今日(3月30日)は、ポスト印象派(後期印象派)の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の生誕162年目の日です。
今回は、そんなゴッホが生涯を通じて描いたひまわりについてです。
ゴッホはパリ時代に「テーブルに置かれた」4枚の<結実期のひまわり>を描き、その後アルルで壺に挿した7枚のひまわりを描いていました。
これらを時代順に並べてみることで、最初はひまわりの花を描写することから出発したゴッホが、具象と抽象を隔てる線を越えて、抽象の世界へと踏み込んで行く凄まじい進化が目に見えて捉えることができるかです。
では、そんなゴッホの11枚のひまわりを並べてみることにしましょう。
まず、<結実期のひまわり>は<ひまわり>連作の「習作」とも呼べるもので、そのうちの2枚は一時ゴーギャンが所有していたといわれています。
【<結実期のひまわり> テーブルの上に置かれたひまわりを描いた4枚】
「ひまわりA」ベルン美術館蔵
ゴーギャンが持っていたひまわり
「ひまわりB」ファン・ゴッホ美術館蔵
結実期のひまわり
「ひまわりC」メトロポリタン美術館蔵
ゴーギャンが持っていたひまわり
「ひまわりD」クレラー=ミューラー美術館蔵
結実期の4輪のひまわり
そして、あなたも何点かは見覚えのある花瓶に入ったひまわりが、さまざまな歴史の変遷の中で一枚ごとに目覚しい進歩を遂げていくのです。
では、その画境を堪能してみてください。
【<ひまわり>連作 花瓶に入ったひまわりを描いた7枚:()内は描かれたひまわりの本数】
「ひまわり1」(3本)個人蔵 アメリカ合衆国 F453
誰とも知れぬ個人所有で、1948年に展覧会に出された後は非公開のままになっているものである。
「ひまわり2」(5本)芦屋の山本顧彌太氏蔵 焼失 F459
1920年に日本の実業家山本顧彌太がスイスから購入。白樺派美術館の設立を考えていた武者小路実篤の依頼によるとされる。当時の金額で7万フラン(2万円)であったという。1921年の東京での展覧会は京橋の星製薬ビルで行われている。1920年前後の星製薬ビルは多くの芸術展覧会が開かれており、当時の公開においても「ゴッホのひまわり」が評判の作品として扱われていたことが分かる。
しかし、1945年8月6日に第二次世界大戦の芦屋市空襲により焼失。焼失までの間に東京と大阪で展覧会により公開。
描かれる向日葵の黄色や橙色と補色関係にある深い藍色が背景色に用いられており、向日葵の数から考察しても、現在米国の個人が所有する「ひまわり1 3本のひまわり」と共に本作はやや特異な存在であり、「ひまわり4 15本のひまわり」の構成に至る過程段階の作とも、明確な色彩対比による視覚的効果を目指したとも推測されている。
本作が他の作品らと決定的に異なっている点は、花瓶の足元二輪の向日葵の頭が配されている点である。
「ひまわり3」(12本)ノイエ・ピナコテーク蔵 ミュンヘン F456
「ひまわり4」(15本)ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵 F454
ゴッホ自身が気に入った「「ひまわり3 12本のひまわり」をもとに制作した4番目の作品とされる。
日本の浮世絵から強い影響を受け、同国を光に溢れた国だと想像し、そこへ赴くことを願ったゴッホが、ゴーギャンを始めとする同時代の画家達を誘い向かった、日差しの強い南仏の町アルルで描かれた作品。
「ひまわり5」(15本)東京・損保ジャパン東郷青児美術館蔵 F457
1987年3月に安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が3992万1750ドル(当時のレートで約58億円)で購入した。贋作ではないかという意見があったが、1999年の研究調査により真筆と断定された。1888年12月の「耳切り事件」直前に描かれたものと考えられている。
「ひまわり6」(12本)フィラデルフィア美術館蔵 フィラデルフィアF455
「ひまわり7 15本のひまわり」と同時期に、「ひまわり3 12本のひまわりを模写したものとされる。
「ひまわり7」(15本)ファン・ゴッホ美術館蔵 アムステルダム F458
ゴッホが病院から戻って、「ひまわり5 15本のひまわり」を模写したものと考えられている。