『勝鬘経義疏』は、聖徳太子によって著されたとされる『三経義疏』のひとつで、『勝鬘経』の注釈書(義疏・注疏)として、611年に作られた1巻からなる書物となります。
なお、『三経義疏』の中では『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存していますが、『勝鬘経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられています。
『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と7割同文で、未発見の6世紀前半と推定される注釈書をもとにしたものと思われます。
※)『法華義疏』については、”三経義疏 法華義疏より学ぶ!聖徳太子が記した日本最古の書物!”も参考にしてください。
※)『維摩経義疏』については、”三経義疏 維摩経義疏より学ぶ!聖徳太子が示した、人の生きる本質!”も参考にしてください。
そもそも『勝鬘経』は、国王の妃であり、在俗信者である勝鬘夫人が、釈尊の旨を受けて教えを説いたもの。
勝鬘夫人が発心してから仏の説法が実感できるまで・・・等と、釈尊に十の誓願を立てるところから、勝鬘経義疏は推古女帝に信仰のありかたを説いたものであると同時に本尊とすべき仏が釈迦如来であることを説いたものと言えます。
『日本書紀』の記述によりますと、推古14年橘寺において聖徳太子による推古天皇への講義がなされています。
何故推古天皇に『勝鬘経』の講義がなされたかなのですが、『勝鬘経』は勝鬘夫人の為に釈迦が説法したものであり、夫人は釈迦如来の分身とされ、法雲地という求道者の最高の地位を得ている人。
こうしたことから、日本最初の女帝であった推古天皇に講読するには、『勝鬘経』は(推古天皇の虚栄心と好奇心をくすぐる意味でも)もってこいの経典であったことが推測される訳です。
事実、『勝鬘経』の講義を聞いた推古天皇は、とても感動したと伝えられています。
『勝鬘経』は”人間にはすべて仏になる可能性”を大きく認めていますが、それを太子は『勝鬘経義疏』の中で詳しく説明しています。
「勝鬘(幸福の花飾り)とは、この世の人々が七つの宝(七宝)で、肉体を美しく飾るものである。
この経の主人公である勝鬘夫人はまさにその名にふさわしい王妃であったが、今ここで釈尊に出会ってからは、真理を身体とする法身の姿を現し、あらゆる修行によって法身の自己を飾る者となった。
それ故に夫人を呼んで勝鬘というのである。」
この部分を読んだだけでも、『日本書紀』の中で「姿色端麗、進止軌制」と記されている推古天皇の姿と勝鬘夫人の姿が合い重なっているように感じさせてしまいます。。
そもそも『勝鬘経』とは、正式な名前が『 勝鬘師子吼一乗大方便方広経』といい、コーサラ国の姫君でアヨーディヤー国の皇后となった勝鬘夫人が、大乗仏教の核心となる仏教哲学を、小乗仏教者ならびに苦行者の到達する哲学との比較において解説することを骨子とし、勝鬘夫人の解釈が釈尊によって同意され、あるいは補足説明される、という内容です。
そのため、たとえ話が多い文学作品的な傾向の強い『法華経』と比べると、『勝鬘経』は哲学の中身を直接的に説明しようとした哲学書であるということがいえます。
では太子は『勝鬘経義疏』で何を説こうとしたのでしょうか。
中身を読み解くと、大きくわけて以下の3つであることがわかります。
1. まず最初に生命の証である生の「滅」に到達せよ。
これが「阿羅漢のさとり」である。別名、有余解脱という。
2. 1.が獲得できたら、喜んでばかりいないで、直ちに生の「滅」ではカバーできない残りの意識をすべて分析せよ。
すると死の「滅」に到達するから、「生」と「死」の矛盾のあいだで苦しむことになる。
3. 2.のときは「一所懸命」となり、命を懸けよ。
するとあなたは「空智」に到達する。別名、無余解脱という。
そのときの状態が涅槃であり、心が清らかに静まる状態である。
聖徳太子が日本の歴史上はじめて「滅」と「空」を説かれたといってもよいでしょう。
『般若心経』を読んでみても『中論』でも謎の解けなかった「空」の概念ですが、『勝鬘経義疏』は見事に解いてみせています。
あの時代にあって『勝鬘経義疏』を説いた太子の偉大さには、改めて感嘆の念を禁じえません。
少々敷居は高いかもしれませんが、挑んでみてはいかがでしょうか。