古賀穀堂!自分を戒める七つの自警!

古賀穀堂は、江戸時代後期の儒学者で佐賀藩年寄にして、「佐賀の七賢人」として名を残す第10代肥前(佐賀)藩主の鍋島直正の教育係として彼を支え続けた人物です。

「嫉妬、優柔不断、負け惜しみ」という佐賀藩の憂うべき気質、そして「葉隠」だけを重んじる藩の風潮、といった点を指摘した穀堂の意見書は、直正が実行する藩政改革でも大きな役割を担い、藩校・弘道館の教育を通じて佐賀藩近代化の言動力になったといわれています。
そんな穀堂が20代後半に自らの戒めとして、また将来に対する抱負として綴った「自警」という書があります。
その内容は、私達の日々の生き方を顧みる上でも大変に参考になるものですので、ここで整理しておきたいと思います。

【古賀穀堂の七つの戒め・自警】
 
1、嫌いな人物との対応法
“凡人にせよ鈍物にせよ同じく人である。決して傲慢であってはならぬ。惰容であってはならぬ。傲吏、褊人、これは人たるの道を知らぬ憐れむべきものである。先方の態度に怒ってはならぬ。怨んではならぬ。侮蔑の言を用いてはならぬ。もし横逆の事があっても、あたかも蚊・虻が自分の前を通過するのと同一視し、敢えて抗争してはならぬ。是が謂わずして教うる不屑の教えである。勉むべきは和厚謙譲にして気を下し、優しき言を用い澹然として、一毫の不平なきことである。”

 相手の態度が不愉快で、腹が立つようなことがあっても、むきになって言い争ったり、侮ったり、罵ったりせず、不平の気持ちを持ってはいけない。笑って受け流すことであるということです。

2、人生を難しく考えるな
“人に辱めらるるも、志を得ずして職を失うも、薄命なるも、運悪しく不遇なるも是天命である。よろしく恬熙にして楽しく平易なれ。”

 人生において辛いこと苦しいことは際限なく襲ってくるものであるがそれはみんな天命に任すしかないし、そのようなことはあまり難しく考えないで、楽しく朗らかにとらえることであるということです。

3、他人をうらやまず、嫌わず
“従容として自得する所あれ、分に安んじて固より窮しても、心は広くあれ、体は胖であれ、縲緤の縄目も、鞭笞の刑罰も、心に疾しき事なくば辱ではない。糧は絶たれ衣無きも楽しみは餘りある。宇宙を包み天地を動かす、大勇猛心は未だ嘗て忘れてはならぬ。”

 他人の生活と比較して、うらやんだり、軽蔑したりするが、そんな心をもつことにこそ恥じ入るべきであるということです。

4、読書の心得
“群書を雑看してはならぬ。閑つぶしに看てはならぬ。速見してはならぬ。いやいやながら看てはならぬ。気を付けずに看てはならぬ。余計に貪り看てはならぬ。道理を尋ねては必ず十分の處に到達することが肝要である。昼は尋ね夜は思い、真に諸を已に得て、而して後に已むを期せよ。書中の文辞の品定めをするには、宜しく和緩(寛大)にして精詳(緻密)なれ、條理を昭晰せよ。憎んではならぬ。慢ってはならぬ。”

 濫読するな、おざなりに読むな、速読するな、うんざりしながら読むな、漠然と読むな、むさぼりながら読むな、言葉をよく吟味しながら、筋道を立てながら読むことが肝要だ、ということです。

5、生活のリズムを維持する
“朝は物色が辨る様になったら起きよ。中夜に寝よ。これ終身の大謀である。倦労したとて酔飽したとて廃してはならぬ。疾病の時や遊行や同宿者のある時はこの限りではない。しかも必ず厳密謹慎なれ奮激勇住なれ、仮令ひ目倦み意疲るるも端厳に静座して修身の工夫を作せ。四更(夜二時)、五更(夜四時)に至るも意の儘である。決して初更(夜八時)、二更(夜十時)に寝てはならぬ。若し寝ぬるならば、必ず其の故を書せよ。但し精力を暴使してはならぬ。優游、豊満にして、必ず精を嗇み神を養えよ。病苦を生じてはならぬ。身体を痛めてはならぬ。”

 夜が明けたら起き、夜は11時ころには寝るという生活をリズムを崩すことなくくり返し、精力と強い精神を養い、病気にかからず、体を大切にすることであるということです。

6、言葉には注意する
“胸中の磊塊(らいかい:不平不満)人に向って吐く所のもの宇宙間二三人に過ぎぬ。容易に凡流に吐出すべきでない。家に在ては簡黙寡言なるを善しとす。妻児奴婢に対しても浪言してはならぬ。大言してはならぬ。非笑してはならぬ。或は間にはその時あらんも漫りに成してはならぬ。人の短を談じてはならぬ。他方人又は古人と雖も亦た容易に訾議侮笑してはならぬ。”

 人の短所をあげつらったり、古人であっても謗ったり、侮ったり、嘲笑したりはいけないということです。

7、我、一人に立つ
“平常の自警は別に条件有。一身の病痛は固より数百千に上る。然も已上の数項が最も大切である。大病は今尚依然として除去されない。故に此を書して以て自ら警むるのである。但し我の見識は謂う所の道学のみではない。謂う所の文儒のみではない。所謂の英雄のみだはない(余は英雄が好きである。其の作為に至っては別に条件がある)。所謂の宇宙間にある千流万家のみではない。乃ち開闢以来の第一人者が余の熱望するところである。文化紀元とは文化元年の事なるべきか。然れば則ち穀堂が弘道館教授を拝命した二年前であって其の二十八歳の時である。”

 ただ一人、自分がこの世にあることを誇りに思うことに尽きるということです。

自分に対する戒めと自律ということは、現代では煩わしい言葉なのかもしれませんが、こうした確固たる意思と軸を自らの中に立てることは、今の私達が取り戻すべき大事なことなのかもしれません。
改めて身を引き締める思いとしたいですね。

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