ウォルト・ホイットマンという詩人をご存知ですか。
アップルのiPad AirでのCMや、ロビン・ウィリアムズ主演の「いまを生きる(Dead Poets Society)」の中でその詩を引用しているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
“我々はなぜ詩を読み書くのか
それは我々が人間であるという証なのだ
そして人間は情熱に満ち溢れている
医学。法律・経営・工学は
生きるために必要な尊い仕事だ
だが 詩や美しさ ロマンス 愛こそは我々の生きる糧だ
おお 私よ 命よ 幾度も思い悩む疑問
信仰なき者の長い列
愚か者に満ちた都会
何の取り得があろう 私よ 命よ
答え・・・ それは君がここにいる事
命が存在し自己があるという事
力強い劇は続き 君も詩を寄せる事ができる
力強い劇は続き 君も詩を寄せる事ができる・・・
君らの詩とは?”
19世紀を生きたウォルト・ホイットマン(Walter Whitman)は、アメリカ・ニューヨーク州出身の詩人・作家・随筆家・ジャーナリスト・ヒューマニストです。
小学校を出て植字工、小学校教員、多くの新聞・雑誌の編集・発行にかかわりながら、詩作に励み、後に超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物としてアメリカ文学に大きな影響を与え「自由詩の父」と称されました。
人間が持つ善と悪、強さと弱さなどをありのままに表現した彼の詩は、現在も多くの人々の心に響き、不朽の名作として語り継がれており、代表作「草の葉」は、一生を通じて何度も書き改められています。
「この書に触れる者はひとりに人間に触れるのだ」という自負の言葉どおり、人間の誇り、民主主義の理想、霊的高み、性的自由、アメリカ精神の神髄を、誰ひとり到達しえなかった地点まで歌いあげているのですが、当時は”過激、狂人、ポルノ詩人”との悪口と、”新しい人間精神の開拓者”という賛辞の狭間で生き続けました。
日本では、まず最初は夏目漱石によって紹介されていますね。
”That you are here–that life exists, and identity;
That the powerful play goes on, and you will contribute a verse”
”お前は現にここにいる ― お前には命が存在するし、生きている証も。
すさまじい芝居は続く、お前は詩の一遍でも投稿するのだ。”
”I think I could turn and live with animals,
they are so placid and self-contain’d,
I stand and look at them long and long.
They do not sweat and whine about their condition,
They do not lie awake in the dark and weep for their sins,
They do not make me sick discussing their duty to God,
Not one is dissatisfied, not one is demented with the mania of owning things,
Not one kneels to another, nor to his kind that lived thousands of years ago,
Not one is respectable or unhappy over the whole earth.”
”ぼくは立って、いつまでもいつまでも、彼らを見る
彼らは、おのれの身分のことでやきもきしたり、めそめそしたりしない
彼らは、暗闇の中で目ざめたまま罪をくやんで泣いたりしない
彼らは、神への義務を論じたてて、ぼくにはきけを催させたりしない
一匹だって、不満をいだかず、一匹だって、物欲に狂っているものはいない
一匹だって、仲間の動物や何千年も前に生きていた先祖にひざまずくものはいない
一匹だって、お上品ぶったり不幸だったりするやつは、広い地球のどこにもいない”
”I celebrate myself, and sing myself
I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.
I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.
My tongue, every atom of my blood, form’d from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.
Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.”
”ぼくはぼく自身をたたえ
ぼくはぼく自身をたたえ、ぼく自身をうたう、
ぼくが身につけるものは、君も身につけるがよい、
ぼくに属するいっさいの原子は同じく君にも属するのだから。
ぼくはぶらつき、魂を招く、
ぼくはのんびりともたれ、ぶらつき、夏草のとんがった葉を見つめる。
ぼくの舌、ぼくの血のあらゆる原子は、この土、この空気からできていて、
この地で親から生をうけ、親もまた、そのまた親も同様に生をうけ、
ぼくはいま37歳、申し分なく健康で、出発する、
死の時まで止むことのないように願いながら。
教義や学派はほうっておき、
そのままでよしとして、ただ記憶にとどめながら、しばらくは引き下がり、
ぼくはとにかくかくまってやる、危険をかえりみず語らせてやる、
本然の活力をもった融通無碍のわが本性に。”
”パウマノクを出発して
申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられ、
生まれ故郷の魚の形をしたパウマノクを出発して、
多くの国々を遍歴したあと――人の往来はげしい舗装道路を愛するものとして、
わたしの都市であるマナハッタのなか、さてはまた南部地方の無樹の大草原のうえの住民として、
あるいは幕営したり、背嚢や銃をになう兵士、あるいはカリフォルニアの抗夫として、
あるいはその食うものは獣肉、飲むものは泉からじかというダコタの森林中のわたしの住居に自然のままのものとして、
あるいはどこか遠い人里離れたところへ黙考したり沈思するために隠棲し、
群衆のどよめきから遠のいて合間合間を恍惚と幸福に過ごし、
生き生きした気前のいい呉れ手、滔々と流れるミズリー川を知り、強大なナイアガラを知り、
平原に草を食う水牛や多毛でガッシリした胸肉の牡牛の群れを知り、
わたしの驚異である大地、岩石、慣れ知った第五の月の花々、星々、雨、雪を知り、
物まね鳥の鳴く音と山鷹の飛び翔けるのを観察し、
明け方には比類まれなもの、湿地種のシーダー樹林からの鶫の鳴くのを聴き、
《西部》にあって歌いながら、ただひとりでわたしは《新世界》へと旅立つ。
勝利、連合、信頼、一致、時、
破られぬ盟約、富、神秘、
永久の進歩、宇宙、そして近代の諸報告。
これこそ命というものだ、
ここにこそそんなにも多くの痛苦と痙攣とのあとで表面に出て来たところのものがある。
何という不思議! 何という実在物!
