国体の本義!日本の国体についての再考 その2

前回”国体の本義!日本の国体について その1”からの続きです。
”国体”と言うとナショナリズムを喚起する危険な戦中思想のように捉えられてしまいがちですが、それは全く違い、国家を成り立たせる根本原理のことであり、歴史と伝統に培われた「国柄」「国のかたち」「日本らしさ」「日本という国の核心」といった”既にそこにあるもの”です。
そのため『国体の本義』で展開される論理は、戦前の非合理的で右寄り、神がかり的な観念論では決してなく、日本の根本原理に欧米思想と科学技術を取り入れた上で日本の価値観を明確にした英知の結集を示した書物なのです。

そもそも『国体の本義』は、欧州の哲学や神学思想をよく研究し、これらを拒否・排除するのではなく、どうやって日本に土着化させるかを考えているもので、共産主義、ファシズム、ナチズムといったものは日本の国体に合致しないと明確に書かれています。
しかしながら、こうした軸を踏み外して戦争を回避できなかったにもかかわらず、禁書として一括りにされてしまっていることは残念でなりません。
以上を踏まえ、21世紀の日本において改めて『国体の本義』の意図にもう少し注目してみます。

まず、何故共産主義、ファシズム、ナチズムといったものが日本の国体に合致しないのでしょう。

実は、こうした主義に見られる国民を結集させて国の体制として強化することは、人をばらばらの固体と捉え、それを強制的に束ねてひとつにしようとする個人主義的人間観に立っていることに他なりません。
しかし、日本が本来から持つ国体というのは、個人よりも共同体という和の価値観に基づいており、個人主義的な狭義の観点が立ち入る余地を与えません。
没我帰一という、各人が自己中心的な考えを捨てて、社会のために献身しひとつにまとまる精神。
これが、共産主義、ファシズム、ナチズムといったものが日本の国体に合致しない理由なのです。
日本においては、思想は日常生活の中に埋め込まれています。
人と人が和し、人と自然が和し、人と思想が、人と技術が、主義が、和することによってその関係性を自ずから律していく、日本本来が保持している社会倫理の規範。
こうした「まこと」からなる精神が根底にあるために、「人柄」「人のかたち」「人間らしさ」「人という精神の核」が「国柄」「国のかたち」「日本らしさ」「日本という国の核心」という”国体”の形へと結実していく訳です。

次に、国体に基づく教育の基本とは何でしょう。

今の現代教育というのは、欧米に倣った「自我の実現」と「人格の完成」という名目の上で、自己の立身出世やわが子の栄達を望むことを動機にしています。
だから、過剰な受験戦争や過保護ともいえる親が介在してのお受験や進学競争、詰め込み式の○×判定に終始した人材評価が公然と執り行われてしまう訳です。
しかし、こうしたお勉強だけに埋没しても、表面的な学力水準だけは維持できているようにみえても、本質的な人としての知力、思考力、創造力が向上しないのは自明です。
『国体の本義』でも説いているように、学問を修養することの大切さをきちんと理解し、自分のためではなく世のため人のために学問を行うという動機をもつことでしか、その知力、思考力、創造力が向上する術はありません。
知識のみの変調に陥り、実践に欠けた教育は国体の本旨に劣るものであり、教育とは知識と実行を一にする知行合一の道を持って得るのが本来の姿です。
国民ひとりひとりが自らの分野を持ち、そこで懸命に職務に精励することが、日本人の倫理なのです。
自らの適性と能力を自覚し、そこで職務に専心し、そのことを相互に尊敬しあうことこそ、この国にあった国体のあり方なのです。
こうした国体に基づく教育の基本を、改めて見直す時期にきているのではないでしょうか。

更に、国体に基づく和魂漢才、和魂洋才についてです。

明治維新後の日本は、西洋に学べ!とばかりに外来のあらゆる知識を受け入れていきました。
今後も日本人や日本国家が生き残っていくには、東西を問わず外来文化や思想を摂取していく必要があることはいうまでもありません。
『国体の本義』でも、排外主義や孤立主義を断固拝していますし、これらを機械的に飲み込むのではなく、国体に基づいて外来思想や文化を換骨奪胎して土着化し、習合、醇化していく必要性を述べています。
そしてこうした土着化、習合化、醇化による和魂漢才、和魂洋才こそが、新文化の創造に繋がっていくのです。
今、日本が世界で存在感を示せないのも、近隣諸国との諸問題を解決できないのも、こうした国体観が欠如していることが原因です。
今や我が国民の使命は、自国の利潤の追求ではなく、積極的に世界文化の進展に貢献すること。
世界文化に対する古来の日本人の態度は、自主的にしてしかも包容的でした。
私達が世界に貢献することは、ただ日本人たる道をいっそう発揮することによってのみなされると感じています。

今後この国をどうしていくか?
『国体の本義』で試みられた”我々に共通の神話と国体の再発見”による社会の強化ことが急務な時代に差し掛かっていることは自明です。
今年はこれまで以上に、熟考と実践を積み重ねる年としていきましょう。

