先生はいい人を紹介してください。
ぜひともその人に師事したいと思います。」

郭隗はこのように言った、
「昔の君主に、千金もの大金を持たせ、宮中の雑用や清掃を行う涓人という役人に命じて、
一日に千里も走るというほどの名馬を買い求めようとした者がいました。
涓人は死んだ名馬の骨を五百金で買って帰りました。
その君主は怒りました。
涓人はこのように言いました。
『死んだ馬でさえ五百金もの大金で買うのです、まして生きた馬はなおさら高く買うでしょう。
名馬はすぐに来るに違いありません。』
まる一年もしないうちに、一日に千里も走るという名馬が三頭も来ました。
もし王が優れた人材を燕に招致したいと思うならば、まず私、隗から優遇し始められよ。
まして、私より賢いものが、どうして千里を遠いとして、燕に来ないでしょうか、いや来るにちがいありません。」

こうして、昭王は郭隗の為に立派な御殿を改築し、彼に師事した。

こうして、天下の賢士は争って燕に向かった。
楽毅は魏から赴いた。
昭王は彼を亜卿として、国政を任せた。
まもなく、昭王は楽毅に命じて斉を攻撃させ、斉都臨淄を占領した。
斉王は臨淄から出て逃げた。
楽毅は勝ちに乗じて、半年の間に、斉の七十余りの城を攻め落とした。

【完璧】
傷のない宝玉の意から、欠点がまったくないこと。また、そのさま。

趙の恵文王は、かつて稀代の名玉、和氏の璧を手に入れた。
秦の昭王は、十五の城と和氏の壁を交換しようと申し出た。
秦の強大さが恐ろしくて断れず、また欺かれるのも恐ろしく、承諾するのもどうかと思われた。
そのとき、藺相如という者が和氏の璧を持って秦に行きたいと願い出た。
「城が手に入らなかったら、私にこう命じられよ、和氏の璧を完全な状態で持ち帰れ、と。」

藺相如は秦に到着した。
秦の昭王には城を与える意思は無かった。
そこで、藺相如は欺いて和氏の璧を奪い返した。
その瞬間に髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた。
彼は後ずさりして柱の下に立ち、こう言った、
「私の頭をこの壁にぶつけ、もろとも砕いてやる。」
後に、従者に璧を懐に抱いて抜け道を通り、気づかれないように帰るようにさせて、
自身は秦の処分を待った。
秦の昭王はこれを賢いとして藺相如を趙に返した。

【燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや】
ツバメやスズメのような小さな鳥には、オオトリやコウノトリのような大きな鳥の志すところは理解できない。
小人物には大人物の考えや志がわからない、というたとえ。

陽城の人、陳勝は字を渉と言った。
若いときは他の人と一緒に雇われて耕作をしていた。
ある時、耕作の手を休め、畑の中の小高いところに行き、長い間嘆いた様子を見せて、こう言った。
「もし金持ちで身分の高い人物になったら、あなたのことを忘れないようにしよう。」
雇われ人夫はこう言った、
「君は雇われて耕作などしている、どうして金持ちで身分の高い人物になれようか(、いやなれない)。」
陳勝はため息をついて嘆きながら、こう言った、
「ああ、ツバメやスズメのような小鳥に、どうして大鳥の志がわかろうか(、いやわからない)。」

その後、呉広と蘄県で挙兵した。
当時は集落の左側に住む免役者までも徴兵して、
漁陽郡の守備に動員することになっており、
陳渉と呉広はその前線守備隊の小隊長だった。

前線へ赴く途中、たまたま大雨が降って道を通れなかった。
そこで、仲間を呼んでこう言った、
「あなた方は到着の期日に間に合わない、これは秦の法律では斬殺の刑に当たる。
壮年のあなた方が、死にたくないのならば、ここまでである。
だが、死ぬ覚悟があれば、大きな名声を得ることも可能だ。
王や諸侯、将軍や宰相に、どうして血統があろうか(、いやない。今こそは我々がそうなれるチャンスだ)。」
そこにいた者は、みな陳勝の言葉に従った。

そこで、公子扶蘇と項燕の名を詐称し、
また、国を大楚と称した。
陳勝は自立して将軍となり、呉広は都尉となった。

【管鮑の交わり】
互いに理解し信頼し合った、きわめて親密な関係のこと。

管仲夷吾は、潁水のほとり出身である。
若いとき、鮑叔牙と仲がよかった。
そのため、鮑叔は管仲の賢さを知った。
管仲は貧困しており、いつも鮑叔を欺いていたが、
鮑叔は最後まで彼を厚遇し、その行いに対して文句をいう事も無かった。

しばらくして、鮑叔は斉の公子小白に仕えることになり、
管仲は公子糾に仕えることになった。
小白が即位して桓公となり、公子糾が死んで、管仲は捕虜となった。
鮑叔は遂に管仲を推挙した。
管仲は用いられることになり、斉に政治を任された。
斉の桓公が覇者となり、諸侯を何度も集めて規約を結び、
天下を一つにまとめ上げ秩序を正すことができたのは、管仲の画策のおかげである。

