円山応挙は江戸時代中期に活躍した絵師で、石田幽汀に狩野派の画法を学び、近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、それまでの踏襲と伝授を主としていた日本の絵画の世界に、幽汀の写生的画法に宋・元画の技法を取り入れると共に、西洋画の遠近法を取り入れ、従来にない絵画表現を完成させた画家です。
自然や事物の美しさをありのままに描く新たな「写生」の概念を創造し、後世の画家たちにも大きな影響を与えたことから、従来の日本の絵画観を一変させた「写生派の祖」であり、近代日本画の系譜は応挙に始まるといっても過言ではない画家です。
平明かつ克明でわかりやすく、時には大胆で臨場感ある作風は誰からもも親しまれ、絶大な支持を得ました。
しかし応挙の絵はいずれも「写生」の呼称を超えたところにその真価があります。
例えば、空想上の動物をまるで本当に生きたものを見たかのように息遣いまでを込めて描いたり、場の一瞬の空気感を切り取って見事に再現したり、動物の背景に植物の様相を描くことで風や雨を表現したりといったところには、それまでの日本絵画にはない芸術性の高さがあるのです。
これまであまりその評価が見過ごされてきた感がありますが、応挙の作品とその業績は日本の絵画史上でもっと評価されてしかるべきでしょう。
1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立させ、翌1766年から『応挙』と改名。
同時期に円満院門主祐常との関係がはじまり、寵恩を得ながら絵師として技術をさらに昇華させ次々と作品を手がけていき、その卓越した画風はさまざまな階層の人々より傑出した人気を博しました。
1786年(天明6年)54歳の時、兼ねてより親交のあった愚海和尚が入院した串本無量寺の再建成就の祝いに『波上群仙図』や『山水図』等障壁画12面を描いています。
さらにその後も絵師として多大な成功を収め、寛政7年63歳で没するまで精力的に障壁画や屏風等の大画面作品を描き続けました。
代表作には『雨竹風竹図屏風』(京都・円光寺・重文)、『藤花図屏風』(東京・根津美術館・重文)、『雪松図』(国宝)などがありますが、これらの作品個々のモチーフの写生的表現と、それらを包み込む背後の空間との知的な均衡関係を、応挙が長年にわたって研究し、築き上げてきたことが理解されるのです。
改めて応挙を見直してはみませんか。