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以下参考までに、一部抜粋です。

【国体の本義 原文一部抜粋】

目次続き

第二 国史に於ける国体の顕現
 一、国史を一貫する精神
 二、国土と国民生活
 三、国民性
 四、祭祀と道徳
 五、国民文化
 六、政治・経済・軍事
結語

国体の本義

第二 国史に於ける国体の顕現

一、国史を一貫する精神

国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。歴史には、時代の変化推移と共にこれを一貫する精神が存する。我が歴史には、肇国の精神が儼然と存してゐて、それが弥々明らかにせられて行くのであるから、国史の発展は即ち挙国の精神の展開であり、永遠の生命の創造発展となつてゐる。然るに他の国家にあつては、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。従つて他の国家に於て歴史を貫くものを求める場合には、抽象的な理性の一般法則の如きものを立てるより外に道がない。これ、西洋に於ける歴史観が国家を超越して論ぜられてゐる所以である。我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、
大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。
と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。国史に於ては維新を見ることが出来るが、革命は絶対になく、肇国の精神は、国史を貫いて連綿として今日に至り、而して更に明日を起す力となつてゐる。それ故我が国に於ては、国史は国体と始終し、国体の自己表現である。
既に述べた伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固戌、天照大神の肇国の御精神は、代々継承せられて歴代天皇の国を統治し給ふ大御心となつてゐる。即ち神勅の御精神は、御歴代の詔勅に一貫して拝せられるところであり、国史に頼れてゐる改新或は維新は、この大本に復ることによつてよく正しきを顕すの働であり、而して臣民は常にこの大義に基づいて宏謨を翼賀し奉り、光輝ある国史を成し来つたのである。
古事記・日本書紀によれば、皇孫が豊葦原の瑞穂の国に降り給ふに先立つて、鹿島・香取の二神を出雲に遺され、大国主ノ神に天照大神の神勅を伝へられたに対し、大国主ノ神は、その御子事代主ノ神と共に、直ちに勅命を奉じて恭順し、国土を奉献し、政事より遠ざかられたとある。これ、大業を翼賛し奉つた重大な事例であつて、その際大国主ノ神の誓言には、
僕が子ども二神の白せるまにまに、僕も違はじ。此の葦原の中ツ国は、命のまにまに既に献らむ。唯僕が住所をば、天ツ神の御子の天ツ日継知ろしめさむ、とだる天の御巣なして、底つ石根に宮柱ふとしり、高天ノ原に氷木たかしりて、治めたまはば、僕は百足らず八十●(ツチヘン+「炯」の右側)手に隠りて侍ひなむ。亦僕が子ども百八十神は、八重事代主ノ神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違ふ神はあらじ。
と申された。かくて国土を奉献せられた大国主ノ神は、大神より荘麗な宮居を造り与へられて優遇せられた。而して大国主ノ神は、今日出雲大社に祀られ、永遠に我が国を護られることとなつた。我等は、こゝに徳川幕府末期の大政奉還及びその後の版籍奉還によつて、源頼朝の創始した幕府が亡び、大政全く朝廷に帰した明治維新の王政復古の大精神の先蹤を見るのである。
神武天皇の御東征は、久しきに亙り、幾多の困難と闘ひ給ひ、皇兄五瀬ノ命を失ひ給ふほどの御悲痛にも屈せられず、天ツ神の御子としての御信念と天業恢弘の御精神とによつて、遂にその大業を達成し給うた。神代に於ける所伝やそれ以後の国史に徴するに、御歴代のかくの如き限りなき御努力によつてよく万難を克服し、天業を恢弘し、益々善美なる国家が造られ、我が国体の光輝は弥々増して来るのである。神武天皇が大和橿原の地に都を集め給ふに当つて、下し給うた詔の中に、
夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。苟も民に利あらば、何ぞ聖造に妨はむ。且当に山林を披払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまふ徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。
と仰せられ、乾霊授国・皇孫養正の御精神を明らかにし給うてゐる。かゝる大御心は、既に述べた肇国の事実の中にも、亦神勅の中にも明らかに現れてゐるのであつて、皇孫養正の御心を弘め給ふことは、神武天皇以後御歴代の聖治によつて明らかである。即ちこれ、皇祖皇宗国を肇め給ふこと宏遠に、徳を樹て給ふこと深厚なる所以である。神武天皇は、かゝる沃き大御心と、六合を兼ね八紘を掩ふの大精神を以て御即位遊ばされた。又、天皇の四年春には、詔して、
我が皇祖の霊や、天より降鑒りて、朕が躬を光助けたまへり。今諸の虜已に平ぎ、海内無事なり。以て天ツ神を郊祀りて用て大孝を申べたまふ可し。
と宣ひ、霊畤を鳥見の山中に設けて、皇祖天神を祀り、報本反始の誠を致し給うた。
降つて崇神天皇が天照大神を大和笠縫の邑に祀り給ひ、次いで垂仁天皇が伊勢の五十鈴川の辺に皇大神宮を創始し給うたのは、皇祖を崇敬せられる大御心の現れである。更に崇神天皇が、四道将軍を遣して教化を弘め給ひ、又税法の基礎を定めて調役を課し、池溝を開き給うた如きは、皇祖皇宗の御精神を継承し、愈々天業を紹述恢弘せられたものである。
大化の改新は、氏族制度の弊害を矯正せんとして、中ノ大兄ノ皇子が孝徳天皇を佐けて行はせられた。この改新に於ては、支那の王道思想を採り、隋唐の制度を参酌せられ、有力なる氏族の人民私有・土地兼併等の弊害、殊に蘇我氏の僭上を除き給うた。而してこの改新の大精神は、聖徳太子が、憲法十七条に於て君臣の大義を明らかにせられたことに、その近き源を存してゐる。孝徳天皇は中ノ大兄ノ皇子をして、聖徳太子のこの御精神を政治上・制度上に断行せしめ給うたのである。
推古天皇の御代に定められた冠位十二階の制度は、氏族専横のときにあつて、天皇中心の大義、一視同仁の大御心を明らかにせられ、何人もすべてその志を遂げて聖業を翼賛し奉るべきことを御示しになつたものである。又憲法十七条に於ては、和の精神を始め、国に二君なく民に両主なき事を昭示遊ばされ、君民公私の道理を明らかにし給うてゐる。この君臣の大義、一視同仁の御精神の大化の改新に於て現れたものを見るに、中ノ大兄ノ皇子の奉答文には「天に双日なく、国に二王なし。是の故に天下を兼ね併せて、万民を使ひたまふべきは唯天皇のみ」とあり、又天皇は国司に「他の貨賂を取りて民を貧苦に致さしむることを得ず」と詔らせられてゐる。
かくて大化の改新は、氏族の私有せる部民田荘を奉還せしめ、一切の政権を挙げて朝廷に帰し、陋習打破のために外来の思想・制度をも参酌せられたのであるが、大化元年の詔には、
当に上古の聖王の跡に遵ひて、天下を治むべし。
と仰せられ、又同三年の詔には、
惟神も我が子治さむと故寄させき。是を以て天地の初より君と臨す国なり。……是の故に今は随在天神も治平くべきの運に属りて、斯等を悟らしめて、国を治め民を治むること、是を先にし是を後にす。今日明日、次ぎて続きて詔せむ。
と宣はせられ、惟紳肇国の大義によつて、現御神にまします天皇を中心とする古の精神に復さんとする宏謨を示し給うた。又蘇我石川麻呂が「先づ以て神祇紙を祭ひ鎮めて、然して後に応に政事を議るべし」と奏せるが如きは、古来の祭政一致の体制に則とらんとするものである。かくの如く復古維新の精神によつて改革が行はれ、天業が恢弘せられて行くところに、我が惟神の大道の顕現を見ることが出来る。
この改革は大化年代を以て完成せられたのではなく、更に文武天皇の御世に及んでゐる。即ち諸般の法令は、近江令によつて纒められ、次いで大宝の律令制度となり、更に養老の修正を見た。天武天皇は、大いに神祇を崇敬せられ、又上古の諸事の撰録及び後葉に伝ふべき帝紀の編纂に著手せしめ給うた。この御精神御事業は、継承せられて、後に古事記の撰録、日本書紀の編纂となつた。
先に蘇我氏の無道僭上が除かれ、我が国本来の大道に復帰したことを述べたのであるが、称徳天皇の御代には、僧道鏡が威権朝野を圧して非望を懐くに至つた。併しながらこれに対して、和気ノ清席呂が勅によつて神の御教を拝し、毅然たる精神を以て、一身の安危を忘れ、敢然立つてその非望を挫いた。清麻呂の復命した神の御教は、続日本紀に、我が国家開闢より此来、君臣定りぬ。臣を以て君と為ること未だ之れ有らざるなり。天ツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除くべし。
と見えてゐる。清麻呂は、これによつてよく天壌無窮の皇位を護り、皇運扶翼の大任を果したのであつて、後に孝明天皇は、清麻呂に護王大明神の神号を賜うたのである。
源頼朝が、平家討減後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。それ故、明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜へる勅諭に於て、幕府政治について「且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と仰せられ、更に「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり」と御誡めになつてゐる。
源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた。当時皇室に於かせられて、延喜・天暦の聖代に倣つて世を古に復さんと志し給うたことは、種々の文献に於てうかゞふことが出来る。実に建武の中興は、遡つては大化の改新と相応じ、降つては明治維新を喚び起すところの聖業であつて、これには天皇を始め奉り諸親王の御尽瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等があつて、回天の偉業が成就せられた。わけても楠木正戌の功業は、永く後人の亀鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠戦にありと感じ仰せられければ」、正成畏まつて「是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣争か尺寸の謀を以て強敵の囲を出づべく候乎」と奉答したと見えてゐる。まことにこれ、忠臣の精神と事業とが我を没して、天皇の大御心、肇国の大精神を奉体し、そこより出づる純粋精神・純粋行なることを示すものである。かの湊川神社に於ける墓碑に「嗚呼忠臣楠子之墓」とあるのは、この楠木氏の精忠を永く後世に伝へるものである。
以上の如き建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。北畠親房は、このことについて、
凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を拾つるは人臣の道なり。必ずこれを身の高名と思ふべきにあらず。しかれども、後の人をはげまし、其の跡をあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下として競ひ諍ひ申すべきにはあらぬにや。まして、させる功なくして過分の望をいたす事、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることは、実に有りがたき召なりけむかし。
と嘆じてゐる。太平記に見えてゐる後醍醐天皇の御遣詔には、
只、生々世々の妄念とも成べきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふ計りなり。朕即ち早世の後は第八ノ宮を天子の位に即け奉り、賢士忠臣事を図り、義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として、天下を鎮むべし。
と仰せられてある。
後醍醐天皇から御四代、御悲遊の約六十年間は、吉野に在らせられたのであるが、後亀山天皇は、民間の憂を休め給はんとの大御心から、御譲位の儀を以て神器を後小松天皇に授け拾うた。この間に在つて、朝廷の支柱となつた北畠親房は、神皇正統記を著して「神皇正統のよこしまなるまじき理」を述べて、我が国の大道を闡明したのである。親房のこの偉大なる事業は、降つては大日本史等の史書が著され、国体の明徴にせられる因由となつた。又吉野朝の征西将軍懐良親王が、明の太祖の威嚇に対して、毫も国威を辱しめられなかつた御態度は、肇国の精神を堅持せられた力強き外交であり、その後、尊氏の子孫たる義満・義政が、内、大義を忘れ、名分を紊したのみならず、外、明に対して国威を毀損した態度とは実に霄壌の差がある。
室町時代以後に於て、畏くも皇室の式微の間にも、天壌無窮の皇運は、微動だもすることなく、国内紛乱の裡にも尊皇敬神の実績はあがり、その精神は常に忘れられることはなかつた。これに加ふるに、神道思想次第に勃興し、又国民の皇室に対する崇敬は、数々の美しい忠誠の事蹟となつて現れた。
先に鎌倉時代に於て宋学・禅学が大義名分論・国体論の生起に与つて力があり、延いて建武中興の大業の達成に及んだのであるが、徳川幕府は朱子学を採用し、この学統より大日本史の編纂を中心として水戸学が生じ、又それが神道思想、愛国の赤心と結んでは、山崎闇斎の所謂崎門学派を生じたのである。闇斎の門人浅見絅斎の靖献遺言、山鹿素行の中朝事実等は、いづれも尊皇の大義を強調したものであつて、太平記、頼山陽の日本外史、会沢正志斎の新論、藤田東湖の弘道館記述義、その他国学者の論著等と共に、幕末の勤皇の志士に多大の影響を与へた書である。
儒学方面に於ける大義名分論と並んで重視すべきものは、国学の成立とその発展とである。国学は、文献による古史古文の研究に出発し、復古主義に立つて古道・惟神の大道を力説して、国民精神の作興に寄与するところ大であつた。本居宣長の古事記伝の如きはその第一に挙ぐべきものであるが、平田篤胤等も惟神の大道を説き、国学に於ける研究の成果を実践に移してゐる。徳川末期に於ては、神道家・儒学者・国学者等の学銃は志士の間に交錯し、尊皇思想は攘夷の説と相結んで勤皇の志士を奮起せしめた。実に国学は、我が国体を明徴にし、これを宣揚することに努め、明治維新の原動力となつたのである。
歴代天皇の御仁徳のいつの代にも渝らせ給はざるは、申すも畏き御事であるが、徳川幕府末期の困難なる外交にいたく宸襟を悩ませられた孝明天皇は、屡々関白以下の廷臣及び幕府に勅諚を賜うて、神州の瑕瑾を招かず、皇祖皇宗の御遺業を穢さず、又赤子を塗炭に陥らしめぬやう諭し給ひ、特に重要政務を奏上せしめ、その勅裁を仰がしめ給うた。この非常の時局に際し、皇国の前途を憂へた諸侯・志士等も、内には幕政を改革して国防の充実を遂げ、外には禦侮の籌策の確立せられんことを冀つて、朝廷を慕ひ朝旨を仰がんと欲し、公卿・堂上に接近入説するに至つたので、朝威は次第に伸張して来たのである。夙に洋学を学んだ者には外国文化を摂取して国力を強盛にせんがため、鎖国の不可を説く者もあつたが、天下の形勢は幕府の改造から攘夷討幕に進み、開国公武合体と対立するに至り、内外の時局は、益紛糾して危急に陥つた。まことに内乱一度起らば、外患これに乗じて到るべきは明らかであつた。前土佐藩主山内豊信は、この情勢を察知して明治天皇御践祚の後、王政復古、、政令一途に出でんことを将軍徳川慶喜に建白した。慶喜も夙にこのことを考慮してゐたので、慶応三年十月十四日、
愈朝権一途ニ出申候而者綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得バ、必ズ海外万国卜可並立候。臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過ト奉存候。
と上表して大政を奉還せんことを奏請し、明治天皇乃ちこれを嘉納し給うた。次いで同年十二月九日、王政復古の大号令が下された。その中に、
王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被ため行諸事神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下卜休戚ヲ同ク可被遊叡慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉公候事
とあり、復古は常に神武天皇の肇基に原づき、寰宇の統一を図り、高機の維新に従ふを以て規準と為し、百事創業の精神を以て庶政を一新すべきことを宣揚し給うた。更に明治元年三月には、五筒条の御誓文を宣示せられ、同時に賜はつた宸翰に、
朕茲ニ百官諸侯卜広ク相誓ヒ列祖ノ御偉業ヲ継述シ一身ノ艱難辛苦ヲ問ス親ラ四方ヲ経営シ汝億兆ヲ安撫シ遂ニハ万里ノ波涛ヲ拓開シ国威ヲ四方ニ宣布シ天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス
と仰せられてあるのを拝誦する時、天皇御親ら、玉体を労し宸襟を悩ませられて、艱難辛苦の先に立ち給ひ、以て上は列祖の神霊に応へ、外は万国に国威を輝かさんとし給うた深井叡慮と強い御決心とが拝せられる。而してこの明治維新は、旧来の陋習を破り、智識を広く世界に求められたのであるが、それと共に、又惟神の大道を宣揚し給ひ、我が国古来の精神に則とるべきことを大本とし給うたのである。
かくの如くして諸藩の版籍奉還があり、更に廃藩置県が行はれて、大政全く朝廷に帰して王政の復古を仰ぎ、維新の大業は成就した。国民の覚醒が常に天皇を中心として展開する姿は、こゝに遺憾なく顕現してゐる。この偉業を翼賛し奉つた先人の功労、志士の遺烈は深く欽仰すべきはもとより、慶喜がフランス公使より幕府を援助せんとする申出に対して、断然これを拒絶し、以て外国干渉の累を断つた例の如きも、亦見逃すことを得ない。
明治二十二年二月十一日、皇室典範及び憲法御制定についての御告文に、
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所卜為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス
と宣ひ、又憲法発布勅語には、
朕国家ノ隆昌卜臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス大義を時代の進運に適応して紹述遊ばされ、丕基を永遠に鞏固にせられたものである。我が欽定憲法は「朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠二循行スル所ヲ知ラシム」と仰せられた万古不磨の大典であつて、肇国の精神の一貫してこゝに弥鞏きを見る。更に明治二十三年十月三十日には「教育ニ関スル勅語」を下し給ひ、我が国の教育が一に国体に淵源することを昭示遊ばされた。
以上我等は、我が国史の展開が、天皇に於かせられては皇祖皇宗の遺訓の御紹述であり、臣民にあつては私を去つてよく分を全うし、忠誠以て皇運を扶翼し奉るにあることを見た。而してこの上下一如の大精神は、既に我が肇国に於て明らかに示されたものであつて、この大精神が国史を貫き、世々厥の美を済して今日に至つてゐる。こゝに我等は、戊申詔書に「炳トシテ日星ノ如シ」と仰せられた国史の輝かしい成跡を見るのである。