管仲は言った、
「私は、かつて困窮したときに、鮑叔と店を開いて商売したことがある。
利益を分配するとき、私は鮑叔より多くとった。
だが、鮑叔は私を欲張りだと思わなかった。
私が貧しいことを知っていたからである。
また、かつて鮑叔のために事を画策して失敗し、さらに困窮したことがある。
だが、鮑叔は私を馬鹿だとは思わなかった。
有利なときと、不利なときがあるのを知っていたからである。
私は、かつて多くの君主に使えたが、そのたびに君主に首にされた。
だが、鮑叔は私を愚か者だとは思わなかった。
私が時代にあっていないことを知っていたからである。
私は、かつて三戦して三度とも逃げたことがある。
だが、鮑叔は私を臆病だとは思わなかった。
私に老母がいることを知っていたからである。
公子糾は敗れ、召忽は殉死し、私が拘束され辱めを受けた。
だが、鮑叔は私を恥知らずだとは思わなかった。
私が小さな節義を守らないことを恥じず、
功名が天下に知られわたらないことを恥じるのを知っていたからである。
私を生んでくれたのは両親であるが、私を知ってくれているのは鮑叔殿である。」
鮑叔は既に管仲を推挙して、自らはその部下になっていた。
子孫は代々、斉に禄を与えられ、封邑を保つこと十数世にわたり、常に名大夫として存在していた。
天下の人々は管仲の賢さを賞賛するよりも、鮑叔の人を見る目を賞賛した。

【臥薪嘗胆】
復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意。

紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。
闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。
夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した。

まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。
勾践は部下の進言に従って降伏した。
勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵に励み、その一方で苦い胆を嘗めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。
その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした。
ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。
夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。

【虎穴に入らずんば虎子を得ず】
虎穴に入らずんば虎子を得ずとは、危険を避けていては、大きな成功も有り得ないということのたとえ。

漢の国の武将の班超(はんちょう)が軍を率いて西域に送られた。
西域の国では手厚く接待されていたのに、ある日を境に冷たくされるようになった。
調べてみると、漢の国の敵である北方の匈奴の国の使者が来ているためとわかった。
班超は、「虎の穴に入らなければ、虎の子をとらえることはでない。」といって部下を励まし、匈奴の軍の中に突撃をし、全滅させた。

【四面楚歌】
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。

中国、楚の項羽が、漢の高祖に敗れて垓下でその軍に包囲されていたとき、四方を取り囲む漢の軍中で盛んに楚の歌を歌うのを聞いて、「漢皆已に楚を得たるか、これ何ぞ楚の人の多きや」といって、敵の軍中に楚人の多いのを嘆じた、と伝えられていることからくるもの。
しかしこれは、高祖の仕組んだ心理的な計略であった。

【三顧の礼】
目上の人が格下の者に対して三度も出向いてお願いをすること。

昔の中国の「後漢」という時代、荊州の地に劉備という将軍がおりました。
劉備は軍師を探していて、ある時諸葛亮という男の噂を耳にします。
諸葛亮は賢才でしたが、出世に興味が無く、田舎でひっそりと暮らしていました。
そして使いの者を送っても首を縦に振りませんでした。
すると劉備はみずから説得しようと諸葛亮の家に出向きましたが、この時は留守でした。
日を改めてまた出向きましたが、この日も留守でした。
そして三度目に出向いた時には家にいたものの、諸葛亮は昼寝をしていました。
劉備の部下は怒って諸葛亮を叩き起こそうとしますが、劉備はこれを諫めて、彼が起きるのを待っていた。
目を覚ました諸葛亮は、劉備が自分のために三回も出向いてきたことにいたく感激し、その要望にこたえました。

【死せる孔明、生ける仲達を走らす】
生前の威光が死後も残っており、人々を畏怖させるたとえ。

三国時代敵対していた蜀と魏の戦いの一つである五丈原の戦いの最中に、蜀の丞相であり、この戦いにて蜀軍の諸葛亮が、病没した。
これを察知した魏の軍師である司馬懿は、諸葛亮のいない蜀軍を強敵ではないとみなし、撤退する蜀軍に追い討ちをかけた。
しかし、蜀軍が反撃の姿勢を見せたことを司馬懿はこれを諸葛亮による自分を釣り出すための計略と勘違いし、撤退した。

どうですか。
ダイジェスト版とはいえ、激しい時代を生きた人間の血なまぐさいドラマがあり、組織や個人の盛衰に関わる重要な教えを学ぶには、『十八史略』はうってつけの書なんですよね。
さらに、このように実際に中身に触れてみれば、元々の出典となっている十八ある正史それぞれや『二十四史』についても読んでみたくなります。
膨大な量ではありますが、こうした『十八史略』を通じて、自分で興味を持てそうな時代の歴史書を探してみてはいかがでしょう。

唐の太宗は歴史を学ぶことの大切さをこう述べています。
「古をもって鏡となさば、興賛を見るべし」
(歴史を鏡とすれば、興亡の原因を知ることができる)

まずは入門書としての『十八史略』、お奨めです。

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