脚下には神聖な大地、頭上には太陽。
回転する地球を見れば、
先祖の諸大陸は遠くに一かたまりになっているし、
北と南の現在と未来の大陸たちの間には地峡がある。
見よ、広漠たる人跡未踏の空地を、
夢のなかでのようにそれらは変化し、それらはいっぱいになる、
無数の大衆がそのうえに流れ出して来て、
それらは今や最大の人民と著名な芸術と制度で満たされたのだ。
見よ、時間をかけて放出された
わたしのための無際限な聴衆を。
確固とした規則正しい足どりで彼らは行き決して停止することはない、
人々の連続、幾千万のアメリカ人がだ、
一つの世代がその役割を果たして過ぎ去り、
他の世代がその役割を果たして順番に過ぎ去って行く、
わたしの方へと彼らの顔を左右やうしろに振り向けて、聴耳をそばだてたり、
懐旧のまなざしを向けたりして。
アメリカ人よ! 征服者よ! 人道主義者の練り歩きよ!
真っ先のものよ! 前進する世紀よ! 自由民よ! 大衆よ!
君たちのために贈る頌歌の番組。
無樹の大草原の頌歌、
長流して末はメキシコ海に注ぎ入るミシシッピー川の頌歌、
オハイオ、インディアナ、イリノイ、アイオワ、ウィスコンシン
それにミネソタの頌歌、中央、そこから等距離にひろがるカンサスの頌歌、
すべてに生気を吹き込んでやむときなく火の脈を搏って射出する。
アメリカよ、わたしの詩篇を受け取れ、《南部》も《北部》も、
どこででも歓迎させるのだ、というのはその詩篇は君たち自身から生まれたものなのだから、
《東部》も《西部》も詩篇を包囲せよ、それは君たちを包囲するだろうからだ、
そして君たち先行者たちはそれらと親しく付き合うことだ、というのはそれらは君たちと親しく付き合うからである。
わたしは古代を研究した、
わたしは巨匠たちの膝下で学んだ、
今や、もし値するものであるならば巨匠たちは立ち戻って来てわたしに学ぶかも知れぬのである。
これら諸州の名においてわたしは古代を軽蔑していいだろうか?
否、それどころかこれらは古代の子孫であってそれを証明するものなのだ。
亡き詩人たち、哲人たち、僧侶たち、
殉教者たち、芸術家たち、発明家たち、昔からの諸政府、
異国の国語形成者たち、
かつて強力であり、今は衰亡して姿をかくしもしくは荒廃した国家群、
君たちがこちらの方へ漂い匂わせて残して行ったところのものを
わたしが敬意をこめて信じないでは前進をつづけることをあえてわたしはしまい、
わたしはそれをくわしく読んだ、それ自体が賛嘆すべきものだ、(しばらくの間そのなかでうごめきながら)
それ以上偉大なものは何もない、それが値する以上に値するものは何もないと考え、
長い間一向専念にそれを凝視したあとでそれを去らせる、
ここにわたしはわたし自身の時代と共にわたしの地歩を保つ。
ここに男性と女性の国土、
ここに世界の男子継承者、女子の継承者、ここに物質の燦然たる光彩、
ここに女性解明者、公然と承認された霊性、
いつも進路をとっているもの、可見の形態の最終のもの、
満足せしめるものが長い待機のあとで今前進する、
そうだ、ここにわたしの女主人、霊魂が来る。”