二、国土と国民生活

我が国土は、語事によれば伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の生み給うたものであつて、我等と同胞の関係にある。我等が国土・草木を愛するのは、かゝる同胞的親和の念からである。即ち我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである。
かくて国土は、国民の生命を育て、国民の生活を維持進展せしめ、その精神を養ふ上に欠くべからざるものであつて、国土・風土と国民との親しく深き関係は、よく我が国柄を現してをり、到るところ国史にその跡を見ることが出来る。
遠き祖先よりの語り伝へが、我が国性を示し、天皇御統治の大本を明らかにするものとして、撰録せられて古事記となり、編纂せられて日本書紀となつたが、これに伴つて風土記の撰進を命ぜられたのは、我が国体と国土との深い関係を物語るものである。こゝに「古事」と「風土」との分つことの出来ない深い関係を見る。我が国の語事に於ては、国土と国民とが同胞であることが物語られてゐる。我が国民の国土に親しみ、国土と一になる心は非常に強いのであつて、農業に従ふ人々が、季節の変化に応和し、随順する姿はよくこれを示してゐる。それは祭祀を中心とする年中行事を始め、衣食住の生活様式の上にまで行き亙つてゐる。
万葉集に見える「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に、
やすみしし吾が大王神ながら神さびせすと芳野川
たぎつ河内に高殿を高しりまして登り立ち国見をす
れば畳はる青垣山山祇の奉る御調と春べは花か
ざしもち秋立てば黄葉かざせりゆきそふ川の神も
大御食に仕へ奉ると上つ瀬に鵜川を立て下つ瀬に
小網さし渡し山川も依りてつかふる神の御代かも
反歌
山川もよりてつかふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
とある。この歌を誦む者は、我が国民の国土・自然を見る心を知ることが出来るであらう。即ち国民も国土も一になつて天皇に仕へまつるのである。国民はかゝる心を以て国土・自然と親しみ、その中に生活し、又それによつて産業を営むのである。これ固より神代に於て天ッ神が我等と国土とを同胞として生み給うたところから出づるのである。
この本を一つにする親和・合体の心は、我が国民生活を常に一貫して流れてゐる。この精神のあるところ、国民生活は如何なる場合にも対立的でなく、一体的なものとして現れて来る。
我が国に於ては、政治上・社会上の制度の変遷にも拘らず、いつの時代にも常にこの心が現れてゐる。古くは氏族が国民生活の基本をなし、経済生活の単位であつて、それは天皇の下に同一血族・同一精紳の団体をなしたのである。即ち各人は氏に統合せられ、多くの氏人の上に氏上があり、これに部曲の民が附随し、氏・部としての分業分掌があり、職業によつて、あらゆる人と物とが相倚り相扶けて、天皇を中心として国家をなした。而して夫々の氏族内に於ては、氏上が氏神を祀り、氏人も亦氏上と一体となつて同一の祖先を祭るのである。而してこの祭祀を通じて、氏上と氏人とはたゞ一つとなつて祖先に帰一する。そこに氏の政事もあり、教化もあり、またその職業もある。かくてこの一体たるものを氏上が率ゐて朝廷に奉仕した。
かやうな親しい結合関係は、国史を通じて常に存続してゐた。これは自我を主張する主我的な近代西洋社会のそれと全く異なるものであり、国初より連綿として続く一体的精神と事実とに基づくものであつて、我が国民生活はその顕現である。そこには、一家・一郷・一国を通じて必ず融和一体の心が貫いてゐる。即ち天皇の下に人と人、人と物とが一体となるところに我が国民生活の特質がある。これ、義は君臣にして情は父子といふ一国即一家の道の布する所以であり、君民一体となり、親子相和して、美しき情緒が家庭生活・国民生活に流れてゐる所以である。
氏族に於ける職業の分掌は、やがて家業尊重の精神を生んでをり、家業の尊重は家名則ち名を重んずることとなる。我が国の古代に於ける名は、個人の氏名の意味ではなく、氏の職業が名である。こゝに我が国民の職業を重んじ、家名を尊重する精神を見ることが出来る。而してつとめの尊重は、宣命を始めとして多くの史実に見られる。天武天皇の御制定になつた冠位の名称にも勤務追進の文字が用ゐられてゐる。この勤務尊重の精神は、生産・創造・発展のむすびの心であつて、我が国産業の根本精神である。この精神は古来農事に於て最もよく培はれた。
豊葦原の瑞穂の国といふ我が国名は、国初に於ける国民生活の基本たる農事が尊重せられたことを示すものであり、年中恒例の祭祀が食事に関するものの多いのもこの精神の現れである。天照大神を奉祀する内宮に並んで外宮に豊受大神を奉祀し、上、皇室を始め奉り、国民が深厚なる崇敬を捧げ来つてゐることにも深く思を致すべきであらう。
国民の職業が農業の外に、商業・工業等種々なる方面に分岐発展してゐる今日に於ては、農業を尊重し給ふと同じ御心は、これらのあらゆる産業についてもうかゞふことが出来る。昭憲皇太后の御歌に、
ひのもとのくにとまさむとあき人のきそふ心ぞたからなりける
と詠ませられて、商業の重んずべきことを示し給うてゐる。我等はよくこの御精神を拝して、時勢の進運に伴ひ、各々その職業にいそしまねばならぬ。

三、国民性

山鹿素行は、中朝事実に「中国の水土は万邦に卓爾し、人物は八紘に清秀なり」と述べてゐるが、まことに我が国の風土は、温和なる気候、秀麗なる山川に恵まれ、春花秋葉、四季折々の景色は変化に富み、大八洲国は当初より日本人にとつて快い生活地帯であり、「浦安の国」と呼ばれてゐた。併しながら時々起る自然の災禍は、国民生活を脅すが如き猛威をふるふこともあるが、それによつて国民が自然を恐れ、自然の前に威圧せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛錬する機会となり、更生の力を喚起し、一層国土との親しみを増し、それと一体の念を弥々強くする。西洋神話に見られる如き自然との闘争は、我が国の語事には見られず、この国土は、日本人にとつてはまことに生活の楽土である。「やまと」が漢字で大和と書かれたことも蓋し偶然ではない。
頼山陽の作として人口に膾炙せる今様に、
花より明くるみ吉野の春の曙見わたせば
もろこし人も高麗人も大和心になりぬべし
とあるのは、我が美しき風土が大和心を育み養つてゐることを示したものである。又本居宣長がこの「敷島の大和心」を歌つて、「朝日に匂ふ山桜花」といつてゐるのを見ても、如何に日本的情操が日本の風土と結びついてゐるかが知られよう。更に藤田東湖の正気の歌には、
天地正大の気、粋然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽となり、巍々として千秋に聳え
注いでは大瀛の水となり、洋々として八州を環る
発しては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し
とあつて、国土草木が我が精神とその美を競ふ有様が詠まれてゐる。
かゝる国土と既に述べた如き君民和合の家族的国家生活とは、相俟つて明浄正直の国民性を生んだ。即ち文武天皇御即位の宣命その他に於て、
明き浄き直き誠の心
清き明き正しき直き心
と繰り返されてゐる。これは既に、神道に於ける禊祓の精神として語事にもうかがはれるのであるが、天武天皇の十四年に御制定になつた冠位の名称には、勤務追進の上に明浄正直の文字が示され、如何にこの国民性が尊重せられたかがわかる。明浮正直は、精神の最も純な力強い正しい姿であつて、所謂真心であり、まことである。このまことの外部的表現としての行為・態度が勤務追進である。即ちこの冠位の名称は、明るい爽やかな国民性の表現であり、又国民の生活態度でもあつた。而してまことを本質とする明浄正直の心は、単なる情操的方面に止まらず、明治天皇の御製に、
しきしまの大和心のをゝしさはことある時ぞあらはれにける
と仰せられてある如く、よく義勇奉公の精神として発現する。万葉集には「海行かば水潰くかばね山行かば草むすかばね大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ」と歌はれ、蒙古襲来以後は、神国思想が顕著なる発達を遂げて、大和魂として自覚せられた。まことに大和魂は「国祚之永命を祈り、紫極之靖鎮を護り」来つたのであつて、近くは日清・日露の戦役に於て力強く覚醒せられ、且具現せられた。
明き清き心は、主我的・利己的な心を去つて、本源に生き、道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝにすべての私心の穢は去つて、明き正しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となつて現れ、身を捨てて国に報ずる心となつて現れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が国に於ては、昔より黒き心、穢れたる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることを努めて来た。我が国の祓は、この穢れた心を祓ひ去つて活き明き直き本源の心に帰る行事である。それは、神代以来国民の間に広く行はれて来た行事であつて、大祓の詞に、かく聞食してば、皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の国に
は、罪と云ふ罪は在らじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事
の如く、朝の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津
辺に居る大船を舳解き放ち、艫解き放ちて、大海原に押し放つ事
の如く、彼方の繁木が本を、焼鎌の敏鎌以ちて打ち掃ふ事の如く、
遺る罪は在らじと、祓へ給ひ、清め給ふ事を、高山の末短山の末よ
りさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。かく持ち出で往なば荒塩の塩の八
百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開都比咩と云ふ神、持ち可可呑みてむ。かく可可呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ
神、根の国底の国に気吹き放ちてむかく気吹き放ちてば、根の
国底の国に坐す速佐須良比咩と云ふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひてば、天皇が朝廷に仕へ奉る官官の人等を始めて、天の
下四方には、今日より始めて、罪と云ふ罪は在らじ…………
とある。これ我が国の祓の清明にして雄大なる精神を表したものである。国民は常にこの祓によつて、清き明き直き心を維持し発揚して来たのである。
人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失はれる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後にする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義・自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであつて、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。
わが国民性には、この没我・無私の精神と共に、包容・同化の精神とその働とが力強く現れてゐる。大陸文化の輸入に当つても、己を空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神がこれを統一し同化してゐる。この異質の文化を輸入しながら、よく我が国特殊のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。
抑々没我の精神は、単なる自己の否定ではなく、小なる自己を否定することによつて、大なる真の自己に生きることである。元来個人は国家より孤立したものではなく、国家の分として各々分担するところをもつ個人である。分なるが故に常に国家に帰一するをその本質とし、こゝに没我の心を生ずる。而してこれと同時に、分なるが故にその特性を重んじ、特性を通じて国家に奉仕する。この特質が没我の精神と合して他を同化する力を生ずる。没我・献身といふも、外国に於けるが如き、国家と個人とを相対的に見て、国家に対して個人を否定することではない。又包容・同化は他の特質を奪ひ、その個性を失はしむることではなく、よくその短を棄てて長を生かし、特性を特性として、採つて以て我を豊富ならしめることである。こゝに我が国の大いなる力と、我が思想・文化の深さと広さとを見出すことか出来る。
没我帰一の精神は、国語にもよく現れてゐる。国語は主語が屡々表面に現れず、敬語がよく発達してゐるといふ特色をもつてゐる。これはものを対立的に見ずして、没我的・全体的に思考するがためである。而して外国に於ては、支那・西洋を問はず、敬語の見るべきものは少ないが、我が国に於ては、敬語は特に古くより組織的に発達して、よく恭敬の精神を表してゐるのであつて、敬語の発達につれて、主語を表さないことも多くなつて来た。この恭敬の精神は、固より皇室を中心とし、至尊に対し奉つて己を空しうする心である。おほやけに対するにわたくしの語を以て自称とし、古くから用ひられる「たまふ」、或は「はべる」「さぶらふ」等の動詞を崇敬・敬譲の助動詞に転じて用ゐる如きがこれである。而してこの「さぶらふ」「さむらふ」といふ文字から武士の意味の「侍」の語が出たのであり、書簡文に於ける候文の発達となつた。今日用ゐられてゐる「御座います」の如きも、同様に高貴なる座としての「御座ある」と、「いらつしやる」「御出でになる」といふ意味の「います」から来た「ます」とからなつてゐるのである。
次に風俗・習慣に於ても、我が国民性の特色たる敬神・尊皇・没我・和等の精神を見ることが出来る。平素の食事も御飯を戴くといひ、初穂を神に捧げ、先づ祖先の霊前に供へた後、一家の者がこれを祝ふのは、食物は神より賜はつたものであり、それを戴くといふ心持を示してゐる。新年の行事に松て、門松を立て、若水を使ひ、雑煮を祝ふところにも、遠い祖先からの伝統生活がある。賀詞を述べて齢を祝ふのは、古に於ては、氏上が聖寿を祝ひ奉る寿詞の精神につながるものであり、万歳の称呼の如きも亦同じ意味の祝言である。
鎮守はもとより、氏神様といふのは、大体に於て産土の神と考へてよいが、地方的な団体生活の中心をなして今日に及んでゐる。今日の彼岸会や孟蘭盆会の行事は、仏教のそれと民俗信仰と合したものと思はれ、鎮守の牡や寺の境内で行はれる盆踊について見ても、農村娯楽の間にこの両系統の信仰の融合統一が見られる。農事に関しては、豊年を祝ふ心、和合共栄の精神、祖先崇拝の現れ等をうかがふことが出来、同時に我が舞踊に多い輪をどりの形式にも、中心に向つて統一せられる没我的な特色が出てゐて、西洋の民族舞踊に多い男女対偶の形式に相対してゐる。子供が生まれた時、お宮参りをさせる風習が広く行はれてゐるが、これには氏神に対する古からの心持が現れてゐる。
年中行事には節供の如きものがあり、自然との関係、外来文化の融合調和等が見られるが、更に有職故実等に及んでは、その形の奥に汲み出される伝統精神を見逃すことは出来ない。年中行事には、既に挙げたやうに氏族生活の俤を留めるものもあれば、宮廷生活の間から生まれたものもあり、又武家時代に儀式として定められたものもある。いづれもその底には我が伝統の精神が輝いてゐる。雛祭の如きは、最初は祓の行事を主体とし、平安時代の貴族の生活に入つて、ひいなの遊びとなり、娯しみと躾とを併せた儀式的な行事となつた。更にそれが江戸時代になつては、内裏雛を飾り、皇室崇敬の心を託することになつた。

四、祭祀と道徳

明治天皇の御製に、
神風の伊勢の宮居の事をまづ今年も物の始にぞきく
と仰せられてあるのは、我が政始の御儀を御歌ひになつたのであつて、この御儀には、総理大臣が、先づ前年中、神宮の祭祀の滞りなく奉仕せられた旨を奏上する。こゝに、我が国政治の最も重要なものとして、祭祀をみそなはせ給ふ大御心を拝することが出来る。大日本史の神紙志に、
夫れ祭祀は政教の本づく所。敬神尊祖、孝敬の義天下に達す。
凡百の制度も亦是に由つて立つ。
とあるのは、祭祀と政治と教育とが根源に於て一致する我が国の特色をよく明らかにしてゐる。我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である。天皇は、神をまつり給ふことによつて天ッ神と御一体となり、弥々現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。明治二年、神祇官内に神殿を建てて、天神地祇・御歴代皇霊を奉祭せられ、同三年、天皇は鎮祭の詔を渙発し給うて、
朕恭しく惟みるに大祖業を創め神明を崇敬し蒼生を愛撫
す。祭政一致由来する所遠し矣。朕寡弱を以て夙に聖緒を
承け、日夜怵惕、天職の或は虧くることを懼る。乃ち祗に天神
地祇八神曁び列皇神霊を神祇官に鎮守して、以て孝敬を申
ぶ。庶幾くは、億兆をして矜式するところあらしめむ。
と仰せられた。臣民は、この大和心を承け奉つて、同じく祭祀を以て我が肇国の精神を奉体し、私を捨てて天皇の御安泰を祈り奉り、又国家に報ずる精神を磨くのである。かくの如く天皇の神に奉仕せられることと臣民の敬神とは、いづれもその源を同じうし、天皇は祭祀によつて弥々君徳を篤くし給ひ、臣民は敬神によつて弥々その分を竭くすの覚悟を堅くする。
我が国の神社は、古来祭祀の精神及びその儀式の中心となつて来た。神社は惟神の道の表現であつて、神に奉斎し、報本反始の誠を致すところである。御鏡に関する神勅は、神宮並びに賢所の奉斎の由つて来る本であり、神社存立の根本義は、日本書紀の皇孫降臨の条に於ける天ッ神籬及び天ッ磐境に関する神勅にある。即ち高皇産霊ノ神が、天ノ児屋ノ命・太玉ノ命に、
吾は則ち天ッ神籬及び天ッ磐境を起樹てて、当に吾孫の為めに斎ひ
奉らむ。汝天ノ児屋ノ命、太玉ノ命、宜しく天ッ神籬を持ちて、葦原の中ッ国に降りて、亦吾孫の為めに斎ひ奉れ。
と仰せられた執心に副ひ奉るのである。
神社に斎き祀る神は、皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖の命以下、皇運扶翼の大業に奉仕した神霊である。この神社の祭祀は、我が国民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。氏神の祭に於て報本反始の精神の発露があり、これに基づいて氏人の団欒があり、又御輿を担いで渡御に仕へる鎮守の祭礼に於て、氏子の和合、村々の平和がある。かくて神社は国民の郷土生活の中心ともなる。更に国家の祝祭日には国民は日の丸の国旗を掲揚して、国民的敬虔の心を一にする。而してすべての神社奉斎は、究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであつて、こゝに我が国の敬神の根本が存する。
祭には、穢を祓つて神に奉仕し、まことを致して神威を崇め、神恩を感謝し、祈願をこめるのである。神に向ふ心持は、我が国に於ては親と子との関係といふ最も根本的なところから出てゐる。即ち罪穢を祓つて祖に近づくことであり、更に私を去つて公に合し、我を去つて国家と一となるところにある。
而してその穢を去つた敬虔な心からの自然の発露としては、西行法師の
何事のおはしますをば知らねども忝さの涙こぼるる
といふ歌がある。
神社は国家的の存在であるのを根本義とするものであるから。令に於ける神祇官以来、国家の制度・施設として有して来たのであつて、現在に於ける各派神道、その他の一般の宗教とはその取扱を異にしてゐる。
明治天皇の御製には、
とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ
と仰せられ、又、祝部行氏も、
神垣に御代治まれと祈るこそ君に仕ふる誠なりけれ
と詠んでゐる。かくて皇大神宮は我が国神社の中心であらせられ、すべての神社は国家的の存在として、国民の精神生活の中軸となつてゐる。
我が国祭祀の本旨は以上の如きものであるが、これを西洋の神に対する信仰に比すると、その間に大なる逕庭がある。西洋の神話・伝説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇国の初よりつながる国家的な神ではなく、又国民・国土の生みの親、育ての親としての神ではない。我が国の神に対する崇敬は、肇国の精神に基づく国民的信仰であつて、天や天国や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的国民生活から流露する奉仕の心である。従つて我が国の祭祀は、極めて深く且広き意義をもつと同時に、又全く国家的であり、実際生活的である。
以上の如き敬神崇祖の精神が、我が国民道徳の基礎をなし、又我が文化の各方面に行き亙つて、外来の儒教・仏教その他のものを包容同化して、日本的な創造をなし遂げしめた。我が国民道徳は、敬神崇祖を基として、忠孝の大義を展開してゐる。国を家として忠は孝となり、家を国として孝は忠となる。こゝに忠孝は一本となつて万善の本となる。
忠は、明浄正直の誠を本として勤務をはげみ、分を竭くし、以て天皇に奉仕することであり、この忠を本として親に対する孝が成り立つ。それは我が国民が、祖先以来行つて来た古今に通じて謬らざる惟紳の大道である。
「教育ニ関スル勅語」には国民道徳の大本を教へ給うて、
股惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト
深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥
ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ
此ニ存ス
と仰せられ、又、
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守
スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民卜倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
と宣はせられてある。
我が国に於て明浄正直の誠が重んぜられたことは、語事に見え、宣命に示され、冠位の名ともなつたことによつて明らかである。宝基本紀等に「冥加は正直を以て本と為す」といひ、又倭姫ノ命世記には、
黒き心無くして丹き心を以て清く潔く斎り慎み、左の物を右に
移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰
り右に廻る事も、万の事違ふ事なくして、大神に仕へ奉れ元を
元とし、本を本とする故なり。
と述べてある。これは即ち明浄正直の精神を明らかにするものであつて、左右相混ぜず、右を右とし左を左とし、各々その位を正し、その分を明らかにして寸毫も違はず、一切の歪曲を許さず奸悪邪曲を容れない心である。而してこの寸毫も違はない正直とその正直の働とを以て、始めて元を元とすることが出来る。北畠親房の神皇正統記は、この精神を承けて正直を強調し、その著とせられる元元集の名は右の文を直接の典拠とすると思はれるが、国民道徳として特に心すべきことは、この左を左とし右を右とし、夫々のものをあるべき情態、正しき姿にあらしめ、以て元を元とし、本を本とすることである。
我が国民道徳の上に顕著なる特色を示すものとして、武士道を挙げることが出来る。武士の社会には、古の氏族に於ける我が国特有の全体的な組織及び精神がよく継承せられてゐた。故に主として儒教や仏教に学びながら、遂によくそれを超えるに至つた。即ち主従の間は恩義を出て結ばれながら、それが恩義を超えた没我の精神となり、死を視ること帰するが如きに至つた。そこでは死を軽んじたといふよりは、深く死に徹して真の意味に於てこれを重んじた。即ち死によつて真の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。然るに生死を対立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。
戦国時代に於ても、領主はよく家長的精神を発揮して領民を愛護してゐる。これ又武士道の現れでなければならぬ。武士の心掛は、平時にあつては、家の伝統により敬神崇祖の心を養ひ、常に緩急に処する覚悟を練り、智仁勇を兼ね備へ、なさけを解し、物のあはれを知るものたらんと努めるにある。武士道の大成に与つて力のあつた山鹿素行・松宮観山・吉田松陰等は、いづれも敬神の念に篤い人人であつた。この武士道が、明治維新と共に封建の旧態を脱して、弥々その光を増し、忠君愛国の道となり、又皇軍の精神として展開して来たのである。
仏教は印度に発し、支那・朝鮮を経て我が国に入つたものであるが、それは信仰であると共に道徳であり、又学問である。而して我が国に入つては国民精神に醇化せられて、国民的な在り方を以て発展した。古くは推古天皇二年春二月に、天皇は皇太子及び大臣に三宝興隆の詔を下し給ひ、その詔によつて君恩と親恩とに報ずるために寺塔が建立せられた。君親の思を報ずるために寺を建てるといふ仏教伝来初期のこの精神は、やがて南都仏教に於て鎮護国家の精神として現れ、天台宗・真言宗に至つてはこの標幟を掲げ、その後臨済宗の興禅護国論の如き、又日蓮宗の立正安国論の如き主張となり、その他、新仏教の組師達も斉しく王法を重んじた。而してこれと共に、その教理的発達にも大いに見るべきものがあつた。真言宗が森羅万象を大日如来の顕現とし、即身成仏を説き、天台宗が草木国土も悉皆仏性をもち、凡夫も悟れば仏であるといひ、解脱を衆生に及ぼすことを説くところに、天照大神を中心とする神祇崇敬及び帰一没我の精神、一視同仁、衆と共に和する心に相応ずるもののあるのを観る。南都仏教の或ものに於ては、解脱に差別を説いてゐるのに、平安仏教以後、特に無我に基づく差別即平等、平等即差別の仏教本来の趣意を明らかにして、一切平等を説くに至つたのは、やはり差別即平等の心を有つ我が国の氏族的・家族的な精神、没我的全体的精神によつて摂取醇化せられたものであつて、例へば親鸞が御同朋御同行と呼びかけてゐるが如きこれである。浄土宗・真宗は聖道門に対する易行道の浄土門をとり、還相回向を説き、時宗は利他教化の遊行をなして、仏教をして国民大衆の仏教とした。親鸞が阿弥陀仏の絶対他力の摂取救済を詮き、自然法爾を求めたところには、没我帰一の精神が最もよく活かされてゐると共に、法然が時処所縁を嫌はず念仏して、ありのまゝの姿に於て往生の業を成ずることを説いたところには、日本人の動的な実際的な人生観が現れてゐる。又道元が、自己を空しうした自己の所行が道に外ならぬとし、治生産業皆これ報恩の行となす没我的精神、実際的な立場をとる点に於て同様のものをもつてゐる。この精神は、次第に神儒仏三教一致等の説ともなつて現れるに至つた。天台宗以下、釈尊よりの歴史的相伝師承を拠り所とし、聖徳太子に復らうとする運動を生じたところには、歴史・伝統を尊重する精神が見られる。かやうにして我が国は大乗相応の地とせられて、仏教を今日にあらしめたのであり、国民的な在り方、性格が自ら顕現してゐる。かくの如く同化せられた仏教が、我が文化を豊富にし、ものの見方に深さを与へ、思索を訓練し、よく国民生活に浸透し、又国民精神を鼓舞してゐるのであつて、彼岸会・盂蘭盆会の如き崇祖に関聯する行事をも生ずるに至つた。

五、国民文化

我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取醇化して来た。支那の明時代に著された五難爼に、経書のうち孟子を携へて日本へ往く者があれば、その船は必ず覆溺するといふ伝説を掲げてゐる如きは、凡そ革命思想が我が国体と根本的に相容れないことを物語るものであり、我が不動の精神とこれに基づく厳正な批判との存することを意味してゐる。菅原道真の語といはれる「和魂漢才」なる言葉が一般に行はれたのも、かやうな意味に於てである。
凡そまことの文化は国家・民族を離れた個人の抽象的理念の所産であるべきではない。我が国に於ける一切の文化は国体の具現である。文化を抽象的理念の展開として考へる時、それは常に具体的な歴史から遊離し、国境を超越する抽象的・普遍的のものとならざるを得ない。然るに我が国の文化には、常に肇国の精神が儼存してをり、それが国史と一体をなしてゐる。
かくて我が国の文化は、一貫せる精神をもつと共に、歴史の各時代に於て各々異なる特色を現してゐる。而して創造は常に回顧と一となり、復古は常に維新の原動力となる。即ち今と古とは一となり、そこに新時代の創造が営まれる。我が国の歴史を辿るものは、到るところにこの事実の明瞭に現れてゐるのを見るであらう。従つて我が国に於ては、復古なき創造は真の意味に於ける創造ではない。それと同時に創造なき復古は真の復古ではない。たゞ挙国以来一貫せる精神に基づく「むすび」こそ、我が国のまことの発展の姿でなければならぬ。
元来我が国の学問は、歴代の天皇の御奨励によつて発達し、今日あるを得たのである。即ち夙に儒教・仏教並びにこれに随伴した大陸の文化を摂取し、これを保護奨励し給うたのである。遣隋使・遣唐使にそへて多数の留学生、学問僧を遣されて広く外国文化の粋を採り給うたことや、万葉集の撰集に次いで、古今和歌集以下所謂二十一代集等の勅撰、或は勅版の印行等、学問を御奨励遊ばされたことは枚挙に遑がない。これは近く明治維新以来、西洋の学問・技術の摂取普及に関する明治天皇の御軫念にも拝することが出来る。かく学問を保護奨励し給ふことは、一に皇祖肇国の御精神を恢弘し、国運の隆昌、民福の増進に大御心を注がせ給ふがために外ならぬ。
古来我が国の学問には、自ら肇国以来一貫せる精神が流れてゐる。聖徳太子は、皇道の羽翼として儒・仏・老の教を摂取せられて、憲法十七条を肇作し、又三経の義疏を著し給うた。理即ち道理といふことを説かれるにしても、それは決して抽象的・普遍的な理法といふが如きものとしてではなく、具体的に一貫せる伝統精神の上に践み行ふべき道として示し給うてゐる。而してこの道によつて、当時の多岐多方面に亙る学問・文化は綜合統一せられ、爾来常に復古と創造、伝統と発展とが相即不離に展開し、進歩を遂げて来た。
国史については聖徳太子は夙に天皇記・国記等を作り給ひ、次いで天武天皇の聖旨に基づき、元明天皇は古事記三巻を撰録せしめ給ひ、元正天皇は勅して日本書紀三十巻を編纂せしめ給うた。而して日本書紀が撰進せられた翌年から、宮中に於てこれが講筵を設けさせられ、臣民をして我が国のまことの姿を明らかに覚らしめ給ふところがあつた。勅命による修史の事業は、醍醐天皇の御代に至るまで相継ぎ、所謂六国史の成立を見るに至つたが、後世民間にも、大日本史の如き修史事業が企てられたのである。又、江戸時代に勃興Lた国学は、古典の研究に発した復古の学てあり、国史と共によく国体を明らかにし、国民精神の宣揚に大いに貢献するところがあつた。
我が国のあらゆる学問は、その究極を国体に見出すと共に、皇運の扶翼を以てその任務とする。江戸時代に西洋の医学・砲術その他が伝来した時、非常な困難を排してその研究に当つたのも、又、明治維新後、西洋の学術百般の採用に専念し、努力したのも、皆これ皇運を扶翼し奉る臣民の道に立つてのことであつた。併しながら非常の勢を以て外来文化を輸入し、諸方面に向つて大いに発展しつゝある今日の学問に於ては、知らず識らずの間にこの中心を見失ふ惧れなしとしない。明治天皇は五箇条の御誓文の中に、
智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
と仰せられてゐるのであつて、如何なる学問に従事するものも、常に思をこの根本の目的に致し、よく我が国学問の本旨を逸脱せず、以て聖旨に副ひ奉ることに努めねばならぬ。
我が国の教育も、亦一に国体に基づき、国体の顕現を中心とし、肇国以来の道にその淵源を有すべきことは、学問の場合と全く同様である。我が教育は、古く氏上が氏人を率ゐて朝廷に奉仕した時代に於ては、その氏々に於ける祖先以来の奉仕の歴史の伝承が教育の内容をなした。例へば高橋氏文に於て、高橋氏の祖磐鹿六鴈ノ命が景行天皇に奉仕して忠勤を擢んでてより、代々家職を襲ぎ、朝廷の内膳職に奉仕する由来を述べて、その子孫を教訓し、以て奉公の念を厚うせしめた如き、古来諸家の氏文は皆この類である。後世武士の教育についても、この伝統による家庭教育を重んじ、家門の名を守るべきことを常に訓へたのである。吉野朝の忠臣菊池氏の家訓たる菊池武茂起請文に、
武茂弓箭の家に生まれて、朝家に仕ふる身たる間、天道に応じて
正直の理を以て、家の名をあげ、朝恩に浴して身を立せんことは、
三宝の御ゆるされをかうぶるべく候。その外私の名聞己欲の
ために義をわすれ恥をかへりみず、当世にへつらへる武士の心
をながく離るべく候。
とあるはその例である。
近世に於ける国民教育は、神道家・国学者・儒者・仏教家・心学者等の活動によるものが多かつた。神道家に於ける中臣祓の尊重、国学者に於ける我が古典の研究とその普及との如きは、最も顕著なものである。かうした人々の貢献に関聯して、神社に於ては和歌・俳諧の神前披講・献額等が行はれ、奉納額は算道に関するものにも及んでゐる。諸芸諸道の祖として夫々の守護神を立て、八幡宮を武神として尊崇し、天満天神を文神として仰ぎ、素戔嗚ノ尊の八雲の神詠に和歌の起原を求めるなど、種々の道の起原を神に求めてゐる。
抑々「をしへ」は「愛し」の語が示すやうに慈しみ育てる意味であり、人間自然の慈愛を基として道に従つて人を育てることである。「みちびく」は子弟をして道に至らしめる意味である。我が国の教育は、明治天皇が「教育ニ関スル勅語」に訓へ給うた如く、一に我が国体に則とり、肇国の御精神を奉体して、皇運を扶翼するをその精神とする。従つて個人主義教育学の唱へる自我の実現、人格の完成といふが如き、単なる個人の発展完成のみを目的とするものとは、全くその本質を異にする。即ち国家を離れた単なる個人的心意・性能の開発ではなく、我が国の道を体現するところの国民の育成である。個人の創造性の涵養、個性の開発等を事とする教育は、動もすれば個人に偏し個人の恣意に流れ、延いては自由放任の教育に陥り、我が国教育の本質に適はざるものとなり易い。
教育は知識と実行とを一にするものでなければならぬ。知識のみの偏重に陥り、国民としての実践に欠くる教育は、我が国教育の本旨に悖る。即ち知行合一してよく肇国の道を行ずるところに、我が国教育の本旨の存することを知るべきである。諸々の知識の体系は実践によつて初めて具体的のものとなり、その処を得るのであつて、理論的知識の根柢には、常に国体に連なる深い信念とこれによる実践とがなければならぬ。而して国民的信念及び実践は理論的知識によつて益々正確にせられ、発展せしめられるのであるから、我が国教育に於ても、理論的・科学的知識は弥々尊重奨励せられねばならぬが、同時にそれを国民的信念及び実践と離れしめずして、以て我が国文化の真の発達に資するところがなければならぬ。即ち一面諸科学の分化発展を図ると共に、他面その綜合に留意し、実行に高め、以てかゝる知識をして各々その処を得しめ、その本領を発揮せしむべきである。
畏くも明治天皇は、明治十二年、教学大旨に、
教学ノ要仁義忠孝ヲ明カニシテ知識才芸ヲ究メ以テ人道ヲ尽
スハ我祖訓国典ノ大旨上下一般ノ教トスル所ナリ
然ルニ輓近専ラ智識才芸ノミヲ尚トヒ文明開化ノ末ニ馳セ品
行ヲ破り風俗ヲ傷フ者少カラス然ル所以ノ者ハ維新ノ始首ト
シテ陋習ヲ破リ知識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ一時西洋ノ
所長ヲ取リ日新ノ効ヲ奏スト雖モ其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ徒
ニ洋風是競フニ於テハ将来ノ恐ルヽ所終ニ君臣父子ノ大義ヲ
知ラサルニ至ランモ測ルヘカラス是我邦教学ノ本意ニ非サル

と仰せられてゐる。寔に今の時世に照して深く思を致さなければならぬところである。
我が国の道は、古来の諸芸にも顕著に現れてゐる。詩歌・管絃・書画・聞香・茶の湯・生華・建築・彫刻・工芸・演劇等、皆その究極に於ては道に入り、又道より出でてゐる。道の現れは、一面に於て伝統尊重の精神となり、他面に於て創造発展の行となる。従つて中世以来我が国の芸道は、先づ型に入つて修練し、至つて後に型を出るといふ修養方法を重んじた。それは個人の恣意を排し、先づ伝統に生き型に従ふことによつて、自ら道を得、而して後これを個性に従つて実現すべきことを教へたものである。これ我が国芸道修業の特色である。
我が芸道に見出される一の根本的な特色は、没我帰一の精神に基づく様式を採ることであり、更に深く自然と合致しようとする態度のあることである。庭園の造り方を見ても、背景をなす自然との融合をはかり、布置配列せられた一木一石の上にも大自然を眺めようとし、竹の簀の子に萱の屋根の亭を設けて自然の懐に没入しようとする。即ち主観的計画に流れ人意を恣にするが如きものではない。茶道に於て佗びを尊ぶのも、それを通じて我を忘れて道に合致しようとする要求に出づる。狭い茶室に膝つき合せて一期一会を楽しみ、主客一味の喜びにひたり、かくして上下の者が相寄つて私なく差別なき和の境地に到るのである。この心は、古来種々の階級や職業のものが差別の裡に平等の和を致し、大なる忘我奉公の精神を養つて来たことによく相応する。絵画に於ても、大和絵の如きは素直な心を以て人物・自然を写し、流麗にして趣致に富み、日本人の心を最もよく表現してゐる。連歌・俳諧の如きは、本来一人の創作ではなく集団的な和の文学、協力の文学である。又簡素清浄なる神社建築は、よく自然と調和して限りなく神々しいものとなつてゐる。寺院建築の如きも、よく山川草木の自然に融合して優美なる姿を示し、鎧兜や衣服の模様に至るまで自然との合致が見られるといふが如く、広く美術工芸等にもよくこの特色が現れてゐる。更に我が国芸術について注意すべきは、精神と現実との綜合調和及び夫々の部門の芸術が互に結びついてゐることである。即ち世阿弥の「花」、芭蕉の「さび」、近松門左衛門の虚実論等に於ては、この心と物との深い一体の関係を捉へてゐる。絵巻物に於ては、文学・絵画・工芸等の巧なる綜合が見られ、能楽に於ては、詞章・謡歌(謡)、奏楽(囃)、舞踊・演伎(形)、絵画、工芸等の力強い綜合的実現がある。歌舞伎に於ても音楽と舞踊と所作との融合にその特色が現れてをり、又花道によつて舞台と観衆との融和にまで進んでゐる。
これを要するに、我が国の文化は、その本質に於て肇国以来の大精神を具現せるものであつて、学問・教育・芸道等、すべてその基づくところを一にしてゐる。将来の我が国文化も常にかゝる道の上に立つて益々創造せらるべきである。

六、政治・経済・軍事

我が国は万世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。大化の改新に於て唐制を採用するに際し、孝徳天皇が悦以て民を使ふの道を問ひ給へるに対し、蘇我石川麻呂は「先づ以て紳祇を祭ひ鎮めて、然して後に応に政事を議るべし」と奏上してゐる。我が国古の成文法は近江令より養老令に至つて完成せられたが、その職員令の初に先づ神紙官を置き、又特に神紙令を設けてある。明治天皇は「神祇を崇め祭祀を重んずるは皇国の大典政教の基本なり」と詔せられてゐる。即ち祭祀の精神は挙国以来政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも厳粛に執り行はせられる。これ皇祖肇国の御精神を体し、神ながら御世しろしめし給ふ大御心より出づるものと拝察し奉るのである。実に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である。
明治天皇は、皇祖皇宗の御遺訓、御歴代統治の洪範を紹述し給ひ、明治二十二年二月十一日を以て皇室典範を御制定になり、大日本帝国憲法を発布遊ばされた。
外国に於ける成文憲法は、大体に於て既存の統治権者を放逐し、又は掣肘することから生まれた。前の場合は所謂民約憲法と称せられるけれども、その実は平等な人民が自由の立場に於て交互に契約したものではなくして、権力争奪に於ける勝利者によつて決定せられたものに過ぎない。後の場合は所謂君民協約憲法と称せられるものであつて、これは伝統的の権力者たる君主が新興勢力に強要せられて相互の勢力圏を協定したものに外ならぬ。尚この外に欽定憲法の名を冠するものがあつても、それは程度の差こそあれ、実質に於ては、矢張りこの種の協約憲法以外のものではない。
然るに帝国憲法は、万世一系の天皇が「祖宗ニ承クルノ大権」を以て大御心のまゝに制定遊ばされた欽定憲法であつて、皇室典範と共に全く「みことのり」に外ならぬ。
而してこの欽定せられた憲法の内容は、外国に於けるが如き、制定当時の権力関係を永久に固定せんがために規範化したものでもなく、或は民主主義・法治主義・立憲主義・共産主義・独裁主義等の抽象的理論又は実践的要求を制度化したものでもない。又外国の制度を移植し模倣したものでもなく、皇祖皇宗の御遺訓を顕彰せられた統治の洪範に外ならぬ。これは、典憲欽定に際して皇祖皇宗の神霊に誥げ給うた御告文に、
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ
と仰せられ、又、
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス
と宣はせられたことによつても昭かである。
かくの如き皇祖皇宗の御遺訓を紹述せんとの大御心は、独り典憲欽定に際してのみならず、明治の御代を一貫して渝らせられぬものであつたことは、
世はいかに開けゆくともいにしへの国のおきてはたがへざらなむ
かみつよの御代のおきてをたがへじと思ふぞおのがねがひなりける
さだめたる国のおきてはいにしへの聖の君のみこゑなりけり
の御製によつても拝せられる。しかもかくの如き叡慮は、明治の御代に限られたことではなく、御歴代一貫の大御心である。皇祖皇宗の御遺訓は歴代天皇によつて紹述せられるのであつて、こゝ万世一系の皇統は自然の御一系たらせられるのみではなく、同時に御自覚の御一系たらせ給ふ有難き事実が拝せられる。故に、欽定遊ばされた典憲は、皇祖皇宗の後裔に貽したまへる御統治の洪範の紹述として、これを奉戴し、又偏へにかくの如きものとして謹解し、循行するを要する。
而してこの連綿不断の御統治の洪範を新たに典憲として紹述遊ばされたのは、御告文に、顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子
孫ノ率由スル所卜為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵
行セシメ益々国家ノ丕基を鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘ

と仰せられてあるところにうかゞはれる。国運の隆昌、臣民の懿徳良能の発揚、慶福の増進を念じさせ給ふことは、「天壌無窮ノ宏謨」に循はせ給ひ、「祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシ」め給ふ所以である。而して憲法欽定の特殊なる御目的は、君臣の遵守規範を明徴にし、又臣民翼賛の道を広め給ふところにあることが拝せられる。而して世局の進運、人文の発達が、この憲法御制定の機縁となつてゐる。このことも亦「夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ」との御祖訓に随はせ給うたのである。かくの如き立憲の御精神を拝して外国に於ける憲法制定の由来に思を及ぼす時、よく彼我の憲法の本質的差異を知ることが出来る。
我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万ノ神の念願であると共に、一切の国民の願である、従つて知ると知らざるとに拘らず、現実に存在し規律する命法である。それは独り将来に向つての規範たるのみならず、肇国以来の一大事実である。憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二条は皇位継承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四条前半は元首・統治権等、明治維新以来採択せられた新しき概念を以て、第一条を更に紹述し給うたものである。天皇は統治権の主体であらせられるのであつて、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないといふ説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇国以来の大義に随つて、この国をしろしめし給ふのであつて、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
尚、帝国憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。
帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹述に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫慈養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大和心より打出づるのである。政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
我が国の法は、すべてこの典憲を基礎として成立する。個々の法典法規としては、直接御親裁によつて定まるものもあれば、天皇の御委任によつて制定せられるものもある。併しいづれも天皇の御稜威に淵源せざるものはないのである。その内容についても、これを具体化する分野及びその程度には、種々の品位階次の相違はあるが、結局に於ては、御祖訓紹述のみことのりたる典憲の具体化ならぬはない。従つて万法は天皇の御稜威に帰する。それ故に我が国の法は、すべて我が国体の表現である。
かくて我が国の法は、御稜威の下に、臣民各自が皇運扶翼のために、まことを尽くし、恪循する道を示されたものである。されば臣民が国憲を重んじ、国法に遵ふは、国民が真に忠良なる臣民として生きる所以である。
経済は、物資に関する国家生活の内容をなすものであつて、物資は、たゞに国民の生活を保つがために必要なるのみならず、皇威を発揚するがための不可欠なる条件をなすものである。従つて国の経済力の培養は、皇国発展の一つの重要なる基礎である。
されば、畏くも肇国の当初に於て、皇祖が親しく生業をさづけ給ひ、経済即ち産業が国の大業に属することを御示し遊ばされた。神武天皇は「苟も民に利あらば、何ぞ聖造に妨はむ」と宣ひ、更に崇神天皇は「農は天下の大本なり、民の恃みて以て生くる所なり」と仰せられ、歴代の天皇は常に億兆臣民の生業を御軫念遊ばされた。然るに久しきに亙る封建時代に於て、職業は漸次固定し、経済は著しく硬化したために、産業の発達には見るべきものが少なかつた。江戸時代の末に於ては、これを打開せんがため幾多の経済学者及び経済生活の指導者が現れた。就中、二宮尊徳の如きはその著しいものである。尊徳に於ては一円融合の理、報徳の道を説き、勤労・分度・推譲を主張し、これを天地の大法に合致する大道とし、皇国本源の道を示現するものとして説いた。
我が国が明治維新によつて世界列強の間に伍するや、従来の豊業生産のみを以てしては、経済力の発展を図ることの困難なることが痛感せられた。こゝに於て明治以来屡々聖諭を下し給ひ、近代西洋の生産技術を採用し、又勤倹の重んずべきを訓誡遊ばされ、又実業教育を整へ、産業を奨励し、以て国富の増進、臣民の慶福のために大御心を注がせ給うた。臣民も亦よく天皇の大和心を体し、官民協力、勤倹よく産を治めて、今日見るが如き国力の充実を見るに至つたのであり、その急速なる発達は、世界の驚異とするところである。
我が国民経済は、皇国無窮の発展のための大御心に基づく大業であり、民の慶福の倚るところのものであつて、西洋経済学の説くが如き個人の物質的欲望を充足するための活動の聯関総和ではない。それは、国民を挙げて「むすび」の道に参じ、各人その分に従ひ、各々そのつとめを尽くすところのものである。我が国に早くより発達した農事は、地物そのものの生成を人の力によつて育成することであり、人と土とが和合して生産を営むことである。これ我が国産業の根本精神である。近代に勃興した商工業と雖も、固よりこれと同一の精神によつて営まるべきはいふまでもない。
我が国近代の経済活動の根柢には、西洋思想の著しい浸潤があるにも拘らず、常にかゝる肇国以来の産業精神が流れてゐたと見るべきである。固より我が国民の悉くが、その経済活動に於て常にかゝる精神を意識してゐたといふのではなく、また我が国民が、生産活動のあらゆる場合に、営利の観念を離脱してゐたといふのでもない。併し我が国の産業に従事する者の多くが、単に自己の物質的欲望の充足に導かれるといふよりは、むしろ何よりも先づ各々の職分を守り、つとめを尽くすといふ精神によつて和合の中にその業務にいそしんで来たことは、見逃し難い事実である。さればこそ、最近に見るが如き我が産業界の世界的躍進を齎し得たのである。
「むすび」の精神を本とし、公を先にし私を後にし、分を守りつとめを尽くし、和を以て旨とする心こそ、我が国固有の産業精神であつて、それは産業界に強き力を生ぜしめ、創意を奨め、協力を齎し、著しくその能率を高め、産業全体の隆昌を来し、やがて国富を増進する所以となる。将来我が国民の経済活動に於ては、この特有の産業精神が十分に自覚せられ、これに基づいて弥々その発展が図られねばならぬ。かくて、経済は道徳と一致し、利欲の産業に非ずして、道に基づく産業となり、よく国体の精華を経済に於て発揚し得ることとなるであらう。
我が国体の再現は、軍事についても全く同様である。古来我が国に於ては、神の御魂を和魂・荒魂に分つてゐる。この両面の働の相協ふところ、万物は各々そのところに安んずると共に、弥々生成発展する。而して荒魂は、和魂と離れずして一体の働をなすものである。この働によつて天皇の御稜威にまつろはぬものを「ことむけやはす」ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも称すべき尊き武の道がある。明治天皇の詔には「祖宗以来尚武ノ国体」と仰せられてある。天皇は明治六年徴兵令を布かせられ、国民皆兵の実を挙げさせ給ひ、同十五年一月四日には、陸海軍軍人に勅諭を賜はつて、
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある
と仰せ出され、又、
朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝
等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か国家を保
護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも
得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我
国の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我
武維揚りて其栄を増さは朕汝等と共誉を偕にすへし汝等皆其
職を守り朕と一心になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼
生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世界の光華ともな
りぬへし
と諭し給うた。この勅諭は、畏くも天威に咫尺し奉るが如く尊く拝誦せられる。まことに皇軍の使命は、御稜威をかしこみ、大御心のまに/\よく皇国を保全し、国威を発揚するにある。我が皇軍は、この精神によつて日清・日露の戦を経て、世界大戦に参加し、大いに国威を中外に輝かし、世界列強の中に立つてよく東洋の平和を維持し、又広く人類の福祉を維持増進するの責任ある地位に立つに至つた。
こゝに於て、我等国民は、「文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業務ニ淬励シ」と仰せられた聖旨を奉体し、協心戮力・至誠奉公、以て天壊無窮の皇運を扶翼し奉リ、臣民たるの本分を竭くさねばならぬ。

結語

我等は、以上我が国体の本義とその国史に顕現する姿とを考察して来た。今や我等皇国臣民は、現下の諸問題に対して如何なる覚悟と態度とをもつべきであらうか。惟ふに、先づ努むべきは、国体の本義に基づいて諸問題の起因をなす外来文化を醇化し、新日本文化を創造するの事業である。
我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体をもつ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先づ厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ醇化とによつて、始めて我が国として特色ある新文化の創造が期し得られる。
抑々西洋思想は、その源をギリシヤ思想に発してゐる。ギリシヤ思想は、主知的精神を基調とするものであり、合理的・客観的・観想的なることを特徴とする。そこには、都市を中心として文化が創造せられ、人類史上稀に見る哲学・芸術等を遺したのであるが、末期に至つてはその思想及び生活に於て、漸次に個人主義的傾向を生じた。而してローマは、このギリシヤ思想を法律・政治その他の実際的方面に継承し発展せしめると同時に、超国家的なキリスト教を採用した。欧米諸国の近世思想は、一面にはギリシヤ思想を復活し、中世期の宗教的圧迫と封建的専制とに反抗し、個人の解放、その自由の獲得を主張し、天国を地上に将来せんとする意図に発足したものであり、他面には、中世期の超国家的な普遍性と真理性とを尊重する思想を継承し、而もこれを地上の実証に求めんとするところから出発した。これがため自然科学を発達せしめると共に、教育・学問・政治・経済等の各方面に於て、個人主義・自由主義・合理主義を主流として、そこに世界史的に特色ある近代文化の著しい発展を齎した。
抑々人間は現実的の存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である。又、我であると同時に同胞たる存在である。即ち国民精神により歴史に基づいてその存在が規定せられる。これが人間存在の根本性格である。この具体的な国民としての存在を失はず、そのまゝ個人として存在するところに深い意義が見出される。然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。
我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。老荘は、人為を捨てて自然に帰り、無為を以て化する境涯を理想とし、結局その道は文化を否定する抽象的のものとなり、具体的な歴史的基礎の上に立たずして個人主義に陥つた。その末流は所謂竹林の七賢の如く、世間を離れて孤独を守らうとする傾向を示し、清談独善の徒となつた。要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。
印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。
これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。
西洋文化の摂取醇化に当つては、先づ西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的のものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。更に精神科学の方面に於ても、その精密性と論理的組織性とが見られ、特色ある文化を形成してゐる。我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期せねばならぬ。併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏附けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。
明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。今や共産主義は衰頽し、機関説が打破せられたやうに見えても、それはまだ決して根本的に解決せられてはゐない。各方面に於ける西洋思想の本質の究明とその国体による醇化とが、今一段の進展を見ざる限り、真の成果を挙げる事は困難であらう。
惟ふに西洋の思想・学問について、一般に極端なるもの、例へば共産主義・無政府主義の如きは、何人も容易に我が国体と相容れぬものであることに気づくのであるが、極端ならざるもの、例へば民主主義・自由主義等については、果してそれが我が国体と合致するや否やについては多くの注意を払はない。抑々如何にして近代西洋思想が民主主義・社会主義・共産主義・無政府主義等を生んだかを考察するに、先に述べた如く、そこにはすべての思想の基礎となつてゐる歴史的背景があり、而もその根柢には個人主義的人生観があることを知るのである。西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。而してこの個人主義とこれに伴ふ抽象的思想の発展するところ、必然に具体的・歴史的な国家生活は抽象的論理の蔭に見失はれ、いづれの国家も国民も一様に国家一般乃至人間一般として考へられ、具体的な各国家及びその特性よりも、寧ろ世界一体の国際社会、世界全体に通ずる普遍的理論の如きものが重んぜられ、遂には国際法が国法よりも高次の規範であり、高き価値をもち、国法は寧ろこれに従属するものとするが如き誤つた考すら発生するに至るのである。
個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。
教育についても亦同様である。明治維新以後、我が国は進歩した欧米諸国の教育を参酌して、教育制度・教授内容等の整備に努め、又自然科学はもとより精神諸科学の方面に於ても大いに西洋の学術を輸入し、以て我が国学問の進歩と国民教育の普及とを図つて来た。五箇条の御誓文を奉体して旧来の陋習を破り、智識を世界に求めた進取の精神は、この方面にも亦長足の進歩を促し、その成果は極めて大なるものがあつた。併しそれと同時に個人主義思想の浸潤によつて、学問も教育も動もすれば普遍的真理といふが如き、抽象的なもののみを目標として、理智のみの世界、歴史と具体的生活とを離れた世界に趨らんとし、智育も徳育も知らず識らず抽象化せられた人間の自由、個人の完成を目的とする傾向を生ずるに至つた。それと同時に又それらの学問・教育が、分化し専門化して漸く綜合統一を欠き、具体性を失ふに至つた。この傾向を是正するには、我が国教育の淵源たる国体の真義を明らかにし、個人主義思想と抽象的思考との清算に努力するの外はない。
かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。
併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。
今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。
世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。